おすすめ読書・書評・感想・ブックレビューブログ

年間100冊前後の読書を楽しんでいます。推理小説・恋愛小説・歴史小説・ビジネス書・ラノベなんでもあり。

『三月の招待状』角田光代

「でも、なんか、あんたもあんんたの友だちも、なんかどっか、体の一部そこから出ていかないようなとこ、あんじゃん。そういうのがおれは全然ないってこと。戻りたくもないし、だいたいガッコいるときから、卒業してえってそればっかだったから」

今回読んだのは『三月の招待状』。

2017年1月に読んだ『庭の桜、隣の犬』以来の角田光代作品となりました。

僕は『八日目の蝉』を読んでいたく感動して以来、大の角田光代ファンになりました。

『八日目の蝉』は原作も、映像化された映画も素晴らしいという稀に見る作品になったと思います。

原作にはなかった“後編”とも呼べそうな場面も映画版には追加されていて、それがまた原作のクオリティや世界観を保ったまま作り込まれた秀逸な出来。小説も映画もまだという方には、ぜひ両方合わせてオススメしたい作品です。

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その後『空中庭園』や第132回直木三十五賞を受賞した『対岸の彼女』、『紙の月』などの作品も読み、どれも角田光代ならではの女性目線な作風が好ましくはあるのですが、いかんせん『八日目の蝉』を超える程のインパクトには至らず。

 

なのでちょっとご無沙汰になっていた作家さんです。

 

 

大学から15年続く5人の男女の関係

物語は一組の夫婦の離婚式という風変わりなイベントから始まります。

結婚前から繰り返される正道の浮気癖に裕美子が愛想を尽かす形で、15年以上続いた二人の関係は破たんする事になりました。

招かれたのは主に大学時代からの友人で、売れっ子の毒舌ライター充留と専業主婦の麻子、学生時代に人気を集めていた宇田男たち。

同級生の彼ら5人を中心に、離婚式を起点とする約1年間を、それぞれ視点を変えながら綴った連作短編ともいえる内容です。

 

ところが読み進める内に、彼らにはそれぞれどこか人とは変わった部分がある事に気づかされます。

充留は購入したマンションのローンを繰り上げ返済するなど、一見するとライターとして成功しているようです。しかしながら居酒屋でたまたま出会ったという同棲相手の重春は毎日仕事もせずにゲーム三昧、充留のために料理をするも作るのは毎回パスタ、というポンコツぶり。

麻子も専業主婦として平々凡々と暮らしているように見えますが、離婚式の日に再会した宇田男から口説かれたのをきっかけに、変貌してしまいます。元来生真面目で面白みのない日陰者としての人生を送ってきた彼女は、自らが主役となるようなドラマティックな生活を夢見るようになるのです。

正道と別れた裕美子は職場の後輩の誘いからこれまで経験のなかった合コン三昧。出会いと経験の新鮮さに浮かれますが、新しく関係を築く事に躊躇を覚えます。加えて裕美子はお手伝い程度のアルバイトしかしておらず、裕福な実家からの資金援助に依存した生活を送っている事も明らかになります。

裕美子と別れ、晴れて独身生活へと転身したはずの正道は、別れたきっかけにもなった元愛人遥香の主婦を思わせる献身ぶりに戸惑います。裕美子を失い、遥香とともに手に入れたはずの“何か”が自分の思っていたものとは違っていた。その“何か”に気づいた時、正道は愕然とするのです。

一方、宇田男は視点となる事はなく、あくまで充留や麻子の視点から描かれる事になるのですが、そこから浮かび上がるのは大学時代に小説家としてデビューし、脚光を浴びた過去の栄光にすがり続ける堕落した男でしかありません。

 

彼らがすがり続けるもの

物語を読み進めるうちに、漠然とですが彼らの共通点に気づかされます。

それは「大学時代の関係」をずっと引きずり続けているという事。

裕美子と正道は当時から浮気と喧嘩を繰り返し、その度に周囲が宥めたり、仲裁したりといわばトラブルメーカーのような立ち位置にあったようです。どこにでもいましたよねー、こういうカップル。

新進気鋭の小説家として絶頂期の宇田男がいて、彼に憧れる充留がいて、そんな彼らに安心感を求めてついていく日陰者の麻子がいた。

意味もなく集まっては寝食をともにし、どうでも良い事も重要な事も一緒くたにごちゃ混ぜになりながら飛び交うような15年前の自分たち。

彼らは今を必死に生きているようでいて、その実、15年前と同じ幻想を求め続けているのです。

 

そんな彼らを指して、充留の恋人である重春は冒頭の引用のように、理解できない価値観と断じます。

「でも、なんか、あんたもあんんたの友だちも、なんかどっか、体の一部そこから出ていかないようなとこ、あんじゃん。そういうのがおれは全然ないってこと。戻りたくもないし、だいたいガッコいるときから、卒業してえってそればっかだったから」

麻子の失踪を心配して集まったはずの彼らが当然のごとくテーブルに料理とアルコールを広げる光景を見て、正道の新しい恋人である遥香もまた、似たような反応を示します。

なんていうか、この人たち、すっかりおばさんなんだわ。

彼らの“ノリ”についていけない遥香はしかし、部外者として他の4人と麻美との違いについても的確に把握する冷静さを見せたりもします。

わかるわけがない、と遥香は思う。自分と、自分を取り巻く関係に、なんの隙間もなくぴったり寄り添っている人に、そうできない人もいるということがわかるはずはない。この人たちはきっと、元クラスメイトがいなくなった理由をけっしてわからないだろう。もし彼女が見つかって、その理由を逐一説明したとしても。

昔の関係を保ち、昔もままの形を続けようとする彼らの無邪気さが、残酷なほどに排他的な性質を兼ね備えたものだという事が、明らかに異質な存在である麻子がそれでも彼らにくっついていようとする愚かさと合わせて、重春と遥香という二人の年下の恋人たちのフィルターを通してくっかりと浮かび上がってくるのです。

 

ライナスの毛布

急に話は変わりますが、僕のInstagramのアカウント名はLinusと言います。

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大塚英志が長年続けてきた魍魎戦記MADARAシリーズに終止符を打つ形で発表した『僕は天使の羽根を踏まない』のあとがきに書かれていた「ライナスの毛布」という心理学用語からつけました。

ライナスの毛布」とは「安心毛布」や「ブランケット症候群」ともいい、スヌーピーの漫画に登場するライナスという男の子が、肌身離さず毛布を持ち歩いている事から、何かに執着する事で安心感を得ている状態を指すそうです。

 

ここまで書けばおわかりかと思いますが、『三月の招待状』に書かれた5人の男女(正確には麻子を除いた4人)が大学時代の関係に執着している様子は、まさに「ライナスの毛布」の状態を表していると思います。

 

ただこれって、補足しておくと誰しもに覚えのある現象なはずなんです。だからこそ心理学用語として定着しているわけですし、「常に毛布が側にあることで安心感を得る幼児」というライナスの様子は非常にわかりやすい例ですよね。

ただ、基本的には子どもじみた行動原理であって、自制心を持った大人が左右されるようなものではない。

 

つまり「ライナスの毛布」という状態は「何かに執着しなければ満たされる事のできない未成熟な状態」として、嘲られるべきものとされていたりするのです(一般倫理的には)。

もう少しわかりやすく言うと「お気に入りのぬいぐるみ抱きしめて安心するー」、なんていうのは幼児退行現象であり人知れずこっそりやるべきもの、という感覚ですよね。

 

だからいつまでも昔の趣味を大事に続けているおじさんが、うわっと嫌悪感を示されたりするわけです。「いい歳して……」というのがよくある枕詞ですよね。「いい歳してゲーム」、「いい歳してギター」、「いい歳してバイク」……その他。

これもだいぶ昨今の世の中では見方も変わってきた気はしますが。趣味はないよりある方が絶対的に良いですからねー。

 

……だいぶ脱線しましたが、話を元に戻すと、つまるところ「大学時代の関係に執着し続ける彼らの様子」というのは外部から見ると非常に子どもじみたものに映ってしまったったりするのです。そんな外部の視線に気づかない鈍感さ、マイペースさは逆に「おばさん」的に見られたりもします。

そういった醜い大人たちを遥香や重治といった年下の子たちのフィルターを通して浮かび上がらせる、というのが本書の非常によくできたところ。

充留たちはちょっと現実離れしているように思えますが、一方で身の回りにたくさんいそうな気もしてくる。一言で言ってしまえば、いつまでも青春から離れられないリア充中年。そういういそうでいなさそうな絶妙なラインを切り取って作品にしてしまうのが角田光代らしいところです。読む手が止まらなくなるような面白さとはまた違いますが、興味があれば手に取って欲しいですね。

 

……で、もう一度「ライナスの毛布」。

僕にとっての「ライナスの毛布」というのが、実のところ読書だったりするわけです。

常に本が側にないと、未読の本が本棚にストックされていないと安心できないという執着対象。

 

他者から見れば子どもじみてると思われてたりするんですかねー?

