おすすめ読書・書評・感想・ブックレビューブログ

年間100冊前後の読書を楽しんでいます。推理小説・恋愛小説・歴史小説・ビジネス書・ラノベなんでもあり。

『ほま高登山部ダイアリー』細音啓

「嬉しいな、わたし知らなかったよ。冬嶺くんも登山が好きなんだよね? わたしもなの! ここ受験する前から登山やってみたくて!」

細音啓『ほま高登山部ダイアリー』を読みました。

レーベルはガガガ文庫。久しぶりのライトノベルという事になります。

とはいえ一時期やたらと読み漁っていたのもスターツ文庫などのライト文芸レーベルが多かったので、純粋なライトノベルとなるとおそらく今年3月に読んだ『はめふら』以来となりますので、懐かしさすら覚えます。

 

ちなみに本書を読むに至った経緯を説明しておくと、以前の記事で書いた通り、今月からAmazon Kindle Unlimitedなるサブスクに登録しました。

月額990円という定額で好きな本が読み放題という事で、気の向くままヤマケイ文庫の作品や趣味の登山雑誌なんかを読み漁っていたのですが、何故かオススメに登場したのが本作。

 

どうやら登山を題材としたライトノベルのようなのですが、2017年発行以来、明らかにシリーズ作品を匂わせているにも関わらずいっこうに続編が刊行される気配がないのが非常に気になるところ……。

とはいえせっかく毎月定額のサブスクに登録しているのだから、こういうものにも手を出してみようと思った次第です。

 

今や漫画業界では『ヤマノススメ』や『山と食欲と私』といったライトハイキング系の山登り作品に加え、『ゆるキャン!』などのキャンプやアウトドアを扱った作品がヒットして久しいのですが、考えてみると小説界隈では『氷壁』や『孤高の人』といったガチクライマーを扱った名作が多い反面、ライトな作品って少ないんですよね。

というか、皆無に等しい状況。

 

そんな中、登山を題材としたライトノベルとして唯一存在するのが本作だったりします。

 

それでは早速内容に触れてみたいと思います。

 

 

告白→勘違い→登山部に入部する事に

本作は主人公である冬峰冬馬が、中学時代から思い続けてきたヒロイン乃々星縁に告白するシーンから始まります。

しかし縁は「登山が好き」だと勘違い。

高校に進学したら登山部に入りたいとかねてより思い続けてきた縁は、冬馬もまた登山を志す同士だと早とちりし、一緒に見学しようともちかけます。

そこへ登場したのが変人部長こと御傘マリ。

ひと目見て冬馬の想いを見抜いたマリは、もっともらしい理由を並べて冬馬を登山部へと誘います。

冬馬はなし崩し的に、登山部への仮入部をすることに――。

 

……とまぁ、どこか既視感のあるはじまりとなっています。

ライトノベルの分類については不勉強ですが、いわゆる「学園モノ」というやつでしょうか。

 

登山部には三年生のマリの他に二年生のハーフ美女・水守ガブリエッラが在籍しており、彼女はまるで天使のような外見の持ち主。おまけに巨乳。食いしん坊でおっちょこちょいで運動は大の苦手。

演劇部にも所属し、どこかずる賢いマリとはまるで正反対の性格をしています。

一方、ヒロインこと乃々星縁は実戦空手の道場に生まれ、幼い頃から想像を絶するような空手の修行を積んできた和風美人。

この三人とああだこうだとやり取りしながら、物語は進んで行きます。

 

「学園モノ」かつ「ハーレム系」……かな?

 

 

覚悟はしていたけど……

まぁほぼほぼ登山とは無関係な話です。

 

みんなでトレーニングする→女の子達のジャージ姿がうんたらかんたら

みんなで登山用具の買い物に行く→女の子達の私服がうんたらかんたら

実際に登山に行く→女の子達の登山ウェア姿がうんたらかんたら

 

……とまぁ、やたらと女の子達の外見についての描写が多い。

しかもどうしてかヒロイン役である縁よりも、ガブリエッラに対するものが多いんですよね。

 

登山でもなく、冬馬と縁のラブコメでもなく、可愛いポンコツであるガブリエッラを愛でる事に大半を費やす本。

彼女に惹かれない読者にとってどんな感想になるかは、書くまでもありませんね。

 

女の子達の外見やおっちょこちょいやドジに関するエピソードを省いてしまえば、ストーリーとしてはかなり貧弱です。

しかもそのストーリーも、ほぼガブリエッラのドジや微エロエピソード塗れで、肝心要のトレーニングの内容や、登山用品の選択に関する真剣さはまるで伝わって来ません。

 

最後の登山では「登山には不向きである」という事を実際に体験するために、山頂でカレーを作ります。

カレーは粘度が高く、食後の始末が大変だというのが不向きな理由。

しかしながら、キャンプや山小屋で提供される食事のイメージからビギナーはカレーを選択しがちなのだとか。

 

……は?

未だかつて、山頂でカレー煮るやつなんて見た事ないんですが。

 

例えばこれが「ほま高登山部伝統の山頂飯だ~!」とか謎の風習をでっち上げ、しかも目茶苦茶美味しくて感動するようなエピソードでもあれば違ったのかもしれませんが、あくまで「カレーついたままの鍋を背負って下りるの大変だよね。ペーパータオルで拭いてもゴミになるよね」という教訓を得るためだけの地味な調理実習なのです。

味に感動するような描写は一切なく、代わりにあるのは多すぎる量をひいひぃ言いながら平らげるシーンだけ。

 

最終的に冬馬は登山部への入部を決めますが、その理由も「中学校時代に少しだけ所属した運動部は理不尽な上下関係に苦しんで辞めたけど、登山部のアットホームな雰囲気も悪くないと思った」という地味な理由。

特に山登りで感動したとか、魅力に目覚めたというわけではないのです。

 

あまりにも山の魅力について描かれる場面が少なすぎて、ちょっとよく理解できないんですが……著者はどうして登山を題材にした作品を描こうとしたのでしょう?

 

上に挙げた『ゆるキャン△』にせよ『ヤマノススメ』にせよ、『山と食欲と私』にせよ、根底には題材するキャンプや登山に対する愛情があったと思うのですが、本書にはそれがさっぱり感じられません。

けいおん!』的な学園モノに便乗するにあたり、昨今流行りと言われている登山を使ってみようかでも思ったのでしょう。

 

結局のところ、本書の魅力というのはヒロインでもない脇役のハーフ美女・水守ガブリエッラを好きになれるかどうかという点にのみかかっていると言っても過言ではありません。

まぁキャラクター性については登場人物それぞれが、アニメをそのままノベライズしたような強い個性を放っているのは間違いありませんが。

それだけ、で最初から最後まで楽しく読める作品というのもなかなか難しいのでしょうね。

 

一話打ち切りも納得の仕上がりでした。

 

登山を題材にしたライトノベル、需要ありそうだけどなぁ。

誰か面白い作品を書いてくれないものかしら?

 

 

 
 
 
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『新編山のミステリー 異界としての山』工藤隆雄

幽霊がゆっくりと常連のほうを見た。目があった。背筋が凍るような寂しそうな目をしていた。何かいいたそうな、問いかけたそうな表情だった。

引き続きヤマケイ文庫さんから、工藤隆雄『新編山のミステリー 異界としての山』を読みました。

登山や山に関わるオカルト・超常現象的な逸話を集めた本です。

 

というと同じヤマケイから出版されているベストセラー『山怪』があまりにも有名ですね。

 

『山怪』は山に関わる様々な不思議な話を集めた本で、第三巻が発行される程の人気シリーズとなっているのですが、いかんせんカテゴリーとしての「山」が良くも悪くもあまりにも広すぎたりします。

登山に限らず、マタギや猟師等、山とともに暮らす人々の体験談や逸話が多く収録されているのです。

「現代版遠野物語」の呼び名通り、それはそれで非常に興味深いものなのですが、ヤマケイ=登山といった印象だけで手に取ってしまうと肩透かしを食う結果になりかねません。

 

その点本書に登場するのは、登山者や山小屋の主人の体験談が主であり、より登山に近い環境から集められたエピソードが楽しめます。

 

 

4章56話の作品たち

本書に収められた不思議な話は、それぞれテーマの異なる4章に分けて収録されています。

 

  • Ⅰ 山の幽霊ばなし
  • Ⅱ 人智を超えるもの
  • Ⅲ 自然の不思議
  • Ⅳ ひとの不思議

 

なかでも一番盛り上がるのはやはり「Ⅰ 山の幽霊ばなし」でしょう。

長年数々の登山者を泊め、時には遭難や事故に関わるケースの多い山小屋には、幽霊の話はつきもの。

主人や従業員が在住する山小屋はもちろん、緊急用に設置された避難小屋を興味本位で覗いてみたところ、なんとなく背筋やひやっとするような、薄気味悪い感覚を覚える事は登山をかじった人間であれば誰しもが経験のあるところかと思います。

 

