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年間100冊前後の読書を楽しんでいます。推理小説・恋愛小説・歴史小説・ビジネス書・ラノベなんでもあり。

『影武者徳川家康』隆慶一郎

「ご進撃が早すぎます。いま半刻、桃配山に……」

「それが出来なくなった」

 二郎三郎は、あくまで家康として云った。忠勝の顔色が変った。

「南宮山の毛利が……!」

「毛利ではない。わしだ」

 二郎三郎は忠勝に近々と顔を寄せた。

「判らぬか。わしが死んだ」 

今回読んだのは隆慶一郎の『影武者徳川家康』。

本作も漫画化、ドラマ化されていますのでなかなかの有名どころですね。

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ちなみに僕が知ったのも上記の原哲夫漫画版。

小さな頃に触りだけ読んだ覚えがあるのですが、本物の家康が死んで影武者が残るという衝撃の展開が強く残っており、今回手に取るきっかけとなりました。

尚、原哲夫氏は絵柄を見れば一目瞭然かと思いますが、『北斗の拳』や『花の慶次 -雲のかなたに-』といった代表作を持つ方です。

 『花の慶次 -雲のかなたに-』もまた、隆慶一郎の『一夢庵風流記』を原作としていますから、親和性の高い作家さんなんでしょうね。

 

影武者二郎三郎

物語は関ヶ原の戦いを舞台に始まります。

合戦のさ中、島左近家中の忍びであった六郎は、隙を突いて家康を殺害。

吉報に歓ぶ西軍に対し、影武者二郎三郎は咄嗟の機転から家康に成りすまします。十年に及ぶ影武者としての生活により、二郎三郎は家康の思考すらも生き映す事ができるようになっていたのです。

 

内府討死の報が敵味方問わず伝わり混乱する中、二郎三郎は逡巡を続ける小早川秀秋の陣に鉄砲を撃ちこむよう指図。恐れを知らぬ行為に「内府はやはり生きている」と悟った小早川秀秋はついに動き、西軍は崩れ、関ヶ原は雌雄を決します。

 

危急の策として始まった影武者の“成りすまし”は本来であれば家康の息子である秀忠が到着するまでのはずでしたが、あろうことか秀忠は関ヶ原に遅参。本来であれば懲罰も免れない失態に、家康の死を公表するのは憚りがあると伏せられてしまいます。この段階で秀忠にバトンタッチしてしまえば、せっかくの関ヶ原の勝利は無に帰してしまうかもしれません。

 

これには秀忠も黙ってはいられません。家康が死ねば、順番としては自分が徳川家の主となるはず。ましてや相手は影武者風情。自分の意を聞かせ、時を迎えれば殺してしまおうと側近である柳生宗矩とともに画策します。

 

一方で、事情を知る本多忠勝本多正信といった徳川家の重臣たちも、秀忠の能力への猜疑と家康の死の公表による混乱を警戒し、二郎三郎による影武者政権の維持を図ります。

 

本書は関ヶ原以後、家康の死までの十数年を描いた物語ですが、その中心を貫くのは影武者二郎三郎と二代目将軍徳川秀忠との対立なのです。

 

忍者vs忍者

……なんて先に書いて置きながら、実のところ、実際に戦うのは二郎三郎腹心の忍者、甲斐の六郎と秀忠側近柳生の忍術部隊だったりします。

実を言えば甲斐の六郎は家康を亡きものとした張本人。運命の悪戯か、家康暗殺を命じた島左近とともに、六郎は二郎三郎の身を守るべく手を結ぶのです。

この六郎がとにかくすごい。

漫画・アニメに出てくる忍者の能力をほぼ全て網羅したスーパーマンと言っても過言ではありません。

 

元々は正統派の剣術一家であったはずの柳生もまた裏では忍びを稼業としていた、といった設定もあり、さらに二郎三郎は箱根に潜む風魔衆をも配下に引き入れ……と忍術合戦がどんどん加速していきます。

 

物語としては史実をベースに征夷大将軍への任命や大阪冬の陣・夏の陣をはじめ様々な出来事が進んで行くのですが、基本的には裏で忍者たちが暗躍・対立・決闘を繰り返していくという流れになります。

いずれも二郎三郎に対立する秀忠が策を弄し、それを二郎三郎たちが破る、という構図ですね。

 

これがまた……クドい(笑)

 

どこかで既視感があると思ったら、吉川英治宮本武蔵』ですね。

何かというと武蔵やお通の前にお杉婆や又八が妨害に現れ、懲らしめられて「もうやりません」と改心したと思いきや、少し経つとまた現れ……の繰り返し。お杉婆が秀忠であり、又八が柳生宗矩という関係で見ると非常に酷似しています。

 

そして本作においては、その一つ一つが非常に細かい。

関ヶ原以後、家康の死までというと大きな出来事はないような気がするのですが、一つ一つの細かな出来事に対して上記のようなやり取りが繰り返されるので、なかなか物語が進みません。

 

そのせいもありますが、読書も進みませんでした。

本書は1ページあたりの文字密度も高いのですが、一つ一つのエピソードがあまりにも細やか過ぎ、さらに解決方法も忍者が暗躍するという超非現実的な手法がとられるのであまり熱意を持って読み込めなかったのです。

 

影武者が家康に成り代わる、という面白い題材を扱う一方、忍者合戦に終始してしまったのははなはだ残念なところです。少なくとも上下巻の一冊分は端折れるエピソードだったのではないか、と思えてしまいます。

 

最大の難点

本書の忍者たちは途轍もない能力者ばかりです。

六郎などはこっそり相手方の寝所に忍び込み、寝ている間に髷に小柄を刺すという強迫めいた行為も訳もなく行ってしまいます。

 

かと思えば、二郎三郎の屋敷には忍者がやすやすと忍び込めないように細工を巡らしたりします。

そのため、度々二郎三郎の寝首を掻こうとやってくる忍び達はその都度返り討ちにあってしまうのです。

 

逆に言うと、二郎三郎側からの暗殺は非常に簡易そうに思えてしまうのです。六郎に「殺してこい」と命じれば、簡単にこなしてしまう事でしょう。

 

その点が疑問として膨らんでしまったのが大阪冬の陣・夏の陣。

本書において大阪の陣は秀頼を生き残らせようとする二郎三郎と、なんとしても殺してしまおうとする秀忠との争いでもあります。

しかし、再三に及ぶ二郎三郎の説得工作も、その度に淀殿の反対により無に帰してしまいます。淀殿がいる限り、豊臣の破滅は逃れられない。それは他の歴史書とも同じくする流れではあります。

 

でも、思ってしまうんですよね。

 

じゃあ、淀殿殺しちゃえばいいじゃん。

 

終盤においてはとにかくこの疑問が頭から離れず、どうにも困りました。

二郎三郎たちの口からは、淀殿暗殺など誰からも提案される事はありません。

本書において秀頼は非常に聡明な青年として描かれており、誰がどう考えても、淀殿がネックになっているのは明らかです。

 

また、淀殿は忍び嫌いである事から、大阪城に忍びはいないという点も途中明らかにされています。つまり、その気になればいくらでも忍び込む事ができてしまうのです。実際、大阪夏の陣の最後には六郎たちがわけもなく城内深くまで立ち入っています。

 

どうして淀殿を暗殺しようとしなかったか。

 

この点こそが、本書の大きな疑問であり難点だったりします。

もっと言えば、秀忠・柳生側としても二郎三郎が六郎や風魔と手を結ぶ前であれば、柳生の忍びを大阪城に放って秀頼を暗殺する事も簡単だったはずなんですけどねー。狡猾な秀忠の事ですから、柳生ではない他の誰かの仕業に見せかけてもう一度徳川大阪の一大決戦に持ち込むとか、大阪内部での分裂を招くなんていう真似も可能だったと思いますが。

 

……というわけで、かなり長い時間をかけてようやく読み終えた本なはずなのですが、とにもかくにも忍者たちの能力が特殊過ぎて、どうにも納得いきかねる場面の多い読書になってしまいました。

家康影武者説は文句なしに面白いんですけどね。

島左近が実は生きていて影武者の支援者になっている、という設定も好きですが。

設定を最後まで活かしきれなかった感はぬぐえないかなー。

忍者の特殊能力抜きで書き直せばもっともっとよくなる気がしてしまいます。

 

ううん、簡単ですが以上。

『マイナス・ゼロ』広瀬正

「いちばん古いのがH・G・ウェルズの『タイム・マシン』ていう中篇、これはタイム・マシンが出てくるだけのクラシックだけど、ほかに、カッコいいタイム・マシンパラドックスを扱ったのが、たくさんあるわよ」

SF小説の古典、広瀬正の『マイナス・ゼロ』です。

かねてよりタイム・パラドックスものの金字塔として噂を聞いていたものを偶然古本屋え見つけ、積読化していました。

 

タイム・パラドックスものと言えば日本では『時をかける少女』、『戦国自衛隊』あたりが有名でしょうか。あとはちょっと違いますが『君の名は。』なんかも多分にその要素を含んでいると思います。

