『星の子』今村夏子
その日、帰宅してから、父は早速落合さんのまねをしはじめた。寝る直前まで頭の上に水に浸したタオルをのせて、夕飯を食べたりテレビを観たりした。翌朝は「落合さんのおっしゃったとおりだ。羽根が生えたみたいに体が軽いぞお」といい、母にも実践するようにすすめていた。
自宅では「金星のめぐみ」というありがたい水を染み込ませたタオルを常に頭に載せて生活する家族。
これが『星の子』の舞台でもあります。
なんとなく書名に覚えがあって調べてみたところ、第157回芥川賞の候補作であり2018年本屋大賞7位の作品である事がわかり、手に取ってみました。
一体どんな物語なのか、予備情報を一切持たずに読み始めてしまった為、内容が明らかになってくるにつれて驚きを隠せませんでした。
戦慄、と言った方が良いかもしれません。
新興宗教にのめり込む両親
主人公のちひろは、赤ん坊の頃から病弱な体質。
生まれてすぐ三か月近くを保育器の中で過ごしたそうですから、両親の心痛は察するに余りあるところでしょう。
退院後も体調不良は続き、病院を駆けずり回る両親が出会ったのが、会社の同僚から勧められた水「金星のめぐみ」。
何をどうしても治らなかったちひろの湿疹が嘘のように消えてしまった事がきっかけで、両親は「金星のめぐみ」にのめり込んでいきます。
最初はちひろの体を洗うだけだった「金星のめぐみ」は飲食用にも使用され、やがて同僚の勧めから「金星のめぐみ」を染み込ませたタオルを頭にのせて暮らす生活へ。
ちひろの眼がおかしいと言えば、「金星のめぐみ」の購入先から、紫色の見るからに怪しげなメガネを買い与えたりと、一家はどんどん不穏な方向へと突き進んでいきます。
さらに幼いちひろの視点から語られる状況から、集会と呼ばれる集まりに参加したりする様子も。
「これは怪しい新興宗教じゃないか」と読んでいる内にわかってくるのですが、本書のおぞましいところは主人公であるちひろに自覚がないという点。
小学生の女の子が日常を語る中で、怪しげな水や集会、両親の奇行があたかも一般的な情景としてに挿入されてくるのです。つまり、ちひろにはそれらが生まれ育った環境の一部であって「おかしい事」として認識できていない。
誰しも大人になってから「あれ?これってうちだけのルールだったの?」と思い知らされる我が家だけの常識というものがあると思うのですが、まさしくちひろの家にとっては宗教こそがそれに当たります。
叔父が両親の変化に気づき、諭したり、怒ったりと何度もやってくるエピソードもあり、その中では常識的なはずの叔父に対し、家族全員で抵抗する場面も見られます。
幼いちひろ達にとっては、両親こそが何よりも正しいものであり、家庭こそが常識の全てなのでしょう。
必死に我が家のルールを守ろうと抵抗するちひろの家族と、それに対して戸惑いを隠せない叔父……両者に感情移入できてしまい、読んでいる側の心を揺さぶらずにはいられません。
しかしながらちひろも歳を重ね、小学校から中学校へと進むに連れて、自身の家と世の中の違いについて少しずつ理解せざるを得ない状況へと追いやられていきます。
父は会社を辞め、新興宗教絡みの会社へ転職。
姉は家出の後失踪し、自宅は引っ越しを重ねる度に小さくなっていく。
修学旅行の費用すら賄えず、従兄を通じて叔父に出してもらう事も。
戸惑いや葛藤を重ね、それでも尚、何が正しいとは言い切れない少女の成長の様子が、ありありと描かれているのです。
芥川賞候補作ということは……
本書は分類として純文学作品に該当するものなようですので、エンタメ作品とは異なります。
ということはつまり、派手などんでん返しや起伏に溢れる躍動的なストーリーは期待できない、という事です。
……というような文学作品に関する考察は、以前からちょこちょこ書いているんですけどね。
なので話題になってるから読んでみよーっと本屋大賞の受賞作を読むようなノリで手に取ってしまうと、「オチがない」とか「山場がない」とかいう感想で終わってしまいます。
本書に関するアマゾンのレビューにも同様のものが散見されます。
そもそもそういう作品ではない、という認識が必要です。
ところが、芥川賞受賞作でも例外的に「面白すぎる」作品もありました。
最近文庫本が発売されて再び注目されている『コンビニ人間』がその最たる例。
妙に心を惹き付けられる『コンビニ人間』はついつい一気読みしてしまう程に面白い作品でした。
でも本作も面白いです。
芥川賞候補作の中では勝手にコンビニ人間型、と呼んでも差し支えない面白さだと思います。
冒頭から幼い少女の視点で語られる和やかな家庭と、そこに挿入される怪しげな新興宗教エピソードとのなんともいえないちぐはぐさに魅入られてしまうと、一体この家族がどうなっていくのか、ちひろがどう成長していくのか、目が離せなくなってしまいます。
事実、昨晩から読み始め、あっという間の一気読みでした。
ページ数が200ページ強とそう多くない事もありますが、とにかく面白い。
すっかり嵌まってしまいました。
派手などんでん返しや起伏に溢れる躍動的なストーリーは期待できないと先に書きましたが、『コンビニ人間』と並んで、文学作品の入り口にはとても良い作品なのではないでしょうか。
読んで決して後悔はしない作品の一つだと思います。
『チーム・バチスタの栄光』海堂尊
バチスタ手術は、学術的な正式名称を「左心室縮小形成術」という。一般的には正式名称よりも、創始者R・バチスタ博士の名を冠した俗称の方が通りがよい。拡張型心筋症に対する手術術式の一つである。
『チーム・バチスタの栄光』を読みました。
第4回『このミステリーがすごい!』大賞の受賞作であり、海堂尊のデビュー作。
映画化やテレビドラマ化といった映像化も相次ぎ、シリーズ化も大ヒット……と、改めて説明するまでもない程有名な作品ですね。
花形チームに対する内部調査
チーム・バチスタは主人公・田口の所属する大学病院一の花形チーム。
アメリカ帰りの桐生医師を筆頭に、難解な心臓手術にあたる医療チームですが、立て続けに失敗を重ねている。
そこで、病院内の昼行燈たる田口が病院長から直々に調査に当たるよう依頼を受ける……というもの。
田口が所属するのは「不定愁訴外来」……別名“愚痴外来”と呼ばれる部署であり、要するに検査や治療の施しようもないような些細な病状を担当するというもの。
いちいち対応していても仕方がないような患者を一手に引き受ける便利屋・処理窓口のような役割だそうです。
ほとんどの患者は胸に溜まったものをさんざん吐き出すと、満足したように帰っていく。
田口は“愚痴外来”で培った聞き取り能力を駆使して、チーム・バチスタの関係者一人一人から失敗した手術についての聞き取りを行っていきます。
