おすすめ読書・書評・感想・ブックレビューブログ

年間100冊前後の読書を楽しんでいます。推理小説・恋愛小説・歴史小説・ビジネス書・ラノベなんでもあり。

『黄泉がえり』梶尾真治

「実は、死んだ主人が帰ってきまして。今朝がたですよ。気がついたら帰ってきてて」

っっっっっ!!!!!

 

思いがけず、二日続けての更新となってしまいました。

どれだけ怠けていたことか。

 

前置きはさておき、読んだのは梶尾真治黄泉がえり』。

2003年には当時SMAPの草彅剛主演で映画化もされた話題作。

 

 

映画は未鑑賞ですが、そこそこ評価の高かった作品という印象だけは残っていて、古本屋でタイトルを見た瞬間に衝動買いしてしまいました。

 

 

死者が“蘇る”

タイトルオチしてるので説明するのも憚られますが、文字通り次々と死者が蘇ってくるお話。

それを商社(?)に勤める雅人やその部下の中岡、警備会社に勤める義信らを視点に、様々な角度から描いています。

 

雅人の場合には、勤務先の先代社長が黄泉がえり、さらに実父も蘇ります。

中岡は少年時代に自分を救って死んだ兄が、さらにアプローチしていた未亡人の玲子の夫が蘇ってきます。

義信に関しては、昔から大ファンだった歌手のマーチン(女性)が蘇ります。全国的に知名度のあるマーチンの復活が、熊本を中心とした局地的な現象であった黄泉がえりを日本中に知らしめる結果となります。

 

それぞれが感動の再会に喜び、さらに蘇った者たちが社会活動を取り戻すために行政や世の中が変わっていく様が描かれていくのですが、後半からもたらされるターニングポイントに向かって、急激に物語は変容、収束していきます。

 

映画化も納得の思わず唸るようなプロットです。

 

 

素材を活かしきれなかった

ところが残念ながら、著者にせっかくの素材を活かしきるだけの腕が足りなかったのがもったいないところ。

 

一人称「私」にも関わらず語尾に「ッス」をつける謎の口調の中岡をはじめ、登場人物たちはやたらとキャラクター性(昭和的)の先行が目立ち、彼等からは日常生活のリアリティーが一切感じられません。

そのせいか、言動の一つ一つにも整合性が得られません。

 

序盤、市役所に多数の人々が詰めかけるシーンがあります。

彼等の目的は「死んだ人が帰ってきたから死亡届を撤回させて欲しい」というもの。

それにより市役所窓口は混乱に陥り、市長は黄泉がえってきた人に対する対策に迫られるというものです。

 

……おかしくないですか?

 

仮に死んだ肉親が突然戻ってきたとして、まず一番最初に取る行動ってソレですかね?

普通に考えるといくら本人に瓜二つだったとしても、まず信じませんよね。誰かの悪いいたずらか、何かの間違いだと思うはずです。どんなに似ていて、本人しか知らないはずの記憶を所持していたとしても、です。

 

なのでまず蘇った人が求められるのって、本人確認で間違いないと思うんですよ。蘇った本人にとっても、肉親にとっても。

とすると一番は死亡届けを出した病院ですよね。仮に本人だと確認できたとしたら「じゃあ葬式やって火葬場で燃やしたアレは誰なんだ? もしかしてよく似た他人の死体で葬式上げたのか?」となるでしょうから、とかく病院がらみの騒ぎになるのは間違いありません。

 

役所に届出を……なんて考えに及ぶのは、なんやかややって「とにかくどうやら目の前にあるこの人は死んだと思っていたあの人に違いないらしい」と医学的にも証明を得られてからになると思うんですよね。

だって本人確認取れないのに「先に戸籍を元に戻して」なんて言いませんし、役所側も「まず本人だと確認を取って下さい」と突っ返すのは間違いありませんし。

 