洋画だとやはり『バック・トゥ・ザ・フーチャー』ですよね。

 

いずれにせよわくわくと胸が躍り、興奮してしまうような作品の多いジャンルでもあります。

昭和40年・1965年に連載されていたという本作。

既に50年以上が経過していますが、一体どんな作品なのか。

乞うご期待。

 

戦時中の遺言と失踪した少女

中学二年生の浜田俊夫少年が生きるのは第二次世界大戦のまっただ中。

時折訪れる空襲に怯えながら生活をしています。

引っ越してきたばかりの家の隣には、ドーム型の研究施設を備えた屋敷が建ち、井沢先生と俊夫の憧れである娘の啓子が住んでいます。啓子は当時人気の小田切美子という女優に似ていると評判の美女でした。

ある日、襲来した爆撃機から危うく難を逃れた俊夫は、隣家が火に包まれているのに気づきます。慌てて救出に向かうものの、庭には先生が倒れ、すでにぐったりとした様子。先生は俊夫にある遺言を残し、死んでしまいます。そして、啓子も行方不明に。

 

〈千九百六十三年五月二十六日午前零時、研究室へ行く事〉

 

それから十八年後、俊夫は井沢親子の住んでいた家を訪ねます。

申し出を聞いた及川という住人は、快く俊夫の申し出を受け入れてくれました。

果たして、午前零時ちょうどに訪ねた研究室からは、失踪していたはずの啓子があの日の姿そのままの状態で現れます

啓子の記憶は十八年前のあの時で途切れ、現実を受け入れられません。

 

状況を説明する俊夫に、やがて啓子は状況を受け入れ、タイムマシンに残されていたノートの解読に挑みます。日本語ではない謎の文字も、二人の協力によってついに解き明かされたかのように思われました。

そうして再び、二人は研究室を訪ねます。

ところが啓子が休んでいる隙に、俊夫は数字を入力し、井沢博士が日本にやってきたであろう昭和9年にタイムスリップしてしまいます。

 

たどり着いた先は設定とは異なり、なぜか昭和7年

当然研究室は存在せず、タイムマシンは地面へと落下してしまいます。

元の時代へ帰るためには元の高さへ持ち上げなければ、戻った時に床面と衝突してしまいます。人工を雇い、櫓の上に持ち上げる事に成功する俊夫でしたが、タイムマシンに乗り込んでいざ起動しようと言う時に警官が登場。

押し問答の内に俊夫はタイムマシンから飛び出してしまい、代わりに警官を乗せたまま、タイムマシンは旅立ってしまいます。

 

昭和38年からやってきた俊夫は、昭和7年に取り残されてしまうのです。

 

 

2年経てば井沢博士がやってくるはず

途方に暮れる俊夫でしたが、昭和9年には井沢博士がやってくるはずです。

そうすれば遅かれ早かれタイムマシンにも再会し、元の世界に帰る道も開けるはず。

そう楽観的に考えた俊夫は、井沢博士に会うまでの期間をどうやり過ごそうかと勘案します。

幸いな事にタイムマシンには昭和9年に使えるお金が沢山用意されてしましたので、当座の金には困りません。しかし、問題なのは俊夫の身柄です。彼は戸籍を譲り受け、中川原伝蔵の名を手に入れます。さらに当時まだ流行していなかったヨーヨーを開発したりと、精力的に活動します。

 

そんな最中、レイ子という女性に出会い、二人は急速に距離を縮めます。

病弱だったレイ子は伝蔵の勧めで病院にも通い、健康を取り戻し、友人の紹介で高層デパートで働き始めます。

ところがこのデパートこそ後に多数の多数の死傷者を出す世にも有名な大火災を起こしてしまう白木屋呉服店白木屋の火災は知っていたはずの伝蔵も詳細な時期までは失念しており、レイ子もまた火災の犠牲となってしまうのでした。

 

その後も研究室の予定地を取得し、ドームを建設し……と井沢博士の登場に向けて準備を進める伝蔵でしたが、彼の元に召集令状が届きます。長くとも2年程度で解放されるだろうと応じる俊夫が復員したのは、それから15年後の事でした。

 

 

物語の前後関係

ここで時系列を整理しましょう。

本書を漫然と読んでいるといまいち前後関係が掴めなくなってきてしまいますので、同じように整理しながら読み進める事をオススメします。

 

 昭和7年 タイムスリップにより俊夫(伝蔵)登場

 昭和20年 空襲・井沢博士死亡・啓子失踪

 昭和23年 俊夫(伝蔵)復員

 昭和38年 俊夫と啓子再会。

  ※青字は俊夫が過去へタイムスリップ後

 

おわかりでしょうか?

過去にタイムスリップした俊夫が戦争に行っている間に井沢博士はこの世に登場し、そして死んでしまっているのです。タイムマシンもまた、昭和20年の空襲時に啓子とともに昭和38年へ向けて旅立ってしまった為、昭和23年の研究室からは喪失してしまっています。

 

戦争から戻ってきた伝蔵が井沢邸を訪ねると、及川美子という女性が一人で住んでいました。彼女こそ、啓子が似ていると噂されていた小田切美子その人なのです。伝蔵は美子という女性と結婚し、夫婦としてそこに住み始めます。

そうして忘れた頃に、一人の青年から連絡が入ります。

青年は浜田俊夫と名乗るのです。

 

 

及川伝蔵=浜田俊夫、小田切美子=?

そうしてタイムスリップしてきた啓子が俊夫と再会し、今度は俊夫が過去へと旅立ってしまうまでは読者も既知のストーリーです。

しかし今度は及川伝蔵として、その後の様子が描かれていきます。

 

俊夫は過去へ旅立ち、研究室には啓子だけが取り残されています。

啓子に事情を説明する伝蔵ですが、あまりうかうかしてもいられません。

過去へ旅立った俊夫は帰って来れなくなってしまいます。タイムマシンは変わりに警察を乗せて戻ってくるはずなのです。

及川伝蔵は機転を効かせ、やってきた警察を懐柔する事に成功します。

 

安堵の想いで自宅へ戻ると、啓子と美子の姿がありません。

はっと気づいて研究室へ戻ると、そこにタイムマシンはなく、代わりに警察と美子だけが横たわっていました。

啓子は俊夫を追って過去へと旅立ち、それを追った美子だけが啓子に突き出されて残されたのでした。しかし、美子はそのショックで失っていた記憶を取り戻します。

 

↓↓↓以下ネタバレ(白字反転)↓↓↓

 

美子は自分こそが啓子であると、思い出すのです。

美子は俊夫を同じ過ち(十二進法と十進法を間違う)を犯し、昭和2年へと遡ってしまうのです。

タイムトラベルのショックで記憶を失った美子はそこで赤ん坊(俊夫の子!)を生み落としますが、啓子という名前を付けて孤児院の前に捨ててしまいます。

その後有名な映画製作者に拾われ、小田切美子と名を変えて女優となるのです。

 

やがて啓子は井沢博士の養子となり、17歳となった昭和20年に空襲から逃れる為、タイムマシンで未来へと送られます。

 

時系列を啓子中心に再整理します。

 

 

 昭和2年 未来から俊夫を追って啓子登場。記憶喪失。

      俊夫の子(啓子)出産。

      自らは美子に改名。

 不明    美子の娘啓子・井沢博士の養子となる。

 昭和20年 空襲・井沢博士死亡・啓子昭和38年へ。

 昭和38年 俊夫と啓子再会。啓子・俊夫を追って昭和2年へ。

 

美子が生んだ啓子が過去に戻って啓子を生み、記憶喪失になって美子に名を変える。

つまり、美子=啓子。

美子と啓子は親子であり、同一人物である。

自分で自分を生むという永遠の循環を作り出していたのです。

 

 

なんじゃこりゃあ?