 

尚、前述した大塚英志の『僕は天使の羽根を踏まない』は、擦り切れるほどに続編や派生作品が描かれ、肥大しまくった挙句完結する事のない魍魎戦記MADARAシリーズの続編・完結を求める声に対する一つの答えとして提示された作品です。

MADARAに執着し続ける読者や関係者に対し、いつまでも「ライナスの毛布」に執着してんじゃねーよ、というかなり強烈なアンチテーゼだったわけですが。

我々読者としてもどんなに思い入れの深い作品だったとしても、安易に続編を求めるべきではないのかもしれませんね。

そういえば『ぼくらの七日間戦争』アニメ化のニュースを見ました。

thetv.jp

見たいような見たくないような……。

昨今の風潮を見るにつけ、原作改変は不可避ですし。

僕の中で七日間戦争は宮沢りえであり「Sevendays war」を大事にし続けたいなぁと思います。

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#三月の招待状 #角田光代 読了一組の夫婦の離婚式をきっかけに集まる5人の大学時代からの友人たち。それぞれが必死に今と未来を生きているようでいで、15年前の関係や形に執着し続ける大人になりきれない大人たちを、年下の恋人たちのフィルターを通して浮かび上がらせるという角田光代らしい物語。こういう人たちって現実離れしているように思える一方、身近に溢れているようにも思える絶妙なバランス感覚。没頭して読み続けるような面白さとはまた違った面白さ。やはり角田光代は素晴らしいと再確認。#本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。

『蛇行する川のほとり』恩田陸

ひとつの寓話を聞かせよう。

今はもうない、あの蛇行する川のほとりでの少女たちの日々。

誰も知らないある物語を、

今、あなただけに。

恩田陸本『蛇行する川のほとり』です。

蜜蜂と遠雷』が第156回直木三十五賞 及び 第14回本屋大賞に輝いたのも2017年(平成29年)。あれからだいぶ月日が流れた気がしますね。

当時恩田陸で僕が読んだ事のあったのは『六番目の小夜子』と『夜のピクニック』のみ。

六番目の小夜子』の印象があまり良くなくて恩田陸作品はちょっと敬遠気味だったのですが、『夜のピクニック』で大きく評価を覆し、『蜜蜂と遠雷』で完全に引っくり返った、という経緯を持ちます。

以降、『ドミノ』『チョコレートコスモス』『ネバーランド』『光の帝国』と読み、今回が『蛇行する川のほとり』。すっかりファンの一員と言ってようかもしれません。

正直なところ、やはり作品によって当たりハズレ、完成度に大きく差があるのは否めないのですが。。。

詳しいところは下記より過去のブログをご参照ください。

 


 

少女マンガ的世界観

第一部ハルジョオンの主人公は毬子。

高校一年生の毬子は、中学校時代から演劇部の大道具係として活躍していた縁から、美術部の先輩である香澄・芳野の二人から一緒に演劇部の背景を描こうと誘われます。

夏休みに入り、訪れた香澄の家は蔦の絡まる煉瓦塀に囲まれた洋館。

両親も出かけて不在となる中、毬子・香澄・芳野の三人に、さらに香澄の従兄弟である月彦や暁臣も加わり、5人の男女による合宿生活が始まります。

 

この主人公の毬子というのが、(一昔前の)少女マンガの主人公としてよく登場するいわゆる「平民出のお嬢様」というタイプ。おしとやかで純粋でどこかか弱い雰囲気のする女の子です。

一方香澄と芳野は根っからの「お嬢様」タイプ。洋館の庭でお茶会をするのが似合う二人組、という感じ。

暁臣は顔は女の子みたいに綺麗で人懐っこく、明るい反面どこか影のあるような男の子。

月彦は常に斜に構えていて毬子の言うところの「なんだかごつごつしてて、おっかなくて、いきなり変な方向からゴツンとぶつかってくる」という暁臣とは対照的に男っぽさを前面に押し出したタイプ。

 

そんなわけで夏休みに男女五人での共同生活……と言っても好いた惚れたの恋愛感情が軸となる事はなく、(一昔前の)お嬢様・お坊ちゃまたちのあくまで爽やかな青春が描かれていきます。

 

ところが香澄をはじめ、集まった四人には何やらモヤモヤした歯切れの悪さが感じられます。

月彦は毬子に対し「帰ったほうが良い」と忠告し、やがて訪れた夜、その昔、香澄の母親はボートの中で遺体となって発見されたと知らされます。同じ日に、暁臣の姉も転落事故で亡くなった、と。

 

戸惑う毬子に、暁臣は「毬子さんが、僕の姉貴を殺した」と告げます。

 

主人公の変わる三部構成

第二部ケンタウロスでは視点が芳野に変ります。

芳野は自らも過去を知る者でありながら、他の三人が何をどこまで知った上で、一体何をしようとしているのか探ります。

 

さらに物語が急展開を迎える第三部サラバンドでは、毬子の親友である真魚子が外部の人間として、彼らの間に起った出来事に対峙します。

 

とまぁ、本書は描き下ろしの三部作として元々計画されていたそうで、視点が変わる度にそれまでの視点では知る事の出来なかった真実や思惑が明かされていくのが一つの醍醐味だったりもするのですが。

ただやっぱり残念ですね。

第一部の最後、身に覚えのない殺人を告げられた瞬間で毬子の視点からは外れてしまうので、その後の毬子がおざなりになってしまうのです。

 

そこまでは綾辻行人の『囁き』シリーズを読んでいるようで、もやっとした霧のような謎に包まれ、翻弄されていく儚い少女の雰囲気が非常に良い感じだったんですが。

第二部に入り、視点が芳野に移ってからは、芳野自身が何をどこまで知っているのか読者にはわかりませんし、そんな彼女がけん制し合うように他のメンバーと相対していく様はどうにも感情移入しにくいものでした。

 

それに加えて第二部のラスト……僕、あんまりこういうの好きじゃないんですよね。

 

第三部に入り、真魚子が主人公に移ったのは驚きでしたが、どうにも第二部のラストが引っかかってしまい。。。

そこから真魚子が真実を掴んでいくわけですが、それぞれが隠していた秘密だったり、秘密にしていた理由だったりが非常にあいまいで、到底理解できるようなものでもなく。

 

はっきり言って、尻すぼみです。

 

 

腐女子向け・百合

基本的に本書には恩田陸の悪い所が出ていると思います。

いわゆる“腐女子向け”というやつです。

 

(一昔前の)少女マンガ的世界観といいキャラクターといい、そもそもがそれそのものでしかないんですけど。

登場人物にはどうやらイケメンらしい男子が二人登場するにも関わらず、彼らの心情はどちらかというと女同士で揺れ動くもののようです。

渡しは、暫くじっと彼女の部屋の雰囲気を味わっていた。

彼女はここで勉強し、ここで本を読み、ここで眠っている。

そう考えると、彼女のオーラが満ちているような気がして、落ち着かなかった。

ぬいぐるみの類は一切見当たらない。ベッドカバーやカーテンを見ても、花柄や、動物など、具体的な模様もない。色彩を最小限に抑えた、シンプルな部屋だ。

ここがあの人の部屋なのだ。私は感動に似た興奮を覚えた。

 

はい、確定―

 

いわゆる“百合”ってやつですね。

“百合風味”ってとこでしょうか。

 

そんなわけで本書はたぶん、そもそもがこの(一昔前の)少女マンガ的キャラクターや舞台設定ありきで作られた物語なんじゃないかという感じがしてしまいます。「美少女達の幼少期の秘密」という王道のネタもまさにそのもの。

ミステリ的な要素はありますが、基本的に雰囲気重視なので謎の整合性や精度は二の次三の次、という感じです。

 

とはいえ以前読んだ『ネバーランド』によく似た物語ではあります。

あちらは男の子たちを主人公にしていますが、「子どもたちだけ」で「限られた期間」の「共同生活」に「秘密」を軸としているという点では、ほぼ同じ種類の作品と言えるでしょう。

腐女子風味なのも一緒です。

 

あちらの方が謎の提示やその後の展開に一貫性があって、最終的に回収されない伏線が点在されていたとしても、それなりに面白く読めてしまいます。

ほぼ同じ時期に発表された作品なんですけどねー。

やはり本書の場合、章ごとに視点を変えたのも完成度を大きく下げた一因でしょう。

毬子視点のまま最後まで貫いていたら、大きく様ざわりしていたかもしれません。

 

