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年間100冊前後の読書を楽しんでいます。推理小説・恋愛小説・歴史小説・ビジネス書・ラノベなんでもあり。

『首里の馬』高山羽根子

「いえ、いえ。孤独だからなんていう要素が理由になる仕事は、厳密には世の中にありません」

 

高山羽根子首里の馬』を読みました。

前回『太陽の子』の記事で書きましたが、急遽会社で沖縄旅行に行くことになりまして。

沖縄に対して「首里城」「ひめゆりの塔」「美ら海水族館」といったキーワードしか浮かばず、それぞれについても具体的にどんな場所で、どんな魅力があるのかもさっぱりわかっていない僕は今、沖縄について知る努力を続けています。

その方法として、自称”本の虫”としてはネットの海を検索したり、その結果浮上した沖縄の魅力をPRするYOUTUBEチャンネルや観光ガイドブックを見るよりも、沖縄に関係する小説を読んだ方がいいな、と思った次第です。

 

そこで手近なところでまずKindleUnlimitedから『太陽の子』を読み、続いて本作『首里の馬』をチョイスしました。

なんせ本作、第163回(令和2年/2020年上半期)芥川賞受賞作という事で、沖縄を舞台とした作品の中では最新の文学小説と言っても過言ではないでしょう。

 

台風があきれるほどしょっちゅうやって来るせいで、このあたりに建っている家はたいてい低くて平たかった。

 

冒頭から始まる、沖縄の家屋や風景に関する詳細で、それでいて作者の考察も含まれた描写は、今の沖縄を知りたいと渇望する僕にとって大いに期待を膨らませてくれるものでした。

試し読みで公開されている冒頭の数ページを読んで、確信しました。

この作品は絶対に読んだ方がいいな、と

 

謎過ぎる主人公の生活風景

物語は主人子の未名子による一人称で、淡々と進められていきます。

旧外人住宅の名残を残すコンクリート造の建物に私設の資料館を開き、沖縄の資料を収集する民俗学者の順さんの下へ通っては、資料の整理を手伝っています。

と言っても順さんと雇用関係にあるわけではなく、あくまで自主的に、ボランティアとしてお手伝いしている、という間柄にあります。

中学生のころ、県外から家族で沖縄へ引っ越してきた未名子は学校を休みがちになり、代わりにこの資料館へと通うようになりました。それからずっと、時間があれば資料館へ通う、という生活を続けています。

 

とはいえ、二十代半ばになった今、未名子はちゃんと働きに出て、たった一人で自立した生活を送っています。

上の資料館との関わりもなんとも奇妙に感じますが、未名子の仕事というのも、非常に風変りなものなのです。

 

問読者(トイヨミ)、という仕事

未名子の職場は、那覇市内の雑居ビルの中にまるで隠れ家のように存在しています。

この職場の様子というのも、怪しさに満ち溢れています。

 

なにも考えずに見渡せば、ここは標準的な事務所に見える。ただ注意深く見れば、ふつうに人が働いている場所とはちがう印象を受ける部分があちこちにあった。

だからここはゲーム画面の背景としてCGで再現されたり、あまりに人間のことを知らない別の知性体が、地球の人間が働いている場所というのはこんなものだろうと見よう見まねで作り上げたりしたオフィスみたいだ

 

このあたりの表現って個人的にはとっても好きでして。

読んでいるだけで胸がざわつくような、芥川賞的な匂いに満ち溢れた文章に感じます。

 

さらにおかしなことに、そこで働くのは未名子一人だけ。同僚はいません。

唯一面接の相手であったカンベ主任だけが、電話などにより遠隔で指示・サポートをしてくれています。

その仕事内容というのも、世界中のどこかから繋がった相手に、三つのキーワードによるクイズを出題する、というもの。

 

「小さな男の子、太った男。――そしてイワンは何に?」

 

カンベ主任によると、未名子の仕事の正式名称は「孤独な業務従事者への定期的な通信による精神的ケアと知性の共有」というのだそうです。

それが言葉通りそのままの仕事なのか、はたまた実は他に隠された意味があるのか、未名子は知りません。

当然ながら、僕達読者もわかりません。

未名子と画面で繋がった一人の外国人が、一対一でクイズを行い、時に世間話を交わす様子が描かれるのみです。

 