一応補足しておくと本書の中にも、役所の対応として「戸籍に代わる登録の手段」や「認定」、「本人鑑定」という文字が出てくるのは出てくるのですが、それは記者の口から「そういう対応を取るらしいよ」という言葉として出てくるだけであり、実際にそれに伴う混乱等が描かれるわけではありません。現実的な手続きとして、本人確認だけでも数か月から半年はかかりそうな気がしますが。

基本的にほぼ全ての遺族は故人が現れた瞬間に本人である事を盲目的に受け入れ、次に取るべき行動として役所に戸籍を求めるとともに、日常生活への復帰を始めようとします。

雅人の会社の先代社長に至っては蘇って早々にお披露目パーティーを開催してしまいますし、マーチンは早々にアーティストとして復帰を果たし、作曲やレコーディングを始めてしまうのです。小学生姿の中岡の兄に至っては、翌日から近所の老人たちの手伝いを申し出て小遣い稼ぎを始める有様。

 

フィクションとしてある程度のご都合主義は否めないのかもしれませんが、最終的に二万人以上の黄泉がえり申請があったというのですから、世の中の混乱ぶりはある程度は描いてくれないと白けてしまいます。

 

 

描きたかった事とは

一番わからないのがコレですね。

一体何が描きたかったのか。

 

多分、「死者が蘇って、原因は〇〇で、クライマックスがこうなる」みたいなプロットが全てになってしまったのかな、と。

 

死者が蘇るというと辻村深月の『ツナグ』が真っ先に思い出されますが、書きようによっては同じようなじんわりとした感動を呼び起こす作品にもなり得たと思います。いや、スケールの大きさから言っても、『アルマゲドン』のようなハリウッド超大作になり得る題材だったのかも。

 

先代社長が突如蘇った会社、帰ってきた祖父、帰ってきた夫、帰ってきた兄、帰ってきた憧れのスターと、他にも様々なパターンの黄泉がえりが描かれているのですが、そのどれもが描き切れたとは思えません。

それもこれもステレオパターンな登場人物たちに起因しています。

 

蘇った先代社長は最初から最後まで先代社長でしかありません。

先代社長の父親としての顔、夫としての顔、生前やり残した悔恨等はほとんど描かれないのです。

 

同様に、マーチンも蘇った瞬間からアーティストであり、一人の女性としての彼女や生前の交友関係、両親や親族との邂逅といったものは一切描かれません。唯一彼女が所属していた事務所の社長が蘇った彼女を売り出そうと躍起になるばかりです。

 

あくまで「蘇った〇〇」というキャラクターを演じさせられるのみで、人間としての深みが一切ないのです。

 

もっと端的に言えば、死に対する深みが感じられない。

だから生き返ってきた事に対する喜びや感動も感じられない。

 

田舎で飼っていた猫がある日突然いなくなったと思ったら、数日後にふらっと戻ってきたという、そんな感じなんですね。「あれ?生きてたんだ。じゃあご飯の用意してあげなきゃ」みたいな受け止め方。

 

復活してきた時の感動を描き切れていないので、再度消えゆく際の感動も薄いままになってしまうのは必然です。

『ツナグ』的世界観であれば、「悔恨に悔恨を重ねて死んでいった人が奇跡的に蘇った数日間の間に未練を一つ一つ断ち切り、改めて清々しい気持ちで遺族に別れを告げてあの世へ旅立つ」感動巨編になったはずなんですが。

 

いずれにせよ題材としては非常に優れた作品なので、いずれ時間ができた際にでも映画版を観てみたいと思います。多分こういうのは、エンターテインメントのプロがリメイクして作品に仕立てた方がよくなるはず。そう期待して。

 

 

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Linus on Instagram: “#黄泉がえり #梶尾真治 読了 死んだはずの人がある日突然帰ってくる。しかも次々と。 一体何が起こっているのか。 彼らは一体どうなるのか。 2003年に草彅剛主演で映画化され大ヒットを記録したそうで、かなり魅力的な題材でした。…”