しかしそんな田口の目の前で、四度目となる死亡者が出てしまいます。
奇人変人探偵・白鳥
そこへ現れるのが白鳥。
厚生労働省の役人でありながら、突拍子もない言動で周囲の度肝を抜く奇人変人。
文庫本でいう下巻に入り、白鳥が登場したところで、読者はようやく気づきます。
主人公である田口は推理小説でいうワトソン役であり、白鳥こそが名探偵役なのです。
田口を引き連れて、再び関係者への聞き取りにあたる白鳥。
相手の心に寄り添うようにして事情を聞き出そうとした田口とは打って変わって、白鳥は相手の心の弱みに付け込むかのようなデリカシーのない言動で関係者に迫ります。
田口が太陽ならば、白鳥は北風のような温度差。
当然の報いとして、白鳥は嫌悪感を抱かれ、時には殴られたり……といった事態も招きます。
それですら白鳥本人にとっては「予定通り」という変人ぶり。
しかしながら調査を重ねる内に、一度目の田口の調査では見えてこなかったそれぞれの関係性や秘密も明らかにされ、チーム・バチスタを根幹から揺るがすとんでもない秘密も明らかになるのですが――
事態はさらに一歩進み、緊迫した事態を招きます。
犯人が追い詰められていく一方で、新たな被害者が危機に晒されるその様子は、紛うことなく本書が王道の推理小説の構造を踏襲している事を表しています。
現役医師が描く医療現場
著者である海堂尊は現役医師。
そうでなければ書けない、現役医師ならではのリアルな描写にあります。
一見しただけでは難解そうな医学用語も飛び交い、読者としては戸惑いを隠せない部分もあるでしょう。
しかしながら、本書は本質的には王道の推理小説の構造を踏襲しています。
冒頭から謎が提示され、調査に当たるワトソン役が壁にぶち当たり、颯爽と登場した名探偵が一見理解不能に見える言動で周囲を振り回しながらも、その実しっかりと真実に近づいている。
シャーロック・ホームズから続く王道の推理小説ですよね。
王道ともいえる構造を医療現場に落とし込んだところが、本書が世の中に幅広く受け入れれられた所以でしょう。
しかしながら、2006年の発行から十年以上が経った現在となっては、当初見られたような目新しさは色あせてしまっている、と言っても過言ではありません。
推理小説+@という構造は、あまりにも広く開拓されてしまっていますからね。
その中においても本書が優れている点は、現役医師が描くリアルな医療現場にある、と言えるでしょう。
病院内の権力闘争やキャラ立ちした登場人物たちを考えると、だいぶデフォルメされているのも間違いないのですが。
その辺りのリアルと虚構のバランス感覚が、秀逸なのだと思います。
正直なところ、推理小説の王道路線を踏襲しているだけあって、謎解きや展開に特に目新しさや特徴的なものがあるわけではありませんので、そうのめり込んで読んだわけでもなく……ごくごく普通に読める悪くない本、といった印象でした。
続編も多々発行されていますので、気が向いたら読んでみようかなぁ、と。
『シュガー・ラッシュ:オンライン』観てきました
蛇足です。
先日『シュガー・ラッシュ:オンライン』を見てきました。
とにかくヴァネロペが可愛い映画でしたねー。
本作ではオンラインをテーマとしているだけあって、前作『シュガー・ラッシュ』の舞台となったゲームセンターを飛び出し、ラルフとヴァネロペはインターネットの世界へと飛び出します。
道行く人々にポップアップが声を掛けて回ったり、動画サイトでバズってお金儲けしたりと、ネット社会を風刺したネタが盛りだくさんで非常に興味深く楽しめました。ただ、大人には良いだろうけど子どもにはいまいちピンと来ないネタが多かったかもしれないなぁ。
上の動画の通り、ディズニーのプリンセスたちも登場したりしますし、子どもよりはディズニー世代である30~40代の大人の方が楽しめるかもしれません。
個人的なツボは「ウサギとパンケーキ」でした(笑)
映画「シュガー・ラッシュ:オンライン」の感想 #シュガラお題
sponsored by 映画「シュガー・ラッシュ:オンライン」(12月21日公開)
『屍人荘の殺人』今村昌弘
最初にこういう薀蓄を小説内に入れ始めたのは誰だったんでしょうね?
もちろん昔の文豪たちの小説にはそれこそ西洋の王道と呼ばれるような文学作品の名前が度々登場したりしていましたが。
こと推理小説となると、発祥が難しいところです。
それこそ綾辻行人の『十角館の殺人』ではエラリイだのカーだのと本格推理小説の大家の名前でお互いを呼び合った上で、王道トリックについて語り合ったりしていますので、案外その辺りが発祥だったりするのでしょうか。
現在においてはその『十角館の殺人』がむしろ推理小説の金字塔としての立場を確立し、たびたび様々な作品内で触れられるあたり、なかなか感慨深いものがありますね。
……冒頭から脱線しました。
今回読んだのは『屍人荘の殺人』。
第二十七回鮎川哲也賞の受賞作品であり、著者今村昌弘のデビュー作。
先に書きましょう。
スゴい本でした!
結論的には、読むべき本です。
とんでもないです。
推理小説の中には数え上げればキリが無いほど、とんでもない本は過去に沢山ありましたが、本作もまた間違いなくとんでもない本の一つ。
しかもこれまでにないとんでもなさが味わえる本となっています。
うーん、と腕組みして唸るようなとんでもなさでもなく、ふざけんなっと本ごと投げ出したくなるようなとんでもなさでもなく、事態が飲み込めずに読了後に慌てて最初からページをめくり直すようなとんでもなさでもなく……。
例えるならば、ヘラヘラ笑いながら万歳してしまうような、そんなとんでもなさ。
脱帽。
斜め上すぎ。
調べてみたらさらに『このミステリーがすごい!2018年版』第1位 『週刊文春』ミステリーベスト第1位 『2018本格ミステリ・ベスト10』第1位と各タイトルを総なめにしたとんでもない作品だという事がわかりました。
以下、アマゾンの内容紹介を抜粋しますが
たった一時間半で世界は一変した。
全員が死ぬか生きるかの極限状況下で起きる密室殺人。
史上稀に見る激戦の選考を圧倒的評価で制した、第27回鮎川哲也賞受賞作。
神紅大学ミステリ愛好会の葉村譲と会長の明智恭介は、曰くつきの映画研究部の夏合宿に加わるため、同じ大学の探偵少女、剣崎比留子と共にペンション紫湛荘を訪ねた。合宿一日目の夜、映研のメンバーたちと肝試しに出かけるが、想像しえなかった事態に遭遇し紫湛荘に立て籠もりを余儀なくされる。緊張と混乱の一夜が明け――。部員の一人が密室で惨殺死体となって発見される。しかしそれは連続殺人の幕開けに過ぎなかった……!! 究極の絶望の淵で、葉村は、明智は、そして比留子は、生き残り謎を解き明かせるか?! 奇想と本格ミステリが見事に融合する選考委員大絶賛の第27回鮎川哲也賞受賞作!
