「でも、なんか、あんたもあんんたの友だちも、なんかどっか、体の一部そこから出ていかないようなとこ、あんじゃん。そういうのがおれは全然ないってこと。戻りたくもないし、だいたいガッコいるときから、卒業してえってそればっかだったから」
今回読んだのは『三月の招待状』。
2017年1月に読んだ『庭の桜、隣の犬』以来の角田光代作品となりました。
僕は『八日目の蝉』を読んでいたく感動して以来、大の角田光代ファンになりました。
『八日目の蝉』は原作も、映像化された映画も素晴らしいという稀に見る作品になったと思います。
原作にはなかった“後編”とも呼べそうな場面も映画版には追加されていて、それがまた原作のクオリティや世界観を保ったまま作り込まれた秀逸な出来。小説も映画もまだという方には、ぜひ両方合わせてオススメしたい作品です。
その後『空中庭園』や第132回直木三十五賞を受賞した『対岸の彼女』、『紙の月』などの作品も読み、どれも角田光代ならではの女性目線な作風が好ましくはあるのですが、いかんせん『八日目の蝉』を超える程のインパクトには至らず。
なのでちょっとご無沙汰になっていた作家さんです。
大学から15年続く5人の男女の関係
物語は一組の夫婦の離婚式という風変わりなイベントから始まります。
結婚前から繰り返される正道の浮気癖に裕美子が愛想を尽かす形で、15年以上続いた二人の関係は破たんする事になりました。
招かれたのは主に大学時代からの友人で、売れっ子の毒舌ライター充留と専業主婦の麻子、学生時代に人気を集めていた宇田男たち。
同級生の彼ら5人を中心に、離婚式を起点とする約1年間を、それぞれ視点を変えながら綴った連作短編ともいえる内容です。
ところが読み進める内に、彼らにはそれぞれどこか人とは変わった部分がある事に気づかされます。
充留は購入したマンションのローンを繰り上げ返済するなど、一見するとライターとして成功しているようです。しかしながら居酒屋でたまたま出会ったという同棲相手の重春は毎日仕事もせずにゲーム三昧、充留のために料理をするも作るのは毎回パスタ、というポンコツぶり。
麻子も専業主婦として平々凡々と暮らしているように見えますが、離婚式の日に再会した宇田男から口説かれたのをきっかけに、変貌してしまいます。元来生真面目で面白みのない日陰者としての人生を送ってきた彼女は、自らが主役となるようなドラマティックな生活を夢見るようになるのです。
正道と別れた裕美子は職場の後輩の誘いからこれまで経験のなかった合コン三昧。出会いと経験の新鮮さに浮かれますが、新しく関係を築く事に躊躇を覚えます。加えて裕美子はお手伝い程度のアルバイトしかしておらず、裕福な実家からの資金援助に依存した生活を送っている事も明らかになります。
裕美子と別れ、晴れて独身生活へと転身したはずの正道は、別れたきっかけにもなった元愛人遥香の主婦を思わせる献身ぶりに戸惑います。裕美子を失い、遥香とともに手に入れたはずの“何か”が自分の思っていたものとは違っていた。その“何か”に気づいた時、正道は愕然とするのです。
一方、宇田男は視点となる事はなく、あくまで充留や麻子の視点から描かれる事になるのですが、そこから浮かび上がるのは大学時代に小説家としてデビューし、脚光を浴びた過去の栄光にすがり続ける堕落した男でしかありません。
彼らがすがり続けるもの
物語を読み進めるうちに、漠然とですが彼らの共通点に気づかされます。
それは「大学時代の関係」をずっと引きずり続けているという事。
裕美子と正道は当時から浮気と喧嘩を繰り返し、その度に周囲が宥めたり、仲裁したりといわばトラブルメーカーのような立ち位置にあったようです。どこにでもいましたよねー、こういうカップル。
新進気鋭の小説家として絶頂期の宇田男がいて、彼に憧れる充留がいて、そんな彼らに安心感を求めてついていく日陰者の麻子がいた。
意味もなく集まっては寝食をともにし、どうでも良い事も重要な事も一緒くたにごちゃ混ぜになりながら飛び交うような15年前の自分たち。
彼らは今を必死に生きているようでいて、その実、15年前と同じ幻想を求め続けているのです。
そんな彼らを指して、充留の恋人である重春は冒頭の引用のように、理解できない価値観と断じます。
「でも、なんか、あんたもあんんたの友だちも、なんかどっか、体の一部そこから出ていかないようなとこ、あんじゃん。そういうのがおれは全然ないってこと。戻りたくもないし、だいたいガッコいるときから、卒業してえってそればっかだったから」
麻子の失踪を心配して集まったはずの彼らが当然のごとくテーブルに料理とアルコールを広げる光景を見て、正道の新しい恋人である遥香もまた、似たような反応を示します。
なんていうか、この人たち、すっかりおばさんなんだわ。
