『封神演義』安能務
――歴史とは現実に何が起こったかではない。何が起きたか、と人々が信ずることだ――
『封神演義』を読みました。
読むのはかれこれ十年以上ぶり。
その昔、一度だけ読んだことがありますので一応再読という形になります。
一度だけ読んだというのも、男性の方ならばご存じかもしれませんが、ジャンプで連載されていた『封神演義』がきっかけです。
くどくど書く必要もなく、おそらく日本において『封神演義』を広めたのは上の藤崎竜の手による漫画の影響によるものがほとんどでしょう。
それ以前から僕は作者である藤崎竜(以下フジリュー)が大好きだったので、ついに始まった大型連載『封神演義』にはすぐさま嵌まってしまったのです。
ちなみにフジリューは色々と作品を出していますが、僕個人としては初期作品の方がおすすめです。
『ワールズ』というデビュー当時の作品をまとめた短編集はどの作品も魅力的でこれまでに何度となく読み返していますし、初めての連載となった『サイコプラス』も大好きで、こちらも数えきれないほど読みました。
少年誌らしからぬ繊細な絵と幻想的な物語が特徴となった、いずれも従来の愛・努力・友情をテーマにしていた当時のジャンプでは異色ともいえる作品です。
フジリューファンでなくとも、ぜひ一度は読んでいただきたい作品の一つです。
……そんなわけで『封神演義』に嵌まった僕が、原作となった小説に手を出すのは必然でもありました。
しかしながら読んでみてびっくり。
コミックスとは大きな違いが沢山あるのですが……それについては後ほど。
『封神演義』とは
詳しくはwikipediaを見ていただければ早いんですが。
中国の王朝が殷から周に変わる革命について書かれた物語です。
殷の紂王を周の武王が討つわけですが、その周の後にできたのが秦であり、秦の後に迎えたのが漢。
漢が成立する過程に生まれたのが『項羽と劉邦』の話で、漢が滅亡してからの戦国の時代こそが『三国志』の舞台である三国時代であったりします。
西暦でいうと紀元前1000年よりももっと前という途方もなく古代の時代を舞台としています。
日本で言う神話の時代にも近い話なので、『封神演義』の中には偉い仙人や道士、妖怪といった奇妙な力を持った者たちが次から次へと登場するのが本書の面白いところ。
彼らは“宝貝”と呼ばれる秘密兵器を使い、戦いあうのです。
それらはさながら現代でいうミサイルやレーダー、火炎放射器や爆弾、さらには催涙ガスや細菌兵器のようなものまで。
SF小説のような強力・凶悪な武器が飛び交う様は、読者の心を惹き付けて止みません。
封神計画=365人の大量死
また、その戦いの真の目的というのが、仙人以下・人間以上の中途半端な能力を身に着けてしまった者たち三六五位を新たに作る神界に封じようというもの=封神計画。
周の武王を支え商周革命を果たしつつ、偉い仙人達が天数と称して計画した封神計画を実行するのが、本書の主人公である太公望なのです。
ここで問題なのが、神に封ずるためには一度死んで魂になってもらわないといけないという点。
つまり、『封神演義』とは神となるべき365人が死ぬ物語でもあるのです。
なので上・中・下と1500ページに及ぶ長編にも関わらず、ばったばったと人が死にます。
なにせ365人ですからね。単純計算で5ページに1人以下の割合で死ぬ事になります。
とはいえ実際には後半に連れて使者が加速度的に増えていきますので、死ぬ時にはいきなりごっそり死んだりします。
そのせいかわかりませんが、本作で描かれる“死”は非常に、いや、異様に淡白です。
一時は物語の重要人物かと思われた人物ですら、「一道の魂魄が封神台へ飛ぶ。」というあっさりとした文章でもって死を表されてしまいます。
漫画のフジリュー版『封神演義』を先に知った人間からすると、ものすごく重要でファンも多いようなキャラですら、あっさり死んでしまうのが衝撃的だったりします。
特に武成王黄飛虎をはじめ、黄天化・黄天祥といった黄一族は悲惨の一言。
僕は三人とも好きだったので、初めて原作の死亡シーンを目にした時には衝撃過ぎて放心状態に陥ってしまいました。「えー、ここで死ぬの? っていうかこんなあっさり死ぬの?」みたいな。
さらに悲惨なのが、序盤は黄飛虎を大いに支えた四大金剛の黄明・竜環・呉謙の三人。
彼らは終盤に現れた大巨人鄔文化に「あるいは踏み潰され、あるいは排扒木の餌食となった」人々の一人として名前を連ねるだけです。
もっと言うと残りの四大金剛周紀や黄天禄なんていつの間にか死んだ事にされているし(↑いくら探しても死に際が見つからなかったのでご存じの方がいれば教えて下さい)
しつこいようですが、何せ黄一族は悲惨だな、と。
原作・漫画版ともに序盤から見せ場も多く、惹き付けられるキャラクターが多いだけに残念な限りです。
その点、フジリューの漫画版はそれぞれにしっかりと見せ場が設けられていたりしますので、その辺りは流石だな、と思います。
原作読んでから漫画を読みなおすと、フジリューよくやってくれた!と手をたたきたくなります。
漫画『封神演義』が好きならどうぞ
簡単に言うとそんな感じでしょうか。
漫画の方は完結してもう何年も経ちますが、ゲームになったり、アニメ化されたりと根強く生き残っているようです。
そういった派生作品から改めて『封神演義』に触れたという方もいることでしょうから、漫画版が好きだという方はぜひ原作本にも触れていただきたいと思います。
かくいう僕も、実は上のスマホアプリの広告に触発されて、今回の再読に至った経緯があります。
漫画版・原作版、ぜひ読んでみていただきたいです。
小説版の淡白差には、おそらくずっこける事は請け合いですが。
ちなみに漫画『封神演義』の原作とされる安能務版もまた、中国伝来の正規版に比べるとかなりの改変が成されているそうです。
あくまで『封神演義』を下敷きとした安能務の“小説”として楽しむべきものらしいですね。
その辺りに関しては詳しくは触れませんので、興味のある方はググってみて下さいね。
漫画⇔安能版⇔完訳版の違いなど、かなり詳細に調べ、まとめてくれている人も多いみたいですから。
調べれば調べる程沼に嵌まるって事ですね。
僕は流石にそこまでは……という事であくまでフジリューファンの立ち位置で満足しておきます。