全10話の幽霊ばなしはどれも夏の夜にふさわしい作品ばかりですが、個人的には特に第10話「避難小屋の怪」がおすすめです。

 

避難小屋に到着した男が、ロフト式の上部に居場所を決めてうたたねをしていると、いつの間にか他のパーティがやってきて食事を始めています。誰もいないものと思い込んでいたパーティは、男を見ておばけだと勘違いしてしまうというお話。

なかなか秀逸なオチまでついていて、ちょっとした際に披露する怪談話としては最高と言えるでしょう。

 

「Ⅱ 人智を超えるもの」では、捜索隊がいくら探しても見つけられなかった遺体を、ふらりとやってきた身内がまるで最初から知っていたかのように簡単に発見してしまう話や、UFO・神様・天狗といった神秘的な話で占められています。

 

「Ⅲ 自然の不思議」は助けを求める声のように聞こえる鳥の鳴き声や、空を飛んでいるように聞こえるキツネの鳴き声、不思議な木との逸話、天狗らしき音の正体や突然移動した大岩等々、こちらもタイトル通り動物や植物といった自然にまつわる話です。

 

「Ⅳ ひとの不思議」はまるで死にに来たかのような登山者たちや、殺されたのではないかと疑わしい遭難遺体、山小屋を訪れた心優しい少年が実は窃盗の常習犯だった、道路も道もない山の奥深くに放置された車の謎等々、人間にまつわる不思議な話を集めたもの。

 

いずれも趣深いエピソードばかりなのですが、やはり山のミステリーの華と言えるのは一章の「山の幽霊ばなし」と言えるでしょう。

逆に言うと、一章が盛り上がった分、残る三章はちょっと物足りなさが残ってしまったかな。

 

しつこいようではありますが、僕個人としてはとにもかくにも第10話「避難小屋の怪」を読めただけでも非常に満足していますので、立ち読みでも結構なのでぜひ一読をおすすめします。

きっと誰かに話して見たくなる事は請け合いです。

 

それでは短いですが、今回はこのへんで。

 

 

 
 
 
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『ドキュメント 単独行遭難』羽根田治

道に迷ったら沢を下っていってはならない。来た道を引き返せ――

 

さて、前回の『ドキュメント 道迷い遭難』に引き続きヤマケイ文庫からのご紹介。

今回読んだのは『ドキュメント 単独行遭難』。

『道迷い遭難』と同じ羽根田治の遭難シリーズです。

 

『道迷い』に対し、今度は『単独行』。

非常にわかりやすい事この上ないですね。

それでは前置きはそこそこに、内容についてご紹介しましょう。

 

単独行遭難の7つのドキュメント

本書に収められているのは、登山に関わる様々な遭難の中でも「単独行遭難」にテーマを絞った7つの話。

 

例によって以下に概要を記します。

 

『奥秩父唐松尾山 2008年5月』

 ゴールデンウィーク中に一ノ瀬高原作場平駐車場から唐松尾山に登り始めた斎藤(57歳)は、過去二度登った事のある慣れた山であるにも関わらず、例年にない残雪にも惑わされ、下山中に誤って北斜面に延びる枝尾根に入り込んでしまう。

 方向感覚を失い、三、四時間も彷徨った末、斎藤は見つけた沢を下って行く。道迷いの末に沢下りを選択する危険性は理解していたにも関わらず、この時点では本人はまだ正しい方向に進んでいると認識していたのだ。

 しかし間もなく日没を迎え、ビバーク

 翌日初めて確認したコンパスで、自分が見当違いの方向に進んできたと尻、大きなショックを受ける。

 まだ雪の残る山中の彷徨は四日間に及び、幻覚を見、熊にも遭遇し、と数々の壮絶な体験の末、無事ヘリコプターに救助されたのだった。

  • 通いなれた山域という過信。
  • 迷った後で取り出したコンパス
  • タブーである沢下り

本章もまた、数々の教訓に満ちた話だった。

 

 

『北海道・羅臼岳 2011年6月22日』

約三週間の北海道バイクツーリングに訪れた黒田(38歳)は、ビジターセンターの職員にも相談し、軽アイゼンでも大丈夫だろうという確認を取った上で羅臼岳へ挑む。

途中、雪渓の上に地図には無いルートを辿る足あとを見つけた黒田は、頂上までの最短ルートに違いないと判断。途中誤りに気付き引き返す途中で、足を滑らせしてしまう。

本人談で200メートルもの長い距離を滑落したものの、奇跡的に怪我一つ負わずに済に、正規ルートへ復帰。しかし大きく時間をロスしてしまう。そのまま下山するつもりだったが、山頂を目の前にした黒田は気が変わってピークを目指す事に。これによりさらに余計な時間を消費してしまう。

急な雪渓への恐れから、登って来た羅臼温泉側ではなく、ウトロ側へ抜けるようルートを変更したが、途中再び見通しの悪い林の中に迷い込んでしまう。

携帯電話の電波を探すため、ザックを置いて小ピークの上に立ち、所属する山岳会の所轄警察と電話でやりとりを交わす黒田。しかしその間に夕闇に包まれ、自分がザックを置いてきた場所を見失ってしまう。

ザックには大事なツェルトまで入っていたというのに、これにより黒田は着のみ着のままでのビバークを余儀なくされる。

翌朝、明るくなるのを待って警察に再度連絡。「動かずに待て」と指示を受けるが、あまりの寒さに耐えきれず、黒田は行動を開始する。

すると一時間半も歩いたところで、ひょっこり木下小屋の裏手に飛び出してしまった。

そうして自力下山を果たしたものの、既に捜索隊は捜索を開始し、連絡を受けた家族は北海道まで駆け付けようと空港で出発待ちをしているところだった。

 

  • 安易にルートを外れる判断ミス
  • 時間がないのに頂上を目指してしまった判断ミス
  • 大事なザックを身体から手放した判断ミス

 

元々斎藤の経験や技量的に、残雪期の羅臼岳を単独で挑めるものなのかどうか、というそもそもの疑問もだが、全般的に呆れる程の判断ミスの積み重ねによって事態の深刻化を招いた逆の意味での好例と言える。

 

 

秩父両神山 2010年8月』

お盆に両神山を目指した多田(30歳)は、家族に具体的な山名も告げず出発。用意してきた登山届は登山口のポストを見落とし、提出しないままになってしまう。

順調に登頂を遂げた後、来た道ではなく、七滝沢ルートを行こうと思い付いた多田は、途中斜面で足を滑らし滑落。約40メートルを転げ落ち、気づいた時には左の足の脛から骨が飛び出す解放骨折の重傷を負っていた。

しかし携帯電話の電波は繋がらず、通りかかる人もいない。

母親から届けを受けた警察が捜索隊を出し、母親の証言から両神山に登ったらしいと見当を付けたものの、問題はどのルートから登ったのか、という点だった。

捜索は難航し、多田は実に十四日間という期間を山中で過ごすことになった。

 

  • 単独行は遭難すると救助が難航するという好例
  • 必ず登山届を出し、周囲の人にも計画の詳細を告げておくべき 

 

尚、本事件は奇跡の生還劇として様々なメディアに取り上げられているので、一例を下記に貼っておきます。

 



 

北アルプス・徳本峠 2007年8月』

本章は遭難者の男性(50歳)による一人称の手記形式で記されている。

島々谷から徳本峠へ、一泊二日または二泊三日で歩く予定をしていた男性は、二日目の朝、小南沢への徒渉店に着く。橋は道から落ちており、少しもどって河原からいけば問題なく渡れるにも関わらず、うかつにも崩壊した橋に近づいてしまう。

そこで、残っていた橋の残骸の崩落に巻き込まれてしまった。

右足はあらぬ方向を向き、動かそうとすると激痛が走る。

男性は身動きを取れぬまま、誰かが通りかかるのを待つ事になった。万が一、沢が増水しておぼれ死んだとしても流されないようにと自分の体をロープで橋の踏み板と結びつけた。さらに用意していたツェルトやエマージェンシーブランケットを身体に巻きつけ、ビバークの準備を整えた。

そうして男性は足を折ってから実に29時間という長い時間をたった一人で過ごした後、たまたま通りかかった登山者に発見される。

 

  • 不安定な場所にわざわざ足を踏み入れた
  • 前章同様、登山届を出していなかった
  • 予定していたコースは台風の被害等により入山禁止となっていた

 

本章については上記のような不注意はもちろんだが、男性の充実した装備や落ち着いた行動がリスクを最小化したという点についても大いに教訓となる。

 

 

加越山地・白山 2011年8月9日』

若い頃から登山に親しみ、経験を積んできた越村(41歳)にとって、白山の一般コースの中でゴマ平避難小屋から白川郷へ抜ける来た北縦走路だけが道のコースだった。

二日目、余裕の行程だからと油断していた越村は、ゴマ平避難小屋まであとわずかという急な下り坂で、うっかり転倒・滑落してしまう。

翌朝には腫れも痛みも弾いており、予定通り白川郷を目指して進むものの、途中で登山地図の時間を二時間と二十分で見間違えていた事に気付く。しかも発汗により予想以上にバテてしまい、標準コースタイムを二倍近くかけて歩くような有様だった。

