おすすめ読書・書評・感想・ブックレビューブログ

年間100冊前後の読書を楽しんでいます。推理小説・恋愛小説・歴史小説・ビジネス書・ラノベなんでもあり。

『スタープレイヤー』恒川光太郎

あなたはここで〈十の願い〉という力を与えられております。それはですな、どんな 願いでも、といったら著しく語弊がありますが、〈ある程度、どんな願いでも〉十個 ぶん叶えることができるんです

恒川光太郎『スタープレイヤー』を読みました。

恒川光太郎といえば第12回日本ホラー小説大賞を受賞した『夜市』が代表作に挙げられます。

と言っても……ピンとくる人は少ないのでしょうね。

僕も一時期ホラー小説を追いかけていた時期があったおかげで名前だけは記憶していましたが、一般的にはそう知名度の高くない作家かと思います。

 

ただ改めて調べてみると、意外や意外素晴らしい経歴の持ち主なんですよね。

 

2005年 - 「夜市」で第12回日本ホラー小説大賞受賞。
2005年 - 『夜市』で第134回直木賞候補。
2006年 - 『雷の季節の終わりに』で第20回山本周五郎賞候補。
2007年 - 『秋の牢獄』で第29回吉川英治文学新人賞候補。
2008年 - 『草祭』で第22回山本周五郎賞候補。
2011年 - 『金色の獣、彼方に向かう』で第25回山本周五郎賞候補。
2014年 - 『金色機械』で第35回吉川英治文学新人賞候補。
2014年 - 『金色機械』で第67回日本推理作家協会賞(長編および連作短編集部門)受賞[5]。
2018年 - 『滅びの園』で第9回山田風太郎賞候補。

 

上記はwikipediaの著者ページからの引用ですが、山本周五郎賞吉川英治文学新人賞山田風太郎賞に、さらには日本推理作家協会賞受賞と様々な賞レースに名を連ねているのです。

 

本書『スタープレイヤー』は特に賞レースへの参加はありませんが、NHK-FMでラジオドラマ化もされ、続刊『ヘブンメイカー スタープレイヤーⅡ』も出版される等の人気作。

僕にとっては初めて触れる恒川光太郎となります。

 

 

冴えない三十半ばの女性に突如与えられる十の願い

主人公は34歳無職の女性、斎藤夕月。

買い物帰りの路上で、突如現れた真っ白い男に促されてクジを引いたところ、一等のスタープレイヤーを引き当ててしまいます。

次の瞬間、彼女は見覚えのない平原の中へ。

スターボードというスマホのような端末と、案内人を名乗る石松という男から、彼女は自分が地球ではない別の世界へと連れてこられた事を知ります。

元の世界へ戻るには最低100日間、この世界で過ごさなければならない。

その代償というわけではありませんが、夕月にはどんな願い事でも叶えられるという〈十の願い〉という力が与えられるのでした。

 

半信半疑の夕月はまず、家の近所にある蕎麦屋からランチセットを取り寄せます。

突如目の前に現れた蕎麦によって現実を受け止めた夕月は、続いて住み慣れた自分の実家を再現するのでした。

続いて引きずっていた左足を治し、ついでに若く整った見た目に生まれ変わります。

さらには自宅の周囲に金銀財宝が煌めく広大な庭園を建造。

 

こうして見ず知らずの世界で一人、自らの理想通りの環境を構築していく夕月でしたが、当然その世界の中には夕月以外の人間や動物達も住んでいます。

原住民的な人々とともに、夕月とは別の〈十の願い〉の力を携えたスタープレイヤーも。

 

そうして様々な人種が渦巻く世界には、言わずもがな争いだって存在します。

世界に対して、スタープレイヤー達はどんな影響を与えるのか。

それに対し、夕月はどう立ち向かっていくのか。

 

いつしか夕月は、元の世界に帰る事よりも今いるこの世界で生きていく事を考えるようになっていきます。

 

 

大人の(?)異世界転生モノ……かと思いきや

こう書いてしまうと身も蓋もありませんが、一言で言うなればそういう物語に思えますよね。

34歳で、足に後遺症を負った女性がチート能力とともに異世界に転生する、という展開はまさにテンプレ的異世界転生作品と言えるものです。

 

ただしちょっと語り口が固かったり、夕月ら登場人物の心情が繊細だったりするので、ネット小説・ライトノベル界隈で見られた異世界転生モノよりは読みごたえがあるかなぁ……なんて。

 

油断していると、足元を掬われますよ。

 

特に秀逸なのは、悩んだ末に夕月が選んだ三つ目の願い事。

彼女の左足は、以前通り魔的な犯行に遭った故の後遺症だったのです。

しかもその犯人は、まだ捕まっていない。

 

夕月は異世界に檻を用意し、真犯人を呼び出します。

様々な手を使って犯人に自白させよう、謝罪させようとする夕月の試みは、非常に鬼気迫るものです。

 

「なんだこれ?ただの異世界転生モノじゃね?」と鼻白んだ読者も、「どうやらこいつは一味違うらしいぞ。心して読み進めてやろうじゃないか」と居住まいを正さずにはいられなくなるでしょう。

 

 

でも……やっぱり異世界転生モノでした

自分の人生を滅茶苦茶にした犯人を呼び出し、どうやって復讐してやろうかと夕月が思考を巡らすあたりは間違いなく傑作の匂いがプンプンするんですけどねぇ。

残念なのは、結局はそれがあくまでエピソードの一つとして消化されてしまう点。

 

むしろ十もある願い事を消化させるべく無理やりねじ込んだ蛇足と言っても過言ではないかもしれません。

 

明らかに本書の中で一番魅力的で、一番読み応えのある犯人×夕月のエピソードは本筋になんら関わる事はなく、物語は至って平凡・ありきたりな異世界転生モノコースへと進んでしまいます。

簡単にまとめてしまうと、原住民達の間に元々存在していた勢力争いに加担しようとする異世界転生人に対し、同じ異世界転生人である夕月がスタープレイヤーの力で対抗しようというものです。

 

〈十の願い〉は無尽蔵なチート能力なので、ぶっちゃけ夕月が「対抗勢力を全員消滅させろ」とか「対抗勢力が入り込めないような巨大な城壁を張り巡らせろ」とか願ってしまえば一件落着なはずなのですが、なかなか力を使おうとはせず、後手後手に回って追い詰められて、ようやく読者の想像よりも遥かに小さな願いでもって中途半端に終わらせてしまうまでの過程がコツコツと描かれていくのみ。

途中犯人×夕月のエピソードから期待値は上がりまくっているので、きっと何かとんでもない幕切れが訪れるのだろうと固唾を飲んで見守っている分、読書自体のテンポは非常にスムーズで、一気読みしてしまうのですが、終わってみるとそれ以上に特別な事など何もなく、結局ただの異世界転生モノだったなぁというのが正直な感想です。

 

惜しい。

本当に惜しい。

 

〈十の願い〉を使って、真犯人や夕月の知らなかった事件の裏側が少しずつ暴かれていく、というミステリ仕立て・ホラー仕立ての作品にしてしまえば絶対に傑作になっていたと思うんですが。

願いによって犯人を呼び出し、あの手この手の拷問を使って自白させてみたら、そいつはあくまで下手人であって真犯人は別にいる、なんてね。

そうやって一人、また一人と呼び出して探っていく内に、家族やら元恋人やら親友やらが次々登場して、どうやって本音を探るか、何が嘘で何が真実なのかを探る心理ゲームだったりしたら面白かったのになぁ、と思ってしまいます。

 

それこそ米澤穂信あたりなら上手く昇華してくれたんじゃないでしょうか。

 

