真っ赤に熟したトマトが飛んできて、僕の右肩に直撃する。
畑野智美『夏のバスプール』を読みました。
第23回小説すばる新人賞を受賞したデビュー作、『国道沿いのファミレス』に続く二作目。
僕にとっての畑野作品に触れるのも、『国道沿いのファミレス』に続き二作目となります。
『国道沿いのファミレス』は作者ご本人からご指摘いただいたりと、僕にとってもいろいろといわくつきの記事となっていますので、ご興味があれば読んでみて下さいね。
胸キュン青春小説
アマゾンや背表紙の紹介文は「胸キュン青春小説」
その他、様々な感想やレビューを覗くと「ど真ん中の青春小説」といった評価が多いようですね。
主人公である高校一年生の涼太が、通学途中に女の子にトマトを投げつけられる。
しかも二日続けて。
投げつけた相手は同じ学校に通っている事がわかり、トマトがきっかけで始まった二人の関係が日常的なやりとりやそれぞれが持つ秘密や事情を通して深まっていく。
物語の構造としては極めて典型的なボーイ・ミーツ・ガール(Boy Meets Girl)。
そこに加えられるのが高校一年生という年齢にふさわしい彼らの特殊事情。
未練たらたらの元カノや、幼馴染みと付き合う親友、登校拒否のクラスメート、小学生時代とは立場が逆転してしまった野球部員、憧れの美人教師、等々。
これでもかというぐらいにそれぞれの事情や思いが交錯しあい、すれ違いながら物語が紡がれていきます。
女の子と学校の廊下を走り回って追いかけっこしたり、自転車でニケツしたり、プールに引きずり込まれたり。
親友の部屋でコンドームを見つけてドキッとしたり。
誰もが頭に思い描く青春の1ページが、これでもかというぐらい本書に詰め込まれているのです。
少女マンガ的男子
あくまで個人的な感想ですが、畑野さんはたぶん、頭の中で登場人物を作り込んで作品を書いていくタイプなのだと思います。
その傾向は前作の『国道沿いのファミレス』でも顕著でしたが、本書にも如実に表れています。
主人公である涼太は「顔が女顔でかわいい」「友達がいっぱい」「不良じゃないけど生徒指導室の常連」と、完全無欠。短所は算数が苦手なのと背が小さい事。
中学校時代に二週間だけ付き合った彼女がいる。告白されて浮かれて付き合っただけで好きだったわけじゃない。手もつながずに別れた。別れも相手から告げられた。
要素を並べただけで、女子は歓喜じゃないですか?
少女漫画に登場する“ちょっとかわいい系”の理想の恋人像そのものですよね。
特に元カノのエピソードなんて完璧です。
全く恋愛経験がないというわけではないものの、若気の至りから来る不本意かつ短期的なおつきあい経験が一回だけ。高校一年生ぐらいの場合には「今まで全くなかった」と言うとそれはそれでみっともない感じがしますし、ほぼ無傷のおつきあい経験はむしろレアリティの向上に繋がるわけです。
この辺りの機微、畑野智美さんはよくわかっておられる。
実際に存在したら間違いなくクラスの人気者であろう涼太が、トマトをぶつけられたところから始まり、ミステリアスな美少女・久野ちゃんに振り回されながらも恋に落ちていく物語。
それが上に書いたような青春まっただ中で進められるわけです。
これは好きな人にはたまらないに違いない。
ただし、男である僕から読むと残念ながらちょっと女性目線で作られている事に違和感を感じずにはいられません。
例えば、主人公である涼太が地の文で自分の容姿について語る場面。
僕は女顔をしているとよく言われる。女装したら、そこら辺の女子よりもかわいい。
……たぶん、男性ならわかってくれるかなぁ、と。
これはね、ちょっと言わないですよ。言えない。
仮に心の中で思っていたとしても、「そこら辺の女子よりもかわいいらしい」ぐらいの他人事っぽい言い方になるかと思います。
でも涼太は一事が万事、こんな感じです。
男が読むと、「ない!」と顔をしかめてしまうような言動をする。
簡単に言うと、女性が描いた理想の男性像なんですよね。
少女漫画的。
悪く言うと、非現実的。
これは作者が異性を描いた場合、男女逆でも容易に起こりうる問題なので仕方がないとは思います。
世の中全般で見れば男性作者の人口の方が多い分、むしろ女性から「こんな女いねーよ」と絶拒されるような物語の方が圧倒的に多いでしょうし。