そして画面の上から伝わる相手にも、どこか不穏な様子が伺えます。

本書の中で主に未名子の相手として現れる相手は三人だけですが、全員が、閉鎖された狭い部屋の中にいるようにそれとなく感じられます。

もしかしたら未名子は、本人も知らない内にとんでもない悪事や、国家機密に関わるような重要な任務に関わっているのではないか――そんな疑念がどんどん膨らんでいってしまいます。

 

迷い込む宮古

作中三分の一を過ぎた頃、帰宅した未名子の自宅の庭に突如現れるのが馬。

通常の馬よりも小柄なその馬が、その昔沖縄競馬に使用された宮古馬であると未名子は気づきます。

馬はそのまま未名子の家に居つき、やむなく未名子は自宅の中へと招き入れます。いったんは警察に引き渡し、自然公園に保護される宮古馬ですが、ある日未名子は再び宮古馬を取り戻すべく行動に出ます。

そうしてガマという自然洞窟に宮古馬を隠した上で、毎日のように馬に乗るべく練習を重ねるのです。

 

三題噺の答え

私設資料館。

問読者。

宮古馬。

本書は主にこの三つの舞台・場面によって構成されているのですが、それによって導き出されるもの≒作者の書きたかったものという事になろうかと思います。

では、その答えは……というと、正直ワカラナイとしか言いようがありません。僕の読解力が足りないだけかもしれませんが。

 

資料館と問読に共通しているのは「情報」なのだとは思います。

しかもその情報はいずれも「他者から見れば価値の有無すら判定できない情報」です。資料館に集められた莫大な資料は順さんが理由あって集めたものなのでしょうが、未名子にはそれがいつか役に立つものなのか、保存し続ける価値のあるものなのかもわかりません。

クイズも同様でしょう。断片的に提示される三つのキーワードから一つの答えを導き出すという、非常に特殊なクイズに答える能力やそれに要する知識は、他者にとっては必要性の薄いものです。

 

両者に共通しているのは、それを大切に思い、ひたむきに集めている人がいるという点。

そしてその人の身に何かが起こったり、その人が興味を失ってしまえば、途端に価値は失われ意味をなさないものになってしまう点でしょう。

 

他者から見れば何の価値もないそれらの情報は、果たして本当に価値のないものなのか。そこに込められた執念や愛着とでも言うべき想いは、いつか他の誰かに必要とされる日がくるのではないか。そんな想いを描きたかったのかな、というのが個人的な見解です。

 

まぁそういう意味では本書……非常にわかりにくいですよね。言い方を変えれば、不親切とも言えます。ライトノベルやアニメ、テレビドラマに例を挙げるまでもなく、昨今の創作物は非常に親切丁寧に、物語の背景や登場人物の心情まで描いてくれますから。

それに比べ本書は読者側が作者の意図や登場人物の心の動きを想像し、補完しながら読み進めていくしかない。難解……という言葉は使いたくないのですが、純文学的な作品だな、と思います。

 

宮古馬の役割

それにしても大きな謎として残るのは、題名にもなっている馬の役割。

物語に突如現れた馬は、主人公によって警察に引き渡されたり、連れ戻されたり、乗られたりと様々な扱いを受けるものの、資料館に遺された情報をどうするのか、という物語の主軸とも言える話とは関連性がないようにも思えてしまいます。

 

これについての僕の見解はというと、宮古馬は上に書いた「誰かにとって必要だけれど、他者にとっては価値の判断がつかないもの」の象徴のような存在なのだと思います。

実際に宮古馬は、失われた沖縄競馬をはじめ、古くからの沖縄の歴史や文化の一旦を担う貴重な存在です。

ですが未名子は、最初馬と遭遇してもそれが一体何なのか理解できませんでしたし、自ら警察に引き渡してしまいました。薄気味悪いとすら思ったはずです。

宮古馬は、順さんが残した膨大な数の資料と同じなのでしょう。

 

順さんの身に危機が迫り、資料館の処置をゆだねられた未名子が資料を電子的アーカイブとして残そうと決断したように、未名子は宮古馬を連れ戻します。さらに乗りこなせるようにと、宮古馬に乗る練習を重ねます。