 

な設定ですよね。

正直僕自身、読んでいる間はいまいち理解ができませんでした←

 

こうしてブログに書きながら再整理している内に、ようやく呑み込めてきた次第です。

確かに絶賛される理由もよくわかります。

昭和の伊坂幸太郎とでも言うべき、伏線回収の妙ですね。

 

↓↓↓以下ネタバレ(白字反転)↓↓↓

ただ、未来へやってきてしまった警官がその後どうなったのかはさっぱり不明のままなのですが。

 

こんな不憫な目に遭うぐらいなら、俊夫と入れ替わるのは警官じゃなく野良犬にでもすればよかったのに

 

クドイ

ただ、残念なところも多々あります。

その最たるものがとにかくクドイところ。

 

本書は昭和40年に書かれました。

昭和7年にタイムスリップした場面を描くにあたり、多少なりとも懐かしさ・当時の様子を描こうというのは必然の流れかもしれません。

ただし、その描写があまりにも多くて冗長過ぎてしまうのです。つーか僕らにとってはあまりにも昔過ぎて、読んでもさっぱり伝わってこない。

 

例えるなら、現代小説でバブル期にタイムスリップする話を書くとして、ジュリアナ東京だのボディコンだのポケベルだのに加えて、当時流行していたという車をシーマだのシルビアS13だのという車名や特徴まで書くような感じでしょうか。

よくわからない上に特に興味もないんですけど……という感じ。

それがまぁしつこいんですよね。

けん玉がいつからブームになって考案者がどうたらこうたら……みたいな。そこまでの細かな話って物語に必要かな? と思わずにはいられません。

 

なので上の時系列で書くと結構シンプルな物語のようなのですが、読んでいくと非常に長いです。話がなかなか進まない。そこまで重要ではないエピソードが多いので、冗長になってしまう。

 

題材としてはなかなか良いので、これはアニメか何かの映像作品としてリメイクした方が良いのかもしれませんね。もっとスピーディーに話が進む現代版に作り替えた方が、満足度が高まるかもしれません。

 

戦国自衛隊』を観る

本書とは直接的な関係はありませんが、同じタイムトラベルものとして『戦国自衛隊』を観ました。

非常に悪名高い『戦国自衛隊1549』ではなく、名作と呼び声高い『戦国自衛隊』の方です。

www.youtube.com

いやぁ、すごいですよね。

何がすごいって、CGじゃないですから。

若干模型かな?というシーンもありましたが、基本的には本物の戦車やらヘリコプターやらを使って生身の人間が体当たりで行うシーンばかり。

千葉真一がヘリコプターから宙吊りになったとか、真田広之がヘリコプターから飛び降りたとか、渾身の名シーンもいっぱい。

やっぱりこの時代の作品には、最近のCG作品にはない迫力や臨場感がありますね。

 

……と思ったのも開始せいぜい1時間ぐらい。

 

途中から少しずつ状況が変化していきます。

雲行きが怪しくなるのは、主人公・伊庭を演じる千葉真一と、盟友・謙信を演じる夏木勲が邂逅した辺りから。

謙信が現代兵器に興味を持つのはわかりますが、互いに武器を交換し、自衛隊員の伊庭が馬上から恐るべき精度で弓矢を撃ったりする

 

やがて物語はクライマックスである川中島の戦いを迎えますが、自衛隊の用いる現代兵器に対し、武田軍は驚くほどの人海戦術による猛攻を見せます。戦車や輸送車に火を点けた大八車的なものを突撃させたり、水中に姿を消す忍者が現れたり。

明らかに人知を超えたアニメ的な能力を発揮し始めるのです。

これには流石の自衛隊員たちも悲鳴をあげて恐怖を示すしかありません。

 

その最たるものとして、真田広之がヘリコプターの腹に張り付き、よじ登って操縦士を刺殺した挙げ句、墜落するヘリから飛び降りて脱出するというとんでもない身体能力を見せたりするのですが。

 

さらにさらに限界突破を見せ、最終的には現代兵器を失った伊庭が弓矢や刀、槍だけでもって武田軍の陣中にたった一人で襲撃をかけ、信玄を討取ってしまいます(←信玄殺したのは銃だけど)。

馬に跨り、押し寄せる兵や忍者を物ともしない自衛隊員・伊庭はもはや化け物としか言い様がありません。

 

半村良の原作とは似ても似つかぬ展開に呆然としたまま見終えた後、映画のレビューを観ていたら代弁者が見つかりました。

 

これじゃ戦国自衛隊じゃなくて戦国千葉真一だよ

 

言い得て妙ですね(笑)

「戦国時代に自衛隊を送ったらどうなるか」という原作小説は「戦国時代に千葉真一を送ったらどうなるか」というキワモノ映画に改変されていました。

これはこれでそれなりに面白かったですけどね。

 

 

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#マイナスゼロ #広瀬正 読了日本SF小説の古典であり #タイムパラドックス ものの金字塔と言われる作品。空襲により息絶えようとする伊沢先生からの依頼は「18年後の今日ここに来て欲しい」というもの。約束通りその日を迎えた俊夫は、あの日から行方不明になっていた先生の一人娘敬子を発見する。敬子は18年前と変わらぬ姿だった。急展開を迎えるのはここから。俊夫はタイムマシンを操作し、伊沢博士がやってきたであろう過去へと旅たちます。ところが辿り着いたのは何故かそれより2年前。さらにトラブルによりタイムマシンは俊夫を残して現代へと出発してしまい、俊夫は過去へ取り残される事に。未来へやってきた敬子と過去に取り残された俊夫。本来同じ時代を生きるはずだった二人の運命はやがてとんでもなく数奇なパラドックスを生み出します。 ……とまぁ時代性も感がれるとタイムパラドックスものとしては抜群の内容なんですが如何せん物語自体が古い上、昭和初期の風物をこれでもかというぐらい詳細に描き込まれているので、正直クドかったりします。秀逸な設定部分だけを抜き出すと短編で済んでしまいそうな内容だけになかなかに冗長。それでもSFの古典としてはぜひ一読をおすすめしたい一冊でした。#本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。

『壬生義士伝』浅田次郎

「吉村、死ぬな」

本音の一言が喉からすべり出たとき、俺ァやっとわかったんだ。そうさ、やつは俺の、俺たちみんなの良心だったんだ。

 

壬生義士伝』を読みました。

常々耳にしてはいたんですよねー。

映画化・漫画化・舞台化と広がりも大きい作品ですし。

 

ただ、いかんせん新撰組の話らしい、という事以外にはなにも知らず。。。

新撰組司馬遼太郎の『燃えよ剣』や『新選組血風録』、子母澤寛新撰組三部作『新選組物語』『新選組遺文』『新選組始末記』などは読んだもののだいぶ昔の話なので、そのうち再読しようかと思っていたのですが、今回は未読の『壬生義士伝』を手に取ってみました。

 

だいぶ想像からはかけ離れた展開に面食らってしまいましたが。

 

 

義士・吉村貫一郎

物語は大阪の南部藩蔵屋敷に、満身創痍の武士が転がり込んでくるところから始まります。

時は幕末。

鳥羽伏見の戦いにおいて、薩長連合が掲げた錦旗を前に幕府軍が予想外の大敗を期した直後の事。

よく見れば武士がまとった浅黄色の羽織は、新撰組に間違いありません。

彼は以前脱藩した南部藩の者だと出自を明かし、その上で帰藩したいと願い出ます。――つまり、命乞いにやってきたのです。

 

漫画『竜馬がゆく』でお馴染みですが、この時代における脱藩はそれだけで死に相当する罪とされます。

藩の追跡からもまんまと逃げおおせ、新撰組として好き勝手暴れまわった挙句、さらに錦の御旗に対して刃を向けた罪人が、恥も外聞もかなぐり捨ててかつての故郷に助けを求めてきたのです。

一見情けないこの男こそ、本書の主人公である吉村貫一郎

 

しかしこの段階では旧幕府派か新政府派か旗色を明らかにせず、中立を保って情勢を見極めようとしていた南部藩にとっては、お尋ね者の新撰組残党など迷惑以外のなにものでもありません。

切り捨てるわけにも他藩へ差し出すわけにもいかず、仕方なく屋敷内に受け入れられた吉村貫一郎でしたが、蔵屋敷の差配役(一番の責任者)は奇しくも旧知の間柄である大野次郎右衛門でした。

これ幸いと竹馬の誼みを持ち出して助けを求める吉村に対し、大野は「恥知らず」と面罵し、「腹を切れ」と冷たく言い放ちます。吉村はうなだれ、肩を落としつつ大野の命を受け入れます。

 

ここまでがプロローグとも言うべき冒頭のシーン。

 

吉村貫一郎とはいったい何者なのか。

彼の身に何があったのか。

吉村と大野との関係とは。

 

短いシーンの中に生まれる沢山の疑問と謎を紐解いていく、長い長い物語の始まりです。

 

 

取材・独白形式

物語は記者(取材者?)と思わしき人物を前に、過去に吉村その他の人物に関係のあった人々が答える形でつづられていきます。

合間合間には、最期の時を前に吉村自身が過去を回想し、故郷に想いを寄せる場面も挿入されます。

 

1人目に登場する語り手は元・新撰組の居酒屋主人で、当時吉村と同じ時を過ごしたという人物です。彼の名前は結局わからずじまい。

彼の口からは吉村が金にがめつく、給金を手にした側から故郷へ送金する様子が語られます。ならず者たちの集まりの中で、一風変わった吉村の姿も見受けられます。

 

2人目は建設業の主人である桜庭弥之助。南部の出身であるという彼からは、吉村の幼少期から脱藩まで、足軽でありながら藩校の助教・師範代を務めていた吉村のアンバランスな生活ぶりが主に語られます。

生徒たちは皆吉村よりも格上の身分の子弟ばかりで、一度藩校を出れば上下が逆転する。教師として敬われつつも、一方では貧乏侍と見下される吉村。

北辰一刀流の剣術を修め、学問に秀でたにも関わらず、食うにも困るような身分しか与えられなかった当時の困窮した藩の財政状況が垣間見られます。

さらに桜庭からは吉村の息子である嘉一郎と、大野の息子である千秋の関係も語られます。

 

