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『やがて海へと届く』彩瀬まる

「あなたたちは、忘れられることがいやじゃないの?」

「そりゃ、覚えてもらえたら嬉しいけど。でも、あんな死に方をしたかわいそうな子って意味でならいやだなあ」

「なにをとっといてもらうかです。よくある、忘れない、無念を忘れないみたいな、暗いことを広い集めるような思われ方より、どうせなら一緒にいて楽しかったとか、そういうのがいいよね」

彩瀬まる『やがて海へと届く』を読みました。

ここしばらくKindle Unlimitedの読み放題から選んだ本ばかり読んでましたので、一冊の本をお金を払って買う、というのはだいぶ久しぶりです。

2月に読んだ朝倉かすみ『平場の月』以来ですね。

 

ましてや彩瀬まると言うと、どことなく一般文芸よりもライト文芸寄りなイメージがあって、なかなか食指の伸びなかった作家さんです。

一体どうしてそんな本を、急に読もうと思ったかと言うと……

 


youtu.be

ここ最近当ブログを読んで下さっている方であればお気づきかもしれませんが、本書『やがて海へと届く』の劇場版作品が絶賛公開中であり、その主演を務めるのが、僕が最近夢中で追いかけている女優・岸井ゆきのなのです。

 

劇場版作品を観る際には先に原作小説を読まないと気が済まない、という面倒な性分が僕にはありまして、それで急ぎ読み始めたという次第です。

だって劇場版って、どうしても当たりハズレがありますし。

演者が合わないとか、演技が下手くそだとか、ハズレと見做される理由は多々挙げられるのですが、商業ベースで劇場版制作が進められた場合にありがちなのが「原作読んだ人にしかわからない」という原作ダイジェスト版のような映画。

たった二時間の中に本一冊の分量を詰め込めきれず、かといってうまく再構築するような荒業もできずに、最終的に物語の象徴的なシーンだけをぶつ切りにしてつなぎ合わしたMADムービーのような仕上がりになってしまうのです。

 

その他、原作レイプと呼ばれるような仕打ちは数知れず……その点、事前に原作を読んでさえいれば、映像化に際してカットされたエピソードや描き切れなかった人間関係も脳内補完されますし、仮に上記のようなハズレ作品だったとしても、安心して楽しめるというもの。

ただし、事前に読んだ原作の感想がいまいちだった場合、劇場版への期待値も大きく目減りするというデメリットもはらんでいるのですが……その点本作は、どうだったのでしょうか。

 

早速ご紹介していきましょう。

 

遺された人々はいつまで寄り添い続けるべきなのか

物語は、ホテルのバーで働く主人公・真奈のもとにかつての同級生遠野が訪ねてくるところから始まります。

彼は引っ越しを決断したと真奈に告げ、荷物の処分を持ち掛けます。

それは遠野の恋人であり、真奈の唯一無二の親友すみれが残していった物なのです。

 

三年前、「ちょっと息抜きに出かけてくる」と言い残したまま、すみれは姿を消しました。

同時に起こったのは、東日本大震災

かといって遺体が見つかったわけでもなく、すみれはその日以来、何の手掛かりもなく行方不明になったままなのでした。

 

すみれは死んだのか、まだ生きているのか。

いずれにせよ彼女が帰って来ない以上、遺された人々はいずれ結論を下さなければならない。

 

すみれの荷物を処分すると決めた遠野は、すみれがもう二度と帰って来ない過去の存在であると、割り切ろうとしているのでしょうか。

三年以上経ってなお、気持ちの整理がついていない真奈にとっては受け入れがたい決断でした。

 

真奈への形見分けを済ました遠野は、彼女を伴い、すみれの実家を訪ねます。

元々はすみれの物ですから、彼女の母親にも荷物に目を通してもらい、遺したいものがあれば引き取って貰おうとするのです。

久しぶりに出会ったすみれの母親は、遠野や真奈よりもだいぶ早い段階で、すみれの死を受け入れていた様子でした。

過去にすみれから母親とあまりうまくいっていないと聞いていた真奈は、そんな母親の潔さにも違和感を禁じ得ません。

 

誰が見放したとしても、自分だけはすみれを信じて待っていたい。

いつまでも親友のまま、すみれと繋がっていたい。

でも本当に、このままでいいんだろうかーー。

 