恩田陸の場合、特に初期作品は当たりハズレもありますからねー。

 

これはこれ、という事で。

 

で、それはそうと『蜜蜂と遠雷』の映画は10月でしたか。

松岡茉優森崎ウィンとなると、大好きな役者さんたちなので公開が待ち遠しいです。


もうすぐ平山夢明原作の『ダイナー』も公開されるし。

監督蜷川実花は想像以上にカラフルでアーティスティックな映像になりそうですね。

下期は面白そうな映画がいっぱいで待ち遠しい。

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#蛇行する川のほとり #恩田陸 読了蔦で覆われた洋館。儚げな女の子。いつも一緒の姉妹のような二人。女の子みたいに綺麗で人懐っこい男の子。子供の頃の誰も知らない秘密。そんな(一昔前の)少女漫画的舞台装置の物語。良くも悪くも雰囲気を楽しむ小説だったかなぁ。恩田陸作品としては #ネバーランド によく似たものを感じます。多くは語らず。恩田陸の初期作品は当たり外れも多いしね〜← #本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。

『リカーシブル』米澤穂信

だからこの奇妙な町に着いたとき、サトルが何かを思い出したのか、それとも何も思い出さなかったのか、わたしは知らない。

 

ふぅ。。。

 

久しぶりの連続更新。

つまり、一日で一気読みしてしまいました。

 

読んだのは<古典部>シリーズや<小市民>シリーズでお馴染み米沢穂信の『リカーシブル』。

上記シリーズ作品や映画化もされた『インシテミル』は有名ですが、正直なところ、本書は存在すら知りませんでした。

 

話は幾分逸れますが、『インシテミル』は十年以上冷め切っていた僕の推理小説熱を再び蘇らせるターニングポイントとなった作品でもあり、個人的には非常に愛着の強い作品です。

そして誰もいなくなった』のような海外ものの本格推理小説や『十角館の殺人』のような国内の新本格推理の数々をオマージュ・パロディ化したようなエッセンスの数々は推理小説好き(マニア?)にとっては堪らないものでした。

登場人物も昨今のラノベや漫画に触発されたかのような個性派ばかりで、特に関水美夜は『another』の見崎鳴と並ぶミステリ界のヒロインと勝手に絶賛しています。

そういう意味では、映像化によって原作ガン無視・原作レイプに加えて関水美夜を台無しにしてしまったホリプロへの恨みは墓場まで抱える所存ですが。

 

まー当然の事ながら類似したキャラ造形である<小市民>シリーズの小山内さんにも萌えまくっていたりするわけです←

一方で<古典部>シリーズに関してはちょっとあまりフィットしなかったりもするのですが。。。

 

そんなわけで当ブログには『クドリャフカの順番』しか米澤作品は書いていないのですが、つまるところ個人的に米澤穂信は大変好みの作家の一人だったりします。

今回たまたま見つけた『リカーシブル』。

賛否両論渦巻く『ボトルネック』以来の単発長編作品のご紹介です。

 

綾辻行人スティーブン・キング

主人公はハルカ。中学一年生の女の子です。

実の父親は金に関わる大事件を起こして失踪。血のつながりのない母と弟サトルとともに、母の故郷へと逃げるようにやってきました。

慣れない土地での生活と、人見知りで内向的な性格のサトルに嫌悪感を露わにするハルカですが、初めて訪れたはずの場所でサトルは「見た事がある」と度々既視感を訴えます。

はじめは一笑に伏すハルカでしたが、やがてサトルの既視感は現実化し、未来予知の様相を呈します。

さらにサトルは、この町で起こった過去の出来事すらも口にするように。

 

サトルの言動を怪しむハルカは、この町に“タマナヒメ”という伝説がある事を知ります。

“タマナヒメ”は過去と未来を見通す力を持つとされ、まるでサトルの様子と酷似しています。

独自に調査を続けていたという社会教師三浦に教えを受けながら“タマナヒメ”について調べようとするハルカでしたが、“タマナヒメ”には過去何度も繰り返されてきた悲劇的な役割もあると知ることになり――。

 

 

いやぁこれ、面白いですね。

 

 

見知らぬ町に残る謎の風習。

何かを隠しているようなクラスメートや住人達。

シャッターだらけの商店街と疲弊した住人、高速道路誘致の夢、外部からの人間をヨソモノとする排他的な町。

 

『another』が好きな人ならハマるのは間違いありません。

全体に覆う被さるような暗く重い雰囲気はスティーブン・キング作品を思わせるものも。

女子中学生が主人公の青春ものを思わせつつ、作品のテイストとしてはダーク・ミステリに近いと言えるでしょう。

 

 

賞賛すべきシンプルさ

『another』的というのは雰囲気だけではありません。

とにもかくにもシンプルなところです。もちろん良い意味で。

 

サトルが次々と知るはずのない未来予知、過去の出来事を語り、その度に謎が増えていきます。

サトルが言ったのは「これから起こる」出来事なのか、それとも「既に起こってしまった」出来事なのか。

サトルは一体何者なのか。

サトルと“タマナヒメ”との関連とは。

 

作品はほぼ全て、サトルと“タマナヒメ”伝承にまつわるエピソードや出来事と、それを追うハルカという構図で進められていきます。

クローズ・ド・サークルの環境において、殺人事件や殺人鬼だけが登場人物たちの興味の対象になるのと似たような構図です。

無駄を排除した非常にシンプルな構成なので、一つエピソードが追加される度に、謎はどんどん膨れ上がり、読者側の興味も加速度的に膨らんでいきます。

 

例えばですが、学校を舞台にしている割に登場人物が絞られているのも好例でしょう。中心的な役割を果たすのは同級生のリンカのみ。彼女以外にも台詞と名前のあるキャラクターは登場しますが、記号的な役割を果たすのみの完全な脇役キャラばかりです。

教師もまた、外部からやってきた人間であり、ハルカよりも先に“タマナヒメ”に興味を持って調査を続けてきたという社会教師・三浦のみ。

その他の人物はあくまで“排他的な地域”を演出するための舞台装置でしかありません。

 

これをつまらないとみる向きもあるかもしれませんが、個人的には賞賛すべきシンプルさだと思います。

他に女友達やグループ、男子まで増やされても役割を分担されるか、どうでもいいエピソードで膨らむばかりだったでしょう。

 

シンプルにまとめあげられたからこそ、500ページ超の分量も一気読みさせるだけの勢いがつけられたのだと思います。

 

 

相変わらずの弱点

唯一の難点を挙げるとすれば、米澤作品全体に見られる傾向……つまり動機の貧弱さでしょうか。

決してあり得ないレベルではないと思うんですけどね。

でもやっぱり「そのためにそこまでやるの?」というツッコミは避けがたいところかと思います。

 

 

上記は以前『儚い羊たちの祝宴』を読んだ際のツイートなんですが、意外と共感を得られて承認欲求が満たされた覚えがあります。

 

まぁ米澤作品を読むにあたって、そこは目をつぶりなさいよと言いたいところです。

ある意味動機の斜め上さすらも楽しむぐらいの懐の深さは必須ですね。

 

それにしても久しぶりに夢中になって一気読みしました。

今年2019年に入ってからは初かもしれません。

ようやく読書熱が戻りつつある気がします。

また良い本に巡り合える事を期待したいですね。

 

 

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#リカーシブル #米澤穂信 読了やってしまいました。全500ページ強、1日で一気読み。久しぶりの米澤穂信とはいえ、ハマったなぁ。正直本作は存在すら知らなかったんですが。父の失踪をきっかけに、血の繋がりのない母と弟とともに母の故郷に引っ越したハルカ。初めて訪れるはずのその場所で弟サトルは度々既視感を訴え、やがてそれらは現実となり未来余地の様相を呈してくる。さらに見たはずのない過去の出来事にまで言及するサトル。どうやらこの町には同じように過去と未来を見通すタマナヒメの伝承があると知ったハルカが調べを進めるうちに、タマナヒメには別にもっと血なまぐさい歴史がある事がわかり……。 衰退する地方の町と疲弊した住民、閉鎖的で謎めいた人々。#綾辻行人の #another にも似た暗い雰囲気に思わず一気読みでした。個人的には〈古典部〉よりもこっちのテイストの方が大好きだー。#本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。

『もう、きみには頼まない』城山三郎

 

「万博を生かすも殺すも、あなたたちの筆先三寸だ。頼みますよ」

『もう、きみには頼まない』。

ちょくちょくご紹介している城山三郎本です。

 