3人目は新撰組池田七三郎と続き、4人目に登場する人物こそ新選組副長助勤にして三番隊隊長・斎藤一

物語はこの辺りから各段にヒートアップします。

スパイとして伊東甲子太郎率いる御陵御士に潜り込み、池田屋事件坂本竜馬暗殺事件と、新撰組にまつわる有名な逸話が続々登場し、特に坂本竜馬については浅田次郎目線での解釈が披露されていきます。これが非常に説得力に溢れていて、ある意味本作の一番の読みどころ

冷徹で他の隊士をも寄せ付けない殺人マシーンのような印象の齋籐に対し、吉村は情に厚く理に厳しく人間味溢れた印象で、斎藤は何かと吉村を毛嫌いし、生理的に反発を覚えます。二人は終始、水と油のように相反する存在として描かれていくのです。

 

最大の見どころは鳥羽伏見の戦い

錦の御旗を前に、会津藩新撰組も戦意を喪失。「退くな!」と命じる土方の声も届かず、一斉に後退を始める。

その中でたった一人、吉村だけが脇差を抜いて立ち向かうのです。

 

新選組隊士吉村貫一郎、徳川の殿軍ばお勤め申っす。一天万乗の天皇様に弓引くつもりはござらねども、拙者は義のために戦ばせねばなり申さん。お相手いたす」

 

咄嗟に飛び出そうとする斎藤は、永倉と原田に止められてしまいます。羽交い締めにされながらも「死ぬな、吉村」と叫び続ける斎藤。……映像作品を見た事はありませんが、間違いなく見せ場の一つでしょう。

吉村に敵愾心を抱いていたはずの齋籐が「死なせてはならない」と思ってしまう。吉村の持つ不思議な魅力の一端を示す重要なエピソードです。

 

 

吉村は義士なのか

続いて語り手は大野次郎右衛門の息子である大野千秋に代わり、大野家の中元を務めていた佐助、そして最初に登場した新選組の生き残りである居酒屋店主、さらに吉村貫一郎の次男へと代わっていきます。

ここからは主に鳥羽伏見以後、吉村の遺族たちの様子が語られています。

 

ただ……うーん、、、斎藤一の語りが盛り上がり過ぎただけに、トーンダウンが否めませんでした。

吉村貫一郎も鳥羽伏見で官軍に立ち向ったところまでは格好良かったんですけどね、その後で故郷に命乞いしていた事を考えると、なんとも複雑です。

 

本書は吉村貫一郎「幕末に似合わぬ家族愛・人間愛に溢れた人物」として書こうとしています。

でもだったら、どうしてたった一人官軍に立ち向かうような真似をしたのでしょうね? 個人的にはそこがいまいち理解できません。

新選組の他の隊士にも「死ぬな」と教育してきた吉村です。沢山の人を斬ったのも「自分が死にたくないから」と言います。故郷に残してきた家族を養うためには、死ぬわけにはいかないからです。

 

繰り返しになりますが、だったらどうして一人で官軍に立ち向かったのでしょう? もちろんこのシーンがあったからこそ吉村が“義士”であった証明になるのですが、それまでのエピソード中にも、特に徳川に対して義を唱えるような人物像は見受けられないんですよね。

この場面においては、吉村は気が触れていたとしか思えません。

言い方を変えれば、この場面のみ吉村のキャラが崩壊していた、と言えるかもしれません。

見せ場としては途轍もなく格好良いシーンではあるのですが。

 

実際、その後瀕死の吉村は恥も外聞もかなぐり捨てて、己の主家である南部藩に助けを求めるという行為に出ています。斎藤一の心に強く刻まれる程、たった一人で掲げた“義”とはいったいなんだったのか。後で変心するぐらいならなんで決死の抵抗を試みたのか。吉村貫一郎は本当に“義士”なのか一体誰の為に、何のために掲げた“義”だったのか、疑問であると言わざるを得ません。

 

ちなみにストーリー的にも、ほぼ史実をなぞった斎藤一編までと異なり、以後は創作色が強くなってしまいます。

象徴的なのが大野千秋で、彼には最初から付き従う妻の姿が描かれます。読んでいるうちに、どうやらこの妻は吉村貫一郎の娘であり、大野千秋の親友である吉村嘉一郎の妹・みつである事がわかってきます。

鳥羽伏見で幕府軍が大敗後、吉村貫一郎は死に、南部藩に帰った大野千秋の主導により南部藩奥羽越列藩同盟の一員として徹底抗戦の道を歩みます。隣国秋田や津軽への侵攻がそれです。

父の脱藩以後、世を忍ぶように生きてきた息子・吉村嘉一郎は主藩への“義”のため、その戦陣へと駆けつけようとするのです。その際、どうしても納得してくれない妹・みつの身を案じて、親友である大野千秋の下を訪ねてきたのでした。

 

大野千秋はみつを説得、嘉一郎を送り出します。その後、あろうことか嘉一郎の母を訪ね、みつを嫁にもらいたいと願い出るのです。

 

……あれれれれ?

 

この辺は本当に滅茶苦茶なんですよね。

大野家と吉村家の間にある格差という大きな溝については、ここまでも繰り返し繰り返し語られているのです。

大野家は藩の重役も務める四百石取りの上士。かたや吉村家は二駄二人扶持の足軽。元を辿れば大野次郎右衛門も吉村と同じ貧困の出でしたが、大野家に跡継ぎ問題が発生し、棚から牡丹餅的に藩の重鎮にまで上り詰めたのでした。

幼少時をともに過ごした二人は親友とも呼べる間柄ではありますが、社会的な身分においては口をきく事も許されないような上下関係が存在するのです。

 

だからこそ、剣にも学問にも秀でた吉村貫一郎は貧困から脱する事もできず、脱藩するしかなかった。大野次郎右衛門にも、吉村の禄を増やす程の便宜を図ることはできなかった。

この物語のそもそもの始まりは当時の身分制度・格差に起因していたはずなのです。

 

ところが、大野千秋という人物はあろうことか足軽の娘を己の一存で嫁に貰ってしまう。おいおい、脱藩した重罪人の娘じゃないか。だいぶ格下な上、教養も何もない足軽の娘じゃないか。

 

だったら最初っからそうしろよー!

 

吉村貫一郎を登用できないのなら、息子・嘉一郎を大野家の養子に入れた上でどこか跡取りに困る武家に婿に出すとか。実際直江兼続なんかは似たような手段で家老入りを果たしたわけですし。

どうも舞台が南部藩に移ってからは、話の整合性が取れていないように感じてしまいます。

大野千秋の回想によると、吉村貫一郎が家族を引き連れて大野家に貰い湯に来ていたような記載もありますし。

上士の屋敷に足軽が、ねぇ……。風呂を借りられる、貸せる間柄ならやっぱりもうちょっとどうにかできたんじゃないかと思えてしまいます。他にも部下である足軽は多数いたでしょうし、昔の誼で吉村貫一郎にだけ風呂を貸していたとすれば、周囲からは白眼視されてしまいますもんね。出自にいわくつきの大野次郎右衛門に対する家中の風当りだって強まる事でしょう。

 

嘉一郎はその後、南部藩が恭順するに至った後もたった一人函館に渡り、五稜郭において最後まで南部藩の“義士”として戦い続けます。

 

「出立の折、御組頭様より頂戴した幟旗でござんす。二十万石はこんたな足軽ひとりになってしもうたが、わしは南部の武士だれば、たったひとりでもこの旗ば背負って戦い申す。二十万石ば、二駄二人扶持にて背負い申す」

 

五稜郭の戦いも見せ場の一つなのかもしれませんが、正直この頃にはだいぶテンションが下がっていました。 

嘉一郎は脱藩して藩に迷惑をかけた父の罪を背負っています。さらにそんな父が送金してくる汚れた金に育てられたという負い目も負っています。それらが彼を、南部藩のために戦おうを駆り立てた原因なのです。

でもそもそも父が脱藩した原因については疑問符がついてしまっているからなぁ。

その上、妹はあっさりと上士の家に嫁入りしていたり。

さらに、嘉一郎の弟は父と同じ吉村貫一郎の名を継ぎ、さらに大野次郎右衛門の尽力もあって戦後、裕福な家に面倒を見てもらい、立派な大人に大成していたり。

 

そんな事できるなら最初から……

 

 と思わざるを得ません。

 

 

一つ一つの見せ場は素晴らしい

 

……というわけで読み終えた『壬生義士伝』。後半はボロクソ書いてしまいましたが、読み終えた後も見せ場の一つ一つは鮮やかに脳裏に蘇ってしまいます。

鳥羽伏見で薩摩軍相手に見えを切る吉村貫一郎であったり、五稜郭で最期を飾ろうとする吉村嘉一郎であったり、はたまた京の町で躍動する斎藤一であったり。

一つ一つの見せ場の描き方が、とにかく上手だなぁ、と。

 

残念なのは全体を通しての軸がブレている感じがする事。

吉村貫一郎・嘉一郎を悲劇の親子に仕立てる代わりに、息子・貫一郎やみつを救ったという感じなんですかねぇ。

戊辰戦争後、会津藩をはじめ官軍に刃向った藩はかなり苦労も多かったはずなんですが、その辺りのエピソードが少なかったのもちょっと物足りないか。

 