その姿は、順さん亡き跡も島の情報を集め、残して行こうと決めた未名子の心持ちにも通じるように思えるのです。

 

最終的にはそれなりに馬にも乗れるようになり、道行く人はそんな未名子と宮古馬を見て、見て見ぬフリをする人もいれば、まれに微笑みかけてくれる人もいる。

こんな些細な描写からも、やはり宮古馬は順さんが遺した資料と同じ「誰かにとって必要だけれど、他者にとっては価値の判断がつかないもの」なのだと思います。

 

あるいはそれは……度重なる飢饉や戦争に脅かされてきた沖縄の歴史・情報そのものを暗示しているのかもしれません。

興味もなく、必要性も感じない人は存在すら気づいてくれない。でも、まれに興味を持ち、自ら欲してくれる人もいる。その時、その人の役に立つのであれば、大事に残していく意味はあるのではないか――

少なくとも未名子は、それらを大事に受け継いでいく、と決めたのでしょう。

 

「わかりにくい」を愉しもう!

さて、最後に本書の最大の謎である「にくじゃが」「まよう」「からし」については、what3wordsという位置情報システムに当てはめると「首里城」を意味します、という点だけを簡潔に書いておいて。

 

先日『ケイコ目を澄ませて』という映画を観てきました。

僕が今一番ハマっている女優・岸井ゆきのの主演作で、実在する耳の聞こえないボクサーの自伝を原作としています。

 

happinet-phantom.com

 

この作品……最近では様々な賞に輝き、その度にメディアで報じられるなど話題になっているのですが、はじまった瞬間からその世界観に飲み込まれました。

 

音。

 

とにかく、音の表現が素晴らしいのです。

耳の聞こえない主人公との対比なのでしょうか。ボクシングジムでミット打ちをする音や縄跳びをする音、シューズの鳴る音、人の声、息遣い、風、排気音、電車等々、スクリーンの向こうから生の音が伝わってきます。

一方で、映画には切っても切り離せない存在であるはずのBGMや効果音は一切ありません。あくまでカメラが切り取った音を中心として、映画がつくられているのです。

 

さらに驚いたのは、主人公のケイコに一切台詞がない事。

耳が聞こえない=喋れないのだから当然なのですが、通常だとそれを補うべく、本人や他者のモノローグのような形で心情を語ってくれる作品がほとんどかと思います。最近の親切丁寧なドラマや映画であれば、普通に喋れる主人公であってもいちいちモノローグを入れて、全ての情報を包み隠さず伝えてくれるのが普通でしょう。

しかし本作には、モノローグと呼べるものすらありません。

 

つまり、ケイコの心情は観客に対して一切説明される事のないまま、彼女の表情や動き、周囲の人々の立ち居振る舞いでもって察する他ないのです。

でも不思議と、観ている側に伝わるんですよ。

映画側からの説明は一切ないので、こちらが受け取ったものが実際に監督や演者が意図したものなのかどうか確証を得る事はできないのですが、全体を通して、ケイコの身に起こった出来事や、それによって起きたケイコの心情の変化を感じられるのです。

 

僕はこの映画を観ながら「すごく純文学的だな」と思いました。

『ケイコ目を澄ませて』を観た事で、逆に「純文学のあるべき姿」を知らされた想いです。

 

その後で読んだからかもしれませんが、『首里の馬』にも『ケイコ目を澄ませて』と似たものを感じました。

確かに一見、わかりにくい。

観る人によってはあまりにも不親切だと、拒絶反応を巻き起こすかもしれない。

実際に一緒に見に言った同伴者は「よくわからない映画だった」と不満顔でした。でも「わからなかった部分」をお互いに「多分こういう事だよね?」と想像し、補う合う中で、そういう楽しみ方もあると理解してくれたようです。

 

きっとそうしてもう一度、二度と繰り返し見れば(読めば)、一度目とは違ったものが見えてくるのだと思います。

全てを余さず描き出してくれる作品の方が今は主流だし、そういう作品でないと商業ベースのヒット作品にはなかなかなり得ないという事も重々承知しているのですが、そうではない味わい方をする作品もあるのだと、受け止めて欲しいものです。