もしかすると第67回日本推理作家協会賞を受賞した『金色機械』あたりは、期待したようなミステリテイストを遺憾なく発揮した作品なのかもしれません。

本作『スタープレイヤー』は非常に惜しい作品とはいえ、非凡な才能の片鱗を窺わせてくれるだけに、『金色機械』に期待してみたい気持ちもあります。

 

今はまだKindle Unlimitedには収録されていないようですが、いずれ忘れずに読んでみたいと思います。

 

 

 
 
 
 
 
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『人形はなぜ殺される』高木彬光

ところが、魔術師というものは、右手で細工をしようと思ったら、まず左手にお客の注意をひきつける。

『右手を出されたら、左手を見よ』

 これが魔術の公式第一条なんだ。

 

高木彬光『人形はなぜ殺される』を読みました。

聞きなれない書名だという方も少なくないのではないかと思われますが、それもそのはず本書の初出は1955年。今から70年以上昔に書かれた作品です。

推理小説マニアでもなければ知らないのは当然でしょう。

 

逆に言えば、マニアにとっては一度は読んでみるべき作品と言えるかもしれません。

というのも、本作の探偵役である神津恭介は、江戸川乱歩明智小五郎横溝正史金田一耕助と並んで日本三大名探偵と言われているのです。

つまり著者である高木彬光自身も、江戸川乱歩横溝正史に並ぶ日本の古典本格ミステリ作家であるという事。

 

ところが僕、過去にはさんざん新本格推理だどうしたとか書いておきながら、上記のような古典ミステリにはほとんど触れた事がありません。アガサ・クリスティーやエラリィ・クイーンといった海外作品は多少なりとも読んだんですが、国内ものにはとんと縁がなかったんですよね。

その昔、『屋根裏の散歩者』や『孤島の鬼』あたりを書籍で読み、数年前に著作権が解禁された際に続々と青空文庫のアップされた江戸川乱歩作品をいくつか読んだぐらいで、夢中になって追いかける程の熱は生まれませんでした。

 

正直、日本の古典ミステリって推理小説としてはまだまだ稚拙だったり、文章に癖があったりして読みにくいんですよね。

 

とはいえ僕も大人になりましたし、だいぶ読書も重ねてきた中で、今さらながら三人目の名探偵神津恭介に触れておくのも悪くないのではないか、と思い立った次第です。

数ある神津恭介シリーズの中でも『刺青殺人事件』と並んで高木彬光の代表作として挙げられる事も多い本作。

 

早速内容についてご紹介していきたいと思います。

 

本格ミステリテンプレが山盛り!

本格ミステリにまず欠かせないものと言えば、名探偵の引き立て役かつ物語における読者の代理者として物語をけん引してくれるワトソン(助手)役。

本書においてそれは、探偵作家の松下研三が務める事になります。

 

名探偵神津恭介の盟友でもあるという研三が、ふと出かけた喫茶店『ガラスの塔』を気に入り、出入りするようになったというのが物語のきっかけ。

マスターである中谷譲次は実は一流の魔術師(=手品師)であり、『ガラスの塔』は魔術師たちが頻繁に出入りする懇親の場でもあったのです。

幸運にも、松下研三は魔術協会の新作魔術発表会へ招かれるのでした。

 

しかし舞台裏で、断頭台で切り落される魔術のタネとして用意された人形の生首が消え去ります。

鍵付きのガラスケースにしまわれていたにも関わらず、金色の頭髪だけを残して忽然と消失してしまうのです。

楽屋には他の演者も多数出入りしていますが、怪しげな動きを見た人間はいません。

 

首は一体誰がどうやって、どこへ持ち帰ったのか……松下研三は名探偵神津恭介に事の顛末を相談します。

しかしそこへ、新たな一報がもたらされます。

舞台上の断頭台で首を切られる演者を務めるはずだった京野百合子が、とある空き家の中で、実際に断頭台で首を切られて死んでいるのが見つかったというのです。

 

第一の殺人事件後、犯人を示唆する手紙を受け取ったという綾小路佳子が神津恭介を訪ねてやってきます。

彼女は名探偵の希望に沿って、自身の別荘に魔術協会の面々を集めようと画策しますが、その日あいにくながら神津恭介は参加する事ができませんでした。

代わりにと参加する松下研三でしたが、その夜、近くを走る電車がなぜか停まっている事に気づきます。

様子を見に行った研三が見つけたのは、電車に牽かれ、バラバラに砕けたマネキン人形でした。研三は犯人らしき男に襲われ、気を失ってしまいます。

さらに1時間45分後通りかかった電車は、再び線路上に落ちていた物と接触事故を起こします。

今度は綾小路佳子自身が、マネキンと同じように電車に牽かれてしまったのでした。

 

人形が殺され、さらに人間の被害者が続く……古典的・王道とも言える連続殺人事件。

そしてそこには、神の視点から読者へと突きつけられる挑戦状も。

 

 読者諸君への挑戦

 

 さて、神津恭介は、この時、いかなる人物を、この人形殺人事件の犯人として指摘したのか?

 

本書は今や本格ミステリのテンプレとして定着した要素がこれでもかとてんこ盛りにされた、古典中の古典、王道中の王道の古典的本格ミステリに間違いありません!

 

 

……で、面白いの?

もうとにかくですね、ミステリマニアならば大好物間違いなしのギミックだらけなので、読んでいて楽しいのは間違いないんです。

1955年当時に、こんな本格ミステリを書いていた作家がいたなんて、目から鱗です。

 

推理小説好きなら、誰もが一度は「本格ミステリの古典」と言われる江戸川乱歩横溝正史を読んで、「なんかちょっと違うんだよな」と首を傾げた経験があると思います。

それは僕と同じように、文体や世相の古さに対して読みにくさを感じる他、推理小説そのものとしても論理やトリックに未成熟なものを感じてしまったり。

 

これって推理小説じゃなくて、ただの推理風小説じゃない?なんて。

 

そういう観点から見た場合、僕的に『人形はなぜ殺される』は江戸川乱歩横溝正史よりももっともっとずっと本格ミステリに近い形で書かれていると思います。

法月綸太郎有栖川有栖といった新本格推理作家の中でも本格寄りの作家はもちろんですが、アガサ・クリスティーやエラリィ・クイーンといった海外の本格推理からの影響も非常に強く感じる事ができます。

 

1955年当時に、こんな本格ミステリを書いていた作家がいたなんて、目から鱗です。

(※二回目)

 

……とまぁ、もったいぶって書いてきたわけですが。

肝心かなめの……で、面白いの? という部分になると「別に面白くもなんともない」というのが正直な感想です。

 

魔術師(手品師)達が集まる中、まるで魔術のように人形が消えたり現れたり、殺されたりというストーリーは秀逸です。

ただし肝心かなめの名探偵神津恭介の動きがあまりにも遅く、犯人の後手どころか二手も三手も遅れているあたりが非常に歯がゆく感じられます。

そうして引っ張る割に謎解きはあっさりと淡泊なものですし、犯人に正直「でしょうね」と言う他ないようなバレバレの人物。二つ目の電車を使ったトリックは目を見張るものがありますが、一つ目、三つ目の殺人に関しては取ってつけたような稚拙なもの。

 

今の本格推理小説に連綿と繋がっていく流れのようなものは見えるのですが、やはり作品自体の完成度としては落ちるかな、と。

 

そんなわけであくまで「古典本格ミステリに興味がある人」に対してだけ、「参考までに」オススメしたい作品です。

 

では。

 

 

 
 
 
 