……ねー、、、なんかスゴそうじゃないですか?
“大学生の合宿”で“ペンション”に“立て籠もり”を余儀なくされ、“連続殺人の幕開け”とくれば、もう定番中の定番路線ですよね。
最近見なくなった本格ミステリのど真ん中を突く作品を想像させます。
さらに、その装丁もこんな感じ。
どことなく『another』のような暗い雰囲気を感じさせるものです。
こりゃあきっと、本格中の本格作品を味わえるに違いありません。
もしかして、ライトミステリ?
「カレーうどんは、本格推理ではありません」
第一章の冒頭は、主人公である葉村のセリフから始まります。
ミステリ愛好会の会長であり「神紅のホームズ」と呼ばれる明智会長とともに、推理ゲームに興じる場面からスタートするのです。
探偵役でちょっと変わり者の明智会長は、映画研究会が合宿を行うと聞きつけて参加したいとお願いするものの、断られてばかり。
そこにヒロイン役である比留子が現れ、彼女の仲介によって葉村たちは念願叶って映画研究会の合宿に参加するのですが……。
驚いたのは、そのユルさ。
アマゾンの説明文や表紙から連想される硬派なイメージとは異なり、物語は葉村のコミカルな一人称で進められます。
さらに、合宿で向かう車中、登場する人物はなぜかしら美女ばかり。
ヒロイン役であるミステリアスな美女・剣持比留子からはじまり、アイドルのような美女に神経質そうな美女、ボーイッシュな美女に黒髪の美女と、もはや美少女ゲームの様相を呈してしまう。
もしやこの作者、女といえば美人・美女と形容すれば良いと思っているなろう作家じゃあるまいな、と勘繰ってしまうような展開です。
……ちなみに、一応補足しておくと美女揃いであるのにはしっかりとした理由があるんですけどね。
着いた先にはペンションのオーナーの息子であり、彼らの先輩である七宮と二人の先輩が登場。三人はすごく嫌な印象で、いかにも女の子たちを狙ってますといった雰囲気。
正直なところ、この辺までは「あー、やっちまったかなー」と思っていたんですよ。
数々の賞やら表紙の雰囲気に騙されただけで、今時のライトミステリなんだと思っていたんです。
ちょっと変わったトリックが仕掛けられているだけで評価された、しょうもない作品なのかなって。
……ところが。
ところが
ところが、ですよ
93ページから、とんでもない事になるんです!!!
野球のはずが闘牛に
もう、斜め上ですよ。
予想外過ぎてびっくり。
巻末に第27回鮎川哲也賞の選考経過が載っているんですが、そこにある北村薫さんの例えが全て。
野球の試合を観に行ったら、いきなり闘牛になるようなものです。
これがもう言い得て妙、というもので。
でもとにかくわけもわからずに読み続けるしかない。
作中もパニックですけど、読んでる側もパニックに陥ってしまう。
……で
どひゃーと天を仰いで脱帽してしまうのは、気づいてみたらちゃんとクローズドサークルが出来上がっている事。
あらすじ通り紫湛荘に立て籠もりを余儀なくされるわけです。
とにかく読んで(※)
もうあとはそれが全てですね。
とにかく読んで!!!
ネタバレになっちゃうので詳しくは書けないわけですよ。
でもどうにか面白さを伝えたい。
わかって欲しいという一心でもって書いてるんですが、どうしたって限界。
もうとにかく読んで、としか言えない。
ただし!
上の見出しに(※)を入れたのにはちゃんと理由があります。
これから書くのは大事な事です。
ただし、ある程度推理小説を読んだ経験のある人に限るという事です。
本書はもしかしたらメタミステリと呼べる性質のものなのかもしれません。
冒頭に書いたような本格ミステリに関する薀蓄はじめ、ある程度推理小説に対する素養や耐性がないと、きっと期待外れに終わってしまうと思います。
探偵役の立ち回りとか、クローズドサークルとか、つまるところのお約束をお約束として理解できてはじめて面白みがわかるのだと。
野球を見に行ったつもりが途中からいきなり闘牛になったとしても、そもそも野球がなんなのかを知らない人にとっては意外さがピンと来ないですよね? こういうもんなのかな、と思ってしまうだけで。
なので、間違っても初めて読む本格推理小説として本書を選んではいけません。
普段は小川糸や原田マハ、村山早紀のような作品を読んでいる人が、「話題になっているから」という理由で手に取るのも危険です。
なんじゃこりゃ、でぶん投げるハメになりかねません。
そういう意味では、立ち位置としては米沢穂信の『インシテミル』が近いかもしれません。
僕はとても大好きで、何年も離れていた推理小説を再び読むきっかけとなった作品でもあるのですが、おいそれと他人に勧めようとは思えませんから。
でもある程度推理小説を読んでいる人にとっては間違いなく楽しめるし、喜んでもらえる作品だと思います。
映画化、って正気?
……って言ってる側から、映画化のニュースを目にして「正気かい?」と目が点になっています。
いやいやいや
無理でしょ(笑)
だって上に書いた通り、万人向けする作品じゃないもの。
それを映画化したところで、B級〇〇〇映画になってしまうのは目に見えてるし。
もうまさしく『インシテミル』で行われた原作レイプ再来の予感しかしない。
ホリプロ50周年記念作品として華々しく公開された『インシテミル』は、日本全国の原作ファンを一人残さず敵に回した上、予備知識ゼロで訪れた一般客すら絶望させましたから。
『インシテミル』の二の舞にならない事を祈ります。
有名な俳優集めればいいってもんじゃないんですよ。
僕の好きだった関水美夜を原作通りやり直して(泣)
2019年2月20日 続編爆誕
ブログを書くのにアマゾンで検索したら、たまたま見つけてしまいました。
マジかぁ、続編出すかぁ。
デビュー作があまりにも衝撃的だっただけに、二作目のハードルは滅茶苦茶高くなってると思うんですが。
加えてシリーズもの続編となれば、嫌が応にも期待値は高くなってしまいますし。
しかしシリーズ名。仮かもしれませんけど〈屍人荘の殺人〉シリーズとはなんとも安直な。。。
もうちょっと良いネーミング、なかったんですかね?
