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年間100冊前後の読書を楽しんでいます。推理小説・恋愛小説・歴史小説・ビジネス書・ラノベなんでもあり。

『平場の月』朝倉かすみ

「仕事が終わって、自販機でガチャコンってミルクコーヒー買って、飲みながら家までぶらぶら歩いて帰るんだ。甘みが喉を通っていって、よそん家の洗濯物や、自分の影や、空の具合や、風の行き先や、可愛いチー坊を眺めると、ちょうどよくしあわせなんだ」

 

朝倉かすみ『平場の月』を読みました。

9月の更新依頼約半年、すっかり投げ出していた当ブログ。その間、これまでの人生の中でも三本指に入るぐらいの大きな出来事が幾つか重なり、読書すらもほとんどしていなかったような状態にあったのですが……ふらりと入った書店で本書に出会い、ふと読書を再開するに至りました。

なので本書が第32回山本周五郎賞受賞作だとか、第161回直木賞の候補作だったとか知ったのも、読後の話になります。

ほぼジャケ買い、衝動買いに近い買い物であったのにも関わらず、お陰でほぼ一日で一気読みを果たし、こうして放置していたブログまで再開したと書けば、本書の評価も言わずもがなでしょう。

まさに僥倖の出会いでした。

読み終えた今も心地良い余韻と、漲るような読書欲の熱に浮かされているような状態です。

それでは早速、内容についてご紹介しましょう。

 

 

平場(=あり触れた市井)に生きる50代男女の恋

本書の主人公である青砥は、50歳。

妻と離婚し、一人戻った故郷で年老いた母親の看護をしながら、地元の印刷会社で働く日々を送っています。

特に浮ついた話があるわけでもなく、淡々と繰り返される日常。

そんな中、胃に腫瘍が見つかり、病理検査のために訪れた病院の売店で、青砥は須藤と再会します。

須藤は中学時代の同級生で、青砥が初めて告白した相手でもありました。そして彼女こそが、本作のヒロイン役でもあります。

 

50歳と50歳。

中学時代から35年という長い年月を経、再会した二人の男女の恋。

 

互いに一度は結婚し、バツイチとなり、一方はアル中一歩手前まで追い詰められ、はたまた一方も若い男にたぶらかされて全財産を搾り取られる等、様々な辛酸を舐めてきた二人の現在は、年収350万円と200万円以下。

身を包むのはユニクロや無印の安価な服であり、外食ばかりはキツいからと安上がりな宅飲みを選ぶ。熱いからと靴下を脱ぎ捨て、裸電球が似合いそうなボロアパートで向きいながら缶ビールや焼酎を飲む様は、キラキラした恋愛小説の世界とは程遠いものです。

一般的に連想される、成熟された50代のイメージと比べてもすこぶる貧しいとすらいえるかもしれません。

ですが男性の年収の中央値が約300万円と言われる現代、彼らの姿というのは決して特異なものではありません。むしろ彼らと同じような暮らしを送る50代は現実的に遥かに多く存在するのでしょう。

だからこそ、僕達はそこに生々しさを感じてしまいます。

湿気た畳の匂いとともに、向かい合う50代の男女の心模様までもが、脳裏に浮かび上がってくるのです。

 

 

死生観

本書の冒頭は、主人公である青砥が須藤の死を知らされ場面から始まります。

しかも、同僚である元同級生を通じて知る、という非常に不本意な方法によって。

 

そこから物語は、上に紹介した二人の再会の場面へと戻ります。

二人が客観的には不自然な流れながらも少しずつ親交を深め、50年という長い年月によって形成された過去や後悔や反省や自戒等々様々な想いに囚われながらも、互いに寄り添うようになっていく過程が緻密に描かれて行きます。

 

しかしながら僕達は、二人が迎える最期を既に知っています。

ささいなささいな日常の先に待つ運命を考えると、二人が過ごす時間の積み重ねに、下す決断の一つ一つに、胸を痛めずにはいられないのです。

 

これって何かに良く似ている……と考えた僕の頭に浮かんだのは、あまりにも有名なあの作品でした。

 

 

 

『100日後に死ぬワニ』!!!