 
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『昨日の海は』近藤史恵

「だから、帰ってきたんですか?」

 真実を見つけるために。

 そう尋ねると、芹は首を横に振った。

「違うわ。帰ってきたのはここで生きるため」

 夕日が海の向こうに沈もうとしている。

「でも、ここで生きるためには、なにもかも曖昧なままで置いてはおけないの」

 

近藤史恵『昨日の海は』を読みました。

いやぁ、Kindle Unlimitedで彼女の名前を見つけた時には思わず手を叩いてしまいましたね。

とはいえ彼女の作品で読んだ事があるのは短編集『タルト・タタンの夢』だけなのですが。

 

linus.hatenablog.jp

 

これがですねぇ、滅茶苦茶良かったんですよ。

詳しくは上記記事を読んでいただければと思いますが、フランス料理店を舞台とした日常の謎系ミステリとして、ミステリの度合いも、料理の描写も本当に素晴らしくて、すごく大好きな作品の一つなのです。

 

以後も〈ビストロ・パ・マル〉シリーズとして『ヴァン・ショーをあなたに』『カロンはマカロン』が刊行されているのですが、なかなか読めずにいるのですが。

また、彼女の代表作としては第10回大藪春彦賞を受賞した『サクリファイス』が挙げられます。自転車ロードレースを舞台としたスポーツ小説であり、青春小説であり、推理小説でもあるという作品で、第5回本屋大賞では第2位に選ばれたほか、第61回日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門候補作にノミネートされる等、非常に評価の高い作品です。

 

そちらはKindle Unlimitedに含まれていないのは残念なところ。

 

正直、今回名前を見るまでは近藤史恵という作家の存在をすっかり失念してしまっていたので、改めて追いかけてみたいと思います。

 

さて、余談が過ぎましたが、本作『昨日の海は』についてご紹介します。

 

 

帰ってきた叔母とともに明かされる祖父母の秘密

主人公の光介は、四国の小さな海辺の町磯ノ森で生きる高校一年生。

そこへある日、母の姉である叔母が8歳の娘を連れてやってきます。

これまでほとんど交流もなかった叔母は、一緒にこの町で暮らすというのです。

 

光介達が住んでいる家は元々祖父母の持ち物で、所有権は母と姉の両方にある。そのため、叔母親子がその家に住むのはなんら問題はない。光介達三人家族では、二階はほとんど使わず持て余していたのだし……と理屈はわかっても、急に親子三人の生活に割って入ってきた闖入者の存在に光介は割り切れないものを感じます。

 

そして叔母は、放置されていた店舗部分の掃除に取り掛かります。

生前祖父が営業していたカメラ店であり、祖父母が亡くなって以後はシャッターも閉じられたまま、倉庫のように埃だらけのまま放置されていたのです。

「店はもうやらないの?」と問う叔母に、母は「もう忘れたままでいて欲しい」と漏らします。

 

光介の祖父母は、25年前に心中によって二人揃って他界していたのです。

田舎の海辺の町で起きた、夫婦の心中事件……そこには当然のように近所からの詮索や根も葉もない噂が巻き起こり、光介の母はずっと周囲の目に耐えながら暮らしてきたのでした。

 

しかし光介は、叔母の口から驚くべき真実を知らされます。

 

「母に聞きました。心中だったんですね」

「表向きはね」

「表向き?」

「どちらかがどちらかを殺して、一緒に死んだの」

 

祖父母の死はどちらかが故意に起こした無理心中事件だった。

生まれ育った故郷に戻ってきた叔母は、磯ノ森で生きていくためには、真相を突き止めずにはいられないと言うのです。

 

 

爽やかな青春小説

上のあらすじに書いた通り、本書における謎は非常に明瞭で、かつ魅力的なものです。

一体無理心中を図ったのはどちらなのか。なぜそんな事態を招いたのか。

事件に一歩ずつ近づく度に、写真屋の店主というだけではなく、写真家としての一面を持っていた祖父高郷庸平の素顔が少しずつ明らかになっていきます。

 

一方で光介の身の回りで起こる出来事や人々との関わりも、主題とは直接的な関連はないものの、非常に魅力的です。

8歳の従妹双葉は、通い出した小学校になかなか馴染めなかったり、東京に帰りたいと駄々をこねてみたり……そんな彼女が少しずつ心を開き、磯ノ森に馴染んでいく様も微笑ましいところ。

 

また、古びたシャッターを直すにあたり、光介は美術部の絵里香に絵を描くようお願いします。それまではほんの少し話した事があるだけの同級生でしたが、シャッターのペイント作業を通じて距離が縮まり、二人きりで出かけるまでに二人の仲が進展したり。

祖父の死に東京での個展の中止が大きく関わっていると知った光介は、飛行機を使って日帰りでの東京旅行を決行します。入念な計画にも関わらず、予期せぬトラブルに見舞われてみたり。

 

本書は「祖父母の死の真相を探る」という謎を中心に追う一方で、大江光介という高校一年生の少年の成長を描いた青春小説でもあるのです。

推理小説としては凄惨な事件が連続するわけでもなく、最初から最後まで「祖父母の死」という一つの謎を追いかけるだけのある意味では単調な物語なのですが、この高校一年生の男の子の心の機微の描き方というのが絶妙で、僕はぐいぐい惹き込まれてしまいました。

 

冒頭に挙げた『タルト・タタンの夢』でも、思わず舌なめずりしてしまうような繊細なフランス料理の描写は特筆すべきものでしたが、本書における光介の心の動きにもまた、注目すべきところでしょう。

 

 

推理小説か青春小説か

本書そのものの満足度は非常に高いのですが、唯一引っ掛かるのは「推理小説か、青春小説か」というもの。

というのも、僕はこれ、青春小説として読んだ本が絶対的に楽しめると思うんですよ。

 

読み進めるにつれて、ぶっちゃけ「祖父母の死の真相」なんてどうでもよくなってくるんです。

しょせん二十年以上前に起きた事件で、本人たちはもうこの世にいないわけですし。

そのせいで今もなお誰かが被害を被ってるとか、現在進行形で借金に追われてるというわけでもないですし。

 

実際に作中でも、誰よりも真相解明に躍起だったはずの叔母芹が急に興味を失ったかのように淡泊な反応しか示さなくなったりするんですが、それは読者側にも波及してしまうんですよね。

 

なんのための真相解明なの?

これ以上追及しても何も良い事なくない?

もう良くない?

って。

 

最終的に光介は決定的な手掛かりを見つけるに至り、一つの答えをもって本作は幕を閉じるのですが……正直なんだか、すっきりしないんですよね。

 

言葉を変えれば、もったいない。

 

ラストを迎えるにあたって、読者の興味はもう真相にはないんです。

それよりも、事件を通してこれまで知らなかった様々な過去を知り、成長した登場人物達の姿を見たかった。

なので答えを提示して終わり、とする本書の終わり方はあまりにももったいなかったな、と。

もちろん本書がミステリであるとすれば、間違いではないのでしょうけど。

 

思い浮かんだのは、第146回直木賞の候補ともなった歌野晶午『春から夏、やがて冬』です。

 

linus.hatenablog.jp

 

こちらの作品も一つの「読ませる小説」として非常に高い完成度ながらも、『葉桜の季節に君を想うということ』や『密室殺人ゲーム』でお馴染み歌野晶午らしいミステリ仕掛けが災いして、読む人間によって評価が二分するという非常に惜しい作品になってしまいました。

直木賞の選評において、宮部みゆき氏は下記のように述べています。

 

「本当に惜しい作品でした。主人公の平田とますみのあいだに、事件の解決(真相)など存在しない方がよかったと、私は思います。ただ、それぞれに苦しみや生き辛さを抱えた二人が寄り添って生きてゆく、あるいはどこかで袂を分かつ、その有り様を淡々と描く小説であってよかった。」

