ところが、魔術師というものは、右手で細工をしようと思ったら、まず左手にお客の注意をひきつける。
『右手を出されたら、左手を見よ』
これが魔術の公式第一条なんだ。
高木彬光『人形はなぜ殺される』を読みました。
聞きなれない書名だという方も少なくないのではないかと思われますが、それもそのはず本書の初出は1955年。今から70年以上昔に書かれた作品です。
推理小説マニアでもなければ知らないのは当然でしょう。
逆に言えば、マニアにとっては一度は読んでみるべき作品と言えるかもしれません。
というのも、本作の探偵役である神津恭介は、江戸川乱歩の明智小五郎、横溝正史の金田一耕助と並んで日本三大名探偵と言われているのです。
つまり著者である高木彬光自身も、江戸川乱歩・横溝正史に並ぶ日本の古典本格ミステリ作家であるという事。
ところが僕、過去にはさんざん新本格推理だどうしたとか書いておきながら、上記のような古典ミステリにはほとんど触れた事がありません。アガサ・クリスティーやエラリィ・クイーンといった海外作品は多少なりとも読んだんですが、国内ものにはとんと縁がなかったんですよね。
その昔、『屋根裏の散歩者』や『孤島の鬼』あたりを書籍で読み、数年前に著作権が解禁された際に続々と青空文庫のアップされた江戸川乱歩作品をいくつか読んだぐらいで、夢中になって追いかける程の熱は生まれませんでした。
正直、日本の古典ミステリって推理小説としてはまだまだ稚拙だったり、文章に癖があったりして読みにくいんですよね。
とはいえ僕も大人になりましたし、だいぶ読書も重ねてきた中で、今さらながら三人目の名探偵神津恭介に触れておくのも悪くないのではないか、と思い立った次第です。
数ある神津恭介シリーズの中でも『刺青殺人事件』と並んで高木彬光の代表作として挙げられる事も多い本作。
早速内容についてご紹介していきたいと思います。
本格ミステリテンプレが山盛り!
本格ミステリにまず欠かせないものと言えば、名探偵の引き立て役かつ物語における読者の代理者として物語をけん引してくれるワトソン(助手)役。
本書においてそれは、探偵作家の松下研三が務める事になります。
名探偵神津恭介の盟友でもあるという研三が、ふと出かけた喫茶店『ガラスの塔』を気に入り、出入りするようになったというのが物語のきっかけ。
マスターである中谷譲次は実は一流の魔術師(=手品師)であり、『ガラスの塔』は魔術師たちが頻繁に出入りする懇親の場でもあったのです。
幸運にも、松下研三は魔術協会の新作魔術発表会へ招かれるのでした。
しかし舞台裏で、断頭台で切り落される魔術のタネとして用意された人形の生首が消え去ります。
鍵付きのガラスケースにしまわれていたにも関わらず、金色の頭髪だけを残して忽然と消失してしまうのです。
楽屋には他の演者も多数出入りしていますが、怪しげな動きを見た人間はいません。
首は一体誰がどうやって、どこへ持ち帰ったのか……松下研三は名探偵神津恭介に事の顛末を相談します。
しかしそこへ、新たな一報がもたらされます。
舞台上の断頭台で首を切られる演者を務めるはずだった京野百合子が、とある空き家の中で、実際に断頭台で首を切られて死んでいるのが見つかったというのです。
第一の殺人事件後、犯人を示唆する手紙を受け取ったという綾小路佳子が神津恭介を訪ねてやってきます。
彼女は名探偵の希望に沿って、自身の別荘に魔術協会の面々を集めようと画策しますが、その日あいにくながら神津恭介は参加する事ができませんでした。
代わりにと参加する松下研三でしたが、その夜、近くを走る電車がなぜか停まっている事に気づきます。
様子を見に行った研三が見つけたのは、電車に牽かれ、バラバラに砕けたマネキン人形でした。研三は犯人らしき男に襲われ、気を失ってしまいます。
さらに1時間45分後通りかかった電車は、再び線路上に落ちていた物と接触事故を起こします。
今度は綾小路佳子自身が、マネキンと同じように電車に牽かれてしまったのでした。
人形が殺され、さらに人間の被害者が続く……古典的・王道とも言える連続殺人事件。
そしてそこには、神の視点から読者へと突きつけられる挑戦状も。
読者諸君への挑戦
さて、神津恭介は、この時、いかなる人物を、この人形殺人事件の犯人として指摘したのか?
本書は今や本格ミステリのテンプレとして定着した要素がこれでもかとてんこ盛りにされた、古典中の古典、王道中の王道の古典的本格ミステリに間違いありません!
……で、面白いの?
もうとにかくですね、ミステリマニアならば大好物間違いなしのギミックだらけなので、読んでいて楽しいのは間違いないんです。
1955年当時に、こんな本格ミステリを書いていた作家がいたなんて、目から鱗です。
推理小説好きなら、誰もが一度は「本格ミステリの古典」と言われる江戸川乱歩や横溝正史を読んで、「なんかちょっと違うんだよな」と首を傾げた経験があると思います。
それは僕と同じように、文体や世相の古さに対して読みにくさを感じる他、推理小説そのものとしても論理やトリックに未成熟なものを感じてしまったり。
これって推理小説じゃなくて、ただの推理風小説じゃない?なんて。
そういう観点から見た場合、僕的に『人形はなぜ殺される』は江戸川乱歩や横溝正史よりももっともっとずっと本格ミステリに近い形で書かれていると思います。
法月綸太郎や有栖川有栖といった新本格推理作家の中でも本格寄りの作家はもちろんですが、アガサ・クリスティーやエラリィ・クイーンといった海外の本格推理からの影響も非常に強く感じる事ができます。
1955年当時に、こんな本格ミステリを書いていた作家がいたなんて、目から鱗です。
(※二回目)
……とまぁ、もったいぶって書いてきたわけですが。
肝心かなめの……で、面白いの? という部分になると「別に面白くもなんともない」というのが正直な感想です。
魔術師(手品師)達が集まる中、まるで魔術のように人形が消えたり現れたり、殺されたりというストーリーは秀逸です。
ただし肝心かなめの名探偵神津恭介の動きがあまりにも遅く、犯人の後手どころか二手も三手も遅れているあたりが非常に歯がゆく感じられます。
そうして引っ張る割に謎解きはあっさりと淡泊なものですし、犯人に正直「でしょうね」と言う他ないようなバレバレの人物。二つ目の電車を使ったトリックは目を見張るものがありますが、一つ目、三つ目の殺人に関しては取ってつけたような稚拙なもの。
今の本格推理小説に連綿と繋がっていく流れのようなものは見えるのですが、やはり作品自体の完成度としては落ちるかな、と。
そんなわけであくまで「古典本格ミステリに興味がある人」に対してだけ、「参考までに」オススメしたい作品です。
では。