無理をして歩き続けていると、突然ふくらはぎの筋肉をつってしまう。しばらくして治まったかと思えば全身の筋肉を次々とつり、部分的な痙攣は全身へと広がり、歩くどころではなくなってしまった。

携帯電話で救助を要請し、越村はヘリコプターで搬送。診断結果は熱中症だった。

 

  • コースタイムの見間違い
  • 熱中症は荷物が多すぎた事も原因の一つだった。仲間がいれば分担できた。

 

越村は事故の翌週同じコースに挑み、無事白川郷まで下山を果たしたという。

なんと言ってよいものか……まぁ、色んな意味で豪胆な人物。

 

 

北アルプス・奥穂高山 2011年10月』

宮本(26歳)は、二泊三日で奥穂高から西穂高への縦走を計画。

しかし二日目、穂高岳山荘に泊る予定を変更し、一気に西穂高山荘まで行こうと軽はずみに決断する。

そこに気のゆるみがあったと本人が言う通り、ジャンダルムを過ぎて間もなく、バランスを崩して5メートル程滑落してしまう。しかもその際、大きな岩に思い切り股間を叩きつけてしまった。激痛に耐えて恐る恐る見てみると、性器からは大量の出血が。

登り返す事はできないと判断した宮本は、再び滑落しそうになりながらも逆に下りていく事を決断した。二時間かけて開けた場所までたどり着いたところで、救助を要請する。

ちょうど岳沢小屋からも見える位置だったため、小屋の小屋番ともやり取りを重ね、寒さに震えながら一晩をビバークして過ごし、翌日ヘリコプターにより救助された。

 

  • 余裕をもった計画を
  • 滑落場所から降りる決断は、場合によってはより重大な事故につながった可能性も

 

本章は他の話に比べると「うっかり足を滑らして滑落し、救助された人の話」に漢字てしまうのですが、年間に何件も同じような「うっかり」で命を落とす人がいるという穂高岳あたりの山行というのはやっぱり怖いですね。

 

尾瀬尾瀬ヶ原 2010年1月』

社会人山岳部に所属する森廣信子(54歳)は、年末年始を利用してラッセルのトレーニングを目的に尾瀬へと向かう。

行程は尾瀬戸倉から入って尾瀬ヶ原を横断し、景鶴山へと登った後、外田代に下りて山ノ鼻から鳩待峠へ、というもの。

装備も経験も万端。本書の中で一番のガチクライマーと呼べそうな森廣は、しかし尾瀬で思いも寄らぬ大雪に見舞われる。

景鶴山の手前でビバーク中、あまりの降雪に撤退を決心する森廣。しかし、胸まで潜るような積雪に、一日で一キロそこそこしか進む事ができなかった。結局一日、二日と必死に進み続けるものの、下山予定日である三日には帰れなくなってしまう。

森廣にとっては雪によって計画が遅れているだけで、危険もなければ自分が遭難しているという意識も無かったのだが、事前に提出していた登山計画書を元に、麓では救助部隊が出動していた。

結果として下山予定日から二日後の一月五日、田代原のあたりを下りていくところを彼女を探して来たスノーモービルと遭遇。森廣は不本意ながら捜索隊に救助される事となった。

 

  • 本人的には遭難したつもりはないが、救助騒ぎに発展してしまった
  • 下山予定日・予備日の設定が身近過ぎたのでは
  • いずれにせよ無事で済んだのは良かった

 

この森廣氏、後に「会の代表に言われたから仕方なく提出したけど、こんな騒ぎになるなら出さなきゃよかった」と笑うような人物。

ベテランのガチ登山者とはいえ、いずれもっと大きな事故を起こしそうな予感しかしません。

 

 単独行についての是非

前回の『道迷い遭難』では、様々な遭難の中でも「道迷い」の割合が非常に多いというお話でしたが、では『単独行遭難』はどうなのかという点を、本書の最終章にあたる「単独行についての考察」から抜粋します。

 

 警察庁の統計によると、2002(平成14)年度の遭難者数は1631人で、死者・行方不明者は242人。このうち単独行での遭難者は381人、死者、行方不明者は100人となっている。その十年後の2011(平成23)年、遭難者数は約1.4倍の2204人、死者・行方不明者は約1.1倍の275人、うち単独行の登山者は約2倍に増えた761人、単独校の死者・行方不明者は約1.5倍の154人である。

 この数字からは、2011年の遭難者の三人にひとり(約34パーセント)が、死者・行方不明者に限るとその半数以上(約56パーセント)が単独行者だという現実が浮かび上がってくる。

 

遭難するのも、その結果として死者や行方不明となってしまうのも、単独行者の割合が非常に高いという事がわかります。

そのため一部都道府県や山岳地域では、「できるだけ一人での登山は避けるよう」呼び掛けているところも少なくありません。

それなのに、単独行を選ぶ登山者はむしろ増える一方。

 

本書の中でも触れられていますが、理由は明白です。

 

気楽だから

 

というのが一番の理由。

 

誰かと一緒だと何かあった時に安心と言えるかもしれない一方で、ペースが合わなかったり、性格が合わなかったりすると、せっかくの山行そのものが台無しに確立も高いのです。状況によってルートを変える、なんて事も一人ならなんの躊躇もいりませんが、複数だとそうは行きません。

これは山中だけではなく、下山後の行動も一緒です。お腹が空いていないのに付き合いで食事をしなければならなかったり、逆に温泉に入って汗を流したいのにできなかったりという残念な経験を持つ人も多いと思います。

 

自分と同じぐらいの体力の持ち主で、一緒にいて気が楽で……というパートナーが見つかる人はなかなか稀有だと思います。

複数での登山を選ぶ方は、感動の共有や何かあった時の安心といったものの代償として、様々な我慢を強いられていたりもするのです。

 

本書はそんな単独行のメリットとデメリット両面についてしっかりと触れられており、一概に単独行そのものを批判するものではありません。

むしろ本書を読む事で再度単独行のリスクを認識し、しっかりと準備や計画をもって登山に臨もうという登山者は増えるのではないでしょうか。

 

ヤマケイのドキュメントシリーズだけあって、今回も非常に勉強になりました。

 

 
 
 
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『ドキュメント 道迷い遭難』 羽根田治

 しかも、これからかかるであろうコストは、まったく道であるにもかかわらず、どうしても過少に評価しがちになる。人は、そこまでにかけてきたコストが大きければ大きいほど、これからかかるであろうコストを相対的に小さく考える傾向にある。来た道を引き返してまた最初からやり直すコストに比べたら、強引にでも下ってしまうコストのほうが小さいはずだと思ってしまうのだ。

羽根田治『ドキュメント 道迷い遭難』を読みました。

 

登山雑誌でも有名な山と渓谷社のレーベル「ヤマケイ文庫」からの作品。

僕も一応山歩きの愛好家として常々ヤマケイ文庫の作品に興味はあったのですが、ニッチな分野のせいか中古市場が値下がりせず、一般的な図書館にもあまり蔵書がないため、なかなか読む機会を得られずにいました。

 

ところが最近、ちょっとあるものに手を出してしまいまして……。

というのがこちら。

 


Kindle Unlimited!!!

 

常々気にはなっていたんですが、たまたま別に登録していたサブスクのサービスを解約したことも重なり、だったら月990円だし登録しちゃおうか、と。

新作の追加が遅いとか漫画が少ないとか色々と欠点も多いKindle Unlimitedですが、特に新作にこだわらない僕のような読書家にとってはあまり気にもならないんですよねー。

 

むしろ本作のように、今まで読みたかった本を手軽に読めちゃうというのはメリットだらけだったりして。

 

なのでせっかくKindle Unlimitedに登録したにも関わらず最初に選んだ本が、話題書や新作ではなく、本書のようなニッチな本になってしまいました。

ブログのPV数やアクセス数だけ考えれば、受賞作品や映像化作品だけを読んで記事にしていった方が圧倒的に伸びるのですが、当ブログに関してはもはや読書ノートの代わり・個人的な忘備録と化しているので、とにかく読みたい作品をを好きなだけ読んでいくことにしたいと思います。

 

道迷い遭難の7つのドキュメント

本書に収められているのは、登山に関わる様々な遭難の中でも昨今特に件数が増加している「道迷い遭難」にテーマを絞った7つの話。

社会派小説のような体裁でありながら、いずれも実際の事件を扱ったドキュメントです。

下記に概要を示します。

 

南アルプス・荒川三山』

 主人公は当時52才の島田。

 登山口のポストに投函した計画書には、三伏峠から小川内岳、板屋岳を経由して荒川三山まで、三泊四日の行程を記入していた。

 しかし、場合によっては赤石岳まで足を延ばし、小渋に下りることも想定。

 結局三日目の朝、荒川小屋で目を覚ました島田は雨のせいもり、小渋へ降りることにする。

 そうして広河原小屋まで差し掛かったあたりでおかしいと思ったものの、どうせ広河原まですぐだろうからとそのまま突き進む。やがて、沢を下って行った島田は高さ二メートルほどの滝に行く手を阻まれる。横に垂れていたワイヤーに掴まり降りるも、手を滑らし落下。降りた先は、滝の途中にあるテラスの上。