 

本書を読んだ僕の気持ちが、まさに同じですね。

過去の事件の真相究明を乗り越えて光介達が寄り添いながら生きていく、その有り様を淡々と描く小説であってよかった。

その点だけが、非常に残念です。

 

ただし終わり方だけが問題なのであって、作品としての完成度は非常に高く、満足度も高い稀有な秀作である事は再度補足させていただきます。

近藤史恵、やっぱりいいですね。

 

ちょっと追いかけてみたいと思います。

 

 

 

 
 
 
 
 
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『教室に雨は降らない』伊岡瞬

 晴れた朝はガンズ・アンド・ローゼスと決めていた。

 それもデビューアルバム。今朝も彼らの曲を口ずさみながら、最後の直線でスロットルをふかした。

伊岡瞬『教室に雨は降らない』を読みました。

こちらもKindle Unlimitedで不意におすすめに出てきた作品。

 

初めて目にする作家さんだったのですが、2005年『いつか、虹の向こうへ』で第25回横溝正史ミステリ大賞テレビ東京賞をW受賞し作家デビューをし、本作『教室に雨は降らない』(単行本時タイトル『明日の雨は。』)は2011年度の日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門の最終候補作にもノミネートされたという素晴らしい経歴の持ち主のようです。

 

小学校を舞台とした殊玉の青春ミステリーともありますし。

 

これはやはり、読んでみないといけませんよね。

 

 

小学校を舞台に描く六つの短編

本作は、音楽の臨時講師として働くことになった森島巧が主人公。

ともに音楽家である両親から影響を受け、音大を卒業したものの、進路が定まらず迷いの中にある若者、という人物像。

 

初めはアルバイトとしてなんの覚悟もなく教職に就いた巧でしたが、次々に巻き起こる事件を通し、教職者として、一人の社会人としての責任と自覚に目覚めていきます。

 

 

『ミスファイア』

 子供たちの自宅近辺で連続して不審火が発生。

 モンスターペアレントと評判の父兄Mは、教師である安西に原因があるとして彼女の責任を追及する。

 

『やわらかい甲羅』

 五年生の校外実習で出かけた自然公園で、高価なリクガメがいなくなってしまう。子どもたちの誰かが持ち去ったものとして、巧は管理責任を問われるとともに、事件の解決を求められる。

 

ショパンの髭』

 六年一組の鈴木捷はみんなの前で歌うのを嫌がる。無理強いすれば、驚くような音痴ぶりを披露した。しかしピアノを嗜む彼が、音痴だとは考えにくい。彼が歌わない理由とは。

 

『家族写真』

 三年二組の萩野教諭は、驚くことに授業中に子供たちを放置して居眠りしていた。

一体どうしてそんな事になってしまったのか。

 

『悲しい朝には』

 家出癖のある雛子の母親から呼び出された巧は、みんなの前で雛子を褒めるようお願いされる。抵抗を感じながらも実行した巧は、子供たちから無視されてしまう。

 

『グッバイ・ジャングル』

 萩野教諭が退職し、新たに中村教諭を迎えるも、三年二組は学級崩壊。それはやがて他のクラスにも伝播し、校内中で問題が頻発するようになる。そんな中、卒業目前にした雛子も不登校に。

 

いつもながらのざっくりとしたあらすじですが、正直特記するような点もありません。

 

ミステリ・推理小説と紹介されている割に、推理要素があまりにも少ないんですよね。

第一話『ミスファイア』以降は連作短編集としての流れを意図してか、事件とは無関係な巧自身の話題に引っ張られる事も多く、進めば進むほどにミステリ色は薄まっていきます。

 

どの物語も少しずつ事情が解き明かされ、最終的に該当する相手に接触した巧が「どうしてやったんだ」と声を掛けると、相手が勝手に自白を進めるといった具合。

加えて、語られる動機も「いや、ちょっとそれはないんじゃないか」と首を傾げたくなるような点が多く、すっきりしないものばかりです。

 

教頭をはじめ、学校で巻き起こる事件に対して教員達が事なかれ主義過ぎるのも引っかかるところです。彼らは事件の度にきっかけとなった教員をひたすら叱責する一方、事件そのものに対しては無関係を装い続けます。

ある意味では教員組織にありがちな一面とも言えますが……その割に「あなたの責任なんだから自分で解決しなさい」とばかりに全責任を押し付けてみたり、逆に「一切関わるな」とけん制してみたり、学校組織の造形には一貫性がないように思えました。

 

最終的に巧が教師を志すに至ったとしても……そんな上司や周囲の教員の意見に合わせようともせず、スタンドプレーばかり繰り返すようでは、彼の教師としての未来も明るいとは思えません。

生徒のためには己の立場も鑑みずに学校組織にも立ち向かう熱血教師像がもてはやされた時代は今や遠い昔の事。今は生徒に対しても、組織に対しても相反する事無く信頼を勝ち得るバランス感覚こそが求められる時代です。

令和に読む作品としては、ちょっと現実との乖離が過ぎました。

 

ミステリとして読むにはあまりにも淡泊過ぎるし、かといって学校の問題点を浮き彫りにした社会派小説かというと陳腐過ぎるし……どうにも受け取り方に困る作品です。

 

 

なぜにハードボイルド?

冒頭に引用しましたが、森島巧という主人公の人物像が、やけにハードボイルドテイストなのも気がかりな点です。

なにせ作品の始まりが、下記のような一文ですからね。

 

 父親が森島巧に残したものは、棚いっぱいに並んだレコードとCD、ビスの一本まで手入れされた一九七八年生のドゥカティ900SS、そして男にしては華奢で長い指だった。

 

さらにその後も、いちいち巧の脳内ではロック・ナンバーが再生されたりします。

 

――I've no feeling,I've no feeling.

”大人”たちを挑発するように繰り返すフレーズ。セックス・ピストルズの『No Feeling』だ。日本語のタイトルが、そう、『分かってたまるか』。歪んだ笑みが浮かびそうになるのをどうにかこらえた。

 

こういうのって好き嫌いも大いに関係するとは思うですが、個人的にはただひたすらに鼻につくんですよねぇ。

ドゥカティの排気音だとか、激しいロックビートだとか、作者の脳内ではそれらが非常に魅力的なものとして映画のワンシーンでもあるかのように描かれているのかもしれませんが、知らない読者にとっては「なんのこっちゃ」でしかありませんよね。

 

バイクとかロックとか、ハードボイルド風な作品にはつきもの的なイメージもあるんでしょうが。

 

……でもその前に、なぜ本作でそれ???という疑問がついて離れません。

その意味では巧の両親が音楽家である理由も、巧が音楽教師である理由も、バイクを乗り回す理由も、全てが物語に対しては不要な要素ばかりです。

 

上に記したようなハードボイルド風味は、本作が描こうとした「学校を舞台とした青春ミステリ」にも不釣り合いとしか思えません。

少し黴臭さを感じる舞台装置の数々は、スタンドプレーが目立つ熱血教師という時代錯誤の教師像と合わさって、かえって昭和歌謡的な古臭さをにじませてしまったのではないでしょうか。

 

ライトノベルの金字塔『妖精物語』の記事にも書きましたが、その道の趣味人でしか知らないような固有名詞をやたらと作中に登場させるのって、遠い遠い昔の流行を未だに引きずっているんだな、としか思えません。

 