まぁこれは読まないわけにはいかないですよね。
館シリーズだって、あまりにも有名な一作目と三作目が比べると二作目は凡庸といったものですから、少なくとも三作目まで追いかけるべきか。
また一つ、楽しみが増えました。
未読の方はぜひ読んで、楽しみを共有しましょう。
では。
『ファーストラヴ』島本理生
「正直に言えば、私、嘘つきなんです。自分に都合が悪いことがあると、頭がぼうっとなって、意識が飛んだり、嘘ついたりしてしまうことがあって。だから、そのときもとっさに自分が殺したことを隠そうとしたんだと……」
第159回直木賞受賞作『ファーストラブ』を読みました。
島本理生作品に触れるのもこれが初。
2018年ももう残り僅かとなっているタイミングで、ハズレる可能性の少ない作品として未読の直木賞受賞作品を選んだのは必然であった、と思います。
ハズレが多い、と揶揄されがちな芥川賞に比べると、直木賞はハズレくじの割合は低めに感じますからね。
とはいえ、時々ハズレが混じってしまうのも事実ですが……。
動機はそちらで見つけてくだい
父を殺害した女子大生聖山環菜にまつわるお話。
女子大生が逮捕後に残した「動機はそちらで見つけてください」というセリフにより、世間でも話題になった事件。
主人公である臨床心理士の真壁由紀は、彼女についての本の出版を打診され、拘留中の環菜と面会を重ねる。
一方で環菜の国選弁護人についたのが、由紀の義理の弟である迦葉。
大学時代の同期生だったという迦葉と由紀の間にも、何やらわだかまりのようなものがある事を匂わせられます。
環菜の動機というホワイダニット(なぜやったのか?)
由紀と迦葉の間に何があったのかというホワットダニット(何があったのか?)
二つの謎を軸に、環菜との面会や関係者への接触がめまぐるしく繰り返され、物語はぐんぐんと進められて行きます。
虚言癖
登場人物たちの口から度々飛び出すのが虚言癖という言葉。
環菜の元カレや母親は、「環菜には虚言癖があった」と口を揃えます。
環菜自身も「私は嘘つきだ」と言います。
実際に、面会を重ねるたびに環菜の証言は二転三転を繰り返し、一貫性に欠いているようにしか思えません。
ですが物語が進むに連れて、嘘をついているのは環菜だけではないように思えてきます。
真実を言っているのは誰なのか。
嘘をついているのは誰なのか。
読んでいるうちに、湊かなえの『告白』や『白ゆき姫殺人事件』を読んでいるかのような混乱に襲われてしまいます。
焦らし、焦らされ……
環菜自身の口から、多数の証言者の口から、環菜の幼少期からの暮らしぶりや家庭環境が明らかになっていきます。
そんな中で、もう一方の謎である由紀と迦葉の間にあった謎に関しても、意外とあっけなく由紀のモノローグという形で明かされます。
やがて裁判当日を迎え、環菜と証人それぞれの口から、再度事件や環菜について語られ、裁判の結果を受ける形で物語は終了。
直後、僕の頭に浮かんだ感想はというと……
……で?
だけでした。
あくまで個人的な主観ですが、序盤から提示され、物語の根幹を成していたはずの二つの謎(ホワイ・ホワット)がものすごく貧弱なんですよねー。
特に由紀と迦葉の謎(ホワット)に関してはしょうもない小粒。
現実的には後々まで引きずる記憶の一つにはなるのかもしれないけれど、物語の根幹に添えるにしてはあまりにも貧弱かと。
っていうか似たような思い出って、結構世の中に溢れてませんかね?
僕もまぁ心当たりがないでもないんですけど。でもそれって思い出の一つとしてそっと胸に秘められて終わりなんじゃないかなぁ、なんて思ったり。
もちろん彼らの場合には、由紀の夫と迦葉が兄弟、という少し特殊な事情もあるのですが、それにしてもいい大人になってからわざわざ蒸し返すような話でもないかと。
……それはさておき
もう一方の謎の方ですね。
環菜の動機。
なぜ父親を殺したか。
これはね、なかなか深い話ではあります。
推理小説でばっさりと断言されるような金・怨恨といった簡単な話ではありません。
薄皮を剥ぐように、環菜の心を覆った殻を一枚ずつ取り除いて、ようやく真理にたどり着くわけですが……はっきり言ってしまえば説得力に欠ける。
これも人によりけりなのかもしれませんけど。
他にも色々と引っかかる点は多いのですが、キリがないのでやめましょう。
とにかく全体的に焦らし、焦らされた分、着地点がどうにも尻すぼみだったという印象です。
メンヘラ気質だったり、完璧人間だったりする登場人物たちに全く感情移入できなかったのもいまいちな要因の一つ。
一応ハッピーエンドというか、清々しいエンディングと言われているようですが、個人的には読み終わってもすっきりしない、微妙な読後感でしたね。
物語としては成立も完結もしてるんだけど、結局何が描きたかったのかが今一つ見えない。
ミステリとしてはいまいちだし、心理学的な物語としてもいまいちに感じてしまいます。
……まぁ、これ以上とやかく言うのはやめましょう。
今年も残り少ないですから、さっさと別の本に取り掛かりたいと思います。
第160回直木賞の候補作が決定
平成30年下半期の直木賞候補作が発表されましたね。
ノミネート作品はこちら
……うーん。
見事なまでに印象にないですね(笑)
炎上コメンテーターがノミネートされている芥川賞よりはマシかもしれませんが。
なんとなくそろそろ森見登美彦さんに直木賞を獲らせるんじゃないかな、なんて予感がしますが。
ちなみに一応ながら、今回取り上げた『ファーストラヴ』が受賞した第159回の選評のリンクも貼っておきます。
改めて見返してみると、この時も小粒だったなぁ。。。
『マスカレード・ホテル』東野圭吾
「ルールはお客様が決めるものです。昔のプロ野球に、自分がルールブックだと宣言した審判がいたそうですが、まさにそれです。お客様がルールブックなのです。だからお客様がルール違反を犯すことなどありえないし、私たちはそのルールに従わなければなりません。絶対に」