 上ることも下りることもできなくなった島田は、無謀にも5メートルほどの高さから滝壺へと飛び降りる選択をする。

 結果、左足の踵を圧迫骨折。

 満足に身動きもとれなくなってしまい、 その後救助隊が駆け付けるまで、九日間もの間を沢の中でビバークして過ごす事になる。

  • 登山計画の変更による捜索の難航
  • 雨の中ザックから出すのが億劫だからとせっかく携帯してきた地図を確認しない
  • 道迷いに気づいたのにそのまま突き進む
  • 怪我を顧みないほどの判断力の低下(パニック)

 幾つもの要因が積み重なった典型的な道迷い遭難。

 

 

北アルプス常念岳

 主人公は当時26歳の奥原。

 年末年始を利用し、三十日は中房温泉から燕山荘、大晦日は大天荘、元旦は常念小屋、二日に蝶ヶ岳ヒュッテ、三日に上高地という四日間の常念山脈単独縦走を予定していた。

 元旦、天候が回復するのを待ち大天荘を出発した奥原は、途中突風や予想外のラッセルに苦しめられながらもなんとか常念小屋に到着。しかしながら小屋の中も底冷えがひどく、寒さに震えることとなる。この時すでに、左手の指先は凍傷が侵攻しつつあった。

 翌二日、再び出発した奥原は常念岳の山頂に立ったものの、その後襲い掛かる強風に堪らず縦走路から外れた樹林帯へと逃げ込む。視界ゼロの中、胸まである積雪に埋もれ、方向すらも見失ってしまう。

 観念してテントを設営、雪の中でのビバークを余儀なくされる中、奥原は常念小屋へ引き返すのではなく、そのまま谷を下るという最悪の選択をしてしまう。深い積雪を進み、再びビバーク

 そうして一月四日、遂に目の前を深い滝に遮られてしまう。

 そこで奥原は、前出の島田同様、滝壺に飛び降りるという無謀な行動を取ってしまうのである。

 怪我こそ負わずに済んだものの、玄関の冬山で尻まで水に浸った奥原は、以後、さらにひどい悪寒に苛まれることになる。手足の凍傷も悪化の一途を辿る。

 

ムキになって力を入れた瞬間、左手の指先にプチッというような感覚を覚えた。はめていた手袋を取ってみると、中指と薬指の指先の皮と爪が剥がれ、肉と骨が見えていた。驚いて手袋を振ってみると、剥がれた皮と爪がぽろっと落ちてきた。

 

 まさに凄惨。

 その後も奥原は何度も滝壺にはまり、沢で足を濡らしながら進み、1月6日、ようやく横尾山荘に到着。誰かがデポしていった食料を口にし、薪に火を入れて誰かが来てくれるのを待つところを、蝶ヶ岳登山の帰りに立ち寄った飯塚夫妻に発見されることになる。

 飯塚が朝になるのを待ち、翌日救助要請に下りることに。

 悲惨なのはその夜。温まり、血行が良くなった奥原の足に激痛が走ることになる。

 

〈ゾウに足を踏みつぶされているような激痛で、とても我慢できるレベルではなかった。今度あの激痛が襲ってきたら、耐えられる自信はない。おそらく気が狂うだろう〉

飯塚と香代子は、とても寝るどころではなかった。香代子が言う。

「一晩中、悲鳴を上げてましたね。『もう切ってくれ~』って叫んでました。そんなに痛いものなのかなあって思いました。 

 

 救助ヘリがやってきたのは翌一月七日。

 ひと月の入院の後、足はなんとか助かったものの、両手の六本の指先を切断。親指と小指だけが残った。

 

 一話目同様、楽観視による行動がさらに悪い事態を招き、ドツボに嵌まっていくという象徴的な道迷いの話。

 

 

南アルプス北岳

 主人公は当時59歳の鶴田。

 9月1日、広河原から白根御池小屋に一泊、二日目は北岳山荘に泊るという二泊三日の単独山行を予定する。

 そもそもがこの時点で無謀な計画で、何しろ鶴田は北岳肩ノ小屋から山頂まで標準コースタイムの倍の時間を要するような体力の持ち主。一般的に登山ガイドに掲載されているような標準コースタイムは、標準と言いつつもかなり余裕を持った時間で計算されています。登山者の多くを占める中高年が歩いても、極端に時間を見誤る事の無い様、といえばわかりやすいでしょうか?

 にも関わらず、倍はかかり過ぎです。この時点で、鶴田にとって北岳は体力に見合わない無謀な挑戦だった事がわかります。

 なんとか北岳山荘にたどり着いたまでは良かったものの、隣の男性客のいびきがうるさく、疲労困憊の体に睡眠不足まで重なる。

 朝食もとらずに5時半に小屋を出発。ところが途中の標識を見て予定変更。水場までの行き止まりの道を近道だと思い込み、そのまま沢へと入って行ってしまう。そして足を滑らせ、3,4メートル滑落。

 道迷いに気付くも、体力の限界に近づいていた鶴田には、せっかく降りてきた一時間の道を登り返す事など考えられない。そのまま下り続けて行けば登山道に出るだろうと決断し、雨の中道なき沢を進む。

 やがて日が暮れ、ビバーク

 明けた翌日、大見直して斜面を登り返す鶴田。ところがあと10メートルも登れば尾根というところで、再び後戻りを始める。そのさ中、バランスを崩して再び滑落。以後は、沢を上流に遡るという行ったり来たりを繰り返す。

 さらには熊との遭遇。

 ビバークを繰り返しながら少しずつ沢を下った鶴田は、最終的にたまたま写真撮影のために皮を遡上してきた望月に発見される事になった。

 

 個人的に山登りに出掛けた際、誰もが知るような百名山でも、鶴田のような足取りの覚束ない高齢者が単独でヨロヨロと歩いているのを見る機会は良くある山登りは個人の自由ではあるが、自分の体力に合った山を選択するようにしたい。

 

 

『群馬・上州武尊山

 主人公は当時34歳の吉田香。

 尾瀬高原ホテルで働く友人、深田洋子の部屋を拠点に、吉田は上州武尊山へと出かける。

 季節は5月も末。山頂付近にはまだ残雪のある時期である。

 普段からマラソン等のトレーニングにも取り組んできた彼女は、どの山もコースタイムのほぼ3分の2で歩くことを目標とする健脚を誇る。

 穂高山山頂にも順調に到達するものの、その下山途中、「新緑と川の流れが美しく、ほんとに天国みたいなところでした」と言う遊歩道のようなきれいな川に迷い込んでしまう。本人は道迷いに気付きながらも、下って行く先に建物の陰が見えた事もあり、行けるのではないかと思い込んでしまった。

 沢はどんどん険しくなり、数メートル滑落。落ちた場所は7、8メートルの急斜面で沢の下流は崖。登り返そうと何度チャレンジしても這いあがれない。

 仕方なく、吉田はその場でのビバークを決断する。

 翌朝、何度目かのチャレンジでようやく斜面を上がったものの、上は背丈以上もある笹藪。藪漕ぎの繰り返しで遭難は3日目を迎え、一時は遺書を書くほどの弱気にも襲われた。しかし4日目、遂に吉田は自力で林道へとたどり着き、たまたま通りかかったバイクに救われたのである。

 吉田本人による反省は、「地図を携帯していなかったこと」と「下調べが不十分だったこと」。さらには以降はライターや発煙筒、テープを持参し、迷いそうなときにはテープでマーキングする習慣も身に付けた。

 

 いずれにせよ彼女の一番の失敗は、やはり「迷ったにも関わらず引き返さなかった」という点にあるだろう。先の三話同様、迷っている事を自覚しているにも関わらず引き返すタイミングを見失ってしまう事から、事態が悪化の一途を辿っている。

 原理原則として「迷ったらまずは現在地が確認できる場所まで戻る」は登山の鉄則である。

 

 

『北信・高沢山』

 主人公は当時45歳の高橋と、15歳の三女。

 5月24日、彼らは二人の姉と妻との計5人で、野反湖のハイキングに出発している。

 弁天山を過ぎた分岐で昼食の後、妻と上の二人の姉は「疲れたから引き返す」と湖畔の道を降り、高橋と末の娘だけが先の高沢山を目指す。

 想定外の残雪に驚くも、二人は問題なく高沢山山頂へ。その後、戻ろうか逡巡しながらもさらに先の三壁山を目指す事に。そのまま野反湖へ出ようと考えたのである。

 しかし残雪でわかりにくい上、登山コースではないテープにも気を取られ、二人はさらに雪深い北側の山中へと入って行ってしまう。やがて、足を滑らした娘とともに数十メートル滑落。ピッケルもアイゼンもない二人は登り返す事もできず、そのまま沢沿いに下りていく事になる。