そもそも高校生の恋愛を描いた青春モノですからね。
おっさんが読むな、と言われてしまえばそれまでだったりするんですが。
無意識の悪意
たぶん、、、ですが本書における一番のテーマは無意識の悪意というものなんじゃないかと思いました。
自分の態度や言動が、知らず知らずの内に相手を傷つけてしまっていた、というもの。
そんなつもりはないのに自慢ととられていたり、下に見ていると思われていたり。
その最たるものがよく言われる「イジメの加害者は自分がイジメをしていたとは思っていない」というやつだったりしますが、さんざん語りつくされているネタなのでここで詳しくは掘り下げません。
本書において、前半は爽やかで瑞々しい理想形の青春の日々が繰り広げられるのに対し、後半からは上記のような無意識の悪意の存在が少しずつ姿を現していきます。
現実においても、無意識の悪意を相手から糾弾されるほど辛いものはありませんよね。
ぞわり、ぞわりと粗いやすりで心を擦られるような、読んでいて苦しく思える描写だったりもします。
ただ……これはちょっと書くのが躊躇われるのですが、無意識の悪意というテーマと、ボーイ・ミーツ・ガールという物語の構造の両立に、少し無理があったんじゃないかと思ってしまったり。。。
というのも、涼太はあくまでボーイ・ミーツ・ガールの主人公でなければならず、そうであるからには絶対的に何かしらの人間的魅力を持っていなければならないという制約が付きまといます。
そのため涼太の無意識の悪意を描いてしまうと、涼太の無神経さや配慮のなさといった欠点が浮き彫りになり、相対的に魅力は減少していってしまうんですよね。
前半部で描かれたクラスや校内でも目立ち、交友関係も広い涼太の表向きの良さが、後半ではすっかり失速してしまいます。もしかしたらこいつ、上っ面ばかりで本当の友達いないんじゃねーの? 無意識に敵作りまくる面倒くさいタイプ? みたいな。
後半部では恋のライバルである野球部員の一途さや男気が存分に発揮され、ライバルの評価が上がっていくので、輪をかけて涼太の評価は下がる一方なのです。
恋に障害はつきもの。壁を乗り越えるからこそ二人の恋が燃え上がる。
とはいえボーイ・ミーツ・ガールの物語における障害って基本的には本人に起因するものではないんですよね。父の病や兄弟の犯罪、両親の反対といった身内の問題だったり、〇日後に留学するといった時間・距離の問題だったり。
決して本人たちは貶めず、仮に欠点や短所があったとしても逆に人間味を膨らませる範囲で留めています。
実直だけど短気とか、真面目だけど寡黙とか、一生懸命だけどドジとか。
一見涼太も「一生懸命だけどドジ」に似通ってはいますが、周囲の反応から察するにドジを通り越してクズになりかけているのがちょっと苦しい。
一生懸命なクズはいくらなんでも苦しい。
無意識に悪意を振りまく人間が一生懸命なんですから。これは手に負えない。
そう考えると、物語の軸を無意識の悪意に振ってしまったのはかなり難しいチョイスでしたね。
それはそのまま読後感にもつながってしまいます。
涼太の一人称で書かれているという理由もありますが、ヒロインである久野ちゃんの心の動きがいまいちよくわからないのです。
久野ちゃんは涼太の一体どこに惹かれたのか、何に惹かれているのか。
涼太の人間性が露呈すればするほど、久野ちゃんが惹かれる理由がわからなくなる。
だから最終的に下されるヒロインの決断に対しても、「え、結局そっち行くの? なんで?」と。
恋は理屈や打算じゃない。
そんな恋愛を描くにしても、最終的に「そっちを選んだ」理由がちょっとよくわからないんですよね。
なんとなくそっちの方がフィーリングが合うから。
生理的に惹かれてしまうから。
最初から王子様と結ばれると決まっているから。
ボーイ・ミーツ・ガールとはいえ、そんな理由で結ばれるとしたらちょっと残念ですよね。
僕が男だからかもしれませんが、運命の王子様と当然のように結ばれる物語よりはひたむきな想いが報われる物語の方が好きです。
仮に運命の王子様と結ばれるのであれば、最初から最後までむしろ魅力が膨れ上がっていくような王子様であって欲しいと思います。
感想を書くということ
……うーん。
基本的に深く考えたりせず、頭に思い浮かんだ内容をそのままタイピングするタイプなんですが。