2019年1月18日(金)に公開が迫った『マスカレード・ホテル』を読みました。
以前『検察側の罪人』の映画を見に行った際、劇場で予告編を見たのですが……正直な感想として「またキムタクかよ」「しかも東野圭吾か」と思ってしまいました。
僕の中で東野圭吾の印象ってあんまり良くなかったですから。
量産型佳作作家という感じで。
その辺りについて詳しくは『容疑者Xの献身』の記事で触れていますので興味のある方はどうぞ。
……でまぁ、その『容疑者Xの献身』を読んでだいぶ評価が覆ってしまったんですね。
東野圭吾ってこんなすごい作品も描けるのか!と。
「誰を演じてもキムタク」と称されるキムタクですが、昨今は自ら殻を破ろうと色んな役にチャレンジされていますよね。
『検察側の罪人』はどちらかというと“キムタクらしい”役ではありましたが、映画の雰囲気にもマッチしていて非常に好感が持てました。
そんなわけで、僕の中でここ半年ぐらいの間に大きく印象が変わりつつあったのが東野圭吾と木村拓哉でして、この二人が大きく関係する映画が年明けから公開になるとなると、とりあえず原作読んでおかなくちゃならないな、と思った次第です。
刑事がホテルマンに扮装
読んで字のごとく。
繰り返される三つの連続殺人事件に残された暗号から、次の事件が起こると予測される高級ホテルコルテシア東京に、刑事たちが送り込まれます。
刑事たちはベルやハウスキーピング等、実際にホテルのいちスタッフとして紛れながら、ホテルの警備に当たる。
そのうちフロントクラークに配属されるのが主人公の新田。
教育係である山岸に反発を覚えながらも任務を遂行しようとする新田の前で、様々な事件が起こります。
視覚障害者を演じる女性や、とある男を絶対に近づけないよう依頼する女、次々に理不尽な要求を突きつけるクレーマー等、新田は事件とは関連のないような問題に振り回され続けます。
しかしながら、容疑者が特定できない状況下においては、どんな小さな出来事に対しても見過ごす事はできません。新田は刑事として一つ一つの問題を追いかけつつ、一人のホテルマンとして誠実に対応すべく求められるのです。
……とまぁ、本書で秀逸なのはホテルの描き方。
きっとかなり取材をされたんだろうなぁと感嘆してしまう程、非常に細かくホテルの考え方やサービスの方向性等を描かれています。
部屋に入って直後「煙草臭い」と難癖をつける男性に対し、すんなりとルームアップした部屋に案内してしまうエピソードなんて本当に素晴らしい。煙草は男性自身による工作であり、男性の狙いがルームアップにあると即座に読み取った上で、要望通りにしてしまうんですね。
また、以前宿泊した際にバスルームを持ち帰った疑惑のある客とのやり取り等、非常にリアリティ溢れるものばかりでした。
そんなこんなの「このエピソードって本筋に関係あるの?」って思えるような事件を数々を乗り越えながら、一方でちゃんと連続殺人事件について進んで行くんですが……
以下、ネタバレ注意↓↓↓
あんまりネタバレはしたくないんですが、本書の口コミを見ていると「どうでもいいエピソードばかり」という批判が多いのが気になったので、どうしても書いておきたかったんです。
本書の面白さって、(↓↓↓ネタバレ注意のため白字としています↓↓↓)
①三件の連続殺人事件から四件目の事件を想定させる。
↓
②実際には連続しておらず、それぞれが個別の事件だった
↓
③……と思わせておいて、やっぱり一部は関連があった
……と事件が二転三転するところにあります。
で、それって実は、、、
ホテルエピソードとして挿入される話も一緒ですよね。それぞれの事件が個別で、連続殺人事件とは全く関係ないと思わせておいて、その内の幾つかが実は関連しているという。
この物語全体が入れ子構造のような形になっている事こそ、東野圭吾が苦心した成果だったりするんじゃないかな、と。
A・B・C・Dと事件を進めつつ、それぞれが関連性はないと思わせておいてCとDは同一犯。
一方でa・b・c・dと一見事件とは関係なさそうなホテルにまつわるエピソードを書いておいて、cとdは実は事件に大きく関係。
叙述トリックやブック・イン・ブックのようにわかりやすい形で明示されず、特に解説もない事から特に触れられる事もありませんが、きっと狙ってやったんじゃないかな、と勝手に一人で推察していまいます。
まぁ、一部の批判的な意見に沿って事件に関連するエピソードのみに絞ってしまったら犯人は丸わかりになってしまいますし不自然極まりないでしょうから、木を隠す為に森を作る必要があった、という結果論なのかもしれませんが。
個人的には非常に面白く感じたわけです。
ついでに言えば、一つ一つのエピソードもたとえ事件には関係なかったとしても、コルテシア東京や山岸をより読者に理解してもらう為には決して無駄なものではなかったと思うんですけどね。
東野さんの本は決して読みにくい文章ではないはずですし。
映画が観たい
出た!
と自分で書いておきながら、自分て突っ込んでしまいます。
映画、観たくなりましたねー。
つまり、良い本だったって事です。
『容疑者Xの献身』と比べれば推理ものとしては一段落ちるかもしれませんが、よりエンターテインメント性は高いですし、映像化には向いているんじゃないでしょうか?
主人公とヒロイン役も個人的にはなかなか好きです。続編も読んでみたいと思います。
映画館で予告を見ていたばかりに、脳内ではすっかり木村拓哉と長澤まさみに変換されて読んでしまいましたしね。
でも、ちょっと欲を言えば、山岸役は長澤まさみじゃあないような気がするんですが……。
キムタクは当て役かっていうぐらいピッタリに感じますけど。
その他、配役もかなり豪華な様子ですし。
年明けは『マスカレード・ホテル』を観に行くので決まりかな?