 日没を迎え、二人はビバークを決意。

 翌日は雪渓を進む危険を察知し、藪の斜面を登り返す事に。

 沢を下っては行き詰まり、藪をこいで別の沢に出て再び降り始める。二人は実に三日間、山中でのビバークを余儀なくされたが、たまたまたどり着いた尾根で携帯電話の電波がつながった事で妻に連絡。四日目の夜も山中で明かした後、遭難五日目にして無事救助される。

 

 そう登山慣れしていない家族が、「低い山だから大丈夫」と下調べも装備も不十分なまま登山に出掛け、道迷いに遭うケースは昨今では増加傾向にあるように思えます。

 ましてや五月の末、残雪もある山を選択したのは完全に父親の失敗でしょう。実際下山した彼らは多くの報道陣に囲まれ、高橋は記者会見を行う事態に陥っていますが、まぁどんなに叩かれてもやむなしかな、と。

 

 季節が早すぎて、他の登山客がいなかったのも原因の一つかもしれません。もし慣れた登山者とすれ違っていたら、親子をひと目見て「引き返したほうがいいですよ」と忠告していたかもしれませんし。

 この親子は特に怪我もなく済んだから良かったものの、そのまま親子ともども帰らぬ人に……というニュースも少なくないですからね。

 家族の思い出を作るためのせっかくのレクリエーションなのですから、悲しい目に遭わぬよう準備は万端に、安全第一を心掛けて欲しいものです。

 

 

『房総・朝綿原高原』

 こちらの主人公となるのは月刊誌「新ハイキング」をきっかけとしたハイキングクラブの一行30人。

 中高年のパーティが大量遭難に陥るという、センセーショナルな事件。

 しかも舞台は房総。

 最高峰でも408mしかない千葉県内の低山歩きで起きたというのが特筆すべき点。

 時は11月の末、予定していたのは里川温泉から石尊山に登った後、札郷分岐、小倉野分岐、横瀬分岐を経て麻綿原高原まで、約四時間の行程。山歩きとして、四時間は決して長い道のりとは言えず、ちょっとした軽登山と言ってもよいレベルだと思われる。

 しかし実のところ、あまり標高の高くない低い山こそ道迷いが生じやすいのは登山者ならばよく知るところ。

 人里に近い山は、山菜採りやきのこ狩りの他、渓流釣りや林業従事者のような様々な目的の人々が入るため、獣道のような踏み跡があちこちにできていたりする。

 おまけにそれぞれがそれぞれの目的のためにテープを貼ったり、杭を立てたりといった事をするので、テープを目印に進んでいたらとんでもない場所に出てしまった……という事も少なくない。

 

 彼らもまた、三度道迷いを繰り返す間に日没を迎えることに。メンバーの中には疲れが見える人もいたため、ビバークを決意する。

 これまでの遭難例と大きく違うのは、彼らには余裕があったという点。

 道迷いといっても怪我を負っているわけではなく、深い沢の中で脱出できずにあがいているわけでもない。あくまで「暗くなってきたから」「これ以上歩くとけが人が出る可能性があるから」と、大事をとった選択がビバークだったというだけ。

 予定が変わり、心配する家族を思いながらも、彼らは枝を集めて焚火を起こし、思いががけないビバークを和気あいあいと過ごす事に。翌朝には沢から水を汲んで焚火を消し、痕跡を残さないようにと丁寧に片づけをする一幕も。

 翌日六時半に行動開始し、二十分ほど歩いて尾根に出たところで無線と携帯がつながるように。家族に無事を連絡できてほっとしたのものの、彼らの想像以上に、事態は深刻化していた。

 バスの運転手から通報を受けた鴨川警察署は捜索を開始し、警察官のほか、機動隊員や消防隊員も出動し、最終的には延べ三百人という大掛かりな捜索隊が出動していただ。さらに、ニュースを聞きつけたマスコミも続々と現地に。

 迎えに来た消耗団員とともに下山を始めた彼らと、いくつものテレビカメラが待ち受ける。朝綿原高原ではさらに大勢の報道陣が殺到し、彼らにマイクを突き付け、質問と非難とを次から次へと浴びせかける。

 

 最終的には、リーダーである島田とサブリーダーの二人が、記者会見を行う事に。

 会見の場では彼らに情け容赦ない批判がぶつけられ、島田が半ば逆ギレしたことでいよいよ炎上。彼らにとっては遭難といっても特段危険があったわけではなく、あくまで大事をとって一晩山の中で明かしたというだけ。捜索隊などなくとも難なく自力で下山できたという認識なのだから、自分達のあずかり知らぬところで話が大きくなっている事が疑問でしかなかったのだろう。

 

 ただし、後日島田自身も後日自分の非を認める発言もしている。

 下山日時がズレるのは山登りにつきものとはいえ、大勢の山行である以上、そうした場合の対処法や連絡手段を決めておくべきだったと思われる。

 11月末とはいえ、山慣れしている人にとって16時や17時の夕暮れぐらいであればまだまだ行動できる時間帯。みんなにビバークを命じる一方、リーダーなりサブリーダーなり、選抜した一人ないし二人に、先行して山を降りさせるという事だって考えられる。もし本当に自力下山の自信が百二十パーセントあったというのであれば、個人的にはそうすべきだったと思う。

 そうして警察なり関係者なりに状況説明ができていれば、そこまで大事にはならずに済んだであろう、と。

 深刻な遭難事件ではない一方、色々と教訓も多い話。

 

 

『奥秩父・和名倉山』

 主人公は当時38歳の尾崎葉子。

 ゴールデンウィークに合わせ、4月29日から2泊3日で和名倉山へ登る計画を立てる。

 新地平から笠取山を経て将監小屋で一泊、翌日は和名倉山をピストンして将監小屋でもう一泊。飛龍山から丹波へ下山しようというのがその計画。

 しかし、出発当日、踏切事故により足止めをくらい、しょっぱなから計画が狂ってしまう。

 バスの時刻が合わないため、翌日出直すことに。

 となると行程自体が合わないため、1泊2日に練り直す必要があります。そこで、難路で情報は少ないものの、和名倉山からそのまま秩父湖へ抜けるコースへと変更することに。

 

 和名倉山までは特に問題なく進んだものの、さらにその先で、尾崎は視界の効かない笹藪に苦しめられる。ときどき笹につけられたテープを目印に辿って行くが、実はこれは沢登りの愛好家が勝手に設置した正規の登山ルートへ出るための目印だった。

 この辺りは沢登りの人気ルートとなっていて、あちこちに登山者のテープと、沢登りのテープが入り乱れる状態になっていたのだ。

 尾崎は知らず知らずのうちに沢へと導かれてしまったのである。

 ここまで取り上げられてきた道迷い同様、尾崎もまた、道迷いに気付きながらも予定通り下山したい一心で、そのまま沢を下る決断をしてしまう。ところどころテープがあり、そこはまだ登山道だと信じて疑わなかったが、たまたま現れたロープにコブが結ばれていないのを見て、自身も沢登りの経験がある尾崎は正規ルートではないと気づくに至った。

 登山ルートではなく、沢登りのルートだとしたら下れない、と確信したのだ。

 沢を離れ、できるだけ尾根筋を選んで下って行く。しかし、辿りついた枝尾根の末端が崖になっているのを見て、尾崎は再び自分の失敗に気付く。

 崖の下は秩父湖

 道路は対岸にあり、そこに下りるためには橋が架かっているところに出る必要があった。

 愕然としつつも、現在地を把握した尾崎はやむなくビバーク。翌日はひらすら目指すべきルートを進み、正規の登山道に出る事ができた。彼女の遭難はすでに通報され、捜索隊やヘリコプターが出動する事態に発展していたものの、彼女は自力下山を果たしたのである。

 

  • 急な日程変更による事前情報の少ないルートへの変更
  • 山行計画を誰にも知らせていなかった
  • 登山地図における破線ルート(難路)のレベルの読み違い 

 

山崎は登山者としては非常に高い技量と経験を持つ人物であったにも関わらず、このような窮地に陥った点はよくよく理解すべきだろう。

これまでのケースでもあったが、あまり人気のないコースというのは特に気を払う必要があるように思える。事件が起きるのはそういったルートばかりだ。

登山者が多ければ自然とルートファインディングも楽になるし、仮に事故や道迷い、熊の出没などがあったとしても、互いに助け合いや情報交換をすることもできる。

よっぽど自信or怪我や遭難しても平気だという覚悟がない限り、あまり人が通らないようなルートは避けたほうが良い。

 

 

yamap

非常に教訓の多い本書ですが、最後に個人的にお知らせ。

スマートフォンが世に出て以降、登山アプリも多いのですが、昨今一番利用者が多いと思われるのがこの「yamap」。

上の作中にもたびたび登場したコースタイム入りの登山地図を無料で閲覧・ダウンロードできる上、山登りの最中にはスマホGPSにより実際に登山地図上で現在地を確認しつつ、歩いてきたログを記録する事ができます。