『小説立花宗重』童門冬二

「知ってのとおり、おれはおまえたちとともに徳川殿に歯向かい、石田三成に味方をした。しかし結果はわれわれの負け戦となった。にもかかわらず、徳川殿はかつての敵将に対し、昵懇な扱いをしてくれ、おれをお相伴衆に取り立てたのちに、たとえ一万石とはいえ棚倉の地で大名の座に復権させてくれた。そう思うと、おれは徳川殿の恩を忘れるわけにはいかない。これからは、徳川殿にご恩を奉ずる。」

童門冬二の『小説立花宗重』を読みました。

 

二月に読んだ葉室麟『無双の花』同様、戦国時代の武将立花宗重を描いた本。

いまいち知名度の低い立花宗重ですが、『無双の花』の中では並み居る大小名の前で豊臣秀吉「東国にては本多忠勝、西国にては立花宗茂、ともに無双の者である」と紹介したという逸話が紹介されています。

 

本書においても、同じく豊臣秀吉より、

 

「その忠義は、まさに鎮西一、武勇もまた鎮西一である。わが上方にも、このような若者があろうとは思われぬ。見事である。それぞれ、範とせよ」

と最大級の賛辞を披露する一幕が。

 

そんなエピソードの数々からも読み取れる通り、この立花宗重、実は戦国最強との呼び声も高い人物なのです。

 

 

ざっくりあらすじ

本書では主に立花宗重が元服してから死ぬまでの一生が描かれています。

ざっくりとあらすじを紹介すると、そもそも立花氏というのは北九州を拠点とする大友氏の家臣として仕えるお家柄でした。

その頃というのは、東では織田信長が激戦を制し、京へ上って天下統一まであと一歩という戦国真っただ中の時代。九州においても事情はよく似ていて、一時は九州の大半を手中に収めた大友氏でしたが、薩摩の島津氏を中心とする反大友派の抵抗と相次ぐ離反により勢力を盛り返されつつあるという状況にあります。

 

宗重は父・立花鎮種や舅・立花道雪とともに大友氏の家臣団として防戦を繰り広げますが、戦局は芳しくありません。島津氏の勢いを前に苦戦が続きます。

 

そこで宗重が頼ったのが、豊臣秀吉。秀吉は石田三成を射ち、次いで柴田勝家を滅ぼし、一気に天下取りを駆け上がる最中にありました。中国・四国を治めた秀吉にとって、九州討伐は必然の流れでもありました。そして九州討伐の最大の敵こそ、反感的な姿勢を崩さなかった島津に他なりません。

利害の一致した秀吉は島津と対抗する大友氏らに協力。宗重らは先鋒として大いに武功を治め九州討伐に尽力。秀吉の信頼も厚いものとなったのです。

大友氏の一家臣であった立花氏は、豊臣家の家臣として柳川十三万石の大名に取り立てられるに至ります。

 

……で、立花宗重の武勇伝を示す上で必ず語られるもう一つのエピソードが、秀吉の朝鮮出兵秀吉の急死により一斉退却が決まり、続々と武将たちが引き上げる中、敵陣にあった加藤清正らだけが取り残される事態に。その窮地を救ったのが立花宗重だった、というもの。

ただしこれ、文献等の資料が少ないのか、『無双の花』においても本書においてもかなりあっさりと描かれるに過ぎないのが残念なところですが。

 

そして秀吉の死により、世の中は再び戦国の世に。

関ヶ原においては、立花宗重は自分を引き立ててくれた秀吉の恩義に報いようと、豊臣秀頼を大将に掲げる西軍に与する宗重は、要衝である大津城の攻城戦へと加わります。

 

ところがそうこうしている内にあっけなく関ヶ原の勝敗が決してしまう。

再度の決戦に挑むため一旦伏見城に入り、大坂城にこもる秀頼に出馬を促す西軍の各武将らでしたが、一向に動こうとししない秀頼や総指揮者たる毛利輝元らの態度に郷を煮やし、単身柳川へと帰ってしまいます。

 

九州に戻った立花宗重を待っていたのは、豊臣方の敗軍を掃討しようと仕向けられた追手の数々。そこに割って入ったのが、前述の加藤清正。彼の仲介により窮地を救われた宗重でしたが、「徳川への恭順を示すためには同じく西軍に与した島津討伐の先鋒を務めるべき。元々島津は立花の仇のはず」という提案は頑として受け入れません。