彼らの“ノリ”についていけない遥香はしかし、部外者として他の4人と麻美との違いについても的確に把握する冷静さを見せたりもします。
わかるわけがない、と遥香は思う。自分と、自分を取り巻く関係に、なんの隙間もなくぴったり寄り添っている人に、そうできない人もいるということがわかるはずはない。この人たちはきっと、元クラスメイトがいなくなった理由をけっしてわからないだろう。もし彼女が見つかって、その理由を逐一説明したとしても。
昔の関係を保ち、昔もままの形を続けようとする彼らの無邪気さが、残酷なほどに排他的な性質を兼ね備えたものだという事が、明らかに異質な存在である麻子がそれでも彼らにくっついていようとする愚かさと合わせて、重春と遥香という二人の年下の恋人たちのフィルターを通してくっかりと浮かび上がってくるのです。
ライナスの毛布
急に話は変わりますが、僕のInstagramのアカウント名はLinusと言います。
大塚英志が長年続けてきた魍魎戦記MADARAシリーズに終止符を打つ形で発表した『僕は天使の羽根を踏まない』のあとがきに書かれていた「ライナスの毛布」という心理学用語からつけました。
「ライナスの毛布」とは「安心毛布」や「ブランケット症候群」ともいい、スヌーピーの漫画に登場するライナスという男の子が、肌身離さず毛布を持ち歩いている事から、何かに執着する事で安心感を得ている状態を指すそうです。
ここまで書けばおわかりかと思いますが、『三月の招待状』に書かれた5人の男女(正確には麻子を除いた4人)が大学時代の関係に執着している様子は、まさに「ライナスの毛布」の状態を表していると思います。
ただこれって、補足しておくと誰しもに覚えのある現象なはずなんです。だからこそ心理学用語として定着しているわけですし、「常に毛布が側にあることで安心感を得る幼児」というライナスの様子は非常にわかりやすい例ですよね。
ただ、基本的には子どもじみた行動原理であって、自制心を持った大人が左右されるようなものではない。
つまり「ライナスの毛布」という状態は「何かに執着しなければ満たされる事のできない未成熟な状態」として、嘲られるべきものとされていたりするのです(一般倫理的には)。
もう少しわかりやすく言うと「お気に入りのぬいぐるみ抱きしめて安心するー」、なんていうのは幼児退行現象であり人知れずこっそりやるべきもの、という感覚ですよね。
だからいつまでも昔の趣味を大事に続けているおじさんが、うわっと嫌悪感を示されたりするわけです。「いい歳して……」というのがよくある枕詞ですよね。「いい歳してゲーム」、「いい歳してギター」、「いい歳してバイク」……その他。
これもだいぶ昨今の世の中では見方も変わってきた気はしますが。趣味はないよりある方が絶対的に良いですからねー。
……だいぶ脱線しましたが、話を元に戻すと、つまるところ「大学時代の関係に執着し続ける彼らの様子」というのは外部から見ると非常に子どもじみたものに映ってしまったったりするのです。そんな外部の視線に気づかない鈍感さ、マイペースさは逆に「おばさん」的に見られたりもします。
そういった醜い大人たちを遥香や重治といった年下の子たちのフィルターを通して浮かび上がらせる、というのが本書の非常によくできたところ。
充留たちはちょっと現実離れしているように思えますが、一方で身の回りにたくさんいそうな気もしてくる。一言で言ってしまえば、いつまでも青春から離れられないリア充中年。そういういそうでいなさそうな絶妙なラインを切り取って作品にしてしまうのが角田光代らしいところです。読む手が止まらなくなるような面白さとはまた違いますが、興味があれば手に取って欲しいですね。
……で、もう一度「ライナスの毛布」。
僕にとっての「ライナスの毛布」というのが、実のところ読書だったりするわけです。
常に本が側にないと、未読の本が本棚にストックされていないと安心できないという執着対象。
他者から見れば子どもじみてると思われてたりするんですかねー?
尚、前述した大塚英志の『僕は天使の羽根を踏まない』は、擦り切れるほどに続編や派生作品が描かれ、肥大しまくった挙句完結する事のない魍魎戦記MADARAシリーズの続編・完結を求める声に対する一つの答えとして提示された作品です。
MADARAに執着し続ける読者や関係者に対し、いつまでも「ライナスの毛布」に執着してんじゃねーよ、というかなり強烈なアンチテーゼだったわけですが。
我々読者としてもどんなに思い入れの深い作品だったとしても、安易に続編を求めるべきではないのかもしれませんね。
そういえば『ぼくらの七日間戦争』アニメ化のニュースを見ました。
見たいような見たくないような……。
昨今の風潮を見るにつけ、原作改変は不可避ですし。
僕の中で七日間戦争は宮沢りえであり「Sevendays war」を大事にし続けたいなぁと思います。