『人魚の眠る家』東野圭吾
「他の多くの国では、脳死を人の死だと認めています。したがって脳死していると確認された段階で、たとえ心臓が動いていたとしても、すべての治療は打ち切られます。延命治療が施されるのは、臓器の提供を表明した場合のみです。ところが我が国の場合まだそこまで国民の理解が得られていないということもあり、臓器提供に承諾しない場合は、心臓死をもって死とされているのです。極端な言い方をすれば、二つの死を選べるということになります」
昨年末に全国公開された『人魚の眠る家』を読みました。
僕の東野圭吾に対する評価は既に何度か書いてきた通りかなり低いものでした。
単刀直入に言って、東野圭吾に対する僕のイメージは『量産型佳作作家』というものです。
とにかく次々と作品を発表し、どれもそれなりの話題作となるものの、実際読んでみるとそこまで感動も感慨もなく……。
しかしながら大きな“ハズレ”も少ないため、突出した読みやすさとメディアの販売促進でもって次々と消費されていく量産型の作家さん。
こういった認識が、『容疑者Xの献身』を読み、『マスカレード・ホテル』を読む中でだいぶ変わり、「とりあえず話題になった作品は読むべき」というところまで変わりました。
となると必然的に、『人魚と眠る家』は避けられませんよね。
ちなみに本書は東野圭吾デビュー30周年記念作品でもあるそうです。
否が応でも期待が高まります。
突き付けられる二つの死
ある日突然、長女の瑞穂がプールで溺れたと連絡が入ります。
慌てて病院に駆け付けた夫婦は、医者から脳に重大なダメージが残った、と告げられます。
肉体的には一命をとりとめたものの、脳の損傷は著しく、意識の回復は見込めない……いわゆる遷延性意識障害・植物状態に陥ってしまっていたのです。
臓器提供を前提とした脳死判定をもちかける病院側に対し、夫婦は一度は承諾するものの、握った娘の手が微かに動いたように感じられた事から、直前になって脳死判定を拒否します。
瑞穂は死んでいない……決して回復するはずがないと言われた植物状態の娘とともに生きる生活が、その日から始まったのです。
残された家族と周囲の人々の苦悩の物語……?
瑞穂の両親は、別居状態にありました。
父和昌の浮気が原因で、既に離婚まで秒読みという段階に至っていたのです。
そのタイミングで起きてしまった事故……。
あの日、瑞穂をプールに連れて行っていたのは祖母の千鶴子でした。
自分の不注意が瑞穂を不幸を招いたと千鶴子は後悔に際悩まされます。
ここから、眠り姫のような娘と周囲との長く苦しい葛藤の日々が描かれる……ものだと、僕は思いこんでいました。
ところが
物語は思いもよらぬ方向へと進んでいきます。
電気仕掛けのフランケンシュタイン
和昌の経営するIT系機器メーカー、ハリマテクスは医療分野での技術開発に乗り出しており、脳と機械との融合の研究を進めていました。
具体的には視覚障碍者の脳に直接信号を送る事で障害物の存在を知覚させたり、手足の動かない麻痺状態の患者の脳から直接信号を送って、機械の手を動かさせたりするのです。
そんな中、和昌は横隔膜ペースメーカーという技術の存在を知ります。
心臓のペースメーカーのように、機械の力で横隔膜を動かす機械です。
この機械の力を借りれば、植物状態の瑞穂も人工呼吸器の力を借りることなく生活する事ができるようになります。
そして実際に、和昌と妻の薫子は手術に踏み切るのです。
これにより、瑞穂は自宅での看護が可能になりました。
もちろん薫子一人の手には余りますが、責任をだれよりも感じている祖母の千鶴子が残りの自分の人生の全てを瑞穂に捧げる、と協力してくれます。
さらに和昌は、自社の技術をも瑞穂に利用しようと考えます。
部下の技術者である星野を自宅に送り込み、瑞穂の身体に電気信号を送る事で、強制的に手足を動かそうとするのです。
こうして瑞穂は自らの体で手足を動かす事ができるようになり、定期的に運動する事で衰えた身体も少しずつ元の姿を取り戻し、傍目には眠っているだけの少女のようになっていきます。
しかしそんな瑞穂を見た和昌の父・多津朗は
「人の身体を電気仕掛けにしてしまうなんて、神を冒涜しているような気がする」
と拒絶反応を示します。
薫子は多津朗に食って掛かり、発言を諫めますが、この辺りから薫子の様子はどんどんおかしくなっていきます。
また、技術者である星野もまた、先輩から次のように言われます。
「でもさ、相手が脳死患者の場合はどうなんだ? 意識はないんだろ? もう戻ることもないんだろ? そんな患者の手足をコンピューターや電気信号で動かすって、どうなんだ? 俺にはフランケンシュタインを作ろうとしているようにしか思えないんだけどね」
彼らの反応は、至って正常なものでしょう。
瑞穂は一切自らの意思を持たないにも関わらず、薫子たちの意思により機械の力で呼吸をし、身体を動かす電気仕掛けのフランケンシュタインのようになってしまうのです。
イメージと違い過ぎる
下に、Amazonの内容紹介を転載します。
答えてください。
娘を殺したのは私でしょうか。
東野圭吾作家デビュー30周年記念作品。
『人魚の眠る家』
娘の小学校受験が終わったら離婚する。
そう約束した仮面夫婦の二人。
彼等に悲報が届いたのは、面接試験の予行演習の直前。
娘がプールで溺れた――。
病院に駆けつけた二人を待っていたのは残酷な現実。
そして医師からは、思いもよらない選択を迫られる。
過酷な運命に苦悩する母親、その愛と狂気は成就するのか。
愛する人を持つすべての人へ。感涙の東野ミステリ。
……やっぱりもうちょっとハートフルというか、脳死状態の娘を軸に家族それぞれの苦悩や葛藤を描いた物語を期待していたんですけど。
まさかフランケンシュタインの話になろうとは。
……正直、ひいてしまいました。
一応補足しておくと、決してそればかりではないんです。
一番最初に引用したような二つの死に関わる問題をはじめとする日本の臓器提供を取り巻く状況や最新の医療技術は非常に興味深いものですし、ある意味では「脳死状態を受け入れられない家族の愛」のかなり極端な表現としてフランケンシュタイン化が行われるわけですし。
愛する人のために、人はどこまで尽くせるか。
どこまで狂えるか。
そんなものを書きたかったのだと思います。
ただ東野圭吾さんの受け入れられなかった作品として『秘密』があるのですが、それと似たような拒絶反応が出てしまうんですよね。
『秘密』の時にも、うら若き娘の身体を夫婦で好き勝手弄んでいるようにしか感じられず、「こんな親ありえない」という拒絶反応が先に来てしまって僕はちっとも楽しめなかったんですが。
今回の夫婦もまた、あまりにも現実離れし過ぎてしまっているように感じました。
『天空の蜂』や他の作品でも思うのですが、東野さんって親子を描くのがあまりお上手ではないように感じます。お子さんの存在は明言されていませんが、たぶん子供のいらっしゃらない方なんだろうな、なんて思ってしまうのです。
なのでガリレオのような独身貴族を中心にした物語の方が、すっきり嵌まったりする。
東野作品を読む場合、家族ものは敬遠した方がいいのかもしれませんね。