『イン・ザ・プール』奥田英朗
「言っとくけど、聞かないから」伊良部が言った。
「はい?」
「ストレスの原因を探るとか、それを排除する工夫を練るとか、そういうの、ぼくはやんないから」
「はあ」
実は、初の奥田英朗作品です。
常々名前を目にする機会は少なくなかったはずなのですが、なぜかしら縁遠く、今回初めて手にする事となりました。
本作『イン・ザ・プール』は後に『空中ブランコ』で第131回直木賞を受賞する事になる精神科医・伊良部シリーズの第一作目。
実はというとなんとなく過去の直木賞の受賞作を見ていたら『空中ブランコ』に目が止まり、調べてみたらシリーズ作品の二作目だというので、まずは一作目から読まないとな、と思い立ったのがきっかけです。
正直なところ、あまり医者や病院を舞台にした小説って読まないんですが……さて、どうしたものか。
軽快・痛快な5編の短編集
全五話の登場人物たちはそれぞれに複雑な悩みを抱えています。
『イン・ザ・プール』
出版社に勤める和雄はストレスからくる急な呼吸困難や下痢に悩まされる。伊良部から提案されたストレス解消として水泳を始めるも、毎日欠かさず泳がないと落ち着かないという水泳依存を発症。和雄に触発されて自らも水泳をはじめた伊良部は、夜のプールに忍び込もうと提案する。
『勃ちっ放し』
文字通り、男性器が勃ちっ放しになってしまった哲也。普段の生活にもままならない中で、上司から接待旅行への同伴を持ちかけられ、さらに言えなかった恨み言を言うため伊良部とともに別れた妻に会いに行く。
『コンパニオン』
自称タレント兼モデル、実情はコンパニオンとして日々を暮らす広美は、自らがストーカーに追われているという意識に際悩まされる。徐々に症状は悪化し、会う男性全てがストーカー化するという誇大妄想へと発展。
『フレンズ』
携帯依存症の高校生雄太は、常に周囲の友人たちを意識し、繋がっていないといられない。流行のファッションや音楽をいち早く揃え、周囲の注目を集めようと日々奮闘するが、ある日周囲との意識の差に気づく。
『いてもたっても』
強迫神経症の義雄は、自宅の火事が気になって仕方がない。煙草の灰皿を水浸しにしても、飛び散った灰から火が出たのではないかと心配になり、仕事を台無しにしても家に舞い戻ってしまう。煙草から始まった強迫観念はガス漏れや漏電にまで広がり、一時として気の抜けない日々へと発展してしまう。
それぞれ「もしかしたら現実にあるかもしれない」と思えるギリギリのラインであり、思わずクスリと笑える。
同情を禁じ得ない彼らに対し、伊良部は時に悪ふざけとしか思えない提案をし、またある時には的確にも思えるアドバイスを施すのです。
いずれにせよ共通しているのは、彼らに対して真摯に向き合ってくれるのは伊良部しかいない、という点でしょう。
そのため、奇妙奇天烈な伊良部に対して少しずつ心を開き始めてしまうのです。
白ブタ・成金・マザコン……良いところなしの伊良部
伊良部の見た目については第3話『コンパニオン』の主人公である広美の表現が一番わかりやすいでしょう。
うえっ。口の中だけでつぶやいた。広美のもっとも忌み嫌う、色白のデブだ。しかもボサボサの髪にはフケが浮き出ている。足元はサンダル履き、胸の名札には「医学博士・伊良部一郎」とあった。
一見して嫌悪感すら抱かせる伊良部ですが、内容も奇人変人そのもの。
「ぐふふ」と笑うと書けば、なんとなくイメージが湧くでしょうか。
それぞれに悩みを抱えた登場人物たちは伊良部の元を訪ね、その奇行と言動に振り回されながらも、一方で信頼と親近感にも似たような想いを抱き始め、やがて当初抱いていた病状についても変化が訪れるのです。
シンプルに面白い
本書は「本をめくる手が止まらない!」という程熱中してしまうような作品ではありませんが、それぞれがコメディタッチの軽快な物語なので、時間が空いた時に取り出して読んでいる内に、あっさり読み終わってしまったという印象です。
良い意味で、褒め言葉として「普通に面白い」。
とりたててどこがどう、という感じでもないのですが、ただただシンプルに「次も読みたいな」と思える本です。
奥田英朗、今まで読まなかったのがもったいなかったですね。
人によって「ハラハラドキドキならこの作家」「軽い感じならこの作家」「青春ものならこの作家」と押さえている作家さんがいようかと思いますが、僕の中では「読む本に困ったら選ぶべき著者」としてインプットされました。
直木賞を受賞した『空中ブランコ』はじめ、人気の作品も多いようですが、今後色々と調べながら他の著作にも手を伸ばしていきたいと思います。