なんだかネガティブな内容が多くなってしまって、ちょっと自分でも困惑しています。
でも濁しても仕方ないですよね。
読んでいて違和感が付きまとったのは事実だし、ラストの展開が納得できなかったのも事実ですし。
だいぶ前に又吉さんが「自分には合わなかった。感情移入できなかったと知る事も読書の醍醐味の一つ」といった内容の話をしていました。
だから本書を読んで「僕がこう思った」と考え、こうして残す事は決して無駄な事ではないと思っています。
本書を読まなければ、そうは思わなかったわけですから。
読んだからこそ、ボーイ・ミーツ・ガールの物語の類型であったり、本書と他の物語の異なる点について考えるきっかけになったわけですし。
……とまぁ、言い訳がましい事をだらだら書いたりもしたのですが、正直なところ、畑野作品を読むのには勇気が要ります。
正確に言えば、こうして感想をブログに書く事に対して、とも言えますが。
詳しくは冒頭に載せた『国道沿いのファミレス』の記事を読んでいただければおわかりかと思いますが、実は前回この記事を書いた時に、Twitterで作者である畑野智美さん本人からアクションをいただいてしまったのでした。
しかも、ネガティブに描いた部分に対する「そうじゃない」というご指摘。
ちょっとこれは恥ずかしいし、畑野さんに対しても申し訳ないしで内心困ってしまいました。
このブログを書いているのはほぼ自分の為であり、少なからず読んで下さる少数の読者の方のためでもあるのですが、正直なところ作者や出版社を対象としていません。ネガティブな感想が目に触れればあまり良くないのだろうな、とは思うけれど、それよりも自分の素直な感想を書きたいという気持ちの方が強いです。
当たり障りのない事を書いても、書いてる側も読んでいる側もつまらないだろうし、とりあえずなんでもかんでも絶賛しておこうという風潮も好きじゃないです。
実際に他の方のinstagramなんか見てると、ちょっとこれはいまいちだなぁと思った本に対して「涙が止まらなかった」とか書かれていたりして、それって本気で言ってんの? と思う事も少なくありません。
……で、僕が「これこれこういう点が残念でした」と書くと、「私も同じように思いました」とコメントいただいたりする。自分が同じ作品について投稿した時には「涙が止まらなかった」と書いていた人が、ですよ。
特に昨今はSNS映えが重視されているおかげで、正直な感想というものがわかりにくくなっているように感じます。
例えば話題のスイーツを食べに行って、写真を撮って、SNSにアップするとする。
そこに書く内容は「美味しい」とか「可愛い」というポジティブな内容ばかりになるわけです。
……仮に、最後まで食べきれずに途中で捨ててしまったとしても。
基本的に承認欲求を満たすためのツールであるSNSって「どう思ったか」よりも「どう思われたいか」の方が優先されがちです。
「話題のスイーツを食べたけど甘いし多すぎて途中で捨てた」と書いたら「いいね!」とはされないですもんね。むしろ自身に対するネガティブイメージを広める結果すら予想されます。場合によっては「食べ物を捨てるなんてけしからん!」とプチ炎上してしまうかもしれません。なのでSNSで承認欲求を満たすためには「話題のスイーツ食べたよ」という投稿をしてしまう。
同じように、読んだ本を「面白かった」「感動した」とコピペのように紹介してしまう。
他人に見てもらいたいのは「本の内容」ではなく、「本を読んで感情が揺さぶられるという文化的な行動をしている自分」だから。
読んだ本は基本的に全てハズレはなく、面白い本でなくてはならない。
泣けると話題の本だったけど出たのは欠伸だけ、なんて事実は書いてはいけない。あの作品で泣けないなんて冷たい人間だと思われかねない。とりあえず無難に「感動した」って書いておけばいい。
そういうポージングとしての感想が世の中に溢れすぎてしまっている。
でもこのブログや僕のSNSに関しては別に誰かから「こう思われたい」から書いているわけではなく、あくまで「僕はこう思った」を書き記すために書いているので、思った事を素直にそのまま書いておきたいと思います。
誰かから無意識の悪意を指摘されるのは本当に怖い事なんだけれど。