これまでにも ロイヤルホスト創始者・外食王、江頭匡一をモデルとした『外食王の飢え』、第5代国鉄総裁となった石田礼助の『粗にして野だが卑ではない』、日本の陸軍軍人でありながら華族(男爵)でもあり、1932年 ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技において優勝を勝ち取った金メダリスト西竹一中佐の『硫黄島に死す』などを当ブログでもご紹介してきましたが、城山三郎は主に昭和日本を代表する財界人や政治家らを描いた作品を残されてします。

城山三郎の名前は知らずとも『官僚たちの夏』というタイトルを聞いた事のある人は少なくないのではないでしょうか。こちらも異色の官僚佐橋滋をモデルにした作品です。

 

 

 

いずれも小説、というよりはある意味伝記に近いかもしれません。

 

今回読んだ『もう、きみには頼まない』は第一生命・東芝の社長を務めた後、経団連会長を六期12年も務め、日本万国博覧会協会会長として大阪万博の開催を務めた人物です。

 

大臣や首相に啖呵

タイトルにもなっている「もう、きみには頼まない」という言葉は時の大蔵大臣水田三喜男へ向けた言葉。依頼ごとに対してぬらりくらりと煮え切らない大臣に対し、業を煮やした石坂泰三が放った言葉です。

万博を巡る予算のやり取りの中では、時の総理大臣佐藤栄作に向けて、

 

「補助をもらうんじゃなく、本来、政府の仕事ですぞ。百億でやれと言われれば百億のものを、一億でとあれば一億のものをつくる。こちらはそれだけのこと。それでいいんですか」

 

等と凄んでみたり。

もちろん当時は相手方も『官僚たちの夏』で描かれる通り、豪胆な政治家・官僚も多かったはずですが。やはり昭和の男たちというのは今に比べると非常に剛毅。パワフルに感じますね。

 

石坂泰三は東大卒業後、いったんは逓信省に入りますが四年でスカウト先である第一生命に入ります。昇進して同社社長を8年。その後、東芝社長を8年。さらに経団連会長を12年と合わせて日本万国博会長。

非常に順風満帆なエリートコースを歩いているのがよくわかります。

 

そんな彼の人生を描いた本書も、簡潔に言ってしまうとどこまでも平坦な上り調子といった様子で、取り立てて浮き沈みのような点も見られません。その点は先に書いた『外食王の飢え』等とは違っているかもしれません。

唯一のつまづきは、わずか62、3で他界した妻雪子の死ぐらいでしょうか。

 

以後、泰三はライフワークのように亡き妻に向けての歌を作り続けています。

 

やむ妻にさちあれかしとねぎごとを

わすれかねつつ機上にまどろむ

今日もまたかへらぬ妻をしのびつゝ

あへなくくるゝ雨の冬の日

恥じらいつためらいつつも嫁ぎきし

若かりし日の君を忘れず

声なきはさびしかりけり亡き妻の

写真にむかひ物言ひてみつ

 

いずれも溢れるような思いに満ち溢れています。

 

……というと妻と仕事にしか興味のない仕事人間に思われてしまいますが、石坂泰三のすごいところは多趣味かつ他芸なところ。

いつの間にか数か国語を読み聞きできるようになっていたり、歌に書に陶芸にと非常にたくさんの趣味を持っていたようです。もちろん、財界人の嗜みとしてゴルフも欠かしません。ただしこちらは数字を競い合うようなゴルフにはならなかったそうですが。

 

こつこつと石坂泰三の足跡を紡ぐように書かれた本書は、前述したとおり大きな山場や浮沈もなく、ただただ日本の財界のトップを歩いた男の人生が記されるのみです。物語としては物足りなく感じられるかもしれません。

しかしながら、数々のエピソードやユーモアあふれる言い回しから、氏の魅力的な人柄が伝わってくるように感じます。

 

僕のようにフィクションという架空の物語の世界に飽いてきてしまった時――城山三郎作品はおすすめです。

 

https://www.instagram.com/p/ByXdzIKFxe7/

#もうきみには頼まない #城山三郎 読了第一生命、東芝社長、経団連会長、日本万博協会会長を歴任した昭和日本財界のスペシャリスト石坂泰三の半生を描いた作品。順風満帆な人生だけに物語としては浮沈も少なく盛り上がりに欠けるものの、著者の綿密な取材からもたらされたエピソードやユーモア溢れる言い回しの数々から石坂泰三の魅力的な人柄が浮かび上がって来ます。昭和日本を支えた男たちの粗雑だけど繊細な人間味の数々。やはり城山作品は良い。フィクションに飽きてきたなぁ、という時には特にオススメです。#本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。

 

『影武者徳川家康』隆慶一郎

「ご進撃が早すぎます。いま半刻、桃配山に……」

「それが出来なくなった」

 二郎三郎は、あくまで家康として云った。忠勝の顔色が変った。

「南宮山の毛利が……!」

「毛利ではない。わしだ」

 二郎三郎は忠勝に近々と顔を寄せた。

「判らぬか。わしが死んだ」 

今回読んだのは隆慶一郎の『影武者徳川家康』。

本作も漫画化、ドラマ化されていますのでなかなかの有名どころですね。

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ちなみに僕が知ったのも上記の原哲夫漫画版。

小さな頃に触りだけ読んだ覚えがあるのですが、本物の家康が死んで影武者が残るという衝撃の展開が強く残っており、今回手に取るきっかけとなりました。

尚、原哲夫氏は絵柄を見れば一目瞭然かと思いますが、『北斗の拳』や『花の慶次 -雲のかなたに-』といった代表作を持つ方です。

 『花の慶次 -雲のかなたに-』もまた、隆慶一郎の『一夢庵風流記』を原作としていますから、親和性の高い作家さんなんでしょうね。

 

影武者二郎三郎

物語は関ヶ原の戦いを舞台に始まります。

合戦のさ中、島左近家中の忍びであった六郎は、隙を突いて家康を殺害。

吉報に歓ぶ西軍に対し、影武者二郎三郎は咄嗟の機転から家康に成りすまします。十年に及ぶ影武者としての生活により、二郎三郎は家康の思考すらも生き映す事ができるようになっていたのです。

 

内府討死の報が敵味方問わず伝わり混乱する中、二郎三郎は逡巡を続ける小早川秀秋の陣に鉄砲を撃ちこむよう指図。恐れを知らぬ行為に「内府はやはり生きている」と悟った小早川秀秋はついに動き、西軍は崩れ、関ヶ原は雌雄を決します。

 

危急の策として始まった影武者の“成りすまし”は本来であれば家康の息子である秀忠が到着するまでのはずでしたが、あろうことか秀忠は関ヶ原に遅参。本来であれば懲罰も免れない失態に、家康の死を公表するのは憚りがあると伏せられてしまいます。この段階で秀忠にバトンタッチしてしまえば、せっかくの関ヶ原の勝利は無に帰してしまうかもしれません。

 

これには秀忠も黙ってはいられません。家康が死ねば、順番としては自分が徳川家の主となるはず。ましてや相手は影武者風情。自分の意を聞かせ、時を迎えれば殺してしまおうと側近である柳生宗矩とともに画策します。

 

一方で、事情を知る本多忠勝本多正信といった徳川家の重臣たちも、秀忠の能力への猜疑と家康の死の公表による混乱を警戒し、二郎三郎による影武者政権の維持を図ります。

 

本書は関ヶ原以後、家康の死までの十数年を描いた物語ですが、その中心を貫くのは影武者二郎三郎と二代目将軍徳川秀忠との対立なのです。

 

忍者vs忍者

……なんて先に書いて置きながら、実のところ、実際に戦うのは二郎三郎腹心の忍者、甲斐の六郎と秀忠側近柳生の忍術部隊だったりします。

実を言えば甲斐の六郎は家康を亡きものとした張本人。運命の悪戯か、家康暗殺を命じた島左近とともに、六郎は二郎三郎の身を守るべく手を結ぶのです。

この六郎がとにかくすごい。

漫画・アニメに出てくる忍者の能力をほぼ全て網羅したスーパーマンと言っても過言ではありません。

 

元々は正統派の剣術一家であったはずの柳生もまた裏では忍びを稼業としていた、といった設定もあり、さらに二郎三郎は箱根に潜む風魔衆をも配下に引き入れ……と忍術合戦がどんどん加速していきます。

 

物語としては史実をベースに征夷大将軍への任命や大阪冬の陣・夏の陣をはじめ様々な出来事が進んで行くのですが、基本的には裏で忍者たちが暗躍・対立・決闘を繰り返していくという流れになります。

いずれも二郎三郎に対立する秀忠が策を弄し、それを二郎三郎たちが破る、という構図ですね。

 

これがまた……クドい(笑)

 

