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『雪国』川端康成

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

川端康成『雪国』を読みました。

ノーベル文学賞を受賞した偉大なる文豪ですので、今さら改めて説明するような事もないのですが……本作をKindle Unlimitedで見つけたので、ついつい手を出してしまいました。

 

川端康成は昭和47年(1972年)4月16日にその生涯を終えたので、令和4年(2022年)である今年は没後50年にあたります。

そのため全国各地において没後50年を記念するイベントや展覧会が開かれているのですが、ここで取り上げておきたいのが、近年問題となった著作権の保護期間の話。

日本では元々没後50年を超えれば著作権が切れ、自動的にパブリックドメインとなるはずでした。

ですから今年の4月16日で、川端康成の著作も全て青空文庫等で無料公開されるはずだったのです。

 

ところが今から遡ること約4年前、TPP(環太平洋連携協定)の発効と合わせ、著作権の保護期間はそれまでの没後50年から没後70年へと延長されました。

 


夏目漱石太宰治、近年で言えば江戸川乱歩のように無料化される事で、川端康成の作品も気軽に手に取れるようになるはずだったのですが、パブリックドメイン化は20年先延ばしされ、残念ながら読むためにはこれまで同様、幾ばくかの料金を払わざるを得なくなってしまいました。

 

まー正直言えば、ブックオフ等の古本屋へ行けば100円で販売されているのですが、ただでさえ読みづらい古典作品を金払ってまで読むかというと、『ビブリア古書堂の事件簿』を読んで気になったとか、『文豪アルケミスト』のゲームをプレイして興味をもったとか、何かきっかけでもない限り難しいのではないでしょうか。

パブリックドメインの延長に関しては常々遺憾に思っていたために、せっかくKindle Unlimitedに含まれているのであればこの際読んでみようか、と思った次第です。

 

では早速……と言っても、『雪国』に関する感想や解説なんて今さら僕が書くすき間もないぐらい世の中に溢れていますので、ちょっと変わった角度で、『雪国』を読むにあたって少しでもハードルが下がってくれればいいな、というぐらいの立ち位置でご紹介していきたいと思います。

 

妻子ある旅の男と山村の芸者娘の恋物語

主人公の島村は、実際に観た事もない西洋舞踊のポスターやプログラムを参考に想像だけで紹介文を書くなどしながら、親譲りの財産で勝手気ままに生きる自由人。

そんな彼が旅先の山村で出会った駒子という女性に会いに、ほぼ一年おきに山村を訪ねるというだけのお話です。

 

学校教育のせいで、古典文学というとなにやら深く難解なテーマがある、とつい身構えてしまいがちですが、実際には上記のような、至ってシンプルなものだと思ってもらえば間違いないと思います。

 

問題なのは島村には既に家庭があり、あくまで旅先でのランデブー的な余興として、駒子との恋愛を楽しんでいるのに対し、駒子の側はどんどんのめり込んでしまうという点。

現代に置き換えれば、水商売の女性が客に本気になってしまう無情さや意地らしさを描いた作品であると言えます。

 

客の側からすると、お金を払う代わりに、安全に女の子と疑似恋愛を楽しみたいがために店を利用します。どこまで楽しませてくれるかは相手次第、店次第ではありますが、その曖昧な線引きの探り合いというのも、水商売で遊ぶ醍醐味と言えるでしょう。

仮に女の子の方が本気になって、自分の思うがままに操れるとすればシメたものです。

 

ただし、そこには「安全に楽しみたい」という大前提が存在します。

 

素人相手の不倫のように泥沼化したり、世間から後ろ指差されたりするのを避けたいがために、わざわざ金を払って専門のお店で「遊ぶ」のです。女の子が身も心も自由にさせてくれるのは嬉しい反面、度を越してしまえば、いずれ「遊び」という言葉では済まされなくなってしまいそうで、逆に怖くなってくる。

 

駒子に対する島村の気持ちは、まさにそういった心情でしょう。

駒子もまた、そんな島村の立場を良く理解しているにも関わらず、惹かれる想いを止める事ができない。

 

……というような、現代にも通じる男と女の関係を描いた作品。

そう考えれば、少し手に取りやすく思えてきませんか?

