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年間100冊前後の読書を楽しんでいます。推理小説・恋愛小説・歴史小説・ビジネス書・ラノベなんでもあり。

『ツ、イ、ラ、ク』姫野カオルコ

「過去は削除していかないと。さっさと捨てなきゃ。荷物が多いのはごめんです、ってイアンもうたってたじゃない。済んだことは消えたこと」

姫野カオルコ『ツ、イ、ラ、ク』を読みました。

 

姫野カオルコさんはなんとなく著者名は見聞きした覚えがあるものの、作品に触れるのは全くの初。これも後で調べてわかった事でしたが、本書は直木賞ノミネート作品でもあり、数度のノミネートを経て『昭和の犬』で第150回直木賞を受賞されているとの事。

 


『ツ、イ、ラ、ク』がノミネートされた第130回は江国香織とともに京極夏彦後巷説百物語』が受賞していたんですね。

 

なお、4度のノミネートを経て、ようやく受賞へとこぎつけた第150回直木賞の選評は下記の通りです。

 

だいぶ回を重ねての受賞であった事がよくわかろうかと思います。

 

こうして姫野カオルコについて調べたのも今回が初めて。

僕にとってはそもそも彼女の代表作が何であるかすら知らない状態での読書となりました。

 

 

青春群像?恋愛?

本書のあらすじを説明するのって、なかなか難しいものがあります。

ちなみに文庫の裏表紙等に出版社が書いているのは下記の通り。

地方。小さな街。閉鎖的なあの空気。渡り廊下。放課後。痛いほどリアルに甦るまっしぐらな日々--。給湯室。会議。パーテーション。異動。消し去れない痛みを胸に隠す大人たちへ贈る、かつてなかったピュアロマン。恋とは、「墜ちる」もの。

なんですかねーこれ。

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なかなかまとめるのが難しい本書なのですが、一言でまとめるとすれば「ある少女たちが小学校低学年から中学校を経て、大人になるまでを描いた本」という感じでしょうか。

 

物語は小学校二年生から始まります。

頼子、統子、京美、隼子、ハル(=温子)などが登場し、彼女たちを束ねる頼子は新選組でいう土方歳三に、みんなから一目置かれる京美は近藤勇に見立てられ、彼女たちのグループにはびこる協調性・同調性のしがらみを新選組の厳しい掟に例えられます。

 

独特な筆力を持った著者なんだなぁ、とのっけから足をすくわれた感じです。

 

以降は少女たちがそれぞれの知識や体力、家庭事情などを重ね合わせ、時には反発しながら日々を過ごしていく様子が描かれています。やがて高学年に入ってくると、そこに男子という異性が加わり、誰が誰を好き、といった淡い恋心が飛び交う場面も。

 

そうして物語が大きく動き出すのは中学生に入ってから。少年少女たちが両想いの証である交換日記やキーホルダーとアンクレットを交換しあったり、という形で関係を築いていく中で、本書の中心人物たる隼子だけは、産休の担任と入れ替わりにやってきた23歳の若き教師、河村と接近します。

 

それも他書で描かれるような「思春期に特融の年上の男性に対する憧れ」といったものではありません。隼子は「河村のことはすこしも好きではない」と断言し、それでも彼を性的に挑発する気持ちをこう記します。

 

ひたすらハレー彗星が見たいのだ。

 河村ではない。ハレー彗星が見たいのである。自由の女神像が見たいのである。濁っていてもテムズ河が見たいのである。エッフェル塔が、ランブータンが、馬車が、河原町の「メビウスの帯」が見たいのである。行ったことがないところ、見たことのないもの、食べた事のないくだもの、乗ったことのない乗物、禁止されている店。自分の知らない部屋がそこにあて、ふだんは鍵がかかっていて、あるときそのノブに鍵がささったままになっていたら鍵をまわしてみたい。部屋の中を見たい。どんなものなのか見てみたいのだ。

探究心というか、怖いもの見たさというか……まぁ確かに、この年頃の女の子の中には、学年に一人や二人、このタイプの子もいたかもしれません。

 