 

おいおい、あんな炎上作品と一緒にすんなよ! という声が聞こえて来そうですが、炎上はあくまで作品完結後の話ですからね。

 

Twitter上で100日間、日めくりカレンダーのように更新される間は、僕達は毎日更新されていく何気ないワニ君の日常を胸を締め付けられる想いで見守っていました。

漫画や映画の続編が楽しみだと心待ちにしたり、想いを寄せる先輩に告白しないまま黙ってバイト先をやめてしまったり、はたまたただ怠惰に一日を過ごしたり……一つ一つは他愛もない日常のワンシーンですが、その先にワニ君本人も知らない死が待ち受けていると知っている僕達は、複雑な想いを抱かずにはいられません。

 

ワニ君は僕達自身の投影に他ならないからです。

 

明日明後日にも、予期せぬ死が訪れるかもしれない……そう思う事によって今目の前の時間や出来事の価値が一転してしまう。

完結後の炎上によってすっかり忘れ去られてしまった感がありますが、『100日後に死ぬワニ』はその死生観によって沢山の人の心をざわつかせ、大きな話題を生み出したのです。

 

さて、余談が長くなりましたが、つまるところ本書の構造というのは『100日後に死ぬワニ』に良く似ていると言えます。

冒頭に死と、さらには死すら知らされぬ関係性が描かれているからこそ、本来であれば少しずつ盛り上がっていくはずの二人の温かな恋愛模様の裏側に、暗い影を想像せずにはいられなくなる。

 

これらは恋愛映画の名作と言われる『世界の中心で愛を叫ぶ』『風立ちぬ』でも繰り返し使われてきた手法ではありますが、本書は主人公を50代という年齢に設定した点が大きく異なりました。

未来溢れる若者たちではなく、人生の黄金期を呼べる期間はとうに過ぎ去り、晩年と言える老熟期を迎えようとする年代の男女が主人公だからこそ、そして彼らが決して順風満帆な人生を歩んできたとはいえず、むしろ心無い人間であれば負け組と断じてしまいそうな平凡な生活を送っているからこそ、悲哀はより一層深まるのです。

 

 

ひたすらに泥臭く、湿っぽく、だからこそ愛おしい

なんでしょうね。

金もなく、世話を焼いてくれる家族もおらず、取り立てて趣味や特技も存在しない。

毎日働いて、帰宅後に晩酌するぐらいが唯一の楽しみとすら言える、慎ましいどころか貧しい日常――平場を生きる青砥と須藤には、物語の主役として取り上げる程の魅力は全く無いのです。

 

薄汚く、生活感に溢れる部屋で貧しい宅飲みデートを繰り返し、人工肛門の扱いがどうたらこうたらと語るジジババの恋に、魅力などあろうはずがありません。

35年ぶりに再会した同級生と意気投合し、ちょっと良い仲になったかと思ったら、相手が癌を発症して死んでしまった。バツイチだったジジイはまた一人の生活に戻った。

ただそれだけの話。

今日もどこかの病院の待合室で繰り返されていそうな、どこまでも平凡で平場の恋の物語です。二人の恋は、二人を知るごく一部の噂好きの同級生の間でほんのちょっと話題に上るぐらいで、特に多くの人の興味関心を惹きつける事もないのでしょう。

 

でも、そう思えるのは僕達がまだまだ遠い先の未来の話だと鷹揚に構えていられるから。

きっと実際には、自分が想像するよりも遥かに早く、二人と同じ50代に達してしまうに違いありません。

 

誰しもが大人になってみると、子供の頃思い描いていた程には、自分が大人ではない事に驚くはずです。

小中学生の頃に見ていた20代は、とてもしっかりした大人でした。

20代の頃に見ていた30代の先輩は、自分よりも遥かに頼りがいのある大人でした。

30代の頃に見ている40代の先輩は、何もかもをも知り尽くしたスペシャリストのような大人でした。

でも……自分が同じ年齢になってみて初めて、昔からほとんど変わっていない自分に気付かされるのです。

 

50代もきっと、同じなのでしょう。

世間的に見れば彼らは既に人生の酸いも甘いも知り尽くし、達観して人生の後半戦へと向かっているように見えるかもしれません。

しかしながら実際には、20代の頃と変わらないのでしょう。

恋もすれば夢も見る。

失恋したり、大切な人を失えば……やっぱり同じように、悲しんだり苦しんだりするのです。

 

それが傍目から見ればジジイとババアのくだらない色恋沙汰に見えたとしても。

 

今自分の身の回りにいる50代や60代の人々の影にも、同じように色鮮やかな出来事が溢れているのかもしれません。

そう考えると、世界がちょっと違って見えるような気がします。

 

本当に本書に出会えて良かった。

今はそんな感謝の想いでいっぱいです。

 

きっとこの先も、本書の記憶を呼び起こす事があるでしょう。

その時のための忘備録も兼ねて、久しぶりにブログを更新させていただきました。

 

未読の方がいらっしゃれば、ぜひご一読を。

今はピンと来なくとも、数年後、数十年後に、本書の事が懐かしく思い出せるような日が来るかもしれませんよ。

 

 

 
 
 
 
 
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