どこかで既視感があると思ったら、吉川英治宮本武蔵』ですね。

何かというと武蔵やお通の前にお杉婆や又八が妨害に現れ、懲らしめられて「もうやりません」と改心したと思いきや、少し経つとまた現れ……の繰り返し。お杉婆が秀忠であり、又八が柳生宗矩という関係で見ると非常に酷似しています。

 

そして本作においては、その一つ一つが非常に細かい。

関ヶ原以後、家康の死までというと大きな出来事はないような気がするのですが、一つ一つの細かな出来事に対して上記のようなやり取りが繰り返されるので、なかなか物語が進みません。

 

そのせいもありますが、読書も進みませんでした。

本書は1ページあたりの文字密度も高いのですが、一つ一つのエピソードがあまりにも細やか過ぎ、さらに解決方法も忍者が暗躍するという超非現実的な手法がとられるのであまり熱意を持って読み込めなかったのです。

 

影武者が家康に成り代わる、という面白い題材を扱う一方、忍者合戦に終始してしまったのははなはだ残念なところです。少なくとも上下巻の一冊分は端折れるエピソードだったのではないか、と思えてしまいます。

 

最大の難点

本書の忍者たちは途轍もない能力者ばかりです。

六郎などはこっそり相手方の寝所に忍び込み、寝ている間に髷に小柄を刺すという強迫めいた行為も訳もなく行ってしまいます。

 

かと思えば、二郎三郎の屋敷には忍者がやすやすと忍び込めないように細工を巡らしたりします。

そのため、度々二郎三郎の寝首を掻こうとやってくる忍び達はその都度返り討ちにあってしまうのです。

 

逆に言うと、二郎三郎側からの暗殺は非常に簡易そうに思えてしまうのです。六郎に「殺してこい」と命じれば、簡単にこなしてしまう事でしょう。

 

その点が疑問として膨らんでしまったのが大阪冬の陣・夏の陣。

本書において大阪の陣は秀頼を生き残らせようとする二郎三郎と、なんとしても殺してしまおうとする秀忠との争いでもあります。

しかし、再三に及ぶ二郎三郎の説得工作も、その度に淀殿の反対により無に帰してしまいます。淀殿がいる限り、豊臣の破滅は逃れられない。それは他の歴史書とも同じくする流れではあります。

 

でも、思ってしまうんですよね。

 

じゃあ、淀殿殺しちゃえばいいじゃん。

 

終盤においてはとにかくこの疑問が頭から離れず、どうにも困りました。

二郎三郎たちの口からは、淀殿暗殺など誰からも提案される事はありません。

本書において秀頼は非常に聡明な青年として描かれており、誰がどう考えても、淀殿がネックになっているのは明らかです。

 

また、淀殿は忍び嫌いである事から、大阪城に忍びはいないという点も途中明らかにされています。つまり、その気になればいくらでも忍び込む事ができてしまうのです。実際、大阪夏の陣の最後には六郎たちがわけもなく城内深くまで立ち入っています。

 

どうして淀殿を暗殺しようとしなかったか。

 

この点こそが、本書の大きな疑問であり難点だったりします。

もっと言えば、秀忠・柳生側としても二郎三郎が六郎や風魔と手を結ぶ前であれば、柳生の忍びを大阪城に放って秀頼を暗殺する事も簡単だったはずなんですけどねー。狡猾な秀忠の事ですから、柳生ではない他の誰かの仕業に見せかけてもう一度徳川大阪の一大決戦に持ち込むとか、大阪内部での分裂を招くなんていう真似も可能だったと思いますが。

 

……というわけで、かなり長い時間をかけてようやく読み終えた本なはずなのですが、とにもかくにも忍者たちの能力が特殊過ぎて、どうにも納得いきかねる場面の多い読書になってしまいました。

家康影武者説は文句なしに面白いんですけどね。

島左近が実は生きていて影武者の支援者になっている、という設定も好きですが。

設定を最後まで活かしきれなかった感はぬぐえないかなー。

忍者の特殊能力抜きで書き直せばもっともっとよくなる気がしてしまいます。

 

ううん、簡単ですが以上。

『マイナス・ゼロ』広瀬正

「いちばん古いのがH・G・ウェルズの『タイム・マシン』ていう中篇、これはタイム・マシンが出てくるだけのクラシックだけど、ほかに、カッコいいタイム・マシンパラドックスを扱ったのが、たくさんあるわよ」

SF小説の古典、広瀬正の『マイナス・ゼロ』です。

かねてよりタイム・パラドックスものの金字塔として噂を聞いていたものを偶然古本屋え見つけ、積読化していました。

 

タイム・パラドックスものと言えば日本では『時をかける少女』、『戦国自衛隊』あたりが有名でしょうか。あとはちょっと違いますが『君の名は。』なんかも多分にその要素を含んでいると思います。

洋画だとやはり『バック・トゥ・ザ・フーチャー』ですよね。

 

いずれにせよわくわくと胸が躍り、興奮してしまうような作品の多いジャンルでもあります。

昭和40年・1965年に連載されていたという本作。

既に50年以上が経過していますが、一体どんな作品なのか。

乞うご期待。

 

戦時中の遺言と失踪した少女

中学二年生の浜田俊夫少年が生きるのは第二次世界大戦のまっただ中。

時折訪れる空襲に怯えながら生活をしています。

引っ越してきたばかりの家の隣には、ドーム型の研究施設を備えた屋敷が建ち、井沢先生と俊夫の憧れである娘の啓子が住んでいます。啓子は当時人気の小田切美子という女優に似ていると評判の美女でした。

ある日、襲来した爆撃機から危うく難を逃れた俊夫は、隣家が火に包まれているのに気づきます。慌てて救出に向かうものの、庭には先生が倒れ、すでにぐったりとした様子。先生は俊夫にある遺言を残し、死んでしまいます。そして、啓子も行方不明に。

 

〈千九百六十三年五月二十六日午前零時、研究室へ行く事〉

 

それから十八年後、俊夫は井沢親子の住んでいた家を訪ねます。

申し出を聞いた及川という住人は、快く俊夫の申し出を受け入れてくれました。

果たして、午前零時ちょうどに訪ねた研究室からは、失踪していたはずの啓子があの日の姿そのままの状態で現れます

啓子の記憶は十八年前のあの時で途切れ、現実を受け入れられません。

 

状況を説明する俊夫に、やがて啓子は状況を受け入れ、タイムマシンに残されていたノートの解読に挑みます。日本語ではない謎の文字も、二人の協力によってついに解き明かされたかのように思われました。

そうして再び、二人は研究室を訪ねます。

ところが啓子が休んでいる隙に、俊夫は数字を入力し、井沢博士が日本にやってきたであろう昭和9年にタイムスリップしてしまいます。

 

たどり着いた先は設定とは異なり、なぜか昭和7年

当然研究室は存在せず、タイムマシンは地面へと落下してしまいます。

元の時代へ帰るためには元の高さへ持ち上げなければ、戻った時に床面と衝突してしまいます。人工を雇い、櫓の上に持ち上げる事に成功する俊夫でしたが、タイムマシンに乗り込んでいざ起動しようと言う時に警官が登場。

押し問答の内に俊夫はタイムマシンから飛び出してしまい、代わりに警官を乗せたまま、タイムマシンは旅立ってしまいます。

 

昭和38年からやってきた俊夫は、昭和7年に取り残されてしまうのです。

 

 

2年経てば井沢博士がやってくるはず

途方に暮れる俊夫でしたが、昭和9年には井沢博士がやってくるはずです。

そうすれば遅かれ早かれタイムマシンにも再会し、元の世界に帰る道も開けるはず。

そう楽観的に考えた俊夫は、井沢博士に会うまでの期間をどうやり過ごそうかと勘案します。

幸いな事にタイムマシンには昭和9年に使えるお金が沢山用意されてしましたので、当座の金には困りません。しかし、問題なのは俊夫の身柄です。彼は戸籍を譲り受け、中川原伝蔵の名を手に入れます。さらに当時まだ流行していなかったヨーヨーを開発したりと、精力的に活動します。

 

そんな最中、レイ子という女性に出会い、二人は急速に距離を縮めます。

病弱だったレイ子は伝蔵の勧めで病院にも通い、健康を取り戻し、友人の紹介で高層デパートで働き始めます。

ところがこのデパートこそ後に多数の多数の死傷者を出す世にも有名な大火災を起こしてしまう白木屋呉服店白木屋の火災は知っていたはずの伝蔵も詳細な時期までは失念しており、レイ子もまた火災の犠牲となってしまうのでした。

 

その後も研究室の予定地を取得し、ドームを建設し……と井沢博士の登場に向けて準備を進める伝蔵でしたが、彼の元に召集令状が届きます。長くとも2年程度で解放されるだろうと応じる俊夫が復員したのは、それから15年後の事でした。

 

 

物語の前後関係

ここで時系列を整理しましょう。

本書を漫然と読んでいるといまいち前後関係が掴めなくなってきてしまいますので、同じように整理しながら読み進める事をオススメします。

 

 昭和7年 タイムスリップにより俊夫(伝蔵)登場

 昭和20年 空襲・井沢博士死亡・啓子失踪

 昭和23年 俊夫(伝蔵)復員

 昭和38年 俊夫と啓子再会。

  ※青字は俊夫が過去へタイムスリップ後

 

おわかりでしょうか?