僅か中学二年生の女の子の誘惑に河村は翻弄され、誘われるがまま隼子と関係を結び、その後も人目を忍んでただただ肉欲だけを満たしあう生徒と教師。

隼子に恋心を抱く三ツ矢や、恋の駆け引きに揺れる太田と統子、京美の三角関係、まだ恋愛に目覚めているとも思えない他の少女たちの中で、隼子だけが異質の存在として浮かび上がるように描かれていきます。

 

やがて実際に、隼子は1人浮いた存在となり……物語は20年以上を経て、大人になった彼らの後日譚へと移っていきます。

 

冗長で目まぐるしい

読み始めてすぐわかる事ですが、本書はとにかく視点が入れ替わります。それが非常に目まぐるしい。

視点の主がある程度限られた人物ではなく、ほぼ全ての登場人物が主になる点が混乱に拍車を掛けます。

 

529ページという決して短くはない物語の中で、登場する様々な人物にスポットライトが当たり、その人物についてのエピソードや心理描写が入れ代わり立ち代わり描かれていくのです。それによって全体のボリュームが増して物語の重厚につながっているとも言えますが、正直なところ、もしかしたら必要ないんじゃないか、という枝葉末節的な印象も拭えません。なので中心人物であるはずの隼子についても、ちょっと薄れがち。

 

好奇心と冒険心で教師と関係を結んでしまった隼子の心情が、一番描けていないように感じてしまいました。

 

話すのももどかしく、彼らはヤった。服を脱ぐのさえもどかしく、彼らは犯った。ヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯って(略

 

こういう描写も悪くはないんですけどね。肉欲に溺れるのと同時に、両親に対する罪悪感や世間に対する背徳感、誰かに知られたらと恐れる恐怖、その他諸々の葛藤もあったんじゃないかと思うんですが。自分が知った“未知の体験”を誰か友達に話したくなる衝動とか。そういう描写が本当に少ないのです。

 

肉欲的な探究心を目的に、教師と関係を結んだ同級生を記号的に描いたらどうなるか。

 

結果、リアリティーがなくなるのは必然と言えるでしょう。

 

妄想っぽいのは萎える

リアリティーの欠如は、当事者感が希薄である事に起因しています。

思春期当時、周囲や学校の一部であった噂話やエピソードを渦中の人物が描くのではなく、聞く側だった人間が描いた印象。実体験ではなく、それっぽく妄想を膨らませて書いた感がいっぱい。型に嵌めた、記号的な人物描写が非常に目立ちます。

 

登場人物たちが大人になって以後の後日譚には特にそれが顕著です。

彼らは中学時代の同級生にしては、ずいぶん繋がりを強く持ちすぎています。かといって、それを裏打ちするようなエピソードがあったわけではなりません。ごくごく一般的な学生生活を過ごしただけで、妙に深い絆のような関係で結ばれ続けている。

 

中学時代の恩師(担任ではない)が亡くなったからといって、全国に散った彼らが集まってくるのもちょっと無理がある話でしょう。彼らの一部が不倫関係に陥っていて「多分昔から好きだったんだと思う」というような昼ドラのような月並みのセリフが出てくるのも萎える原因になっています。そのキャラが主役級ではなく、あくまで端役扱いのキャラだったりすればなおさらです。本筋とは関係ない昼ドラの一幕を描きたいがために、彼らを登場させたのでしょうか。

 

全体的に月並み・型どおりのキャラクターを並べて、文学的な文章で膨らませたような印象です。

思春期の恋愛風景を描きたかったのか、教師と生徒との純愛(?)を描きたかったのか、何が描きたかったのかすらわかりかねます。終盤の昼ドラ不倫やハッピーエンドっぽい幕引きがあまりにもお粗末なだけに、疑問が膨らむ一方。

 

作品同士を比較するのは本望ではありませんが、その点『ナラタージュ』はまだ描きたい主題ははっきりしていたなぁと改めて感じさせられました。

 

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#ツイラク #姫野カオルコ 読了ううん。この作品が何を書きたいのか、どんな物語にしかたかったのか、最後までわからずじまいになってしまいました。枝葉末節にしか思えないエピソードの数々……特に「昔から好きだったんだと思う」とか言わせちゃう脇役キャラ同士の昼ドラのような同級生不倫に意味は合ったのでしょうか?それも文学??? #本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。