そんな遺された側の苦悩と葛藤を描いたのが、本作『やがて海へと届く』です。

 

忘れないっていう言葉が、すごくうさんくさい

正直なところ、作品としての完成度はそう高くはありませんでした。

きらりと輝くような面白い文章が見られる一方で、ちょっと引っ掛かるような表現や言い回しも目につきます。

Amazon等のレビューにも散見されますが、特に合間合間に挿入される、すみれと思しき人物による回想(冥想?)シーンは生と死の狭間にあるような幻想的な世界観を描こうとするあざとさばかりが先行し過ぎて、いったい何が書きたいのか理解しがたく、読んでいて意味のある文章だとも思えませんでした。

 

そのモノローグの中に、すみれが津波に飲まれるシーンが登場するのも後から考えればマイナスだったような気がします。

すみれは生きているのか死んでいるのかもわからない。

津波に飲まれたのかもしれないし、もしかしたらそうではないのかもしれない。

 

だからこそ、真奈たちにはすみれが帰って来ない事に対して明確な区切りがつけられず、ズルズルと長年にわたり苦しんできたわけで……本人たちも真相はわからないままなのに、作者の側から「津波に流されて死んだ」と読者に提示してしまうのは蛇足だったような気がします。

安否不明の失踪者をいつまで待ち続けるべきか、という物語と、死んだ人をいつまで引きずるべきか、という物語では大きく意味合いが違ってしまいますもんね。

 

結果として本書は、すみれの死が明らかではない前半部と、モノローグによって死を提示された後半部では、読者側の受け止め方が大きく変化してしまいます。

前半部は「そうだよね。すみれの事を考えたら死んだ事になんてできないよね」と真奈に共感していたのに、後半部は「もう死んでるんだよ。割り切りなよ」という具合に。

 

なのでやっぱり、すみれのモノローグは蛇足だったかなぁ、と。

 

ただし、遺された人々がどのようにして死と向き合い、心の整理をつけていくか。

それと同時に、亡くなった人がどのようにして過去のものとして処理されていくか。

 

こういった”死”との向き合い方については、非常に卓越した観察眼と表現力だな、と脱帽でした。

 

作中、真奈はたまたま出会った高校生の少女たちに、こんな質問を投げかけます。

 

「もしも、もしもだよ。あなたたちのうちの一人が、なんらかの事故や災害で亡くなってしまったら、残る一人にどんなことをして欲しい? ずっと覚えていて欲しいとか、変わらないでいて欲しいとか……どんなことを望むんだろう」

 

女子高生たちが悩み、導き出した結論がこちら。

 

だから、忘れない、ってわざわざ力んで言うのはもっともやーっとした…… 死んだ人 はくやしかったよね、 被災者がかわいそうだよね、私たちみんな一緒だからね、みたいな感じでしょ。でも、戦争とか体験してないし、私は身内を亡くしたわけでも家が流されたわけでも ないんだから、ほんとはぜんぜん一緒じゃない。だんだん、忘れないっていう言葉が、すごくうさんくさく思えてきたの」

「なんか古いってか、ポエムっぽいしね」

「うん。それさえ言っとけばいいだろ的な。考えるのをやめてる感じ」

 

彼女たちはさらに続けます。

 

「あなたたちは、忘れられることがいやじゃないの?」

「そりゃ、覚えてもらえたら嬉しいけど。でも、あんな死に方をしたかわいそうな子って意味ではないやだなあ」

「なにをとっといてもらうかです。よくある、忘れない、無念を忘れないみたいな、暗いことを広い集めるような思われ方より、どうせなら一緒にいて楽しかったとか、そういうのがいいよね」

 

読んだ瞬間、冷水をぶっかけられたような感覚でした。

毎年3.11が近づく度に繰り返される「あの日を忘れない」という言葉。

東日本大震災ばかりではなく、熊本地震もそうだし、終戦記念日やら同時多発テロやら大きな出来事があった日には、必ず耳にする言葉です。

 

それを著者は「それさえ言っとけばいいだろ的な。考えるのをやめてる感じ」とぶった切った。

 

中には反発を覚える人もいるのかもしれませんが、僕にとっては逆でしたね。

真理、だと思いました。

 