 

さらに、もっとハードルを下げるために今風に言い換えれば本作『雪国』は「駒子萌え」を愉しむ作品と言えるのです。

 

ツンデレ駒子萌え

主人公の島村の年齢については記されていませんが、奥さんがいて、小太りな中年男という事だけはわかります。

対して、駒子は19歳。

二人の関係性から察するに、島村から見れば軽く子ども扱いできるぐらいには年が離れているのは間違いないでしょう。

 

駒子は相手に帰る家があり、決して好きになってはいけないと思いつつも、惹かれる心を止める事ができません。

「もう帰って」と詰った直後、「やっぱり帰らないで」と縋りつきます。

「もう来ないで」と突き放す一方、「ずっと待っていた」と喜びます。

 

結果として、島村が逗留する宿にほぼ入り浸り、身も心も尽くしてくれる。

こんなツンデレぶりを見せつけられたら、男冥利に尽きますよね。

 

島村の立場になれば、駒子との関係はたまらなく甘美なものでしょう。

自分よりずっと年下の愛らしい女性が、刹那的な関係だと理解した上で、自分を愛してくれるのですから。

 

好きな人の名前を書いてみせると言って、島村のてのひらに、指で芝居や映画の役者を2~30人並べ、その後「島村」と何度も書き続けた

前に会ったのは「五月の二十三日ね」「ちょうど百九十九日目だわ」と島村に告げた。よく日付を覚えているといわれると、日記をつけていることを話した

 

きっとリアルタイムで『雪国』を読んでいた諸氏も、そんな駒子の意地らしさにキュンキュン胸をときめかせていたのではないでしょうか。

要するにこれって、今で言う「萌え」に近い感覚なわけです。

 

島村の普段の生活ぶりはあまり窺い知ることができませんが、居住地とは遠く離れた田舎の山村で、可愛い女の子とイチャイチャできちゃう。ほとぼりが冷めたら帰り、一年ぐらい経ってまた訪ねてみると、待ってましたとばかりに尻尾を振って喜んでくれる。

しかも相手は、読者層の大半を投影したような小太りのおっさんです。

 

川端康成が『雪国』の執筆を始めたのは1934年頃。

川端康成が35歳ぐらいの時です。

今でこそ文豪と崇められる川端康成ですが、世のおっさん達が思い描く夢の世界を活字化しちゃったって、冷静に考えるとかなりイタイおっさんですよね。

 

ちょっと癖のある文体とか、当時の文化様式とか、古典小説に読みなれない人が引っ掛かるポイントは多々あると思うのですが、上記のように「おっさんが書いたおっさんと田舎の生娘との元祖ツンデレ萌えラブコメ作品」と認識してもらえると、かなり読みやすくなるんじゃないかなと思うのです。

 

しかもこのおっさん(島村=川端康成)、かなりキモさが垣間見られる点にもご注目。

 

島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、

 

露骨ですよねー。

「この指だけは女の触感で今も濡れていて」って、読んでいるこっちが赤面してしまいそうです。

 

可哀そうなのは駒子の立場。

「この指だけが覚えている」なんて、本人には到底聞かせられません。

島村ってホントひどい男。

 

読んで分析すればするほど”文豪”という言葉の持つイメージとの乖離が進みそうです。

国語の授業では重く、堅苦しくなりがちですが、でも結局当時の世間に本書が受け入れられた理由って、上のような”萌え”とか”エロ”の部分が大きいんだと思うんです。

 

綾辻行人の『another』に対しても、「世界観が」「トリックが」「設定が」とか蘊蓄語る輩よりは、「見崎鳴萌え~」って言ってるブタの方が圧倒的に多かったのと同じで。←極論