バイクや銃についてはやたらと細かい描写や固有名詞が頻出したり。750SSとかCB1100Rというカタログスペックで書かれて、昔の人は理解できたんですかねぇ?今ならインターネット検索で一発ですが、当時だと辞書や広辞苑にも載っていないであろうこういった商品名をどうやって理解していたのか、理解しがたいところです。こういった製品やスペックをそのまま記述するのは当時の流行なのだとは思いますが。

 

linus.hatenablog.jp

 

ドゥカティ900SS……知らないし、例え現物を見せられたとしてもカッコイイとは露ほども思わないでしょう。

そもそもバイクの愛好者そのものの高齢化が話題になって久しいですし。

休日に行楽地で目にするツーリングバイクの大群って、漏れなく白髪頭・禿頭のおじさんですもんね。

 

 

2011年 第64回日本推理作家協会賞 長編及び連作短編集部門選評

個人的に「2011年日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門候補作」という紹介文が本書を読む大きなきっかけになっただけに、改めて調べてみました。

 

www.mystery.or.jp

今は便利ですよねぇ。

直木賞もそうですが、十年以上前の選評の詳細がWEB上で確認できてしまうんですから。

 

※一点補足しておくと、本作『教室に雨は降らない』は改題される前は『明日の雨は』という作品名でしたので、おいおい、違う作品じゃねーかなどと思われぬようご注意ください。

 

同回の受賞作は麻耶雄嵩『隻眼の少女』と米澤穂信『折れた竜骨』の二作でした。

麻耶雄嵩米澤穂信とは、なかなかに豪華な受賞者ですね。

 

 

 

正直、受賞作は未読ながらも二人の作者を知る身としては、そりゃああの二人を押しのけて本作が受賞とはならんよな、と納得です。

むしろ本作がノミネートされていた2011年は、よっぽど他のミステリ作品が不作な年だったのかな、と思えてしまいます。

 

さて、気になる本作に対しての各選者の選評を見てみましょう。

 

柳広司

最初に、各選考委員から「本年度の推理作家協会賞に相応しい」と考える作品を推薦して頂きました(但し、各委員最大二作まで)。
 この時点で最も評価が高かったのが『折れた竜骨』。次いで『隻眼の少女』と『華竜の宮』が同票で並び、以下『アルバトロスは羽ばたかない』『明日の雨は。』の順位となりました。

 

赤川次郎

「明日の雨は。」は、候補作中唯一の連作短編集。音楽の臨時教師と小学生たちの日々に起る色々な事件、ということだが、全六話の内、ミステリーらしいのは初めの二話くらいで、書下ろされた残りの四話はただの学園小説になってしまっている。切れ味のいい短編を書くのは千枚の大長編より難しいのだ。

 

恩田陸

『明日の雨は。』は、連作短編集であるが、最初の二編がミステリの形式を取っているのものの残りの書き下ろし部分は青春小説であり、好感は持てるが推理小説かと言われると疑問を抱かざるを得ない。

 

北村薫

前半の討議の中で、『明日の雨は。』と『華竜――』が落ちた。『明日の――』は、第一話の「ミスファイア」が、ミステリの要素と物語を巧みにからめた秀作で、それだけに以降の物語の展開に同程度、あるいはそれ以上のものを期待してしまった。その点で不満が残った。

 

佐々木譲

伊岡瞬の『明日の雨は。』も学園ミステリーであり、日常性の中の小さな謎を題材にしているが、『アルバトロスは羽ばたかない』と印象がかぶってしまった。

 

新保博久

伊岡瞬氏の『明日の雨は。』も、七河氏のと同様「日常の謎」的な連作短篇かと見受けられながら、後半へ行くほどミステリ的興味が希薄になるのが不満だった。あるいはこれは、小学教師を主人公にした犯罪のないハードボイルドを意図した作品ではないかと選考後に気づき、そちらに狙いを絞ってもらえていれば、また違った評価が出来たものをと惜しまれた。

 

……というわけで、あまり好評価とは言えない内容に終始していました。

日本推理作家協会賞は、あくまで「その年に発表された推理小説の中で最も優れていたものに与えられる」賞です。そのため、イコール作品の評価とはならないのは重々承知の上ですが、僕の読後感とも通じる部分があって、一人勝手に納得しています。

 

なお、付け加えると本作の第一話である『ミスファイア』は、前年度の2010年 第63回 日本推理作家協会賞 短編部門の候補作でもあります。

『ミスファイア』も含む形、あるいは書下ろし短編を追加して連作化された『教室に雨は降らない(旧題:明日の雨は)』が、翌年の長編及び連作短編集部門にノミネートされたという事になります。

 

よっぽど作者が力を入れていたのか、出版社側が推していたのかわかりかねますが……それにしても二年連続候補作に選ばれるとは、すごい事ですね。

念のため、2010年の選評に関するページもリンクを貼っておきます。

ご興味があるようでしたら、こちらもご確認下さい。

 

www.mystery.or.jp

 

 

 
 
 
 
 
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『君と夏が、鉄塔の上』賽助

「まあ、興味のない人からすれば些細な違いなのかも知れないけど…… 山のほうとかに行くと、猫の顔みたいな鉄塔もあるんだよ」

「猫の顔?」

「頭の上が 猫の耳みたいになってて、顔の真ん中がぽっかり空いてる鉄塔。烏帽子型鉄塔って言うんだけど」

 

賽助『君と夏が、鉄塔の上』を読みました。

賽助という著者の作品を手にするのは初めて。

加えて言えばディスカバー21という出版社も、ビジネス書や自己啓発書、手帳といったイメージが強くて、こういった小説を手掛けている事も初めて知りました。

 

こういった見慣れぬ作品に出会えるのもKindle Unlimitedの魅力と言えるのかもしれませんね。

一方、割とメジャーどころの新作本はなかなかラインナップに加えられず、掘り出し物を探すようにして読みたい本を探さなければならないという欠点も大きいのですが。

 

聞きなれない作品とはいえ、Amazonのレビューを見たところ、かなり評価も高い様子ですので、安心して楽しむ事にしましょう。

 

鉄塔マニアの僕、破天荒少女帆月、幽霊が見える比奈山

物語は羽根つき自転車に乗った同級生の帆月が、校舎の屋上から鳥人間コンテストよろしく飛び立ち、落下するという事故のシーンから始まります。

彼女こそが物語をぐいぐい引っ張っていく破天荒なヒロイン役。

その後、夏休みに帆月と出会った僕は、帆月から鉄塔について質問されます。

冒頭の引用の通り、主人公は生粋の鉄塔マニアなのです。

そこへ通りかかったのが、不登校気味の比奈山。

彼はお化けを見る事ができるという特殊な能力を持っているそうです。

鉄塔マニアと霊能力者。

破天荒少女帆月と、そんな二人の間にどんな関連があるかというと……彼女には、鉄塔の上に座る一人の少年の姿が見えるというのです。

 

呼び掛けても反応はなく、ただ座って景色を眺めているだけに見える少年の正体はなんなのか。

彼に一体どんな目的があるのか。

 

二人の少年と一人の少女が謎の解明へと駆け抜ける、ひと夏の青春ストーリーです。

 

……で、なんの話?