「とりあえず忘れないって言っときゃいいだろ」というのは、きっと多くの人の本音でしょう。国も、行政も、政治家も、メディアも、一般の人も含めて。

そう言っておきさえすれば、なんとなく恰好がつくから。

あまり親しくない人の葬儀に出て「ご愁傷様です」と挨拶するのと同じぐらい形式的に、無味無臭な「忘れない」という言葉を口にしているだけ。

現実には行方不明者の捜索も、追悼イベントも、被災者に対する支援も、何もかもが縮小し、薄れていくばかりなのに。

 

一方で、本当に「忘れない」「忘れたくない」「忘れられない」と囚われ続けている人々も間違いなくたくさんいる。

震災に限らず、大切な人を失くした人はみんなそうでしょう。

 

でもいつかはその人たちにも本当に、忘れる日が来る。

忘れたくて忘れるわけじゃなくとも、想いは過ぎ行く日々にどんどん上書きされて、記憶の奥深いところへと追いやられてしまう。

 

それは決して悪い事ではないし、責められる事でもない。

誰かに後ろ指差されたり、罪悪感に苛まれたりするようなものではなく、生きていく上では自然なもの。

 

本書では、「喪に服す」ように過去にとらわれ続けてきた真奈や遠野が、すみれの死を忘れるのではなく受け入れる事で、少しずつ、少しずつ乗り越えていく姿が描かれていきます。

その中で心の整理をつけていくことの辛さを描いたという点こそが、特筆すべき点なのだと思います。

 

心の整理をつけていくことの辛さ

本書のあらすじや紹介文には必ずと言ってよいほど「喪失と再生の物語」と書かれているのですが、厳密には「喪失」ではないんですよね。

真奈をはじめ、登場人物達は「喪失」の痛みはとっくの昔に乗り越えているんです。何せすみれがいなくなって3年が過ぎていますから。既にそれぞれが、すみれのいない日常を歩み始めている。

 

それでもなお彼らを襲う痛みは、「喪失」ではなく「心の整理をつけていくこと」の痛みなのでしょう。

遺体も見つからないままにすみれは亡き者とされ、本人たちが望む望まないに関わらず、過去のものとして処理されてしまう。または、しなければならない時期をとうに過ぎていながら、それでも真奈たちはすみれの記憶に縋り続けている。

 

大事にしなければいけないと思っているのに。

決して忘れてはいけないと思っているのに。

 

3年という月日は、それまで盲目的に信じてきたそんな想いすらもが自己満足であって、故人の遺志ではないのではないか。すみれはもう気にしないで欲しいと願っているのではないか。それともやっぱり忘れられたら寂しく思うのか。なんて待ち続ける事すら疑問に思わずにはいられなくなるほど、長い長い月日だったのです。

 

何よりも、すみれを亡き者として処理しようとしている自分たちが悲しく、腹立たしく、辛い。

同じように心の整理をつけようとするすみれの母親や、遠野の言動に、自分の心を映し出す鏡を見ているようで、反発してしまう。

そんな真奈たちの苦しみが、全編を通してひしひしと伝わってきます。

 

死を描いた作品、死生観を描いた作品は数多ありますが、別れを越えていくことの辛さを描いた作品は少ないのではないでしょうか。

これは死だけが対象なのではなく、愛する人との別れ全般に当てはまる辛さでしょう。

 

僕も読み終えた後、亡くなった肉親との別れだったり、昔の恋人との別れを思い出して、なんとも言えない切ない気持ちになりました。

でも結局、いつかは乗り越えてしまうんですよね。

失った瞬間は心に大きな穴が空いたような喪失感を抱いていたとしても、いつの間にか穴は埋まって、かさぶたになって剥がれ落ちて、よく見ようとしなければ気づかないぐらいの傷跡しか残らない。

 

わかってはいても、そうなるまではやっぱり辛いんですよね。

 

劇場版、観ましたよ

……というわけで、劇場版『やがて海へと届く』を観てきました。

率直な感想を先に書くと、微妙でした。

 

本作は登場人物たちの心の機微がポイントとなっています。

小説であれば地の文で描かれる心情を、映像でどう表現するのか。

上に長々と書いてきたような複雑な感情を、岸井ゆきのら俳優陣はどう演じるのか……という点に注目していたのですが。

 

まさか……ね。

物語の主軸そのものを捻じ曲げてしまうとは。

 

注意深く振り返ってみると、映画の公式サイトにのせられた著者・彩瀬まるからのコメントにそれらしいヒントが書かれていました。

 

原作を丁寧に型どりして空白の領域を埋め、飛躍が必要な箇所では血が通った真摯な創造を行い、まったく新しい物語を産み出してくれた中川龍太郎監督とチームの皆様に、心よりお礼を申し上げます。 

 

……ね?