 

 

ちょっと真面目に文学的な見地から

僕は別に文学科で学んだわけではないので、日本文学の体系的な分析はできないのですが、それでも本書からは今の文学作品に通じるエッセンスみたいなものが感じられたりします。

川端康成横光利一らとともに〈新感覚派〉と呼ばれるグループに属していました。

 

新感覚派〉は20世紀西欧文学の影響による擬人法と比喩の手法を導入し、従来の日本語の文体に大きな影響を与えたとされています。

代表的な例として挙げられるのは、横光利一の『頭ならびに腹』の一文。

 

特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。

 

言わずもがなですが、「電車が全速力で駆け、駅が石のように黙殺される」というのが人間以外のものに人間の表現を用いるという新感覚派的な擬人法。

それまでの自然主義と呼ばれる作家であればそのままストレートに「列車が猛烈な勢いで通り過ぎた」とでも書いたのでしょうが、上記の表現技法を用いる事によって、走り抜ける電車の勢いはもちろん、吹き付ける風の強さまで感じられるような気がします。

 

国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。

 

『雪国』の有名な冒頭の一文もまた、まさに〈新感覚派〉を感じさせるところです。

「夜の底が白くなった」なんていう表現は、当時はとても斬新だったのでしょう。夜の黒と雪の白のコントラストとともに、澄み渡る雪国の凛と張り詰めた静けさまでもが伝わってくるようです。

 

そうして注意深く見てみると、本書の中には今でも鮮烈な印象を与えてくれる斬新な比喩表現が目立ちます。

 

島村は駅で帰りの汽車を二時間近く待った。弱い光の日が落ちてからは寒気が星を磨き出すように冴えて来た。足が冷えた。

 

上記なんてとても好きな部分です。「寒気が星を磨き出すように冴えて来た」なんて、間違いなく著者独自のオンリーワンな言い回しでありながら、それでいて万人に通じる素晴らしい表現ですよね。

終盤の火事のシーン等は、特に読み応えがあります。

 

 黒い煙の巻きのぼるなかに炎の舌が見えかくれした。その火は横に這って軒を舐め廻っているようだった。

炎が屋根を抜いて立ちあがった。

その火の子は天の河のなかにひろがり散って、島村はまた天の河へ掬い上げられてゆくようだった。煙が天の河を流れるのと逆に天の河がさあっと流れ下りて来た。

 

炎を舌に例えるなんて、今となっては定番化された比喩表現と言えそうですが、当時はきっと非常に斬新に捉えられた事でしょう。

屋根を抜いて立ち上がった、という勢いも目に浮かぶようです。

ライトノベルのように簡素化された文体が好まれる現代において、上記のような表現は一部の純文学作品でしか見られなくなったかもしれませんが、今から50年以上も前に既に存在していたとは素直に驚きです。

 

むしろ当時はそれが当たり前で、今の文章が稚拙になったのかもしれませんが。

 

さて、そんなわけで決して読みやすい作品ではありませんが、上に長々と書いてきたような点に着目していただくと、楽しみが増え、結果的に読書も進むんじゃないかなと思っています。

先日NHKでドラマも放送され、いずれ近いうちに再放送もされるでしょうから、ぜひ一度原作『雪国』も読んでみてはいかがでしょうか?

 


キモいおっさんこと島村役が高橋一生と考えると、ミスキャストなような気がしてしまいますが……。

島村役は佐藤二朗とかそういうので十分なんですけどね。

それじゃあ視聴率とれないか。

 

なお、本書を書いた川端康成はなかなかのキモイおっさんだと思いますが、他にも僕がおすすめする変態文豪としては田山花袋がいます。

あまりにも有名な『蒲団』の他、筆舌し難いほどの変態ぶりに満ち溢れた『少女病』など、こちらは既にパブリックドメインとして青空文庫等で無料で読めますので、ぜひ併せてお楽しみください。

 

 

 
 
 
 
 
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