上ではそれらしくあらすじをまとめてみたのですが、読んでいる最中、ずっと頭にあったのは「……で、結局のこの物語ってなんの話なの?」というクエスチョンでした。

 

この作品の残念なところは、とにもかくにも着地点が見えないところなんです。

 

帆月という破天荒な美少女キャラに陰キャ主人公が振り回される青春モノ、という構図だけは見えるのですが、鉄塔の上の子どもの謎はなかなか解き明かされないまま幽霊が見える見えないの話になり、工事中のまま廃墟になったマンションに肝試しに潜入して……と、物語全体が進んでいる方向がわからない。

終盤に入り、鉄塔の上の子どもの正体に近づくとともに、生き急ぐような帆月の破天荒ぶりの理由がわかったあたりから物語は加速度的に動き出すのですが……それもまた、「こんなシーンって幻想的でしょ?」「ダイナミックでアニメにしたら映えそうでしょ?」といわんばかりの宮崎駿作品のオマージュ的な絵面が展開されるだけで、「……で、なんの話?」という一番の物語の芯の部分はよくわからないままです。

 

ファンの方には大変恐縮ですが、キャラクターと映像だけに特化して、中身のないアニメ映画によく似てるかな、と。

様々な謎についても物語の中で一応の解答的なものは提示されるものの、やはり核心については謎に包まれたままです。

 

 ・そもそも鉄塔(高圧線)である理由は?

 ・海を目指す理由は?

 ・正体は神様?お化け?それとも帆月の妄想(セカイ系?)

 

さっと思いつくところでも、上記な内容については不明のまま。

消化不良で結末を迎えるという、なんとも残念な結果になってしまいました。

 

 

読後の想像という楽しみ

書いていて自分でも不思議だったのですが……ちょうどひとつ前の記事『愛がなんだ』で書いた内容とは全く正反対となってしまいましたね。

 

linus.hatenablog.jp

 

そんな事を読後に想像するのも、読書の一つの楽しみだと僕は思います。

中途半端で消化不良なんて、言わないで欲しいなぁ。

 

矛盾してる!なんて言われないためにも補足しておきますが、本書と『愛がなんだ』では、消化不良の意味が違います。

『愛がなんだ』は作中で描かれてきた恋愛の結末的な部分が欠けていたせいで消化不良という指摘を受ける事も少なくないのでしょうが、それ以外の要素に関しては特に不明点や説明不足があるわけではありません。

対して『君と夏が、鉄塔の上』は、一応の結末は迎えているものの、不明点や説明不足が多々残るという消化不良です。

 

パズルに例えれば、『愛がなんだ』は完成させた絵柄の構図が意図的に省かれていたという状態でしょう。人物の絵のはずなのに首の部分までで終わっていて肝心の顔がわからないから、想像するしかないというような。でもそれは、読者に想像してもらうために、あえてそうしているわけです。

ところが『君と夏が、鉄塔の上』はパズルを完成させたにも関わらず、ところどころピースが欠けているという状態。

穴だらけのパズルで完成していると言われても気持ち悪さだけが残って、満足はできませんよね。

 

個人的には「主題歌と雰囲気だけ良かった」と酷評されたあのアニメ作品が思い浮かびました。

 

youtu.be

 

物語そのものはなんかよくわからないけど綺麗なシーンと甘酸っぱい青春っぽさだけを楽しめるという意味では、本当によく似ていると思います。

 

そういうこと

はて、なんでこの作品がこんなに高評価なのかと不思議だったのですが、ちょっと調べてみてすぐにわかりました。

賽助という作者、『SANNINSHOW』というゲーム実況系のyoutuberのメンバーだったんですね。

 

Amazonの口コミによると、そこからの流れで読んで高評価を付けているというファン方がほとんどのようです。

そういうこと、ですね。

 

せっかく良さげな本を見つけたと喜んだのに、はなはだ残念でした。

まぁ本当に良書だったら、Kindle Unlimitedあたりに載せてないか。

 

とにかく残念ですね。

今はただ、面白い本が読みたいです。

 

 

 
 
 
 
 
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『愛がなんだ』角田光代

 マモちゃんと会って、それまで単一色だった私の世界はきれいに二分した。「好きである」と、「どうでもいい」とに。そうしてみると、仕事も、女の子たちも、私自身の評価というものも、どうでもいいほうに分類された。そうしたくてしたわけではない。「好きである」ものを優先しようとすると、ほかのことは自動的に「好きなものより好きではない」に変換され、つまりはどうでもよくなってしまうのだった。

角田光代『愛がなんだ』を読みました。

これまでにも何度となく書いてきましたが、『八日目の蝉』を読んで以来、僕は彼女のファンです。

 

あれ程までに心を揺さぶられ、”親子”や”血のつながり”、はたまた”善と悪”に至るまで考え去られたのは、本当に稀有な読書体験でした。

残念ながら読んだのはブログを始める前だったので、当時の興奮や衝撃を現すものはどこにも残っていませんが、過去に記した角田光代作品の記事にその片鱗を感じる事はできるかと思いますので、ご興味があればぜひご一読を。

 




そして本作もまた、『八日目の蝉』同様、映画化もされた作品。

www.youtube.com

 

主演を務めるのは岸井ゆきの

非常に個性あふれる実力派の女優さん。

このキャストを見ただけで、つい観たくなってしまいます。

 

しかも本作、wikipediaによると

 

当初は全国72館で公開されたが、10代後半 - 30代の女性やカップルを中心にSNSや口コミで評判となり、独立系の低予算作品としてはあまり例を見ないロングランヒットを記録。2019年6月時点で152館まで上映館が拡大された。

 

とあり、なかなかの高評価だったようです。

存在すら知らなかったのは本当に残念……というか完全に僕個人の手落ちですね。

まぁ地方住まいだとこの辺りの感度の低さは如何ともし難いところはありますが。

 

が……とりあえずはまず先に、原作作品を楽しませていただく事にしましょう。

 

 

〈究極の〉片思い≠ストーカーすれすれ?

本書の主人公山田テルコは、少し前に出会った田中マモルに恋をしています。

友達を通じた飲み会で知り合い、意気投合。その後も数度のデートを重ねた後、マモルの家にお泊りした事もありました。

 

ただし、付き合っているわけではない。

ここがキモです。

 

四日に一度ぐらいのペースでくれるマモルからの連絡を、テルコは心待ちにして毎日を過ごしています。

連絡が来たらすぐに駆け付けられるようにと、彼の会社の近くをうろうろして時間を潰し、結局連絡が来なかったと諦めて自宅に帰った後、夜中の12時過ぎに来た電話に浮かれながら出かけて行く始末。

しかし彼女はストーカーとは違い、自分から相手に迫るような真似はしません。

あくまで彼が「会おう」と言ってくれた時のためだけに、自主的に近くで待機をしているだけなのです。

テルコの精神状態は冒頭の引用に抜き出した通り、仕事も、同僚の目も、何もかもがどうでもよくなってしまうという依存を通り越した異常な状態。何もかもをもマモル一人に向けてしまうのです。

 

そんなテルコに対し、マモルは同棲カップルのような日々を過ごしたかと思えば、不意に「ハイ終わり」とばかりに「帰ってほしい」と冷たく言い放ったりもする。

テルコはマモルを思えばこそ、それに対して不平や不満を唱えることはありません。

 

必要な時だけ呼び出され、気が済めばお払い箱にされるという、絵に描いたような都合の良い女。

それがテルコです。

 

本書は一言で言えば、そんな度を越した恋愛依存体質を持つテルコの恋愛模様を描いただけの作品です。

 

 

愚かで馬鹿馬鹿しくて、でも愛おしい

ある日のこと、マモルに呼び出されたテルコはすみれという女性と引き合わされます。

テルコの嫌な予感のとおり、すみれはマモルが心惹かれる相手でした。

ところがすみれはというと、マモルになんてとんと興味のない様子。

しかしながらすみれはテルコを気に入った様子で、その後も遊びに誘ったりしてくれます。

 

テルコはマモルが喜ぶからと、自分とすみれが一緒にいる場所にマモルを呼び寄せたりします。

マモルもまた、そんなテルコを利用し、すみれに接近しようと試みます。

 

いやー……いくら尽くしたいタイプとはいえ、ちょっとやりすぎですね。

平気でテルコを利用しまくるマモルも最低です。

三人で飲み、マモルの下心を見透かしたすみれが一次会であっさり帰った後、テルコに対して「やらせて」とお願いする下衆っぷりなんて開いた口がふさがりません。

テルコもテルコで、喜んでとばかりに酔っぱらったマモルを自らベッドに引っ張ったり。

まぁこのエピソードは、テルコがどんなにご奉仕してもハートブレイク中のマモルはさっぱり奮い立つ事ができなかった、というオチで終わるのですが。

 

テルコは本当に、どうしようもない馬鹿です。

自分の知人だったら、必死になって止めるでしょう。

でも彼女は止まらない。

他人から見たらマモルが冴えないやせっぽちの男だろうと、さんざん好き勝手利用されているだけだろうと、彼女にはすべて「どうでもいい」ことなのです。

彼女にとっては「好きである」以外の物事はすべからくして「どうでもいい」のですから。

 

でも……実際こんな人、自分の周りにもいましたよね?