会津藩で言えば最後の家老であった山川大蔵(浩)なんかは戦後も斗南での再起や西南戦争への参戦と勇躍していますから、大野千秋も藩重役の子弟として、さらには抗戦を煽った戦犯の息子として、南部藩の再興を担う役割も少なくなかったはずなんですが。本作においては、風当りの強い賊軍の子弟の一人として生きる事で精いっぱいだったようですね。

本来であれば罪人である脱藩足軽の子弟よりも優先して救うべき相手は無数にあったはずなんですけど。

子どもの頃の友情を優先して、目の前の藩士たちを後回しにするのは“義”と言えるのかどうなのか。やはり疑問なところです。

 

あとは吉村貫一郎脱藩以後、家族を支えてくれた伯父夫婦やその家族がどうなったのかも気になるところ。

名を受け継いだ子・吉村貫一郎もその後はだいぶ疎遠になっていたようですし。

 

全体を通して、とにかく吉村と大野の友情さえ美しければそれで良い感が否めませんでした。

本書は子母澤寛の『新選組始末記』を元にしているというのは有名な話ですが、南部藩や大野との友情エピソードなどは割愛して、新選組でたった一人義士として薩摩に立ち向かった吉村貫一郎を描くだけにとどめた方が、全体としての完成度は高かったのではないかと思えてしまいます。

もちろん、その背景を膨らませたからこそ『壬生義士伝』が生まれたんでしょうけど。

 

うまくまとめられれば映像作品の方が面白いかもしれませんね。

今度見てみる事にします。

 

 

https://www.instagram.com/p/Bxi8_gjBvYn/

#壬生義士伝 #浅田次郎 読了#第13回柴田錬三郎賞 受賞作品映像化、漫画化、舞台化と派生も多い有名な作品。取材者(=子母沢寛?)に対して語るような独白形式の文章が独特。上巻の後半から語り手が斎藤一になる辺りが最高潮で、その後は尻すぼみな印象。四百石取りの旧友を持ってしても二駄二人扶持の貧困を脱する事のできない環境こそが全ての原因であったはずなのに、後半の語りを読むと上士の家に風呂を借りたり、上士の息子は罪人である脱藩足軽の娘を己の一存であっさり嫁に迎えたりと色々破綻してくる。あれ?吉村と大野の間にある身分の垣根ってもっともっと大きいはずじゃなかったっけ?だったらもうちょっとなんとかできたはずだよなぁ。貫一郎はまだしも、息子の嘉一郎を大野家の養子に迎えた上で他家に婿に出す、とかね。貫一郎が脱藩する前に娘を嫁に入れて親族化しちゃうとか。一つ一つの見せ場はものすごくよく出来ているんですけどね。薩摩軍にたった一人で立ち向かう吉村貫一郎とか。ただ、全体で見るとどうも整合性がとれていない気がして残念でした。#本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。

『チョコレートゲーム』岡嶋二人

「なんでも、みんなジャックのせいだ、とか言っていたらしいです。妹が聞いた言葉ですがね」

「みんなジャックのせいだ……」

岡嶋二人『チョコレートゲーム』を読みました。

岡嶋二人作品を読むのは『クラインの壺』、『99%の誘拐』以来です。

東野圭吾の『パラレルワールド・ラブストーリー』が間もなく公開という事で話題を呼んでいますが、クラインの壺』はパラレルワールドを描いた作品としては間違いなく『パラレルワールド・ラブストーリー』よりも数段上の作品ですので、ぜひ読んでみて下さいね。

岡嶋二人の最高傑作として挙げる人も少なくありませんよ。

 

その他、岡嶋二人作品としてはデビュー作の『焦茶色のパステル』をはじめ競馬もの、そして誘拐ものが有名ですが、今回読んだ『チョコレートゲーム』はその中でも異色の青春もの

とある中学校の3年A組の生徒に間に起こる連続殺人をテーマとした、第39回日本推理作家協会賞長編部門受賞作です。

 

 

大ざっぱなあらすじ

主人公は小説家の近内泰洋。彼には中学三年になる一人息子の省吾がいますが、ある日、妻から不登校が始まっていると知らされます。

学校に行くと家を出ても、実際には行っていなかったり。さらに、体に大きなアザを作ったり、食事も摂らなかったりと、不審な行動が続いています。心配する両親に、省吾はかえって苛立ちをぶつけるばかり。

 

そんな中、省吾のクラスメートである貫井直之の殺人事件が報じられます。

全身に多数の打撲を負い、学校近くの工場の空き地で遺体となって発見されました。

ちょうどその夜は、省吾が家に帰らなかった日と重なっています。

 

さらに浅沼英一が死亡。

やはりその近くでも省吾らしき姿の目撃証言が出ます。

 

省吾の潔白を信じ、身を案じる近内をよそに、遂には省吾もまた、遺体となって発見。

それまでの二つの事件とは異なり、自殺らしき死に様に、全ての事件は省吾の手によって行われたものとして処理されます。

 

しかしながら、納得のいかない近内は周囲から「殺人者の親」として煙たがられながらも、たった一人で真相解明に臨みます。

 

 

とにかく巧み

解説にも触れられているのですが、とにかく推理小説として上手。

 

直之が持っていたという二百万円もの現金。

直之が死の直前、震えながら繰り返していた「みんなジャックのせいだ」という言葉。

生徒たちがひた隠しにしようとする「チョコレートゲーム」の謎。

 

散りばめられた数々の伏線や謎をフックにぐいぐいと物語を読み進めさせ、登場人物たちは読者の興味や疑問、期待といった感情を裏切る事なく、一つ一つしっかりと解き明かしていってくれます。

 

最終的に全ての謎が解明してみると取り立てて“驚愕のトリック”があるわけでもなく、物語全体の印象としては凡庸な推理小説と言わざるを得ませんが、とにかく構成力が抜群でした。

他にもこの時期の本格推理小説にありがちのやや機械的な人物描写といった難点もありますが、推理小説としては読んでいて楽しいものです。

犯罪者の息子を持つ父親の葛藤や苦悩、中学三年生という年齢相応の複雑な人間模様……なんてところまで望んでしまうのは高望みしすぎかな。

最近冷めつつある読書熱にはちょうど良いバランスの良書でした。

 

https://www.instagram.com/p/BxOtCgHhk66/

#チョコレートゲーム #岡嶋二人 読了#第39回日本推理作家協会賞受賞作 名門中学3年A組で起こる連続殺人事件。生徒たちがひた隠しにする「チョコレートゲーム」と、死んだ生徒がうわ言のように繰り返していた「全部ジャックのせいだ」という言葉。自分の息子は本当に連続殺人犯なのか。 ……と事件の真相究明に向かう一人の小説家の話。トリックというか物語的には凡庸。特に際立ったものがあるわけではありません。この時期の本格ものにありがちな機械的な人物描写も玉にキズ。でもトータルで見ると不思議と秀作。それもこれも構成がとにかく素晴らしい。次々に生まれる謎をフックにグイグイ読ませ、登場人物たちは期待を裏切らずに真相に向かって進んでいくシンプルさと安心感。岡嶋二人は良いですね。なお、映画化で話題の #パラレルワールドラブストーリー を読んでみて微妙だったという人には岡嶋二人の #クラインの壺 がオススメです。同じパラレルワールドをテーマとした作品ながらクラインの壺は目茶苦茶ハマりますよ。#本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。

『天地人』火坂雅志

「あまり、事を急がぬほうがいい。急げば、足元をすくわれることもある。天の時、地の利、人の和、この三つが合わさったとき、はじめて物事は動くものだ」

2009年大河ドラマ天地人』の原作小説を読みました。

妻夫木聡主演でかなり人気のあった大河ドラマだという認識はあるのですが、いかんせん、全く観ていません。

なので事前知識としてあるのは「直江兼続上杉謙信の子孫・上杉景勝の右腕」という事に加え、先日読んだ山岡荘八伊達政宗』から「米沢の上杉と仙台の伊達でかなりバチバチやりあっていたらしい」という知識ぐらい。

一通り信長・秀吉・家康と続く戦国時代については司馬遼太郎を中心に読んだはずなのですが、いまいち同時代における上杉家や直江兼続って印象にないんですよね。

 

ちなみに、武田信玄上杉謙信についてもほぼ触れていません。

伊達政宗も先日ようやく読んだぐらいですし、基本的に戦国時代において蚊帳の外に置かれていたっぽい東日本の武将に関しては触れてこなかったと言ってよいかもしれません。

 

上杉家の衰退

本書は上杉家のライバルである武田軍が、織田・徳川連合軍に大敗を喫した長篠の戦のあとから始まります。

信玄の跡を継いだ武田勝頼はこの敗戦をきっかけに多くの武将を失い、周辺国からの圧力にも捺され目に見えて勢力を失いつつあるのです。

謙信を御館様に据える上杉家ではそんなかつてのライバルの衰退を横目に、日増しに勢いづく織田信長を敵対視。将軍家である足利家を敬う姿勢が見られます。

 