 

この「ログを記録する」というのがアナログな登山地図にはない部分。

紙の登山地図の場合、二次元の地図と目の前の風景や道標を参考におおよその現在地を自分で推定しなければなりませんが、yamapに関しては要するに車のナビゲーションシステムと同じなので、一目見ただけで現在地がわかります。

現在地が登山道から外れているかどうか迷った際も、考えるまでもなく一目瞭然で確認することができるのです。

 

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上は実際に記録中のスマートフォンの画面です。

市街地なので登山ルートはありませんが、画面下部に歩き始めてからの時間や距離、さらに標高まで表示されているのがわかります。

 

現在地だけではなく、標高までわかるというのがこれまた便利で、標高〇〇mの山に対し、自分がいまどのあたりまで登ってきているのか、あとどのぐらいの高さを登らなければならないのかがわかります。

地図を上から見下ろした水平距離と、標高差による垂直距離まで、かなり正確に自分の現在地を把握できるのです。

 

さらに、実際の山行時には歩いてきた道のりも青いラインで表示されていきます。

なので道迷い等によって引き返さなければならない時も、容易に自分の足取りを辿る事が可能です。

 

いつの間にか往路とは別の道に入り込んでしまい、気づかぬまま進んでしまった。一体どこで間違えたのか、どのぐらい戻ればいいのかといった疑問も、GPSのログがあればすぐ確認できますね。

僕の例でいえば、一度だだっ広いガレ場の中で深い霧に包まれてしまい、完全に方向感覚を失ってしまった事があります。その際はひたすらスマホの画面と照らし合わせながら目標物のある場所まで移動する事で事なきを得ました。

 

「山に行く際にはちゃんとした登山地図を!」

と昔ながらの教訓として唱える人はまだまだ多いですが、使いこなせもしない地図やコンパスを持っていたところで何の意味もありません。

もちろんスマホを故障や紛失してしまった際に供えて紙の地図を備えておくに越したことはありませんが、個人的には普段使いとしてyamapのようなスマートフォンアプリの活用を強くおすすめします。

 

なお、yamapでは記録をサイト上に残し、広く公開するというブログのような使い方も可能です。

公開せずとも、記録を終えた時点で自動的にデータはサイト上にアップロードされますので、個人的に見返して後から見返す事も可能です。

 

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上は山形県の月山に登った際のもの。

登山地図上の青いルートが実際に歩いたログ。

その他タイムや標高差、消費カロリーなども記録されているのがわかります。

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こんな風に、各ポイントごとのタイムもわかりますので、後々振り返る事も容易です。
実際にこれらの記録は、行方不明になった遭難者の足取りを追う際に活用されたりもしているようです。

 

活動データの地図の中にはカメラのマークがたくさんありますが、こちらはスマホのカメラで撮影したポイントを表わすもの。

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画像も活動記録と合わせてサイト上に保存され、しかも地図上のどの場所で撮影したかまでわかるという具合です。

こうなると他の人の記録を見るのも楽しくなってしまいますね。

 

さらにさらに付け加えると、yamapの登山地図は無料でダウンロードする事が可能です。

登山という性質上、携帯電話の電波が届かない山もまだまだ多いのですが、事前に地図をダウンロードしておけば当日は電波がなくても問題なく動作してくれます。

本来であれば道の駅やビジターセンター等で無料の地図を探すか、書店でなかなかの値段がついた専用の地図を購入しなければならない事を考えると、無料で地図が利用できるのはかなり画期的ですよね。

 

登山を計画する段階でyamapの地図を開き、ルートやコースタイムを確認し……という登山者も、現在ではかなりの数存在するはずです。

 

そんなわけでかなり蛇足が長くなりましたが……遭難を防ぐための一つの予防策として、僕はスマートフォンアプリ「yamap」をおすすめしたいと思います。

山であろうと、というよりも、山だからこそスマートフォンは誰しもが必ず携帯しているはずなので、せっかくだからアプリを利用してより便利に、安全に山登りを楽しみましょう。

 

ただし、バッテリーの消耗は気になりますので、必ず予備の充電器を忘れずに。

 

 

 
 
 
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『YOSAKOIソーラン娘』田丸久深

 札幌人は、ヨサコイが嫌いなことをひとつのステータスにするふしがある。ヨサコイの話をすると田舎者として見られるのは、職場の洗礼で嫌というほど味わっていた。

丸久深さんの『YOSAKOIソーラン娘』を読みました。

初めて読む作家さんです。

 

訳あってよさこいを題材とした創作物を探していたのですが、これが意外と少ないんですよね。

以前札幌のよさこいソーランではなく、高知のよさこいを題材とした『夏のくじら』という作品は読んだ事があったのですが、どうやら小説物としては本書『YOSAKOIソーラン娘』と『夏のくじら』が全て、と言っても過言ではないようです。

(もし他にお心あたりの方がいれば教えて下さい)

 

漫画・アニメになると『ハナヤマタ』という超がつく程有名な作品もあるんですけどね。

 


ハナヤマタ』自体は非常に良く出来た作品だと思うのですが、よさこいそのものというよりはよさこいを軸とした学園モノといった方が良さそうな構成で、実際によさこいを練習したり、踊ったりと必死に打ち込む場面というのは意外と少なかったりします。

 

メンバーもたったの五人しかいませんし。

 

なのでよさこいを描いた作品としては、ちょっと物足りなさを感じてしまったりするわけです。

尚、僕がどうしてこんなアニメを知っているかというと、『ハナヤマタ』の原作漫画を描いた作者浜弓場双さんが、僕が敬愛する角川つばさ文庫の看板作品『四年霊組こわいもの係』の挿絵も担当されているからです。

 

 

 

とっても今風のかわいらしい絵を描かれる作家さんですよね。

その他にも『落ちこぼれフルーツタルト』や『小さいノゾミと大きなユメ』作品も描かれています。

興味のある方は、そちらもどうぞ。

 

 

まぁ、『ハナヤマタ』については直接本書に関わるところではありませんので程々にしておくことにして……前置きが長くなりましたが、 今回の主題である『YOSAKOIソーラン娘』についてご紹介したいと思います。

 

 

YOSAKOIソーラン

本書の舞台は札幌。 

就職のため南日高町から引っ越し、四年が過ぎた満月は行きつけとなっていた居酒屋はねかわでの縁がきっかけで、大郷通商店街で再結成するというよさこいチーム「DAIGOU」に参加する事になります。

 

このYOSAKOIソーラン祭。

知らない方のために簡単にご紹介しておくと、札幌で毎年六月に開催されるイベントです。

毎年全国から約300組近いチームが参加し、市内に用意された幾つものステージやパレード用に封鎖された大通りを、五日間かけて踊り明かします。

 

そもそもの成り立ちは1991年に高知のよさこい祭りを見た大学生が札幌に持ち帰り、実行委員会を立ち上げたのが始まりとされています。

回を重ねるごとにスケールを増し、現在では本場よさこい祭りにも負けない一大イベントへと膨れ上がりました。

よさこい自体に興味も感心もなくとも、札幌のYOSAKOIソーラン祭の名前だけは聞いた事がある、という人も少なくないでしょう。

 

本書はそんなYOSAKOIソーラン祭を、実際に参加する札幌市民の目線で描いたという意味でも興味深い作品となっています。

 

というのも、僕達外部の人間がイメージする表面的な華々しさとは裏腹に、YOSAKOIソーラン祭を取り巻く地元の人々のリアルな心情がありありと描かれているからです。

 

 

アンチYOSAKOI

主人公である満月は、子供の頃からヨサコイ中継を楽しみにし、有力チームの名前や特徴をそらで説明する事ができるぐらい、ヨサコイが好きでした。

そんな彼女が札幌に出て来て直面した現実は、想像以上に強いヨサコイへの逆風でした。

 

冒頭に引用した一文の通り、札幌市民の間ではヨサコイに否定的な意見を持つ人も少なくありません。

本書の中ではむしろ、それが圧倒的なマジョリティーであるとして描かれます。

 

「ヨサコイなんて音楽がガンガンうるさいだけで、やる意味がわかんないです。当日も見に来てくれって言われてますけど、あたし、絶対行きません」

 かつてはさまざまな曲で朝から晩まで行われていたテレビ中継も、徐々に縮小された。アレンジに凝りすぎて本来のヨサコイやソーラン節を見失うチームを嫌がる声も上がった。インターネットの掲示板には批判の声が相つぎ、真相のわからない誹謗中傷もでっち上げられた。YOSAKOIソーラン祭りは市民の祭りではない、ただの金稼ぎの手段だ。踊りもただのダンスコンテストだ。そんな声もあちこちで上がり、とある企業が行った『ヨサコイは好きか嫌いか?』というアンケートでは若干数ではあるが『嫌い』が上回る結果になった。