一時は仇敵として争い合った島津とはいえ、つい先日までは同じ西軍として手を取り合って戦った間柄。その島津に刃を向ける事はできない、というのが宗重の主張です。

 

結果、柳川領十三万石は没収。

宗重は一気に浪人の身へと落ちてしまいます。

 

しかし、そこへすかさず手を差し伸べてくれたのが加藤清正。行き場所を失った宗重を自領に迎え入れ、手厚く遇します。

とはいえ清正の家臣に下るわけにはいかず、関ヶ原の敗将を匿う加藤家の体面もあり、宗重は数人の家臣だけを連れ、時世を探りに京へ、江戸へと移ります。

 

そうして江戸で暮らす中、ひゅんな事から徳川秀忠のご相伴衆(相談役のようなもの)に抜擢されます。

最初は僅かに五千石だった禄高も、程なく奥州棚倉藩(今の福島県棚倉町)一万石となり、立花宗重は徳川政権下においても再び大名へと返り咲きます。

 

そして大阪冬の陣・夏の陣を過ぎ、家康崩御の後は、二代目将軍となった秀忠により再び元の柳川藩十一万石へ移封を命じられるのです。

関ヶ原で西軍に与した武将で、旧領に復帰したのは立花宗重たった一人だけでした。

 

 

『無双の花』との違い

以前読んだ『無双の花』がなんとなく物足りなく感じられて、別の著者の描く立花宗重も読んでみようと本書『小説立花宗重』を手に取ってみたのですが。

 

正直、あんまり代わり映えしないなぁ、と。

 

歴史小説である以上、史実として残っている部分に関しては動かしようがないので似通ってくるのは仕方ない。

ところが妻である誾千代の男勝りな性質であったり、立花宗重のあまりさもしいところには頓着しない殿様気質なところなんかも、ほぼ一緒。これらもある意味史実に沿った結果なんですかねぇ?

 

義を重んずる“忠義の人”とされる立花宗重にも、ところどころドライな面もあったりします。

柳川藩復帰後、前領主である田中家の家臣を雇用するどころか、領内に留まる事すら認めなかったり。

 

盟友である石田三成を売ら切った田中吉政人間性が許せず、その不純な大名の家臣ですら許せない潔癖さ、と説明されていますが、今となってはちょっと理解しがたい感情ですよね。

M&Aした会社の従業員を全員解雇するのと似たような行為と言えるのではないでしょうか。もしくは新しい市長が職員を全部総とっかえするような感じか。大いに軋轢や遺恨を生み出しそうな措置ですが。

 

秀吉に愛され、秀忠からも重用された天下無双の武将、立花宗重と言えば聞こえはいいですが、大阪の陣で華々しく散った真田幸村らに比べるとやはり印象としては薄くなってしまいます。

同じく”仁”の人と言われる直江兼続にも共通して言える事ですが、”仁”や”義”を唱えるからには戦いの中に消えていく方が美しく感じてしまいますもんね。

 

だからこそ、彼等に負けないような逸話やエピソードを期待したかったのですが。

 

どこかに朝鮮の役を詳しく描いた小説とかないですかねぇ?

孤軍奮闘する加藤清正と、決死の救出劇を繰り広げる立花宗重を見てみたいものです。

 

 

https://www.instagram.com/p/CAEgZ9xD10R/

Linus on Instagram: “#小説立花宗茂 #童門冬二 読了 #無双の花 に続く #立花宗茂 もの。 秀吉にして「東国にては本多忠勝、西国にては立花宗茂、ともに無双の者である」と言わしめ、関ヶ原敗軍の将として一度は浪人の身に落ちながらも、徳川政権下でただ一人旧領への復帰を果たした唯一の人。…”

『ツ、イ、ラ、ク』姫野カオルコ

「過去は削除していかないと。さっさと捨てなきゃ。荷物が多いのはごめんです、ってイアンもうたってたじゃない。済んだことは消えたこと」

姫野カオルコ『ツ、イ、ラ、ク』を読みました。

 