盲目的に恋に溺れてしまうタイプ。

それどころか、誰しもが一度ぐらいは似たような状況に陥ってしまった事があるのではないでしょうか?

勉強も仕事もそっちのけで、頭の中は恋人でいっぱい……なんて。

もしかしたらテルコは他の誰かではなく、ある一時期の自分の姿なのかもしれません。

 

どうしようもなく馬鹿で、つくづくどうしようもないと思いつつも、そんなテルコをどこか懐かしく、愛おしく思えてしまうのは僕だけでしょうか?

 

 

不毛な恋の行きつく先

読後にアマゾンのレビューを見ていたら、気になる感想を見つけました。

 

面白いは面白い。軽く読める。ここまでの恋愛体質、本当にいるか?って思う。まあ、それは物語なんだから、置いといたとして。なぜ、中途半端に終わる。なぜ、この結末。これって読書に結末を任せる内容かな?結局、終わりが描けなかっただけ?書いてて飽きた?中途半端で消化不良。この作家の考える恋愛体質な女の子の恋愛論を最後まで読みたかった。主人公に終わりを作ってあげたい。

 

……は?

まぁ、気持ちはわからなくもないですけどね。

 

きっと「マモルはついにテルコの良さに気づいて二人はめでたく結ばれました」とか「別の優しい男性とテルコは出逢い、後からテルコの大切さに気付いたマモルが想いを伝えても手遅れでした」なんていう結末が欲しかったのでしょう。

これが雨後の筍のように量産されつつあるライト文芸作品ならそうなのでしょうね。

 

でもこの本の作者は、角田光代なのです。

『八日目の蝉』や『紙の月』を書いた角田光代なのです。

 

そんなベタなオチ、書くはずがない。

もしそんな作品なら、きっと今泉力哉監督の手により映像化される事もなかったでしょう。

『スカッとジャパン!』あたりで映像化ならあり得たかもしれませんが、そういうものをお望みならライト文芸を読んだ方がよろしいかと。別に見下しているわけではなく、小説にも様々なジャンルや作者がいるわけですから。

角田光代に結末を求めて文句を言うというのは、僕から見ると逆に「ライトノベルを読んであり得ないキャラクター像やご都合主義的エピソードにいちゃもんをつける」というぐらい筋違いに思えてしまうわけです。

 

じゃあ、作者が書こうとしなかった物語の未来はどんな結末になっていたかというと……それは読者一人ひとりによって、異なるのだと思います。

頭の中でイメージするテルコの容姿や声が一人ひとり異なるように、未来のテルコの姿も人によって違うのは当然です。

 

でも多分ですが、そこそこ似通ってたりはするんじゃないかな……なんて思えたりもするのですが、それには理由があります。

上で少し触れましたが、僕はテルコは誰しもが一度は陥った事のある「理由もなく恋に盲目的な自分」を描いたものだと思っています。

プロが描いた似顔絵が、その人の特徴を極端にデフォルメしているのと同じように、テルコは極端化して描かれています。マモルを優先するあまり、会社をクビになるエピソードなんてその典型的な例でしょう。恋人のために会社や学校をズル休みしたり、周囲に迷惑をかけたりしても、普通の人は取返しのつかない事態に至る前に自制心という名のブレーキが働きます。しかし、極端化されたテルコにはブレーキがない。どこまででも突っ走って、相手に尽くしてしまう。結果として同僚から無視され、会社をクビになっても、相手の事ばかり考えて頭から離れない。

それは一歩間違えれば、僕達自身が陥っていたかもしれない恋愛の一つの形です。

だからこそ、読んだ人間が親近感を覚えたり、どうしようもないと思いつつも惹かれたりしてしまう。

 

なのでテルコの未来がどうなるか……それは自分自身であり、自分の身の回りを見ればなんとなく想像がつくはずなんです。

まぁ世の中には半世紀以上生きてなお、異性に利用され続ける事でしかアイデンティティーを保てない人間もたまにいますが、ほとんどの人はそうはなりませんもんね。

学校をサボって恋人とデートをしては親や先生から怒られてばかりいたあの子が、いつの間にか自分の子どもの将来を案じる教育ママになっているのと同じように、テルコもまたいつまでも作中のように盲目的に恋に溺れ続けるわけではないのでしょう。

 

そんな事を読後に想像するのも、読書の一つの楽しみだと僕は思います。

中途半端で消化不良なんて、言わないで欲しいなぁ。

 

※追記※映画版観ました!!!

普段、公開済みの映画を観る機会って非常に少ないんですが、ようやく本作の映画版を観る事ができました。

結論から端的に書くと……滅茶苦茶良かったです!!!

 

何よりもですね、テルコ役の岸井ゆきのが素晴らしい!

原作を読んでいた身からするとちょっとイメージと違うかなぁと思わなくもなかったのですが、そんな先入観はすぐに吹き飛びましたね。

だって彼女の演技力、あまりにも素晴らしかった。

 

岸井ゆきのが演じるシーンはどこを取っても魅力的で、最初から最後まで飽きる事なく見続けてしまいました。

 

仲原役の若葉竜也もすごく良い味を出しているし、葉子訳の深川麻衣もなかなか。

個人的に気になったのは、マモちゃん役の成田凌かな。

 

マモちゃんってヒョロガリで猫背で、誰が見ても「あんなのどこがいいの?」と言われてしまう冴えない男子像なはずなんですが、成田凌はちょっとイケメン過ぎましたよね。

成田凌自身も原作を知らないのか、イケメンとして振る舞ってるのも残念でしたし。

体型や顔はいかんともしがたいとしても、猫背な姿勢ぐらいは意識して欲しかったな。

どんな時もシャキッとした立ち姿のマモちゃんは違和感しかありませんでした。

 

まぁとにもかくにも岸井ゆきのが素晴らしい映画でした。

すっかり彼女のファンになってしまい、毎日のように彼女に関する作品やニュースの検索ばかりしています。

 

公開中の映画『やがて海へと届く』や、間もなく始まるドラマ『パンドラの果実〜科学犯罪捜査ファイル〜 』も気になるところ。

 

 


しばらくは読書と並行して岸井ゆきのの追っかけも続きそうです。

本当に素晴らしい役者さんなので、ぜひ皆さんもチェックしてみてくださいね。

 

 

 

 
 
 
 
