奇跡的に声が合わさり、ほんの短い時間だけその感覚につつまれる。そのとき自分の声が、自分の声ではなくなるような気がした。たしかに自分が口を開けて発声しているのだけど、何かもっと大きな意思によって背中をおされるように歌っているようにおもえる。周囲にひろがるのはだれの声でもない。全員の声が合わさった音のうずである。それはとてもあたたかくて、このうずのなかにずっといたいとおもえる。その瞬間だけは、孤独もなにもかもわすれる。
また時間が空いての更新となってしまいました。
前回の記事から実に十日。
年度末も重なり、それなりに忙しかったという言い訳もあるのですが……実はだいぶ長い間放置していた『御城プロジェクトRE』というスマホアプリを再開してしまい、すっかり嵌まってしまっていました。
どんなゲームかwikipediaから抜き出してみると、「少女キャラクターへ萌え擬人化された、かつて日本に存在した城郭(一部海外の城もある)を扱ったブラウザゲーム。」という非常にマニアックな匂いのするものだったりします。
しかしながら先日テレビ朝日系列で開催・放送されたお城総選挙にも出てきたような城も当然の如く登場したり、さらに個人的には歴史小説に嵌まっていたりといった事も合わさって、城プロ(※御城プロジェクトREの略称)熱が再燃してしまったわけです。
加えて現在、三周年記念キャンペーンを開催中。
4月8日(月)まで毎日10連ガチャが無料になるというこれまでにない大盤振る舞いを行っているんです。
……ってなんかアフィサイトみたいなノリになってしまいましたが。
3周年記念キャンペーンも残りわずか数日ですし、今更紹介しても意味ないですよね。
まぁでも普通に面白いゲームだと思うので、お暇な時にでもお試し下さい。
……で、ここからが本題。
前回の『ぼくらの最終戦争』に引き続き、中学生を主人公とした青春小説です。
2012年の本屋大賞4位にランクインしており、その後漫画化、映画化とメディアミックスも発展した人気作品。
中田永一といえば『百瀬、こっちを向いて』や『吉祥寺の朝日奈くん』の作者であり、乙一の別名義としても知られています。僕は元々乙一アンチだったんですが……といった下りは『吉祥寺の朝日奈くん』の記事に書きましたので気になる方はそちらをどうぞ。
それでは本作の中身について触れていきたいと思います。
NHK全国学校音楽コンクールを目指す島の少年少女たち
長崎の五島列島のとある島という、かなりローカルな土地が舞台となっています。
合唱部の顧問をしていた松山先生が産休に入ってしまい、代わりにやってきたのが松山先生の旧友である柏木ユリ。東京でプロのピアニストとしても活動していた美人の到来は、中学生たちに大きな刺激をもたらします。
結果として、それまでは女子しかいなかった合唱部に男子の入部希望者がやってくる事に。
女性三部合唱でそれなりに完成に近づいていたはずが、混成三部への変更を余儀なくされた上、美人教員目当てで入部してきた男子部員たちは不真面目さも際立ち、合唱部は女子と男子の間で反目し合うという困った事態に進展してしまいます。
男子抜きでNコンに出たいと抗議する女子生徒たちの前で、柏木は混成三部で出場すると言い切ります。「誰も切り捨てない。全員で前にすすむ」と。
中学三年、最後のNコンに向けて顧問の交代・男子の入部・男女間の確執と問題山積の合唱部部員たち。
さらに個々に抱えた問題や悩みも合わさり、複雑な青春模様を描いていきます。
手紙 〜拝啓 十五の君へ〜
本作で重要な題材となっているのがアンジェラ・アキの『手紙 〜拝啓 十五の君へ〜』。
実際にNコンの課題曲になった他、様々な場で合唱されるケースも多いため、耳にした事のある人も少なくないと思います。
15歳の僕が未来の僕に向けて現在の不安や悩みを書いた手紙を歌にしたもので、合唱曲としてだけではなく、一般的にも名曲として知られています。
そして本作でも同様に、顧問である柏木ユリは生徒たちに未来の自分へむけて手紙を書くように宿題を出します。
彼らがどんな手紙を書いたのか。