「信長の行為は、義にあらず」

 

武力を持って天下を治めようとする信長を、謙信はそう断じます。

 

人が人であることの美しさ

 

上杉家の家訓とも言える“義”を貫き、謙信は足利家に忠心を誓おうというのです。

 

 

しかしやがて、上杉家も不幸に見舞われます。

御館様である謙信の死。

それにともない、景勝と景虎という二人の息子による家督争いというお家騒動の勃発。

 

景虎には北条・武田が支援を表明し、追い詰められた景勝のためにと、兼続が打ち出した起死回生の奇策こそが宿敵である武田との和睦

それぞれが危うい立場に立たされた息子たちは歩み寄りを見せ、危機を乗り越えた後には景勝と勝頼の妹、菊姫との婚姻が結ばれるほどの蜜月関係へと転じます。

景虎は滅び、上杉景勝はついに家督相続を成し遂げます。それとともに、兼続は若干二十一歳にして家老に就任。さらに名家である直江家に婿入りする事で直江の名跡も継ぎ、景勝の右腕として、上杉家の大黒柱としての長い活躍の日々が始まるのです。

 

しかし、そう時を置かずして織田信長の手により武田家が滅亡。

かつて栄誉を誇った武田家が呆気なく消滅してしまった事に、上杉家でも危機感を募らせます。

信長は武田に次いで、当然の如く上杉家にも侵略の手を向けます。

圧倒的な武力を持つ織田軍の侵攻に、上杉家は苦しい戦いを強いられます。追い詰められ、万事休すに思われたその時、天下は突如揺るがされる事となります。

明智光秀謀反による、信長の死。

 

狼狽を隠せない織田軍は潮が引くように撤退し、上杉家はあと一歩のところで幸運にも難を逃れる事ができました。

さらに、光秀を討ち果たしたのは大方の予想に反して羽柴秀吉織田家の筆頭家老であった柴田勝家を差し置いて、天下は秀吉の手中へと転がり込みます。

 

目の前で二転三転する天下の情勢の最中、兼続は上杉家の存続へ向けて思案し続けます。そこへ対比するように描かれるのが、真田昌幸をはじめとする真田家。周囲を北条や武田、徳川に囲まれた小国真田家は生き残るために、風見鶏のように主君を変えてきた御家柄。義を重んじる上杉家とは対照的な存在です。

そんな真田家は、徳川から軽んじた扱いを受ける事に耐え兼ね、対抗策として上杉家との同盟を企てます。しかし、義を重んじる上杉が真田を信用するはずがない。そうとしった昌幸は、息子である幸村を人質として上杉家に差し出す事で、同盟を成立させるのです。

そんな幸村を手厚く遇する上杉家の“義”を、幸村自身も感化されていきます。

 

もうおわかりでしょうが……幸村がここで学んだ“義”こそが、豊臣家の家臣として最後まで戦い抜いた幸村の“義”に繋がっていくわけです。

 

理想論者から現実主義者への転換

ここからは大きく割愛しますが、“義”を掲げていたはずの上杉景勝も、自ら越後までやってくる秀吉の人たらしによって丸め込まれ、大阪城へ参謁、豊臣家に臣下の礼をとる事となります。

しかし秀吉が死に、家康と豊臣家への間に不穏が空気が流れはじめると、再び戦乱の世に。

上杉家は家康に対して断固として抵抗し、豊臣家への義を貫く姿勢を表明。兼続は秀吉亡き後、豊臣家の実務を掌握する石田三成と親交を深め、ともに徳川を討とうと企てます。

 

そんな上杉家に対し、家康は討伐の兵を向けます。ところが、上杉に目が向いた隙を見て石田三成が動いたことから、事態は急変。対上杉のために集められた軍勢は一転して西へと向けられます。

上杉と徳川との戦が始まった後、呼応して決起するはずであった三成の動きに「早すぎる!」と嘆く兼続でしたが、持ち前の機転を利かせ、今こそ好機であると景勝に進言。

今徳川の背後を突けば、徳川は西と東に大きく戦力を割く事となり、家康を仕留める絶交の機会となり得るというのです。

ところが景勝は首を縦に振りません。

退却する敵の背後に矢弾を撃ちかけるのは、義に背くというのです。

これまで阿吽の呼吸を見せていた主従はここで初めて意見の相違を見せ、兼続は忸怩たる思いで景勝の意に従います。

 

結果、徳川軍と豊臣軍とは関ヶ原に相まみえ、僅か一日にして西軍は惨敗。

石田三成を下した徳川家康は天下を手中に収めます。

混乱のさ中、福島において伊達軍を撃退した上杉軍は、このまま上方へ上って徳川を討とうと俄かに活気づきますが、景勝は家臣たちを諌めます。もはや天下が決したとして、徳川に和議という名の恭順を申し出るのです。

最後まで徳川に反旗を掲げた上杉家は当然の如く減封。会津から米沢へと再び異封を余儀なくされるのです。とはいえ、兼続の奔走もありお家断絶は免れ、ぎりぎり家臣も養える三十万石を確保する差配ぶり。

 

以後、上杉家は徳川家に従い、大阪冬の陣・夏の陣においても徳川の武将として大阪城の攻め手に加わります。

一方で、真田幸村らは豊臣への忠義を貫くべく、冬の陣においては真田丸にて奮戦し、敗北の決していた夏の陣において華々しく討ち死にを遂げます。

 

本書において、夏の陣の直前に幸村と兼続とが人知れず邂逅を果たします。

“愛”を掲げる兼続に対し、幸村がその意を問うというもの。

 

「それは、民を深く憐れむ心。すなわち仁愛だ」

 

兜の前立てにまで“愛”を掲げた戦国武将として直江兼続は知られていますが、その昔、上杉謙信から受け継いだ“義”はある意味理想論のようなもの。日々刻々と変わる戦国の世の中で、直江兼続は“義”ではなく“愛”を第一に貫くことで上杉家を存続させる事に成功しました。

“義”と“愛”とは、ある意味では理想と現実のようなものなのかもしれません。

誰しもが若い内には夢や希望といった理想に向かって生きようと志しますが、歳を負うに従い、目の前の現実に沿った生活へと変化していくものです。

直江兼続の生き様も、まさにそれと同じなのではないでしょうか。

 

織田信長の家臣であったはずの秀吉に下り、家康に就き従い、それでも上杉家を存続させようとした兼続は、“義”を捨て“愛”に生きた、理想論よりも現実論を取ったと言えるでしょう。

 

 

直江兼続に人気がない理由

しかし直江兼続という武将、大河ドラマが始まるまでは知らないという人も多かったと思います。

かくいう僕もそのうちの一人です。

 

仮に真田幸村と比べてしまえば、圧倒的に幸村の方がファンが多く、書籍や映像、演劇といった創作物への展開も多いでしょう。

世の中には判官びいきという言葉がありますから、戦国の世をうまく渡りきった直江兼続よりは、戦国武将として華々しく散った幸村に人気が集まるのは仕方のないところです。

 

しかしながら、比較対象として伊達政宗はどうでしょう?

米沢・仙台と同じ東北の武将であり、いずれも信長・秀吉・家康といった三傑に反目しながら天下を夢見、最終的には彼らの軍門に下ったという似たような境遇にありながら、傾奇者として名をはせた政宗に対し、兼続には地味なイメージがあります。

というものやはり、最初から功利に聡い存在として周辺各国の侵略に精を出し、時には恥を忍んで頭を下げ、と自らをさらけ出して戦国に向き合った政宗には裏表のある狐狸のような印象を持ちつつも、実に人間味臭い魅力があります。政宗は最初から利用できるものはなんでも利用してやろうという狡猾さがあふれ出ています。

それにに対し、“義”という理想論を掲げたにも関わらず最終的になし崩しに軍門に下ってしまう上杉家の変心ぶりは、真面目一徹な人間が汚職を犯したような不快感が伴ってしまいます。不快とまでは言い過ぎかもしれませんが、「口ではうまい事言っていたけど結局みんなと一緒だよね」という幻滅。

 

幕末において、最後まで徳川家に忠義を尽くし敗れた会津藩と、有事のための親藩であるにもかかわらず早々と降伏した徳川御三家に近いものを感じます。

政治家なんかでも、特に何事もなく任期を満了して引退した人間よりも汚職や権力闘争に関わった人間の方が後世にもてはやされたりしてますし、「成功」と「後の世の扱い」は必ずしもイコールではない、といったところでしょうか。

 

前に青葉城跡にも行ったし、今度は米沢神社にでも行ってみようかな。

あ、ゴールデンウィーク中は除きます。

ゴールデンウィークはせいぜい山登りに行くぐらいかなぁ。

 

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#天地人 #火坂雅志 読了#nhk大河ドラマ 原作。大河化されたのは今から10年前なんですねー。僕は見たことがないし直江兼続についてもほとんど知らないままの読書でしたが、なかなか楽しめました。とはいえ当初は上杉謙信から教わった「義」を唱えていたはずの兼続や景勝が時代の流れとはいえ、結局は秀吉に折れ、家康に下りと現実路線でお家の存続に奔走する様はちょっとがっかりかな。最終的には上杉家の捕虜時代に「義」を学んだ真田幸村が一番「義」を貫いて討死するという。そりゃ幸村人気出るわ。兼続歴史に埋もれるわ。という感想。基本的には謙信以後の上杉家没落の物語なんだよなぁと改めて認識しました。#本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。

『少女病』田山花袋

こみ合った電車の中の美しい娘、これほどかれに趣味深くうれしく感ぜられるものはない

花袋です。

今回読んだ『少女病』は代表作『蒲団』と並び、田山花袋の“変態”を大いに確立した作品の一つ。

 

こんなものが青空文庫なら無料で読めちゃうんだからすごいですよね。

分量的にも少し長めの短編というところで、サクッと読み終えてしまえます。

 

できる事なら、毎日揺られる通勤電車の中ででも読んで欲しい作品です。

 

どんな変態?