過去にタイムスリップした俊夫が戦争に行っている間に井沢博士はこの世に登場し、そして死んでしまっているのです。タイムマシンもまた、昭和20年の空襲時に啓子とともに昭和38年へ向けて旅立ってしまった為、昭和23年の研究室からは喪失してしまっています。

 

戦争から戻ってきた伝蔵が井沢邸を訪ねると、及川美子という女性が一人で住んでいました。彼女こそ、啓子が似ていると噂されていた小田切美子その人なのです。伝蔵は美子という女性と結婚し、夫婦としてそこに住み始めます。

そうして忘れた頃に、一人の青年から連絡が入ります。

青年は浜田俊夫と名乗るのです。

 

 

及川伝蔵=浜田俊夫、小田切美子=?

そうしてタイムスリップしてきた啓子が俊夫と再会し、今度は俊夫が過去へと旅立ってしまうまでは読者も既知のストーリーです。

しかし今度は及川伝蔵として、その後の様子が描かれていきます。

 

俊夫は過去へ旅立ち、研究室には啓子だけが取り残されています。

啓子に事情を説明する伝蔵ですが、あまりうかうかしてもいられません。

過去へ旅立った俊夫は帰って来れなくなってしまいます。タイムマシンは変わりに警察を乗せて戻ってくるはずなのです。

及川伝蔵は機転を効かせ、やってきた警察を懐柔する事に成功します。

 

安堵の想いで自宅へ戻ると、啓子と美子の姿がありません。

はっと気づいて研究室へ戻ると、そこにタイムマシンはなく、代わりに警察と美子だけが横たわっていました。

啓子は俊夫を追って過去へと旅立ち、それを追った美子だけが啓子に突き出されて残されたのでした。しかし、美子はそのショックで失っていた記憶を取り戻します。

 

↓↓↓以下ネタバレ(白字反転)↓↓↓

 

美子は自分こそが啓子であると、思い出すのです。

美子は俊夫を同じ過ち(十二進法と十進法を間違う)を犯し、昭和2年へと遡ってしまうのです。

タイムトラベルのショックで記憶を失った美子はそこで赤ん坊(俊夫の子!)を生み落としますが、啓子という名前を付けて孤児院の前に捨ててしまいます。

その後有名な映画製作者に拾われ、小田切美子と名を変えて女優となるのです。

 

やがて啓子は井沢博士の養子となり、17歳となった昭和20年に空襲から逃れる為、タイムマシンで未来へと送られます。

 

時系列を啓子中心に再整理します。

 

 

 昭和2年 未来から俊夫を追って啓子登場。記憶喪失。

      俊夫の子(啓子)出産。

      自らは美子に改名。

 不明    美子の娘啓子・井沢博士の養子となる。

 昭和20年 空襲・井沢博士死亡・啓子昭和38年へ。

 昭和38年 俊夫と啓子再会。啓子・俊夫を追って昭和2年へ。

 

美子が生んだ啓子が過去に戻って啓子を生み、記憶喪失になって美子に名を変える。

つまり、美子=啓子。

美子と啓子は親子であり、同一人物である。

自分で自分を生むという永遠の循環を作り出していたのです。

 

 

なんじゃこりゃあ?

 

な設定ですよね。

正直僕自身、読んでいる間はいまいち理解ができませんでした←

 

こうしてブログに書きながら再整理している内に、ようやく呑み込めてきた次第です。

確かに絶賛される理由もよくわかります。

昭和の伊坂幸太郎とでも言うべき、伏線回収の妙ですね。

 

↓↓↓以下ネタバレ(白字反転)↓↓↓

ただ、未来へやってきてしまった警官がその後どうなったのかはさっぱり不明のままなのですが。

 

こんな不憫な目に遭うぐらいなら、俊夫と入れ替わるのは警官じゃなく野良犬にでもすればよかったのに

 

クドイ

ただ、残念なところも多々あります。

その最たるものがとにかくクドイところ。

 

本書は昭和40年に書かれました。

昭和7年にタイムスリップした場面を描くにあたり、多少なりとも懐かしさ・当時の様子を描こうというのは必然の流れかもしれません。

ただし、その描写があまりにも多くて冗長過ぎてしまうのです。つーか僕らにとってはあまりにも昔過ぎて、読んでもさっぱり伝わってこない。

 

例えるなら、現代小説でバブル期にタイムスリップする話を書くとして、ジュリアナ東京だのボディコンだのポケベルだのに加えて、当時流行していたという車をシーマだのシルビアS13だのという車名や特徴まで書くような感じでしょうか。

よくわからない上に特に興味もないんですけど……という感じ。

それがまぁしつこいんですよね。

けん玉がいつからブームになって考案者がどうたらこうたら……みたいな。そこまでの細かな話って物語に必要かな? と思わずにはいられません。

 

なので上の時系列で書くと結構シンプルな物語のようなのですが、読んでいくと非常に長いです。話がなかなか進まない。そこまで重要ではないエピソードが多いので、冗長になってしまう。

 

題材としてはなかなか良いので、これはアニメか何かの映像作品としてリメイクした方が良いのかもしれませんね。もっとスピーディーに話が進む現代版に作り替えた方が、満足度が高まるかもしれません。

 

戦国自衛隊』を観る

本書とは直接的な関係はありませんが、同じタイムトラベルものとして『戦国自衛隊』を観ました。

非常に悪名高い『戦国自衛隊1549』ではなく、名作と呼び声高い『戦国自衛隊』の方です。

www.youtube.com

いやぁ、すごいですよね。

何がすごいって、CGじゃないですから。

若干模型かな?というシーンもありましたが、基本的には本物の戦車やらヘリコプターやらを使って生身の人間が体当たりで行うシーンばかり。

千葉真一がヘリコプターから宙吊りになったとか、真田広之がヘリコプターから飛び降りたとか、渾身の名シーンもいっぱい。

やっぱりこの時代の作品には、最近のCG作品にはない迫力や臨場感がありますね。

 

……と思ったのも開始せいぜい1時間ぐらい。

 

途中から少しずつ状況が変化していきます。

雲行きが怪しくなるのは、主人公・伊庭を演じる千葉真一と、盟友・謙信を演じる夏木勲が邂逅した辺りから。

謙信が現代兵器に興味を持つのはわかりますが、互いに武器を交換し、自衛隊員の伊庭が馬上から恐るべき精度で弓矢を撃ったりする

 

やがて物語はクライマックスである川中島の戦いを迎えますが、自衛隊の用いる現代兵器に対し、武田軍は驚くほどの人海戦術による猛攻を見せます。戦車や輸送車に火を点けた大八車的なものを突撃させたり、水中に姿を消す忍者が現れたり。

明らかに人知を超えたアニメ的な能力を発揮し始めるのです。

これには流石の自衛隊員たちも悲鳴をあげて恐怖を示すしかありません。

 

その最たるものとして、真田広之がヘリコプターの腹に張り付き、よじ登って操縦士を刺殺した挙げ句、墜落するヘリから飛び降りて脱出するというとんでもない身体能力を見せたりするのですが。

 

さらにさらに限界突破を見せ、最終的には現代兵器を失った伊庭が弓矢や刀、槍だけでもって武田軍の陣中にたった一人で襲撃をかけ、信玄を討取ってしまいます(←信玄殺したのは銃だけど)。

馬に跨り、押し寄せる兵や忍者を物ともしない自衛隊員・伊庭はもはや化け物としか言い様がありません。

 

半村良の原作とは似ても似つかぬ展開に呆然としたまま見終えた後、映画のレビューを観ていたら代弁者が見つかりました。

 

これじゃ戦国自衛隊じゃなくて戦国千葉真一だよ

 

言い得て妙ですね(笑)

「戦国時代に自衛隊を送ったらどうなるか」という原作小説は「戦国時代に千葉真一を送ったらどうなるか」というキワモノ映画に改変されていました。

これはこれでそれなりに面白かったですけどね。

 

 