胸に秘めた悩みや想いはなんなのか。
それが本作においては先に読み進める上での重要なフックの一つとなっています。
入れ替わる視点
さて、問題となるのがこちら。
読み始めてすぐに戸惑いを覚えるはずなのですが、本書は元から合唱部の部員である仲村ナズナと、新たに合唱部に入部した桑原サトルという二人の視点から成り立っています。
仲村ナズナは部長である辻エリの友人であり、さらに男子部員たちの核ともいえる向井ケイスケとも幼馴染みという言わばバランス調整役として。
桑原サトルは陰気な地味で目立たないキャラでありながら、なりゆきで合唱部に入部することになってしまうというスポ根ものにありがちな主人公役として。
さらに二人はそれぞれに複雑な家庭の事情も抱えており、彼らの視点で物語は進んで行きます。
……で、この“視点が入れ替わる”というのが曲者で、三人称ではなくそれぞれ一人称なのです。つまり、“僕”“わたし”の視点で地の文も書かれていくというもの。
他にも同様の技法で描かれた名作は多いのですが、避けられない難点としてとにかく読みにくい。
例えば
四月に入り、体育館で始業式がおこなわれ、校長先生が臨時の音楽教師を紹介した。その人は柏木という苗字で、凛としたたたずまいは大勢の目にやきついたことだろう。背が高く、すらっとした輪郭に、腰まである長い黒髪が印象的だった。柏木先生は僕たちと同様に五島列島の出身だった。
上記の文章なんて、“僕たち”という言葉が出てくるまでは、始業式や柏木ユリを見ている“目”がナズナなのか、サトルなのかわからない。
上記の例のように、読んでいる側としては、視点が誰の視点なのか定まらないまま読み進めなければならないという場面にちょくちょく遭遇する事になります。読んでみればわかりますが、これって結構ストレス。
加えてこちらには作者が乙一だという認識がありますからね。
中田永一名義でもいわゆる○○トリックの技法が使われるケースは多々存在します。あえて視点をボカして描いたおくことで、後々「実はあの時の視点はナズナだったんです」みたいなどんでん返しがあるんじゃないかと身構えてしまいます。
被害妄想かもしれませんけど。
でもやっぱり、この作品に関しては三人称で描いた方が良かったんじゃないかと思えてしまいます。ミステリ的な技法を使った余計な仕掛けがないのだとしたら、余計に三人称で描いた方が良かったのにな、と。そうすれば作中ではいまいち不明瞭に終わってしまった柏木ユリの心情にももう少し深く踏み込めたのかもしれないのに。辻エリやケイスケといった他の登場人物に然り。もっと他のみんなについても深堀して欲しかったなぁ、と。
そういう意味では似たような作品の例を挙げれば、朝井リョウの『チア男子!』は終盤、メンバーたちの心境が怒涛のように明らかになる様子は圧巻でした。ああいうのを読んだ後だと、ちょっとなぁ。。。ただ、あれはあれで書き込みが多すぎて中盤過ぎるまでは退屈だったりもするんですけど。
実際、新垣結衣主演で上映された映画版では、原作の主人公二人を差し置いて柏木ユリを主人公として大きく改変されたそうで。まぁそうだろうな、と頷いてしまいます。それぞれが抱えた悩みや葛藤も、おそらく柏木ユリが一番大きかったんじゃないかな、なんて勝手に推測してしまったり。彼女はナズナやサトルのフィルターを通した姿しか描かれませんから、本当のところはわからないままなんですけどね。
かといって、読者である僕が大人だからそう思うだけなのかもしれません。
同年代の少年少女にも愛される本作は、大人である柏木ユリの複雑な事情や悩みよりも、ナズナやサトルの等身大の悩みに主題を置いた方が共感されやすいのかもしれませんし。
なんだかとりとめもなくなってきてしまいました。
なんとなく、満足できる読書にはならなかった事はおわかりいただけるでしょうか?
やっぱり『新・平家物語』読みはじめちゃおうかなぁ。
あ、最後に付け加えておきましょう。
本作の156ページで登場する方言「みんのみんにみじょかもんばしとるねえ」は、「右の耳に可愛らしいものつけてるね」という意味だそうですよ。
では。