『蒲団』では自分に憧れてやってきた女弟子に恋心を抱き(妻子ある身←)、大作家に対する尊敬と男女の愛情とを自分に都合よく解釈して勝手に盛り上がった後、女弟子に彼氏がいるとわかっては国元の親まで呼びつけて糾弾・破門・追放した挙げ句、女弟子が使っていた蒲団の匂いを嗅いでもだえ苦しむというどうしようもなく醜い中年男性の姿が描かれていました。

『蒲団』はとにかく読んでいて最初から最後まで主人公である作家(花袋自身の投影と言われる)の気持ち悪さがにじみ出る変態本でした。

 

さて、本書ではどうか。

 

主人公の杉田古城は出版社に勤めるサラリーマン。自らも筆を取る作家の端くれだったりもします。

 

年のころ三十七、八、猫背で、獅子鼻で、反歯で、色が浅黒くッって、頬髯が煩さそうに顔の反面を蔽って、ちょっと見ると恐ろしい容貌、若い女などは昼間であっても気味悪く思うほど

 

という、見た目はいわゆる“キモいおじさん”そのものです。

この主人公もまた、『蒲団』の主人公同様、結婚して家庭を持つ立場にあります。

 

しかし彼の趣味というのが、冒頭に引用したような少女観察

主に通勤電車の中で遭遇する女学生たちに目を走らせては、ああでもないこうでもないと批評眼を働かせるのです。その内容というのが、下記のようなもの。

 

縮緬のすらりとした膝のあたりから、華奢な藤色の裾、白足袋をつまだてた三枚襲の雪駄、ことに色の白い襟首から、あのむっちりと胸が高くなっているあたりが美しい乳房だと思うと、総身が搔きむしられるような気がする。

 

はい、変態決定!

だいぶヤバいですよね。

読んでいて寒気がします。

 

何がヤバいってこの主人公の場合、若い女の子を「きれいな顔してるなぁ」「笑顔の可愛らしい子だなぁ」と愛でるといった生易しいものではなく、明らかに性的な目で見ている

その上で、美しい少女たちが、妻子がいて魅力も損なわれてしまった自分のものになる事はもう絶対にないと絶望したりもします。そもそもの外見描写を見る限り、例え若かったとしてもこの男のものにはなりそうもない気がしますが。

 

そんな彼にも、ただ一人、特に心に残る少女がいます。以前一度だけ電車で乗り合わせた少女で、そのあまりの美しさにもう一度会いたいと願いますが、どうしてかその少女を再び見る機会はありません。

ある日のこと、ついに少女を発見します。夢中になって少女を観察する杉田古城でしたが、あまりにも没頭するあまりに気が緩み、そこにアクシデントも重なって……物語の最後は、非常にあっけない幕切れを遂げてしまいます。

 

 

今もいる、よね

『蒲団』にも負けず劣らず、本書の主人公である杉田古城は最初から最後まで変態度MAX、不快感全快の気持ち悪さを感じさせてくれるのですが、でも、ふと改めて思い返してみると、杉田古城のような人物、現代においてもごくごく日常的に見られるような気がします。

電車やバスの車内で、道端で、たまたま通りがかった少女たちをなんとも言えぬいやらしい視線で追いかけるおっさん。そのおっさんの視線に気づき、「ねえ、あの人……」とひそひそ耳打ちしあう別の女性グループ。

 

一応弁解しておくと、男たるもの、見目麗しい女性がいればつい目で追ってしまうのは仕方のない事です(断言)。男性だけではなく、女性にも同じような傾向は見られますよね。対象が異性に限らず、物にせよ事にせよ気になれば目で追う。当たり前の事です。

でも、なんですかねぇ。あの、他人から見てもわかるいやらしい目つき。絶対いやらしい事想像してるなぁ、ってわかっちゃう表情。あれって、本書に登場する杉田古城のような妄想を膨らませているんでしょうね。

繰り返しになりますが、大なり小なり、誰しも身に覚えのある事だとは思うんですけどね。

 

そういう醜さを包み隠さず文章化してしまうところこそが、田山花袋の凄さであり、人気の要因だと思うんですが。

 

青空文庫・古典文学の入門書として

前回の『田舎教師』に続き田山花袋の『少女病』をご紹介しましたが、花袋は普段本に読みなれない人にもぜひおすすめしたい作家のひとりです。

よく「本を読む」と志した若者がいきなり夏目漱石太宰治に手を出してあっけなく撃沈、というエピソードを聞きますが、そういう人にも勧めたいですね。漱石や太宰に手を出すぐらいなら、花袋を読め、と。

 

また、今は青空文庫で気軽に古典名作を楽しめるようになりましたが、こちらもやはり無料に惹かれて手を出してみたにも関わらず、『こころ』や『人間失格』を数ページ読んで「やっぱり古典は合わない」と投げ出す人が多いようです。

正直、漱石とか太宰とかって、今の若者が読んで共感できるものだとは思えないんですよねー。やたらと死にたがる感じとか。書生とかいう意識高いニートの心情とか。

その点、好きな女の匂いの残る蒲団でもだえるとか、同じ電車に乗り合わせた女子高生に萌えるとか、そういう他人の様子を見て気持ち悪く感じるとかって、現代でも非常にわかりやすいテーマだと感じます。

 

現代社会だとスマホは基本的に常に持っていますし、日常生活の中で隙間時間というのもたっぷりあるので、Kindleに青空の無料本を突っ込んでおくっていうのは結構有意な気がします。

空き時間にスマホでやるSNS、ゲーム、ニュースサイトの閲覧、まとめサイトの閲覧に加えて、青空文庫で読書ってどうでしょう?

実本での読書が好きという人も、TPOによってはいちいち本を持っていってられない、本を開きにくいという場面も少なくないかと思いますが、スマホなら常に持っているし、本が開きにくいような場面でも普通に読めたりしますし。本が読めるところでは実本、読めない場面では電子と使い分け、併読するのも悪くないですよ。

 

田山花袋の他、芥川龍之介なんかもなかなか面白い短編がそろっていておすすめです。絵本でも読むような気分で読む事ができます。『鼻』や『芋粥』、『地獄変』の他、個人的には『蜜柑』も好きです。

梶井基次郎の『檸檬』はラストシーンにおいて、沢山の本の中にポツンと置かれる爆弾に見立てた檸檬の色彩の鮮やかさが有名ですが、それに似たような鮮やかな情景を、宙を舞う蜜柑に感じる事ができます。さらに言えば、『檸檬』は檸檬爆弾を置くに至った主人公の鬱屈した感情というのが現代においてはいまいち共感しにくいんですよねえ。その点、『蜜柑』は爽やかな青春の1ページが感じられてわかりやすいと感じられるはずです。

 

とはいえ、僕自身としては青空もちょっと打ち止めかなぁ、と。

短編だとあっさりしすぎてちょっと物足りなく感じるようになってきてしまいました。

黒死館殺人事件』や『ドグラ・マグラ』に手を出そうかと思わなくもないのですが、それだとちょっと重すぎるし。『真珠夫人』も気になるけど、やっぱりちょっと重いかな。最近ご無沙汰気味の実本の方に注力してみようかと思ってます。

 

今は歴史小説読んでるんですけどね。

そちらももうすぐ読み終えるかと思いますので、次の記事はそちらになろうかと思います。

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#少女病 #田山花袋 読了満員電車の中で乗り合わせた女学生を観察しながらエロい妄想を膨らませるキモいおっさんの気持ち悪い話。最初から最後まで不快感全開の代表作 #蒲団 に匹敵する変態本です。まぁでも、今もいるよねぇ。通りがかった女子高生をものすごくいやらしい視線で追いかけてるおっさんとか。その後もずっとチラチラ盗み見てたり。周囲では気づいててうわぁってひいてるけど本人は気づかないのか、気にしてないのか。それにしても今読んでも共感できる田山花袋って凄い。若い子が無理して太宰とか漱石に手を出しても途中で放り出すのは目に見えてるから、花袋から初めてみたら、とおすすめしたいものです。#本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。

