『スロウハイツの神様』辻村深月
漫画の神様と呼ばれる手塚治虫氏の住んでいたところに、彼を慕って若い漫画家が集まり、住み始める。藤子不二雄や、石ノ森章太郎や、赤塚不二夫や、今では信じられないくらい豪華な顔ぶれの漫画家たちが、一つ屋根の下に住んで、そろって漫画を描いていた。今ではもう伝説のように語られる有名な話。
『スロウハイツの神様』を読みました。
僕の記憶に間違いがなければ『ツナグ』『凍りのくじら』『かがみの孤城』『青空と逃げる』に続いて五作目の辻村深月作品となります。
『ツナグ』は再読するほど気に入った作品ですし、『かがみの孤城』も読んだ後で本屋大賞受賞を予感させた作品でした。『青空を逃げる』も傑作とは言い難いものの、仏に楽しめた作品。『凍りのくじら』はちょっと微妙だったけど。
当たり年と思えた昨年に比べ、今年に入ってから選択する作品はいずれも小粒……なんとか間違いないものを読みたいなぁ、と思って選択したのがほうぼうで見かける事も多い本書でした。
トキワ荘インスパイア
本書は藤子不二雄好きなら有名なトキワ荘を舞台にした作品を書こう、と思い書かれた作品だそうです。
中心となるのは脚本家の赤羽環。
彼女はチャンスをつかみ、すでに一人の脚本家としての地位を確立させようという抜きんでた存在。
環が祖父から譲り受け、めぼしいメンバーを集めた舞台が、トキワ荘ならぬスロウハイツです。
漫画家の卵狩野と映画監督を目指す長野、長野の恋人で画家の卵すみれ、高校時代からの環の親友である円屋。
そして、中高生に絶大な人気を誇る小説家チヨダ・コーキと彼の敏腕編集者黒木。
以上六人が、スロウハイツの住人。
ある時には絶望や挫折を織り交ぜ、互いに支え、励まし合いながら夢を追い求める共同生活を描いた作品です。
謎・謎・謎
メフィスト賞で作家デビューしたという辻村深月らしく、物語の中には様々な謎が含まれています。
大人気作家チヨダ・コーキによく似た偽物作家の登場などはその最たるものでしょう。
鼓動チカラを名乗るその作家は、チヨダ・コーキが連載している作品とほぼ同じような設定で同じような物語を描きます。
しかしある時から、鼓動チカラはチヨダ・コーキを追い抜いてしまいます。
偽物であるはずの鼓動チカラの物語が、チヨダ・コーキを先行してしまうのです。
似たような能力を持つ似たようなキャラが鼓動チカラの作中で死んだ後、それをなぞるようにチヨダ・コーキの作品でも死んでしまう。
鼓動チカラは誰なのか。
どうしてチヨダ・コーキの物語を先行できるのか。
その他にも幾つもの謎があるのですが……こうして読み終えた後で振り返ってみると、ほぼ全てチヨダ・コーキに関係するものばかりだったりするんですよね。
物語の終盤には一番の大ネタとも言える、物語の大本に関わる伏線回収のお披露目があったりするんですが、それもまたチヨダ・コーキに関わっていたり……。
そうなってくると、残念ながらこう思わざるを得なくなってしまうんですよね。
そもそもいなくても良い人物、なくても良いエピソード、多すぎない?
感想:若い
とにかく若いです。
何って書いている辻村深月自身が若い。
調べてみたら2007年の作品。
作者が20台半ばの頃に書かれた計算になります。
そんなわけで、随所に若さが溢れた作品なのです。
……ぶっちゃけ言うと、さっぱり何言ってるかわかんねーという感じ。
そもそも設定からしてよくわからない。
どうしてこの七人なのか。
何を書きたい物語なのか。
以前大塚英志の『キャラクター小説の作り方』の記事でも紹介しましたが、
また、もう一つ重要な点として、一つ一つの要素の必然性について触れています。
ただ単に「左右の目の色が違うゴーストバスターの少年が戦うお話」と「左右の目の色が違うがゆえにゴーストバスターにならなければならなかった少年が葛藤しつつ戦うお話が全く違うのはわかりますよね。「左右の目の色が違うこと」というキャラクターの要素と「ゴーストバスターをする」というドラマの骨格が自然に結びついていることが大切なわけです。その手続きを怠らなければ、そこにはもう「物語」が成立しかけているはずです。
こんなふうにぼくの作品でもどうにか上手くいった作品は主人公の外見的、身体的な特徴(多重人格とか全身が人工身体とか)がその主人公のその後の行動、つまり「物語」に自然に結びついているのです
この“必然性”が見えないんですよね。
ある意味でこの物語は環とチヨダ・コーキがマストで必要ではありますが、他の人々が主要登場人物に肩を並べる必然性は全く感じられません。
にも関わらず視点がしょっちゅう変わる。めまぐるしく変わる。
今この段階での視点が誰のもので、誰の気持ちを表しているのか把握するのが結構な手間で、読んでいて眩暈が起こりそうな程。
その人の視点で語るそのエピソードが本当に必要なのか、疑問に思えてなりません。
でもって時系列もぼんぼん変わる。
肝心なところを一片に明かさず、後から改めて書いたりする。
小説においては常套手段なのだろうけれど、あまりにも多用されるとストレスになる。
視点が変わり、突如過去のとあるタイミングに変わる。
この視点は誰?
これはいつの話?
さっきまでと同じ流れ? それとも回想?
読んでて滅茶苦茶ストレスが溜まって、物語がすんなり頭に入って行ってくれません。
でもって出てくる登場人物たちが全員困ったちゃんばかり。
「自立しろ」と意見を押し付けたり、創作者のはずなのに「感情を表したくない」と言ってみたり。
ある年代のばっちり嵌まる世代の人間が読めば尖ってると思えるのかもしれないけれど、僕が読むにはちょっと遅すぎたかもしれません。
彼らにさっぱり感情移入ができない。
彼らが大成する姿が想像できない。
とにかくダメですね。
読んでいて苦痛でしかなかった。
最後の最後における伏線回収はなかなかの読み応えだったけれど、前述のようにそれは物語全体に広がるものではなく……じゃあやっぱり、その人たちだけの物語で良かったよねじゃね、と。
流石に上下巻で900ページ弱のボリュームを読ませる程のものではないですね。
『かがみの孤城』も終盤の伏線回収で一気に畳み掛ける作品でしたが、良く似た構成にも関わらず大きく差がある作品と言っても良いでしょう。
まぁ辻村深月といえどもデビュー間もない頃の初期作品はやっぱり苦しいよなぁ、なんて改めて思わせてくれる読書でした。