著者から見ても、劇場版は自身の書き上げた小説とはまったくの別物だと言っているのです。

 

劇場版は簡単に言うと、「真奈とすみれの百合作品」に改変されていました。

 

序盤はとにかく「すみれの失踪を悲しむ(引きずる)真奈」の姿が描かれます。

同棲していた彼氏が登場するすみれとは異なり、真奈は親友という言葉では言い表せないような特別な想いをすみれに対して抱いていたように感じられます。

しかし物語終盤では、全く同じシーンをすみれの側からもう一度描きなおします。

そこで視聴者は、すみれもまた同じように真奈を大切に想い、彼氏である遠野との同棲すらも、真奈を想う気持ちから(不本意ながら)決断したと知るのです。

 

結果として、真奈とすみれは両想いでした。

死してなお、すみれも真奈を想っているよ……めでたしめでたし、というような結末。

 

これはちょっと……というか、滅茶苦茶残念でしたね。

 

その他、他にも残念な点で原作からの改悪が目立ちました。

遠野が「婚約した」とか言い出したり、すみれが真奈と一緒に住み始めた理由が、「一人で生きていけると思ったら大間違いよっ」なんてどこのご家庭でも一度はあるような親子喧嘩が原因であるかのように描かれたり。

 

「よくある、忘れない、無念を忘れないみたいな、暗いことを広い集めるような思われ方より、どうせなら一緒にいて楽しかったとか、そういうのがいいよね」と語る原作から相反するかのように、亡くなったすみれの人生がとてつもなくつまらなく、不幸で、真奈との生活以外には何一つとして救いがなかったかのような設定だったり。

 

かといって明確に作品として百合を押し出しているわけでもなく、真奈とすみれの関係はあくまでどうとでも受け止められる仕上がりになっている。

最初から「どちらとも受け止められる」ように考えて制作されたのか、結果として曖昧になってしまったのかが問題ですが、過去のインタビュー記事等を読む限り、どうも後者のように思えます。

 

すみれに関するあれこれを言語化してしまうのは違うような気がしましたし、監督もそこは言葉で説明されなかったんですね。先ほど(この取材の前)監督と一緒に取材を受けたのですが、「岸井さんと僕がすみれについて思っていることがバラバラだったのが良かった」と仰っていた

 

 

 

多分この映画は、監督や演者の間で詳細な意思統一がなされないまま撮影されたのでしょう。

 

そう感じた理由は、作品全体を通していまいち熱や生々しさのようなものが感じられなかったから。

映画の大半は岸井ゆきの演じる真奈と、浜辺美波演じるすみれとのやり取りに費やされるのですが、演技巧者のはずの二人にも関わらず、何も伝わってこないんですよね。

一つ一つの動作や言葉が、友人としてのものなのか、恋人としてのものなのか。二人の間の距離感や親密さのようなものが、全くわからない。

 

『愛はなんだ』において、岸井ゆきの成田凌が実在のカップル顔負けのイチャイチャぶりを見せつけたのとは、あまりにも対照的な仕上がりでした。

 


別に岸井ゆきのの演技に問題があったわけではないんですよ。

浜辺美波以外の、遠野役の杉野遥亮や楢原役の光石研を相手にしたやり取りは相変わらず非常に見ごたえがありました。

しかし、相手が浜辺美波演じるすみれとなると、なぜか演じている本人たちの迷いのようなぎこちなさばかりが目立ってくる。

 

きっとこれって、岸井ゆきの浜辺美波も二人とも、自分達が演じる人間達の関係性がうまく見えていなかったんだと思います。

結果として、気持ちの入っていないような曖昧な演技になってしまったんじゃないかなぁ、と。

 

原作を読んだ読者としても、岸井ゆきののファンとしても、色々と残念な映画でした。

 

 
 
 
 
 
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