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#マイナスゼロ #広瀬正 読了日本SF小説の古典であり #タイムパラドックス ものの金字塔と言われる作品。空襲により息絶えようとする伊沢先生からの依頼は「18年後の今日ここに来て欲しい」というもの。約束通りその日を迎えた俊夫は、あの日から行方不明になっていた先生の一人娘敬子を発見する。敬子は18年前と変わらぬ姿だった。急展開を迎えるのはここから。俊夫はタイムマシンを操作し、伊沢博士がやってきたであろう過去へと旅たちます。ところが辿り着いたのは何故かそれより2年前。さらにトラブルによりタイムマシンは俊夫を残して現代へと出発してしまい、俊夫は過去へ取り残される事に。未来へやってきた敬子と過去に取り残された俊夫。本来同じ時代を生きるはずだった二人の運命はやがてとんでもなく数奇なパラドックスを生み出します。 ……とまぁ時代性も感がれるとタイムパラドックスものとしては抜群の内容なんですが如何せん物語自体が古い上、昭和初期の風物をこれでもかというぐらい詳細に描き込まれているので、正直クドかったりします。秀逸な設定部分だけを抜き出すと短編で済んでしまいそうな内容だけになかなかに冗長。それでもSFの古典としてはぜひ一読をおすすめしたい一冊でした。#本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。

『壬生義士伝』浅田次郎

「吉村、死ぬな」

本音の一言が喉からすべり出たとき、俺ァやっとわかったんだ。そうさ、やつは俺の、俺たちみんなの良心だったんだ。

 

壬生義士伝』を読みました。

常々耳にしてはいたんですよねー。

映画化・漫画化・舞台化と広がりも大きい作品ですし。

 

ただ、いかんせん新撰組の話らしい、という事以外にはなにも知らず。。。

新撰組司馬遼太郎の『燃えよ剣』や『新選組血風録』、子母澤寛新撰組三部作『新選組物語』『新選組遺文』『新選組始末記』などは読んだもののだいぶ昔の話なので、そのうち再読しようかと思っていたのですが、今回は未読の『壬生義士伝』を手に取ってみました。

 

だいぶ想像からはかけ離れた展開に面食らってしまいましたが。

 

 

義士・吉村貫一郎

物語は大阪の南部藩蔵屋敷に、満身創痍の武士が転がり込んでくるところから始まります。

時は幕末。

鳥羽伏見の戦いにおいて、薩長連合が掲げた錦旗を前に幕府軍が予想外の大敗を期した直後の事。

よく見れば武士がまとった浅黄色の羽織は、新撰組に間違いありません。

彼は以前脱藩した南部藩の者だと出自を明かし、その上で帰藩したいと願い出ます。――つまり、命乞いにやってきたのです。

 

漫画『竜馬がゆく』でお馴染みですが、この時代における脱藩はそれだけで死に相当する罪とされます。

藩の追跡からもまんまと逃げおおせ、新撰組として好き勝手暴れまわった挙句、さらに錦の御旗に対して刃を向けた罪人が、恥も外聞もかなぐり捨ててかつての故郷に助けを求めてきたのです。

一見情けないこの男こそ、本書の主人公である吉村貫一郎

 

しかしこの段階では旧幕府派か新政府派か旗色を明らかにせず、中立を保って情勢を見極めようとしていた南部藩にとっては、お尋ね者の新撰組残党など迷惑以外のなにものでもありません。

切り捨てるわけにも他藩へ差し出すわけにもいかず、仕方なく屋敷内に受け入れられた吉村貫一郎でしたが、蔵屋敷の差配役(一番の責任者)は奇しくも旧知の間柄である大野次郎右衛門でした。

これ幸いと竹馬の誼みを持ち出して助けを求める吉村に対し、大野は「恥知らず」と面罵し、「腹を切れ」と冷たく言い放ちます。吉村はうなだれ、肩を落としつつ大野の命を受け入れます。

 

ここまでがプロローグとも言うべき冒頭のシーン。

 

吉村貫一郎とはいったい何者なのか。

彼の身に何があったのか。

吉村と大野との関係とは。

 

短いシーンの中に生まれる沢山の疑問と謎を紐解いていく、長い長い物語の始まりです。

 

 

取材・独白形式

物語は記者(取材者?)と思わしき人物を前に、過去に吉村その他の人物に関係のあった人々が答える形でつづられていきます。

合間合間には、最期の時を前に吉村自身が過去を回想し、故郷に想いを寄せる場面も挿入されます。

 

1人目に登場する語り手は元・新撰組の居酒屋主人で、当時吉村と同じ時を過ごしたという人物です。彼の名前は結局わからずじまい。

彼の口からは吉村が金にがめつく、給金を手にした側から故郷へ送金する様子が語られます。ならず者たちの集まりの中で、一風変わった吉村の姿も見受けられます。

 

2人目は建設業の主人である桜庭弥之助。南部の出身であるという彼からは、吉村の幼少期から脱藩まで、足軽でありながら藩校の助教・師範代を務めていた吉村のアンバランスな生活ぶりが主に語られます。

生徒たちは皆吉村よりも格上の身分の子弟ばかりで、一度藩校を出れば上下が逆転する。教師として敬われつつも、一方では貧乏侍と見下される吉村。

北辰一刀流の剣術を修め、学問に秀でたにも関わらず、食うにも困るような身分しか与えられなかった当時の困窮した藩の財政状況が垣間見られます。

さらに桜庭からは吉村の息子である嘉一郎と、大野の息子である千秋の関係も語られます。

 

3人目は新撰組池田七三郎と続き、4人目に登場する人物こそ新選組副長助勤にして三番隊隊長・斎藤一

物語はこの辺りから各段にヒートアップします。

スパイとして伊東甲子太郎率いる御陵御士に潜り込み、池田屋事件坂本竜馬暗殺事件と、新撰組にまつわる有名な逸話が続々登場し、特に坂本竜馬については浅田次郎目線での解釈が披露されていきます。これが非常に説得力に溢れていて、ある意味本作の一番の読みどころ

冷徹で他の隊士をも寄せ付けない殺人マシーンのような印象の齋籐に対し、吉村は情に厚く理に厳しく人間味溢れた印象で、斎藤は何かと吉村を毛嫌いし、生理的に反発を覚えます。二人は終始、水と油のように相反する存在として描かれていくのです。

 

最大の見どころは鳥羽伏見の戦い

錦の御旗を前に、会津藩新撰組も戦意を喪失。「退くな!」と命じる土方の声も届かず、一斉に後退を始める。

その中でたった一人、吉村だけが脇差を抜いて立ち向かうのです。

 

新選組隊士吉村貫一郎、徳川の殿軍ばお勤め申っす。一天万乗の天皇様に弓引くつもりはござらねども、拙者は義のために戦ばせねばなり申さん。お相手いたす」

 

咄嗟に飛び出そうとする斎藤は、永倉と原田に止められてしまいます。羽交い締めにされながらも「死ぬな、吉村」と叫び続ける斎藤。……映像作品を見た事はありませんが、間違いなく見せ場の一つでしょう。

吉村に敵愾心を抱いていたはずの齋籐が「死なせてはならない」と思ってしまう。吉村の持つ不思議な魅力の一端を示す重要なエピソードです。

 

 

吉村は義士なのか

続いて語り手は大野次郎右衛門の息子である大野千秋に代わり、大野家の中元を務めていた佐助、そして最初に登場した新選組の生き残りである居酒屋店主、さらに吉村貫一郎の次男へと代わっていきます。

ここからは主に鳥羽伏見以後、吉村の遺族たちの様子が語られています。

 

ただ……うーん、、、斎藤一の語りが盛り上がり過ぎただけに、トーンダウンが否めませんでした。

吉村貫一郎も鳥羽伏見で官軍に立ち向ったところまでは格好良かったんですけどね、その後で故郷に命乞いしていた事を考えると、なんとも複雑です。

 

本書は吉村貫一郎「幕末に似合わぬ家族愛・人間愛に溢れた人物」として書こうとしています。

でもだったら、どうしてたった一人官軍に立ち向かうような真似をしたのでしょうね? 個人的にはそこがいまいち理解できません。

新選組の他の隊士にも「死ぬな」と教育してきた吉村です。沢山の人を斬ったのも「自分が死にたくないから」と言います。故郷に残してきた家族を養うためには、死ぬわけにはいかないからです。

 

繰り返しになりますが、だったらどうして一人で官軍に立ち向かったのでしょう? もちろんこのシーンがあったからこそ吉村が“義士”であった証明になるのですが、それまでのエピソード中にも、特に徳川に対して義を唱えるような人物像は見受けられないんですよね。

この場面においては、吉村は気が触れていたとしか思えません。

言い方を変えれば、この場面のみ吉村のキャラが崩壊していた、と言えるかもしれません。

見せ場としては途轍もなく格好良いシーンではあるのですが。

 