 
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『あなたには帰る家がある』山本文緒

「役割分担だよなぁ」

「え?」

「最近しみじみ思うんだよ。役割分担ってこと。お前がお茶を入れる。俺があとで湯飲みを洗う」

「いいですよ。僕が洗っときます」

「いやいや、なんでもそうやってうまく分担すりゃあいいんだよ。お前がポカをやる。俺や部長が尻拭いをする」

 秀明はあえて反論はせず、課長の前に湯飲みを置いた」

「家庭でもそうだよ。俺が働いて金を稼ぐ。女房は家のことや子供のことを面倒みる。どこがいけないのかねえ」

 

山本文緒『あなたには帰る家がある』を読みました。

2003年、2018年と二度にわたってドラマ化された人気作品ですので、題名だけでも聞いたことがあるという人は少なくないのではないでしょうか。

 

www.tbs.co.jp

 

普段ドラマはほとんど見ない僕でも、なかなかの話題作としてそこかしこで取り上げられていたおかげで、なんとなく聞き覚えがありました。

どんな作品なのかまでは、さっぱり記憶にありませんが。

 

山本文緒作品としても、以前第20回吉川英治文学新人賞の受賞作『恋愛中毒』を読んだのみです。

 

linus.hatenablog.jp

 

『恋愛中毒』も非常に有名な作品ですが、あんまり印象に残っていたなかったりするんですよねぇ。

こうしてブログの過去記事を読み返して、「あぁ、こんな作品だっけな」なんて朧げに記憶を辿るのがせいぜいです。

 

そんなわけでこれといって印象も思い入れもない作家さんではあるのですが、せっかくKindle Unlimitedで読み放題だし、なによりも人気作にはそれなりの理由があるはずというわけで、手に取った次第です。

 

さて、早速内容についてご紹介していきましょう。

 

 

女性の社会進出

本書の出版が1998年。

今をさかのぼる事20年以上前に書かれた作品です。

 

とはいえ平成でいえば10年ですし、そこまで昔でもないかなぁなんて思ったりもするのですが、本書で描かれる男女関係や夫婦の在り方は、驚くほど前時代的なものです。

 

主人公である真弓は28歳。

一年半前に2歳年下の夫・秀明と結婚したのをきっかけに会社を辞め、一人娘の麗奈とともに専業主婦として暮らしています。

家族を養うためにとハウスメーカーに転職した秀明は、家事と育児の一切を真弓に任せっきり。男は外で稼ぐのが仕事で、家の中の事は女の仕事、という昭和的夫婦観の持ち主です。

 

このぐらいの時期の夫婦にはありがちですが、真弓と秀明は少しずつお互いに不満をため込みつつあります。

どうして家の事や子供の事にもっと関心を持ってくれないのかと苛立つ真弓に対し、秀明もまた、どうして穏やかにしていられないのかとうんざりしている。

どこの家庭にも一度は訪れる時期と言えるかもしれません。

 

そこで真弓は、もう一度働こうと考えます。

夫の安い給料で養われるのではなく、自分も働いて金を稼ぐ事で、夫と対等かそれ以上の立場に立とうと考えるのです。

 

二つ返事で許可する秀明ですが、そこには当然のように穴があります。

秀明にとってはあくまで「家事や育児は今まで通り真弓がやった上で働きに出るのが当然だろう」という認識なのです。

子どもを保育園に入れるのであれば、保育料は真弓が働いた給料から払うべきだし、送り迎えだって真弓がやるべき。真弓も働き始めたからといって、自分はこれまで通り何一つ変わらない生活を送ってしかるべき、という考え方です。

 

あー、いるいる、そういう自分勝手なダメ男……と思ってしまうかもしれませんが、本書がヒットした時代背景を考えると、今から僅か20年前にはまだまだそんな考えが世の中的にも主流だったのでしょう。

 

真弓はそんな価値観に真っ向から立ち向かうかのように、家事育児をこなしながら、がむしゃらに働きます。

そしてある日、夫・英明との口論の末、一つの勝負を始める事になるのです。

それは……

 

「勝負よ。三ヵ月間の収入が少なかった方が、家で奥さんをやるの」

 

という驚きのものでした。

 

 

登場人物全員ポンコツ

色々と時代背景があるのは重々承知しているのですが……それにしたって本書の登場人物たちは、ほぼ全員がどこか欠落したポンコツだらけです。

 

 〇真弓――一流商社に勤めるOLだったにも関わらず、仕事に嫌気がさして

      寿退社。その際「今日は安全日」と秀明を騙して妊娠するとい

      う卑劣な手を使う。その後、思い描いていた専業主婦の日々に

      幻滅し、やっぱり働きたいと言い出すという短絡的思考の主。

 

 〇秀明――本能の赴くままに客の妻に手を出し、相手が本気になるや否や、

      面倒くさがるという脳みそ下半身男。

      常日頃から女性に対しては好みか、そうでないかという価値基

      準しか持たない。

 

 〇綾子――誰もが羨む美貌の持ち主にも関わらず、性格も見た目も悪く、

      経済的に裕福とも思えない那須田とこの人なら優しそうという

      理由だけで結婚。

      挙句自分の決断は間違っていたと気に病み、たまたま出会った

      住宅メーカーの営業マンに惚れ込んだ上、簡単に股を開き、相手

      に依存しまくる地雷女。

 

 〇奈須田――パワハラ、セクハラなんでもござれの醜男社会科教師。

       保険会社の外交員でも、ハウスメーカーの職員でも、たまたま

       散歩で出会った女性でも、全て性的対象として見ずにはいられ

       ない。

 

人生100年時代と言われて久しい昨今ですが、本書の登場人物たちにはおよそ長期的な展望など望めそうにありません。

ただひたすら感覚的に、本能の赴くままにその場その場で行動を起こしているだけです。

 

一番の主人公格である真弓自身が、一時の気の迷いから一流商社を辞め、映像制作のアルバイトという将来性の欠片もない秀明との出来ちゃった結婚を選び、予想通り後悔に苛まれた末、もう一度働こうと選んだ仕事が保険会社の外交員……とまぁ絵に描いたように坂道を転げ落ちていきます。

本人には落ちているという自覚がないのだから、本当にどうしようもありません。

 

保険会社とか、一番選んじゃいけないよね。

 

そこの支部長が一千万クラスで稼いでると聞いて、私もそうなりたいと夢を抱くなんて、もう滅茶苦茶です。

いずれマルチ商法なんかにもそうとは知らずのめりこむタイプに違いありません。

 

 

自業自得な物語

上記のような登場人物たちは、ことあるたびに「そうはならんやろ」と思わずツッコミたくなるような選択を繰り返し、「そりゃそうなるわ」という窮地へと陥っていきます。

 

まさに自業自得。身から出た錆。

 

このあたりのバランス感覚が本書のキモなのかな、と思いました。

 

理解できない浅はかな言動の結果、読者の予想通りの展開へと陥っていく。言わんこっちゃない、と言いたくなるようなエピソードの繰り返し。

登場人物たちに共感はできないけれど、愚かな彼らが迎える顛末には共感できるという、そんな絶妙な塩梅。

 

それにしても、やはり作品全体を通して前時代的な結婚観・夫婦感・男女感が前提となっていますので、今の時代に読んで楽しめるかは微妙なところと言わざるを得ません。

wikipediaやインターネット上のまとめサイトを参照するに、2018年のドラマ化では原作からはだいぶ改変もされたようです。

まぁ、そりゃそうでしょうね。

今の時代、本書の内容そのままでは苦情が殺到してあっという間に放送中止に追い込まれてしまうでしょう。

 

本書を読まれるという方は、前提条件として本書が書かれたそんな時代背景について心に留めていただきたいと思います。

 

聞くところによると本書には姉妹作とも呼べる『眠れるラプンツェル』という作品もあるそうですので、機会があればそちらも読んでみたいと思います。

 

 

 

 
 
 
 
 
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