「まったく、ヨサコイの日は地下鉄に踊り子たちが乗り込んでくるから嫌なのよ。音楽が響いて仕事にも集中できないし。出勤するのが憂鬱だわ」

「もう、駒場さん。そんなこと言ったらヨサコイ隙に嫌われちゃいますよ」 

「……だって、わたしの職場はみんなヨサコイが嫌いなのよ。ヨサコイに出たなんて知られたら、なに言われるかわかんない」

 

 

駒場というパワハラ気質のある上司のせいでただでさえギスギスしがちな満月の職場においても、ヨサコイの話題が上がる時は決まって否定的な論調ばかり。

そんな中でヨサコイを踊る事になった満月は、ひた隠しにするようにこそこそと、チームの活動に参加を続けます。

 

一方で、チームリーダーである太陽をはじめとする「DAIGOU」の面々は、非常に前向きに、精力的にヨサコイに取り組んでいきます。

当初「DAIGOU」の再結成時には商店街の人々から反対意見等の抵抗もあったと言いますが、彼らは苦労を微塵も感じさせません。

踊りの練習だけではなく、衣装小物の製作やブログ・SNSを駆使した情報発信など、それぞれがプライベートな時間を削り、協力して進めていくのです。

 

毎日が憂鬱でアンチヨサコイの巣窟のような職場と、いつも前向きで和気あいあいとした「DAIGOU」のキラキラした時間とが、明暗の対比をくっきりと浮かび上がらせながら交互に描かれて行きます。

 

 

地域小説としても秀逸

札幌市民がYOSAKOIソーラン祭に対して抱くネガティブな印象は非常にリアルで、外部からはうかがい知れない内面的な心情をまざまざと知る事ができます。

更に他にも、本書には地域ならではといった心情・場面が多数登場します。

 

羊羹ツイストのようなご当地パンだったり、アメリカンドッグにグラニュー糖をまぶして食べるといった秘密のケンミンショーのようなご当地要素は枚挙にいとまがありませんし、主人公満月の元彼・真明は札幌市民の特権階級意識を絵に描いたように嫌らしい男です。

 

札幌生まれの札幌育ちは、道内のほかの市町村について知らなすぎる。

 

という言葉通り、札幌市民は札幌以外には全く興味がない都会人なのだと満月は言います。

出自が札幌ではないというだけで相手は途端に興味を失い、道内一の都市としてなんでも揃う札幌こそが至上であり、札幌で生まれ育った自分はそれだけで相手よりも上の存在であると自信満々に見下してくるような、エゴイズムの塊。

元彼はまさにその権化のような男で、田舎者の満月を嘲り、馬鹿にする事で自尊心を保つような最低な人間でした。

 

しかし満月もまた、田舎から誰も知る人のいない札幌に出て来てすぐの頃であり、寂しさを紛らわせるように真明の言いなりになっていたのです。

 

札幌市民のエゴイズムを感じさせる真明だけではなく、後輩である森や他の人間からも垣間見る事ができます。

一方でそれは、田舎者である満月のただの劣等感の現れではないのか、とも思えるのですが、そんな風に思わせる心情描写もまた、小説としては秀逸であると言えるでしょう。

 

そして迎えるYOSAKOIソーラン祭当日

ソロメンバーの一人として選ばれた満月には、チーム内からも嫉妬の目が向けられたり、祭当日にシフトインさせられそうになったり、さらには太陽との関係がぎくしゃくしてしまったりと、様々な紆余曲折を経ながら迎えたYOSAKOIソーラン祭当日。

 

それまでコツコツと積み上げられてきた物語に比べると、当日の風景は味気ないぐらいに淡々と、呆気なく描かれて行きます。

しかしもちろん、物語としては何の波乱もなく踊って終わり、というわけにはいきません。

 

「DAIGOU」をハプニングが襲い、それは満月自身にも大きな影響を与えます。

さらに職場の同僚達との歪な人間関係や、回想として描かれてきた元カレ・真明のその後の姿等、張り巡らされた伏線が一つ一つ丁寧に回収されていきます。

 

 

 

社会人×スポ根……?

終盤は夢中になって読みふけるほど、久しくなかった興奮を味わわさせてくれる良書だったのですが、Amazonの評価数等あまり多くないのが残念なところ。

やはりこれはヨサコイというブームを過ぎた感のある題材である事も大きな要因の一つだと思うのですが、加えて主人公が二十代半ばの社会人女性というのも難しい点なのでしょう。

 

冒頭にご紹介した『ハナヤマタ』は中学生の女の子達が主人公。

その他、スポーツ等を題材とする作品の多くは、中高生やせいぜい大学生といった若い世代が中心となる事がほとんどです。

大人になってからのスポーツものというとレジェンド級の実在の選手をモデルとするケースが多く、そうなると創作物というよりはドキュメンタリーに近いものになりがちです。描かれるテーマも、過去の自分との戦いや家族愛といったものになるでしょう。

二十代中盤の一般的な社会人を中心に、スポーツや文化的な活動を描く作品ってあまり見ないんですよね。

 

つまり、需要が少ないと言い変える事もできます。

 

ましてやヨサコイという、現在ではだいぶ下火となった題材でもありますし。

映像化等の話題でもない限り、なかなか手に取られにくい作品なのでしょうね。

 

だからこそ当ブログでは、ぜひとも本書を推したいと思います。

よさこいに興味があろうとなかろうと関係なく、非常に楽しめる人間ドラマです。

若干ラノベタッチで、読みやすい文体である事も付け加えておきましょう。

 

下火下火と書いてきましたが、札幌や他の全国各地でも、まだまだよさこいに取り組む人々はいますからね。

YOSAKOIソーラン祭自体は、コロナ禍で二年連続の中止となってしまいましたが、今この時も、もう一度踊れる日を夢見て日々練習に取り組む踊り子達がいるのです。

 

札幌までは行けなくとも、もし地元でよさこいのステージがあれば、僕もまた見に行ってみたいと思います。

今の世の中の暗い雰囲気を、明るさ100%のよさこいで吹き飛ばして欲しいものです。

 

 

 
 
 
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『いつかの恋にきっと似ている』木村咲

 武と繋がっていられるのは、抱き合っているときだけだった。そんな悲しい恋がようやく終わるのだ。喜びはしても涙を流す理由なんてないはずだ。

 今日で全部終わりにしよう。武との思い出を全部、涙で流してしまえばいい。

 

木村咲『いつかの恋にきっと似ている』を読みました。

一時期当ブログで続けて取り上げていたライト文芸系のレーベル「スターツ出版」からの作品です。

その頃から積読化していたのですが、今回ようやく読む事ができました。

 

ちなみに著者の木村咲さんは『まだ君のことは知らない』で第二回スターツ出版文庫大賞の恋愛部門賞を受賞されたそうです。

ところが本書、最下部にいつものようにAmazonへのリンクを設置してあるので見ていただければわかりますが、口コミが一つもないという稀有な作品となっています。

あんまり売れなかったのかな……と一抹の不安を覚えてしまいますが。。。

 

まずは内容についてご紹介しましょう。

 

 

フラワーショップを舞台に繰り広げられるトレンディ―ドラマ

主人公の真希はフラワーショップの店長を務めています。

彼女には武という恋人がいますが、二人はいわゆる訳ありの関係。

端的に言ってしまえば、武には麻里子という妊娠中の妻がいるのです。

 

一般的な不倫カップルと同じように、迷いながらも苦く辛い恋に溺れる真希ですが、彼女には別に、何かある度に迎えに来てもらう太一という存在がいます。

太一とは幼馴染みであり、昔から酸いも甘いもよく知った仲です。

太一は真希への想いを常日頃から表明しますが、真希は「太一とはそういう関係にはなれない」と一方的に拒絶するばかり。しかしながら、困ったときにはやはり太一を頼ってしまいます。

この辺り、非常に複雑な女心を表わしていますね。

 

さらにフラワーショップを管轄する親会社の直轄上司である園山は、事ある度に真希を気にかけてくれます。

本業とは別事業として展開されたフラワーショップや、真希の働きぶりを評価してくれるのは園山だけ。

見た目も中身も抜群のイケメン上司として、園山はキラリと存在感を発揮します。

 

真希を取り巻く三人の男達と、真希との恋模様。

 

さらにフラワーショップの後輩である絵美の、真希とは対照的に純情な恋心もあったりと、登場人物達の想いが渦巻く、まさしくトレンディードラマのような恋愛物語となっています。

 

 

麻里子の仕返し

麻里子の出産が近づき、真希はついに武に別れを告げます。

 

「それにわたし、パパって呼ばれてる武には、魅力を感じない」

 

そう真希が武に言い渡す場面は、本書における一つのハイライトシーンと言えるかもしれません。

 

しかし、それまでは脇役であった武の妻、真理子にスポットライトが当たるとともに、物語は大きく動き出します。

妊娠中の麻里子が出産を果たしますが、お腹の中にいた赤ちゃんは武ではなく、親友である猛の子どもだったのです。

昔から浮気性で、真希との不倫関係にも勘付いていた麻里子は、猛と関係を結び、彼の子を妊娠していたのです。

従順で自慢の妻である麻里子が家にいるという安心感こそ、武が精力的に外で浮気を繰り返す活力の源でした。麻里子の裏切りを知った武は、大きな衝撃を受けます。

 

