「人間は死ぬとき、愛されたことを思い出すヒトと、
愛したことを思い出すヒトにわかれる。
私はきっと愛したことを思い出す」
深いですねぇ。。。
『サヨナライツカ』も読書ノートには引用が多数残されています。
しかもどれも結構長文。
「もちろん愛されたことも思い出すでしょう。それは嬉しい記憶として。でも愛したということ。自分が誰かを真剣に愛し抜いたということは、生き物として生まれてもっとも尊いことだと考えるのです」
「でもどうか、迷わないでほしいと思うのです。悩んでもいいけれど、迷うとろくなことがありません。悩んで悩んで悩み抜いて人間は大きくなるのです。けれども、迷って迷って迷い抜いた人間は結局擦り切れて薄っぺらになり最後は悲惨な場所に押し流されたしまうのです」
「人生のほんの一時しか一緒に過ごさなかったのに、一生忘れられない存在というものがあるのですね。あなたとの時間は私の中で永遠なのです。何物とも比べられないくらいに永遠です」
こうして書いてみると、まるで聖書みたいな不思議な重みがありますね。
ただし、これは道義的に許される愛の話ではありません。
『東京タワー』同様、背徳の愛の物語。
主人公の豊は赴任先のタイで沓子と出会う。婚約者がいるにも関わらず沓子との逢瀬を重ねるが、婚約者である光子との結婚が迫り、二人は別れる。
そこから物語は飛び、二十年後に再開した豊と沓子。お互いに相手の事が忘れられなかった二人だったが、沓子は病に冒されてしまう。死の間際、最後の再会を果たす二人。
その後、沓子の死を知る豊だったが、すでに沓子との別れを済ませた彼は動揺を見せる事もない。
……かなり端折りましたが簡単に言うとこんな話。
こういう「昔の恋をいつまでも引きずる」センチメンタルな話は最近で言うと新海誠『秒速5センチメートル』をはじめ少なくないですよね。
『東京タワー』にもあった不倫という背徳の愛。
これらを見事に組み合わせたのが『サヨナライツカ』と言えると思います。
昨今では不倫だなんだとうるさくなってきていますので、許容できるかどうかは読む人を選ぶかもしれませんが。
個人的な意見として、たまたま同時期に素敵な相手が複数現れて、迷ったり葛藤したりする経験って少なくないはずなんですけどね。結果的には、結ばれた相手よりも取り逃がした相手の方が後々まで引き摺ってしまったり。「逃した魚は……」の論理かもしれませんが。
ただし
ここまで酷い別れ方をされたのに、それでも想い続ける女性はちょっと都合が良過ぎますね。
男が書いた小説だなぁ、と笑