森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の、森の匂い。
冒頭の一文を読んで、「あっ、これは……」と思いました。
初めて入るレストランに一歩足を踏み入れた瞬間、この店はきっと自分によく合う店だと感じてしまうあの感覚に似ています。
その人が鍵盤をいくつか叩くと、蓋の開いた森から、また木々の揺れる匂いがした。
ああ、そうか。
ピアノ=森なんだ。
そう気づいた瞬間、予感は核心に変わりました。
この本は、「当たり」だ。
瑞々しく、色彩豊かな文章
第154回直木賞の候補にも挙がりましたが青山文平『つまをめとらば』を前に惜しくも落選となってしまいました。
物語は主人公である外村君が高校二年生の時に、体育館のピアノを調律にやってきた板鳥さんの調律した音から“森”を感じるところから幕を開きます。
序章とも言えるその短い一小節を読んだ段階で、多分僕は外村君が受けたのと同じような衝撃を受けました。
宮下奈都の書く文章から、僕もまた“森”を感じたのです。
クレヨンと色鉛筆で優しく、丹念に色を重ねたような瑞々しく色彩豊かな森とピアノの風景が、頭の中に浮かびました。
非常に静かで動きの少ない場面にも関わらず、外村君の胸の中で稲妻なのか竜巻なのかとんでもない衝撃と興奮が襲っている様子がよく伝わってきます。
後はもう、ただただ楽しい読書でした。
素晴らしい文書を書く作家が、どんな物語を展開していくのかだけを追いかけて行けば良いだけでしたから。
調律師としての成長と運命的な双子との出会い
外村君は調律師になると心に決め、板鳥さんに弟子にして欲しいと志願しますが断られ、代わりに勧められた専門学校に通い調律師として江藤楽器店に戻ってきます。
そこからが本編の始まりです。
尊敬してやまない板鳥さんは留守が多く、外村君の指導をしてくれるのは柳さんという七つ上の先輩。他に秋野という四十過ぎで毎日定時で帰る家庭持ち。
丁寧で優しい柳さんと、言動が投げやりで棘と影を感じさせる秋野さんは、アメとムチの表れのように対照的に書かれます。
時には掠めるように板鳥さんとも会い、その都度重要な示唆を与えてくれる場面も。
物語中で時間はあっという間に一年、二年を過ぎ、外村君は先輩たちに囲まれる中で日々調律師として成長していきます。
そんな中出会うのは、柳さんの客先である由仁と和音という双子の姉妹。
明るく活発な由仁と控えめで大人しい和音は、弾くピアノも対照的。柳さんや周囲は由仁のピアノが素晴らしいと褒めますが、外村君だけは和音のピアノから由仁にはない“森”を感じ取ります。
気難しい客にぶつかったり、何のいわれもないのに予定をキャンセルされたり、様々なピアノに出会い、成功と失敗を重ねる外村君。一方で双子にも事件が発生し、ピアノから距離を置かざるを得ない状況へと陥ってしまいます。
事件を通し、外村君と双子はさらに成長を遂げます。
物語の概要としてはざっくり上記のようなところです。
全編通して穏やかに、外村君の調律師としての日々やそれを通しての所感、葛藤を描いています。
特にとんでもない事件やどんでん返しが巻き起こるわけではありません。
本書に低評価を付ける方にはその辺りを「つまらない」とされる向きが多いようですが、残念です。そういう物語ではない、というだけの問題です。その辺りの見方については下記中村文則『銃』のブログに細かく言及しましたので、興味があればご一読ください。
お気に入りの文章抜粋
僕は読書ノートをつけています。
その中で気に入ったり、心に残る場面があればそのまま書き取るようにしているのですが、本書の中で気に入った部分をご紹介したいと思います。
なだらかな山が見えてくる。生まれ育った家から見えていた景色だ。普段は意識することもなくそこにあって、特に目を留めることもない山。だけど、嵐が通り過ぎた朝などに、妙に鮮やかに映ることがあった。山だと思っていたものに、いろいろなものが含まれているのだと突然知らされた。土があり、木があり、水が流れ、草が生え、動物がいて、風が吹いて。
ぼやけた眺めの一点に、ぴっと焦点が合う。山に生えている一本の木。その木を覆う緑の葉、それがさわさわと揺れるようすまで見えた気がした。
濱野さんの話が僕の身体にするりと入り込んで、僕の中の柳さんの身体をひとまわり大きくした。
汚れているように見えた世界を、柳さんはゆるしたんだろうか。それとも、ゆるされたんだろうか。
「ピアノで食べていこうなんて思ってない」
和音は言った。
「ピアノを食べて生きていくんだよ」
努力をしていると思わずに努力をしていることに意味があると思った。努力していると思ってする努力は、元を取ろうとするから小さく収まってしまう。自分の頭で考えられる範囲内で回収しようとするから、努力は努力のままなのだ。それを努力と思わずにできるから、想像を超えて可能性が広がっていくんだと思う。
その辺に漂っていた音楽をそっとつかまえて、ピアノで取り出しているみたいだ。
どれも作品の空気感を象徴するような場面・比喩ばかりだと思います。
まだまだ沢山あるのですが、紹介仕切れませんので一部に留めています。
ぜひ素敵な文章についても意識しながら読まれて下さい。
雰囲気は羽海野チカ似!?
個人的な感覚ですが、読んでいて目に浮かぶ情景や各キャラクターの性格のようなものが、羽海野チカさんの漫画を彷彿とさせられました。
『はちみつとクローバー』や『3月のライオン』等、大ヒット作を連発している人気作家です。
(↑共感して下さる方がいらっしゃれば嬉しいです)
僕は彼女の漫画も好きなので、本書にもがっちり惹き込まれてしまいました。
それにしても、これ程までに自分にフィットする作家さんを今まで未読だったのが本当に悔やまれます。
出来るだけ早く他の作品も手にとってみたいところです。
……そんな事言って、次々読みたい作品が増えていってしまうのが悩みの種ですが。
※追記※
映画見てきました
劇場版『羊と鋼の森』見てきましたよー。
youtube等で事前公開されていた予告を見て想像はしていましたが、想像以上に原作の世界観を忠実に再現した素晴らしい映画でした。
特に最初の板鳥さんとの出会いのシーンで、静寂の中鳴り響くピアノの音は鳥肌ものです。
柳さんが鈴木良平さんという配役のせいで若干体育会系気質に見えたり、秋野さんがより意地悪な人物として描かれていたりといった差異もありますが、受け入れられない程ではありません。
何よりも三浦友和さん演じる板鳥さんはカッコ良すぎです。
原作で感動したという人は見に行く事をおススメします。
ただし、“音”に非常に繊細な映画で、上映中は物音を立てるのもはばかられるような緊張漂う雰囲気ですので、ご注意を。