……ちなみに年末は『シュガー・ラッシュ:オンライン』観に行く予定です笑
マスカレード=仮面舞踏会
忘れてました。
最後にマスカレード・ホテルの意味について触れておきます。
理由はヒロインである山岸の口から語られています。
「昔、先輩からこんなふうに教わりました。ホテルに来る人々は、お客様という仮面を被っている、そのことを絶対に忘れてはならない、と」
「ははあ、仮面ですか」
「ホテルマンはお客様の素顔を想像しつつも、その仮面を尊重しなければなりません。決して、剥がそうと思ってはなりません。ある意味お客様は、仮面舞踏会を楽しむためにホテルに来ておられるのですから」
ホテルそのものが仮面舞踏会の舞台である、という考えですね。
それはつまり、東野圭吾自身が本書を仮面舞踏会の舞台として描いた事に他なりません。
そういえば数々のホテルエピソードの中には、仮面を彷彿とさせるお客様が何人も登場しましたよね。
その中には事件に大きく関わるものもありましたし……。
本書を読んだ人であれば、「ホテルは仮面舞踏会」という言葉に頷かざるを得ないはずです。
タイトルのネーミングセンスにも脱帽です。
東野圭吾、スゲー時はスゲーな。
駄目な時はとにかくダメだけど。。。
『死のロングウォーク』スティーブン・キング
「死ぬってどんなものか、わかってるつもりだ」ピアソンがだしぬけにいった。「どっちにしろ、今はわかった。死そのものは、まだ理解できてない。だが死ぬことはわかった。歩くのをやめれば、一巻の終わりだ」
翻訳書が当ブログに登場するのは珍しいですね。
今回読んだのはスティーブン・キングの『死のロングウォーク』。
スティーブン・キングといえばタイトルと主題歌いずれもたぶん知らない人はいない『スタンド・バイ・ミー』をはじめ、『IT』や『ミザリー』、『キャリー』、『シャイニング』、『ペット・セマタリー』等々、枚挙にいとまがないぐらいに数々の作品を残しているホラー作家です。
昔からあまり海外ものは読まないのですが、上に挙げたようなキング作品に関しては貪るように読みふけったものです。
ちなみに、今回読んだ『死のロングウォーク』は当初リチャード・パックマン名義で発行されました。
こういった事例は海外では少なくないようで、本格推理小説の大家であるエラリー・クイーンもまた、彼の代表作である『Xの悲劇』をはじめとするドルリー・レーン四部作においてバーナビー・ロスという変名を使用しています。日本だと最近では乙一⇔中田永一の別名義などが有名でしょうか。
ライトノベル黎明期の名作・問題作として沢山の子供たちにトラウマを植え付けた異次元騎士カズマシリーズの著者である王領寺静もまた、藤本ひとみの別名義であったと知られています。
本来であれば「作風が大きく異なる作品を書く」等の意図があって別名義が用いられる事が多いのですが、キングの場合には少し事情が異なっています。当時の米国における出版業界では「一人につき年一冊しか本を出せない」という暗黙の了解があったので、年に複数冊を発表する場合には別名義で出さざるを得なかったのだそうです。たぶんに商業的な理由だったんですね。
ダーク・サイド版『夜のピクニック』
久しぶりにキングの本を手にした理由は、以前恩田陸『夜のピクニック』を読んだから。
2回本屋大賞、第26回吉川英治文学新人賞を受賞し、映画化もされた『夜のピクニック』は言わずと知れた恩田陸の代表作の一つですが、必ず引き合いに出されるのが本作『死のロングウォーク』なのです。
『夜のピクニック』は全校生徒が夜を徹して80キロ歩き通す歩行祭というイベントを舞台としていますが、『死のロングウォーク』もまた、100人の少年たちが長き道のりを歩くイベントの話です。
『夜のピクニック』と異なるのは、常に時速4マイル以上で歩み続ける事が求められ、4回目の警告を受けると同時に射殺される、という点。最後の一人になった時点でゲームは終了となり、優勝者は本人が望むどんな賞品でも受けとる事ができます。
同じような設定でありながら、『夜のピクニック』は高校生たちの心を描いた青春小説であるのに対し、『死のロングウォーク』は『バトル・ロワイヤル』の原型とも言われるいわゆるデス・ゲーム。
スティーブン・キングならではのホラー小説なのです。
名作……ではない!?
名作揃いのキング作品の中で、『死のロングウォーク』はあまり有名ではありません。
『夜のピクニック』に引きずられる形で国内で俄かに脚光を浴びるようになった、という印象の作品。
なので内容もそう際立ったものではありません。
暑さや寒さ、空腹や疲労、怪我や故障といった苦しみに耐えながらとにかく歩き続け、一人また一人と脱落者が出ていくのを見守るお話。
ある者は足の痛みに耐えかねて立ち止まってしまい、またある者はゲームからの逃亡を企てて失敗したりします。ちょっとした不注意から警告を受けるケースもあるので、一つ、二つと増えていく警告に精神的に追い詰められていく様子はキングならでは。
しかしながら少年たちは全員見知らぬ他人同士なので、『夜のピクニック』のような背後関係も特にありません。その代り、デスゲームを通して友情や敵愾心が成立していく様子はうまく書かれています。ただ一人生き残る事がゴールという極限状態の中で、それでもお互いに助け合ってしまう彼らの心理描写については流石の一言ですね。
その意味でキング作品の特徴として、全般的にあまりどんでん返しや奇想天外な展開はないんですよね。一つの敵や事件といった対象に対し、主人公等の登場人物が心身ともに追い詰められていく様子が精緻に書き連ねられていくだけで。少年たちをためらいもなく銃で撃ち殺す兵士や、最高権力者である少佐に対しても、取り立てて恐怖の対象として描かれているようには感じられません。少年たちが歩き続けるように、彼らもまた死のロングウォークというゲームのいち参加者でしかない。
ホラー小説としては非常に淡白であり、新たな恐怖をこれでもかと畳み掛ける昨今のホラー・サスペンスに慣れた今の読者には物足りなく感じられるかもしれません。
ただし一つだけ苦言を呈しておくと、ジャパニーズ・ホラーは『リング』の貞子以来、衝撃的な映像とCGやメイクを駆使した恐ろしい風貌に偏ってしまい、一切の進化が滞ってしまっているように感じています。
どれを見ても貞子の焼き直しのような「怖いお化け」を作り出す事に注力してしまっている印象。
昨今では「ホラー映画は当たらない」といった風潮も出ているそうで、現在上映中の2018年正月のホラー映画『来る』も動員数・感想ともに低調な模様。
まぁ、確かにホラー映画をわざわざ見に行こうという人は周囲でも減っているような気がします。
ネットで検索するとリアルな心霊動画や、お化けよりもぞっとする衝撃映像なんでいくらでも出てきますしね。
CGで作り込まれたお化け見せられても「はいはい、良くできましたね。今の技術はすごいですね」ぐらいの感慨しか抱けなかったりします。
そんな中、こうして改めてキングに触れるとホラーの基本ともいうべき原点が見えてくるように感じられますね。
「怖いオバケを出すだけがホラーじゃない」というか。
見た事がないという人にはぜひ、『ミザリー』や『キャリー』といったキングの名作を手に取ってみていただきたいと思います。映画でもいいですし、原作なら尚良いです。『ペット・セマタリー』なんてホラーの中のホラーですよね。『シャイニング』も歴史的な名作ですし。
いずれの作品も今のホラー映像には欠かせない象徴的なシーンがあったりします。
『シャイニング』の双子や『キャリー』の真っ赤な少女なんかは特に有名ですよね。
尚、先日リメイクされた『IT』に続き本作もまた、実写映画化に向けた製作が始まっているそうです。
リメイク版や続編で話題の『IT』に続き、キング作品に再び注目が集まるのはうれしい限りです。
今年の年末年始はいつもよりも長い休暇になりそうですから、キングの原作&映画に浸ってみるのも良いのではないでしょうか?