武と麻里子は別れを告げ、麻里子は猛と新たな家庭を築く事になりました。

一方の武は、真希に一緒に暮らす事を提案します。

一度は別れを決めたはずの真希ですが、武に対する想いを捨てる事はできず、受け入れてしまいます。

 

可哀想なのは、真希に想いを寄せていた太一。

武と同棲すると真希から告げられ、彼もまた大きなショックを受けます。

 

 

真希の出生の秘密

そんな時、フラワーショップに匿名の依頼が寄せられます。

とある病院に、お見舞いの花を届けて欲しいというもの。

しかも店長である真希に行って欲しいという、何やら怪しげなものでした。

 

絵美の心配をよそに、真希はすぐその意図に気付きます。

それは太一の父、輝真の病室だったのです。

 

真希の家は、母親一人の母子家庭でした。

母はその昔道ならぬ恋に落ちた後、相手の子どもと宿してしまい、たった一人で産んだのです。

そしてその相手が他ならぬ太一の父である事を、真希は知っていました。

 

真希が太一の想いに応えようとしなかった理由は、そこにあるのです。

自分と太一は同じ父親から生まれた半分血の繋がった兄妹。

何も知らない太一がどんなに自分を想ってくれようとも、真希が受け入れるわけにはいきませんでした。

 

しかしながら訪れた病室で、迎えた太一の母から思わぬ事実を告げられます。

太一の両親も再婚同士であり、太一は母親の連れ子。輝真の実の子どもではないというのです。

 

つまり、真希と太一の血は全く繋がっていない。

……それは、これまでひた隠しにしてきた真希の想いを解き放つものでした。

 

 

不倫や泥沼はライト文芸には合わない

今回はちょっとネタバレも含めて書いてしまいましたが……やはり本書もまた、スターツ文庫というライト文芸レーベルに相応しい作品でした。

イケメンと美女(しかもそのうち何人かは自分の魅力に気づいていないという天然系)が描く恋愛ものというのは、いつの時代でもド定番としてファンを惹き付けてやまないものなんでしょう。

 

ただし、個人的にちょっと引っ掛かったのは、ライト文芸にしてはちょっとドロドロと入り乱れ過ぎかな、と。

 

本当の意味で読者が求めるライト文芸って、『君の膵臓をたべたい』的な爽やかな純愛路線だと思うんですよね。

そういう意味では脇役後輩キャラである絵美の恋愛なんかは悪くない線でしたが、不倫相手の妻もまた別の相手と不倫となるとライト文芸らしからぬ泥沼展開。離婚に関する夫婦のやり取りは詳しくは描かれていませんが、トレンディドラマならぬ昼ドラ的な生臭さは否めません。

 

しかも前半は不倫相手である武を相手に揺れる女心を描いていたにも関わらず、終盤にはコロリと人が変わったように「本当は昔から太一が好きだった。世界で一番好きなのは太一」的な切り替わってしまうのは、読む相手を選ぶかな、と。

もちろん個人的には、本書の真希のように揺れ動く方が現実的だとは思います。

恋愛対象が常に一人に絞られる程人間は都合よく作られていませんし、こっちも好きだけどあっちも好き。どっちも死ぬほど好き、という事は恋愛に限らずごくごく一般的に誰にでも見られる事です。

 

ですから武に対する想いも本物でしょうし、太一をずっと想って来た気持ちも本物なのだと、僕は思います。

 

ただこれ、なにぶんにも小説ですからねぇ。

しかもライト文芸のレーベルから出版されている作品ですし。

 

読者層を考えれば、昔から太一を想っているのであれば他の男には脇目も振らず孤独に生きる純真さみたいなものが必要なんじゃないかな、と思うわけです。仮に叶わぬ想いを紛らわせるために他の男と付き合うのだとしても、その相手が既婚者というのはいただけないかな、と。

どうしても真希がとっても尻軽で、しかも都合よくコロコロと考えを変える自分勝手な女性に見えて来てしまうわけです。

 

もう少し上の年代の読者を対象とした作品ならば問題ないのでしょうが、そうなると文章の雰囲気や、人物像の深みといった他の部分で軽さが目立ってしまうでしょうし……とにもかくにも、レーベルと扱う題材を誤ってしまったかな、と。

ワケありの恋や愛人といった説明は背表紙のあらすじにも載っていますので、個人的にはその辺が本書があまり売れなかった要因のような気がします。

ライト文芸って良くも悪くも「奇跡」とか「純愛」、「永遠」みたいなきれいなテーマが好まれる傾向にあるので、そういうものを望んでいる読者はあらすじ読んだだけで拒絶反応を起こしてしまいそうですし。

 

だいぶ長くなってしまった記事のボリュームからもお分かりの通り、色々と考えさせてくれる作品でした。

 

 

 
 
 
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『狐笛のかなた』上橋菜穂子

桜の花びらが舞い散る野を、三匹の狐が春の陽に背を光らせながら、心地良げに駆けていった。

 

長らく短編集ばかり紹介してきましたが、今回はご紹介するのは久しぶりとなる長編作品です。

しかも和風ファンタジー

獣の奏者』以来の上橋菜穂子作品で、『狐笛のかなた』です。

 


獣の奏者』シリーズはアニメ化もされる人気作となり、『鹿の王』では2015本屋大賞を受賞。その他にも野間児童文芸賞等々、ファンタジー作家とは思えない絢爛たる受賞歴が輝く彼女。

僕は上の『獣の奏者』シリーズしか読んだ事がないのですが、完成された世界観や、善悪の二元論といった単純な構図には収まらないキャラクター造形等、その完成度の高さに夢中になって全四巻を一気読みしたものです。 

 

短編集、短編集と続いてきた先で、彼女の書くファンタジー作品が読みたくなったのはある意味必然かと。

 

前置きはさておき、早速本書の内容についてご紹介していきましょう。

 

 

 幽閉された少年と仔狐、人の心が聞こえる少女

物語は一匹の仔狐が、獰猛な犬たちに追われる場面から始まります。

仔狐は人を殺し、その代償として怪我を負っているようです。

必死に逃げ惑う仔狐。

そこで出会ったのが、たまたま夕暮れの野にやってきた孤独な少女小夜でした。

彼女は着物の懐に仔狐を抱え、森の中へと駆け込みます。無我夢中で逃げた先にたどり着いたのは森陰屋敷。里人の出入りをかたく禁じられているという、曰く付きのお屋敷です。

迫る犬たちに追い詰められた小夜と仔狐を、突如現れた一人の少年が助けてくれます。

彼こそが呪いをかけられ、森陰屋敷に幽閉されているという噂の少年、心春丸でした。

心春丸は犬たちを追い払うだけでなく、仔狐の傷も労わってくれます。

 

こうして運命的な出会いを果たした三人(二人と一匹?)は散り散りとなりますが、やがて再び運命の糸が絡まり合うように、それぞれが導かれていくのです。

 

上記はほんの序盤の一幕でしかありませんが、一人一人のキャラクターといい、世界観といい、これだけでも本書の魅力が伝わるかと思います。

 

 

オーソドックスな一方、オンリーワンのファンタジー

本書は誰もがどこかで見聞きした覚えのある、オーソドックスとも言える物語です。

人の近づかない森の中に幽閉された王子様と、秘められた力を持つ聖女。そしてもう一人、幼い頃に彼らと深い絆で結ばれているのは、彼らと敵対関係にある悪の手先。

漫画やゲーム、あるいは小説といった創作物の中で何度も何度も用いられてきた三角関係です。

 

ところが不思議と、じゃあ具体的にどんな作品があったか例を挙げようとすると、これが難しい。

 

オーソドックスなものとして頭の中に植え付けられているにも関わらず、実際に形にしているケースは珍しいんですよね。

それぞれ単体で、幽閉されている王子(あるいは姫)・秘められた力を持つ聖女・心情的には主人公側なのに立場的には悪役側、といったキャラクターは存在するのですが、組み合わせたものというとなかなか稀有だったりするのです。

 

そういう意味では、数年前話題になった『君の名は。』に非常によく似ていますね。

君の名は。』でも著名な評論家の方や業界人の方々がさんざん言っていましたが、男女の入れ替わりやタイム・パラドックスといった一つ一つの要素はベタでありきたりなものです。それを指して「陳腐」と言い捨てる人すらいました。

確かに断片的に作品の要素だけを取り上げると、既視感すらある設定・光景のつぎはぎのようにすら感じられるのですが、一つの作品として最初から最後まで通して見ると、不思議と印象は変わってしまいます。

 

何かに似ているような気がするけど、何にも似ていないというオンリーワンの作品に昇華されるのです。

 

細部まで語ろうとすれば本書の魅力はどこまででも語りつくせないものがあるのですが、今回はこんな所で。

 

昔の日本を舞台としたオーソドックスなファンタジー作品が読みたい、という方がいれば、ぜひお試しください。

 

 

 
 
 
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