実際、その後瀕死の吉村は恥も外聞もかなぐり捨てて、己の主家である南部藩に助けを求めるという行為に出ています。斎藤一の心に強く刻まれる程、たった一人で掲げた“義”とはいったいなんだったのか。後で変心するぐらいならなんで決死の抵抗を試みたのか。吉村貫一郎は本当に“義士”なのか一体誰の為に、何のために掲げた“義”だったのか、疑問であると言わざるを得ません。

 

ちなみにストーリー的にも、ほぼ史実をなぞった斎藤一編までと異なり、以後は創作色が強くなってしまいます。

象徴的なのが大野千秋で、彼には最初から付き従う妻の姿が描かれます。読んでいるうちに、どうやらこの妻は吉村貫一郎の娘であり、大野千秋の親友である吉村嘉一郎の妹・みつである事がわかってきます。

鳥羽伏見で幕府軍が大敗後、吉村貫一郎は死に、南部藩に帰った大野千秋の主導により南部藩奥羽越列藩同盟の一員として徹底抗戦の道を歩みます。隣国秋田や津軽への侵攻がそれです。

父の脱藩以後、世を忍ぶように生きてきた息子・吉村嘉一郎は主藩への“義”のため、その戦陣へと駆けつけようとするのです。その際、どうしても納得してくれない妹・みつの身を案じて、親友である大野千秋の下を訪ねてきたのでした。

 

大野千秋はみつを説得、嘉一郎を送り出します。その後、あろうことか嘉一郎の母を訪ね、みつを嫁にもらいたいと願い出るのです。

 

……あれれれれ?

 

この辺は本当に滅茶苦茶なんですよね。

大野家と吉村家の間にある格差という大きな溝については、ここまでも繰り返し繰り返し語られているのです。

大野家は藩の重役も務める四百石取りの上士。かたや吉村家は二駄二人扶持の足軽。元を辿れば大野次郎右衛門も吉村と同じ貧困の出でしたが、大野家に跡継ぎ問題が発生し、棚から牡丹餅的に藩の重鎮にまで上り詰めたのでした。

幼少時をともに過ごした二人は親友とも呼べる間柄ではありますが、社会的な身分においては口をきく事も許されないような上下関係が存在するのです。

 

だからこそ、剣にも学問にも秀でた吉村貫一郎は貧困から脱する事もできず、脱藩するしかなかった。大野次郎右衛門にも、吉村の禄を増やす程の便宜を図ることはできなかった。

この物語のそもそもの始まりは当時の身分制度・格差に起因していたはずなのです。

 

ところが、大野千秋という人物はあろうことか足軽の娘を己の一存で嫁に貰ってしまう。おいおい、脱藩した重罪人の娘じゃないか。だいぶ格下な上、教養も何もない足軽の娘じゃないか。

 

だったら最初っからそうしろよー!

 

吉村貫一郎を登用できないのなら、息子・嘉一郎を大野家の養子に入れた上でどこか跡取りに困る武家に婿に出すとか。実際直江兼続なんかは似たような手段で家老入りを果たしたわけですし。

どうも舞台が南部藩に移ってからは、話の整合性が取れていないように感じてしまいます。

大野千秋の回想によると、吉村貫一郎が家族を引き連れて大野家に貰い湯に来ていたような記載もありますし。

上士の屋敷に足軽が、ねぇ……。風呂を借りられる、貸せる間柄ならやっぱりもうちょっとどうにかできたんじゃないかと思えてしまいます。他にも部下である足軽は多数いたでしょうし、昔の誼で吉村貫一郎にだけ風呂を貸していたとすれば、周囲からは白眼視されてしまいますもんね。出自にいわくつきの大野次郎右衛門に対する家中の風当りだって強まる事でしょう。

 

嘉一郎はその後、南部藩が恭順するに至った後もたった一人函館に渡り、五稜郭において最後まで南部藩の“義士”として戦い続けます。

 

「出立の折、御組頭様より頂戴した幟旗でござんす。二十万石はこんたな足軽ひとりになってしもうたが、わしは南部の武士だれば、たったひとりでもこの旗ば背負って戦い申す。二十万石ば、二駄二人扶持にて背負い申す」

 

五稜郭の戦いも見せ場の一つなのかもしれませんが、正直この頃にはだいぶテンションが下がっていました。 

嘉一郎は脱藩して藩に迷惑をかけた父の罪を背負っています。さらにそんな父が送金してくる汚れた金に育てられたという負い目も負っています。それらが彼を、南部藩のために戦おうを駆り立てた原因なのです。

でもそもそも父が脱藩した原因については疑問符がついてしまっているからなぁ。

その上、妹はあっさりと上士の家に嫁入りしていたり。

さらに、嘉一郎の弟は父と同じ吉村貫一郎の名を継ぎ、さらに大野次郎右衛門の尽力もあって戦後、裕福な家に面倒を見てもらい、立派な大人に大成していたり。

 

そんな事できるなら最初から……

 

 と思わざるを得ません。

 

 

一つ一つの見せ場は素晴らしい

 

……というわけで読み終えた『壬生義士伝』。後半はボロクソ書いてしまいましたが、読み終えた後も見せ場の一つ一つは鮮やかに脳裏に蘇ってしまいます。

鳥羽伏見で薩摩軍相手に見えを切る吉村貫一郎であったり、五稜郭で最期を飾ろうとする吉村嘉一郎であったり、はたまた京の町で躍動する斎藤一であったり。

一つ一つの見せ場の描き方が、とにかく上手だなぁ、と。

 

残念なのは全体を通しての軸がブレている感じがする事。

吉村貫一郎・嘉一郎を悲劇の親子に仕立てる代わりに、息子・貫一郎やみつを救ったという感じなんですかねぇ。

戊辰戦争後、会津藩をはじめ官軍に刃向った藩はかなり苦労も多かったはずなんですが、その辺りのエピソードが少なかったのもちょっと物足りないか。

 

会津藩で言えば最後の家老であった山川大蔵(浩)なんかは戦後も斗南での再起や西南戦争への参戦と勇躍していますから、大野千秋も藩重役の子弟として、さらには抗戦を煽った戦犯の息子として、南部藩の再興を担う役割も少なくなかったはずなんですが。本作においては、風当りの強い賊軍の子弟の一人として生きる事で精いっぱいだったようですね。

本来であれば罪人である脱藩足軽の子弟よりも優先して救うべき相手は無数にあったはずなんですけど。

子どもの頃の友情を優先して、目の前の藩士たちを後回しにするのは“義”と言えるのかどうなのか。やはり疑問なところです。

 

あとは吉村貫一郎脱藩以後、家族を支えてくれた伯父夫婦やその家族がどうなったのかも気になるところ。

名を受け継いだ子・吉村貫一郎もその後はだいぶ疎遠になっていたようですし。

 

全体を通して、とにかく吉村と大野の友情さえ美しければそれで良い感が否めませんでした。

本書は子母澤寛の『新選組始末記』を元にしているというのは有名な話ですが、南部藩や大野との友情エピソードなどは割愛して、新選組でたった一人義士として薩摩に立ち向かった吉村貫一郎を描くだけにとどめた方が、全体としての完成度は高かったのではないかと思えてしまいます。

もちろん、その背景を膨らませたからこそ『壬生義士伝』が生まれたんでしょうけど。

 

うまくまとめられれば映像作品の方が面白いかもしれませんね。

今度見てみる事にします。

 

 

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#壬生義士伝 #浅田次郎 読了#第13回柴田錬三郎賞 受賞作品映像化、漫画化、舞台化と派生も多い有名な作品。取材者(=子母沢寛?)に対して語るような独白形式の文章が独特。上巻の後半から語り手が斎藤一になる辺りが最高潮で、その後は尻すぼみな印象。四百石取りの旧友を持ってしても二駄二人扶持の貧困を脱する事のできない環境こそが全ての原因であったはずなのに、後半の語りを読むと上士の家に風呂を借りたり、上士の息子は罪人である脱藩足軽の娘を己の一存であっさり嫁に迎えたりと色々破綻してくる。あれ?吉村と大野の間にある身分の垣根ってもっともっと大きいはずじゃなかったっけ?だったらもうちょっとなんとかできたはずだよなぁ。貫一郎はまだしも、息子の嘉一郎を大野家の養子に迎えた上で他家に婿に出す、とかね。貫一郎が脱藩する前に娘を嫁に入れて親族化しちゃうとか。一つ一つの見せ場はものすごくよく出来ているんですけどね。薩摩軍にたった一人で立ち向かう吉村貫一郎とか。ただ、全体で見るとどうも整合性がとれていない気がして残念でした。#本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。