キング原作のホラーの古典たち。
おすすめです。
『夏のバスプール』畑野智美
真っ赤に熟したトマトが飛んできて、僕の右肩に直撃する。
畑野智美『夏のバスプール』を読みました。
第23回小説すばる新人賞を受賞したデビュー作、『国道沿いのファミレス』に続く二作目。
僕にとっての畑野作品に触れるのも、『国道沿いのファミレス』に続き二作目となります。
『国道沿いのファミレス』は作者ご本人からご指摘いただいたりと、僕にとってもいろいろといわくつきの記事となっていますので、ご興味があれば読んでみて下さいね。
胸キュン青春小説
アマゾンや背表紙の紹介文は「胸キュン青春小説」
その他、様々な感想やレビューを覗くと「ど真ん中の青春小説」といった評価が多いようですね。
主人公である高校一年生の涼太が、通学途中に女の子にトマトを投げつけられる。
しかも二日続けて。
投げつけた相手は同じ学校に通っている事がわかり、トマトがきっかけで始まった二人の関係が日常的なやりとりやそれぞれが持つ秘密や事情を通して深まっていく。
物語の構造としては極めて典型的なボーイ・ミーツ・ガール(Boy Meets Girl)。
そこに加えられるのが高校一年生という年齢にふさわしい彼らの特殊事情。
未練たらたらの元カノや、幼馴染みと付き合う親友、登校拒否のクラスメート、小学生時代とは立場が逆転してしまった野球部員、憧れの美人教師、等々。
これでもかというぐらいにそれぞれの事情や思いが交錯しあい、すれ違いながら物語が紡がれていきます。
女の子と学校の廊下を走り回って追いかけっこしたり、自転車でニケツしたり、プールに引きずり込まれたり。
親友の部屋でコンドームを見つけてドキッとしたり。
誰もが頭に思い描く青春の1ページが、これでもかというぐらい本書に詰め込まれているのです。
少女マンガ的男子
あくまで個人的な感想ですが、畑野さんはたぶん、頭の中で登場人物を作り込んで作品を書いていくタイプなのだと思います。
その傾向は前作の『国道沿いのファミレス』でも顕著でしたが、本書にも如実に表れています。
主人公である涼太は「顔が女顔でかわいい」「友達がいっぱい」「不良じゃないけど生徒指導室の常連」と、完全無欠。短所は算数が苦手なのと背が小さい事。
中学校時代に二週間だけ付き合った彼女がいる。告白されて浮かれて付き合っただけで好きだったわけじゃない。手もつながずに別れた。別れも相手から告げられた。
要素を並べただけで、女子は歓喜じゃないですか?
少女漫画に登場する“ちょっとかわいい系”の理想の恋人像そのものですよね。
特に元カノのエピソードなんて完璧です。
全く恋愛経験がないというわけではないものの、若気の至りから来る不本意かつ短期的なおつきあい経験が一回だけ。高校一年生ぐらいの場合には「今まで全くなかった」と言うとそれはそれでみっともない感じがしますし、ほぼ無傷のおつきあい経験はむしろレアリティの向上に繋がるわけです。
この辺りの機微、畑野智美さんはよくわかっておられる。
実際に存在したら間違いなくクラスの人気者であろう涼太が、トマトをぶつけられたところから始まり、ミステリアスな美少女・久野ちゃんに振り回されながらも恋に落ちていく物語。
それが上に書いたような青春まっただ中で進められるわけです。
これは好きな人にはたまらないに違いない。
ただし、男である僕から読むと残念ながらちょっと女性目線で作られている事に違和感を感じずにはいられません。
例えば、主人公である涼太が地の文で自分の容姿について語る場面。
僕は女顔をしているとよく言われる。女装したら、そこら辺の女子よりもかわいい。
……たぶん、男性ならわかってくれるかなぁ、と。
これはね、ちょっと言わないですよ。言えない。
仮に心の中で思っていたとしても、「そこら辺の女子よりもかわいいらしい」ぐらいの他人事っぽい言い方になるかと思います。
でも涼太は一事が万事、こんな感じです。
男が読むと、「ない!」と顔をしかめてしまうような言動をする。
簡単に言うと、女性が描いた理想の男性像なんですよね。
少女漫画的。
悪く言うと、非現実的。
これは作者が異性を描いた場合、男女逆でも容易に起こりうる問題なので仕方がないとは思います。
世の中全般で見れば男性作者の人口の方が多い分、むしろ女性から「こんな女いねーよ」と絶拒されるような物語の方が圧倒的に多いでしょうし。
そもそも高校生の恋愛を描いた青春モノですからね。
おっさんが読むな、と言われてしまえばそれまでだったりするんですが。
無意識の悪意
たぶん、、、ですが本書における一番のテーマは無意識の悪意というものなんじゃないかと思いました。
自分の態度や言動が、知らず知らずの内に相手を傷つけてしまっていた、というもの。
そんなつもりはないのに自慢ととられていたり、下に見ていると思われていたり。
その最たるものがよく言われる「イジメの加害者は自分がイジメをしていたとは思っていない」というやつだったりしますが、さんざん語りつくされているネタなのでここで詳しくは掘り下げません。
本書において、前半は爽やかで瑞々しい理想形の青春の日々が繰り広げられるのに対し、後半からは上記のような無意識の悪意の存在が少しずつ姿を現していきます。
現実においても、無意識の悪意を相手から糾弾されるほど辛いものはありませんよね。
ぞわり、ぞわりと粗いやすりで心を擦られるような、読んでいて苦しく思える描写だったりもします。
ただ……これはちょっと書くのが躊躇われるのですが、無意識の悪意というテーマと、ボーイ・ミーツ・ガールという物語の構造の両立に、少し無理があったんじゃないかと思ってしまったり。。。
というのも、涼太はあくまでボーイ・ミーツ・ガールの主人公でなければならず、そうであるからには絶対的に何かしらの人間的魅力を持っていなければならないという制約が付きまといます。
そのため涼太の無意識の悪意を描いてしまうと、涼太の無神経さや配慮のなさといった欠点が浮き彫りになり、相対的に魅力は減少していってしまうんですよね。
前半部で描かれたクラスや校内でも目立ち、交友関係も広い涼太の表向きの良さが、後半ではすっかり失速してしまいます。もしかしたらこいつ、上っ面ばかりで本当の友達いないんじゃねーの? 無意識に敵作りまくる面倒くさいタイプ? みたいな。
後半部では恋のライバルである野球部員の一途さや男気が存分に発揮され、ライバルの評価が上がっていくので、輪をかけて涼太の評価は下がる一方なのです。