 

『田舎教師』田山花袋

かれは将来の希望にのみ生きている快活な友だちと、これらの人たちとの間に横たわっている大きな溝を考えてみた。

「まごまごしていれば、自分もこうなってしまうんだ!」

大好きな田山花袋です。

いまいち読書が進まない中でも、スマホKindleアプリで細々と読み続けていたのがこちら。

実は昨年年初にも一度手をつけていた作品だったんですが、環境の変化やら何やらでばたばたしている内に中途半端になってしまっていました。

先日長い時間をかけて『私本太平記』を読み終えた後、Kindleに何も入っていないのがどうにも落ち着かなく、何かないかなと探している中でふと思い出し、改めて読み直してみる事にしました。

田山花袋と言えばとにもかくにも『蒲団』が有名です。

作家である自分にあこがれてやってきた女弟子にほれ込んでしまった上に失恋。勝手に抱いた裏切られた感と嫉妬心に燃えて追放した挙げ句、弟子が使っていた蒲団に顔をうずめてのた打ち回るという「決して人には見せられない姿」をさらけだした今読んでもとてつもないインパクトを与えてくれる作品。

 

ただ、あまりにも『蒲団』が有名過ぎて、他の作品の話題が聞こえてこないんですよねー。

その中においても、田山花袋の代表作として名高いのがこの『田舎教師』。

今回は途中で投げ出す事なく最後まで読み切りましたので、しっかりとブログに残したいと思います。

 

 

あらすじ

学校を出たばかりの文学青年林清三は、生活の為に羽生の田舎の教師として働き始めます。当時の教員は今よりもずっと位も低く、免許も「必要ならとればいい」ぐらいのものでしかありません。

 

かれは将来の希望にのみ生きている快活な友だちと、これらの人たちとの間に横たわっている大きな溝を考えてみた。

「まごまごしていれば、自分もこうなってしまうんだ!」

 

同僚・先輩である教師たちの酒飲み話を聞きながら、一方で清三は上記のように危機感を募らせます。今ある現状は、清三にとって納得できるものではないのです。

友人の父の紹介で職に就いたにも関わらず、清三は文学への情熱を捨てきれません。むしろ教員はあくまで一時的な仮の姿であって、いつかは一旗揚げてやろうという若者特有の希望に満ち溢れています。

 

度々学生時代の友人たちと集まっては、今でいう同人誌のような「行田文学」の発行に関わったりと、精力的に活動していきますが、僅か四号で廃刊となったのをきっかけに、友人たちも少しずつ離れて行ってしまいます。夢見心地な学生気分からようやく目が覚めて、各々が現実的な着地点へと半ば強制的に落ち着いていくようにも感じられます。

また、友人である郁治が「Artの君」と呼ぶ美穂子に想いを募らせている事を知ります。実は清三もまた、美穂子に対しては以前から恋心を抱いていました。親友から相談を受け、自分の心を言い出せない清三。清三の心をよそに、郁治と美穂子の恋は進展していきます。これをきっかけに、清三は郁治と距離をおくようになり、やがては故郷である行田からも疎遠になっていってしまいます。

 

文学の道がとん挫し、失恋も重なった清三は女遊びに手を出し、周囲から借金を重ねる腐敗した生活へと陥ってしまうのです。

ところが入れあげていた遊女が何も告げずに身ぬけし、志した音楽学校の試験においても失敗した清三は、突如心を入れ替え、品行方正な田舎教師へと立ち直りを見せます。貧困にあえぐ実家の両親を支えながら、教師として勉学と研究に励む清三でしたが、彼の身にはいつしか病魔が迫っており……

 

 

ここではないどこかを夢見る若者

清三の姿は、現代の若者にも通じるところが多いようです。

当時の文学者とは、現代でいうアーティストや芸能人といった意味合いに近いでしょう。

いつか名をあげて有名になってやる、という想いを抱きながら、明確に挫折するわけでもなく、フェードアウトするかのように人並みの生活に落ち着いていく人々は、今も昔も多かったわけです。

そうして夢見た世界とは大きく異なる小さな現実の中で短い一生を終えていく一人の若者の姿を、田山花袋は書きたかったのでしょうね。

 

また、友人の心に気兼ねして自身の恋をひっそりと終えてしまう無常さにも心を打たれてしまいます。実際にこうして恋を恋にする事もできずに終えてしまう人は、いったいどれだけいる事でしょう。さらに清三には決して悪いとは思えない縁談が持ち込まれたりもしますが、他人から見ればなんとも小さなこだわり、葛藤によって無下にしてしまったりもします。当時は年頃になれば縁談が飛び交うのは当然の時代であり、清三が気のないそぶりを見せている内に、相手はさっさと別の相手の元へ嫁に出されてしまったりします。なんとももったいない、残念な選択ばかりしてしまう清三青年ですが、だからこそ妙にリアリティに溢れているように感じられます。

 

物語の終盤、かつて教え子であった一人の少女が、大人の女となって清三の前へと現れます。ひそやかに手紙等をやりとりする二人ですが、やはりここにも、煮え切らないまでも確かに存在する“ラヴ”が感じられます。病により清三が去った後、彼女らしき人物が羽生の同じ学校で教鞭をとっている様子が聞かれるのが、唯一の幸いでしょうか。

 

大望を抱きながら、何も果たせずに消えて行った清三青年。でも少なくとも一人の少女の胸には、彼の教師としての姿がしっかりと刻まれていたのでしょうね。

 

 

羽生に行きたい

『蒲団』にも見らえた事ですが、田山花袋の文章は非常に写実的というか、情景描写が鮮やかに描き込まれているのが象徴的です。

あんまり細かいので引用するのも憚られますが、とりあえず一文だけ。

役場はその街道に沿った一かたまりの人家のうちにはなかった。人家がつきると、昔の城址でもあったかと思われるような土手と濠とがあって、土手には笹や草が一面に繁り、濠には汚ない錆びた水が樫や椎の大木の影をおびて、さらに暗い寒い色をしていた。その濠に沿って曲がって一町ほど行った所が役場だと清三は教えられた。かれはここで車代を二十銭払って、車を捨てた。笹藪のかたわらに、茅葺の家が一軒、古びた大和障子にお料理そば切うどん小川屋と書いてあるのがふと眼にとまった。家のまわりは畑で、麦の青い上には雲雀がいい声で低くさえずっていた。

丁寧というか細かいというか。

とにかく一つのシーンを描くのに、目に映ったもの、起こった事を全て書いているという印象です。このため、読んでいて頭に浮かぶ映像が非常に明瞭となります。清三の過ごした当時の羽生の街並みや生活の様子等が、ありありと想像できるようです。

 

『蒲団』のイメージから私小説の印象がぬぐえない田山花袋ですが、本書については別のモデルが存在するというのも興味深いところ。

主人公・林清三のモデルは小林秀三という青年であったと言われています。若くしてこの世を去った小林青年の日記に目を留めた田山花袋が、小説として昇華したものです。田山花袋自身は、作中で原杏花という人物として登場しています。清三の住んでいた成願寺も、建福寺という名で今も実在し、小林青年の墓も残ってるそうです。その他、弥勒小学校の跡を示す石碑や作中に登場する小川屋の資料館等があり、羽生では町おこしとしてPRも行っているようです。


花袋麺や花袋せんべい、田舎教師最中といったお土産まであるとなると、一度行ってみたくまってしまいますね。

埼玉って正直言うとあんまり観光のイメージないんですけどね。秩父の方ばかりで。

でも羽生なら東北自動車道沿いですし、結構気軽に行けちゃいそうですよね。

 

ちなみに『田舎教師』を書くに至った経緯については、田山花袋自身が『『田舎教師』について』という随筆(エッセイ?)を残しており、こちらも青空文庫Kindleで読む事ができます。

 

 

変態・田山花袋

さて、『田舎教師』を読み終えたとなると気になるのがKindle枠の空き。

吉川英治の『新・平家物語』がインストールされたまま放置されていたりするんですけどね。こちらは取り掛かるには覚悟が必要なので今しばらくおいておくとして。

 

やっぱり花袋を読むと、次も花袋にしたくなりますね。

青空文庫って今現在も大量の作品が作業中とされているものだから、ふと気づくと新しい作品がアップされていたりします。

そんな中で次に読むとすれば……やっぱり田山花袋らしい変態作品が良いですよね。

 

一体どの作品を選んだかは、記事にするまでお楽しみに。

 

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#田舎教師 #田山花袋 読了#蒲団 のせいで変態のイメージの強い田山花袋ですが、こちらは実在した青年の日記を元にした作品だけに、変態色は薄め←花袋らしい緻密な情景描写と、今の若者にも通じる「ここではないどこかを夢見る青臭さ」が非常に瑞々しく感じられました。今の自分を仮の姿だと思いたい現実逃避。受け入れたくない目の前に広がる未来像。もうホントみんなもっと花袋読んでよ。読もうよ。とりあえず蒲団から。#本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。