恋に障害はつきもの。壁を乗り越えるからこそ二人の恋が燃え上がる。
とはいえボーイ・ミーツ・ガールの物語における障害って基本的には本人に起因するものではないんですよね。父の病や兄弟の犯罪、両親の反対といった身内の問題だったり、〇日後に留学するといった時間・距離の問題だったり。
決して本人たちは貶めず、仮に欠点や短所があったとしても逆に人間味を膨らませる範囲で留めています。
実直だけど短気とか、真面目だけど寡黙とか、一生懸命だけどドジとか。
一見涼太も「一生懸命だけどドジ」に似通ってはいますが、周囲の反応から察するにドジを通り越してクズになりかけているのがちょっと苦しい。
一生懸命なクズはいくらなんでも苦しい。
無意識に悪意を振りまく人間が一生懸命なんですから。これは手に負えない。
そう考えると、物語の軸を無意識の悪意に振ってしまったのはかなり難しいチョイスでしたね。
それはそのまま読後感にもつながってしまいます。
涼太の一人称で書かれているという理由もありますが、ヒロインである久野ちゃんの心の動きがいまいちよくわからないのです。
久野ちゃんは涼太の一体どこに惹かれたのか、何に惹かれているのか。
涼太の人間性が露呈すればするほど、久野ちゃんが惹かれる理由がわからなくなる。
だから最終的に下されるヒロインの決断に対しても、「え、結局そっち行くの? なんで?」と。
恋は理屈や打算じゃない。
そんな恋愛を描くにしても、最終的に「そっちを選んだ」理由がちょっとよくわからないんですよね。
なんとなくそっちの方がフィーリングが合うから。
生理的に惹かれてしまうから。
最初から王子様と結ばれると決まっているから。
ボーイ・ミーツ・ガールとはいえ、そんな理由で結ばれるとしたらちょっと残念ですよね。
僕が男だからかもしれませんが、運命の王子様と当然のように結ばれる物語よりはひたむきな想いが報われる物語の方が好きです。
仮に運命の王子様と結ばれるのであれば、最初から最後までむしろ魅力が膨れ上がっていくような王子様であって欲しいと思います。
感想を書くということ
……うーん。
基本的に深く考えたりせず、頭に思い浮かんだ内容をそのままタイピングするタイプなんですが。
なんだかネガティブな内容が多くなってしまって、ちょっと自分でも困惑しています。
でも濁しても仕方ないですよね。
読んでいて違和感が付きまとったのは事実だし、ラストの展開が納得できなかったのも事実ですし。
だいぶ前に又吉さんが「自分には合わなかった。感情移入できなかったと知る事も読書の醍醐味の一つ」といった内容の話をしていました。
だから本書を読んで「僕がこう思った」と考え、こうして残す事は決して無駄な事ではないと思っています。
本書を読まなければ、そうは思わなかったわけですから。
読んだからこそ、ボーイ・ミーツ・ガールの物語の類型であったり、本書と他の物語の異なる点について考えるきっかけになったわけですし。
……とまぁ、言い訳がましい事をだらだら書いたりもしたのですが、正直なところ、畑野作品を読むのには勇気が要ります。
正確に言えば、こうして感想をブログに書く事に対して、とも言えますが。
詳しくは冒頭に載せた『国道沿いのファミレス』の記事を読んでいただければおわかりかと思いますが、実は前回この記事を書いた時に、Twitterで作者である畑野智美さん本人からアクションをいただいてしまったのでした。
しかも、ネガティブに描いた部分に対する「そうじゃない」というご指摘。
ちょっとこれは恥ずかしいし、畑野さんに対しても申し訳ないしで内心困ってしまいました。
このブログを書いているのはほぼ自分の為であり、少なからず読んで下さる少数の読者の方のためでもあるのですが、正直なところ作者や出版社を対象としていません。ネガティブな感想が目に触れればあまり良くないのだろうな、とは思うけれど、それよりも自分の素直な感想を書きたいという気持ちの方が強いです。
当たり障りのない事を書いても、書いてる側も読んでいる側もつまらないだろうし、とりあえずなんでもかんでも絶賛しておこうという風潮も好きじゃないです。
実際に他の方のinstagramなんか見てると、ちょっとこれはいまいちだなぁと思った本に対して「涙が止まらなかった」とか書かれていたりして、それって本気で言ってんの? と思う事も少なくありません。
……で、僕が「これこれこういう点が残念でした」と書くと、「私も同じように思いました」とコメントいただいたりする。自分が同じ作品について投稿した時には「涙が止まらなかった」と書いていた人が、ですよ。
特に昨今はSNS映えが重視されているおかげで、正直な感想というものがわかりにくくなっているように感じます。
例えば話題のスイーツを食べに行って、写真を撮って、SNSにアップするとする。
そこに書く内容は「美味しい」とか「可愛い」というポジティブな内容ばかりになるわけです。
……仮に、最後まで食べきれずに途中で捨ててしまったとしても。
基本的に承認欲求を満たすためのツールであるSNSって「どう思ったか」よりも「どう思われたいか」の方が優先されがちです。
「話題のスイーツを食べたけど甘いし多すぎて途中で捨てた」と書いたら「いいね!」とはされないですもんね。むしろ自身に対するネガティブイメージを広める結果すら予想されます。場合によっては「食べ物を捨てるなんてけしからん!」とプチ炎上してしまうかもしれません。なのでSNSで承認欲求を満たすためには「話題のスイーツ食べたよ」という投稿をしてしまう。
同じように、読んだ本を「面白かった」「感動した」とコピペのように紹介してしまう。
他人に見てもらいたいのは「本の内容」ではなく、「本を読んで感情が揺さぶられるという文化的な行動をしている自分」だから。
読んだ本は基本的に全てハズレはなく、面白い本でなくてはならない。
泣けると話題の本だったけど出たのは欠伸だけ、なんて事実は書いてはいけない。あの作品で泣けないなんて冷たい人間だと思われかねない。とりあえず無難に「感動した」って書いておけばいい。
そういうポージングとしての感想が世の中に溢れすぎてしまっている。
でもこのブログや僕のSNSに関しては別に誰かから「こう思われたい」から書いているわけではなく、あくまで「僕はこう思った」を書き記すために書いているので、思った事を素直にそのまま書いておきたいと思います。
誰かから無意識の悪意を指摘されるのは本当に怖い事なんだけれど。