姫野カオルコさんはなんとなく著者名は見聞きした覚えがあるものの、作品に触れるのは全くの初。これも後で調べてわかった事でしたが、本書は直木賞ノミネート作品でもあり、数度のノミネートを経て『昭和の犬』で第150回直木賞を受賞されているとの事。

 


『ツ、イ、ラ、ク』がノミネートされた第130回は江国香織とともに京極夏彦後巷説百物語』が受賞していたんですね。

 

なお、4度のノミネートを経て、ようやく受賞へとこぎつけた第150回直木賞の選評は下記の通りです。

 

だいぶ回を重ねての受賞であった事がよくわかろうかと思います。

 

こうして姫野カオルコについて調べたのも今回が初めて。

僕にとってはそもそも彼女の代表作が何であるかすら知らない状態での読書となりました。

 

 

青春群像?恋愛?

本書のあらすじを説明するのって、なかなか難しいものがあります。

ちなみに文庫の裏表紙等に出版社が書いているのは下記の通り。

地方。小さな街。閉鎖的なあの空気。渡り廊下。放課後。痛いほどリアルに甦るまっしぐらな日々--。給湯室。会議。パーテーション。異動。消し去れない痛みを胸に隠す大人たちへ贈る、かつてなかったピュアロマン。恋とは、「墜ちる」もの。

なんですかねーこれ。

SEO対策かな?

 

なかなかまとめるのが難しい本書なのですが、一言でまとめるとすれば「ある少女たちが小学校低学年から中学校を経て、大人になるまでを描いた本」という感じでしょうか。

 

物語は小学校二年生から始まります。

頼子、統子、京美、隼子、ハル(=温子)などが登場し、彼女たちを束ねる頼子は新選組でいう土方歳三に、みんなから一目置かれる京美は近藤勇に見立てられ、彼女たちのグループにはびこる協調性・同調性のしがらみを新選組の厳しい掟に例えられます。

 

独特な筆力を持った著者なんだなぁ、とのっけから足をすくわれた感じです。

 

以降は少女たちがそれぞれの知識や体力、家庭事情などを重ね合わせ、時には反発しながら日々を過ごしていく様子が描かれています。やがて高学年に入ってくると、そこに男子という異性が加わり、誰が誰を好き、といった淡い恋心が飛び交う場面も。

 

そうして物語が大きく動き出すのは中学生に入ってから。少年少女たちが両想いの証である交換日記やキーホルダーとアンクレットを交換しあったり、という形で関係を築いていく中で、本書の中心人物たる隼子だけは、産休の担任と入れ替わりにやってきた23歳の若き教師、河村と接近します。

 

それも他書で描かれるような「思春期に特融の年上の男性に対する憧れ」といったものではありません。隼子は「河村のことはすこしも好きではない」と断言し、それでも彼を性的に挑発する気持ちをこう記します。

 

ひたすらハレー彗星が見たいのだ。

 河村ではない。ハレー彗星が見たいのである。自由の女神像が見たいのである。濁っていてもテムズ河が見たいのである。エッフェル塔が、ランブータンが、馬車が、河原町の「メビウスの帯」が見たいのである。行ったことがないところ、見たことのないもの、食べた事のないくだもの、乗ったことのない乗物、禁止されている店。自分の知らない部屋がそこにあて、ふだんは鍵がかかっていて、あるときそのノブに鍵がささったままになっていたら鍵をまわしてみたい。部屋の中を見たい。どんなものなのか見てみたいのだ。

探究心というか、怖いもの見たさというか……まぁ確かに、この年頃の女の子の中には、学年に一人や二人、このタイプの子もいたかもしれません。

 

僅か中学二年生の女の子の誘惑に河村は翻弄され、誘われるがまま隼子と関係を結び、その後も人目を忍んでただただ肉欲だけを満たしあう生徒と教師。

隼子に恋心を抱く三ツ矢や、恋の駆け引きに揺れる太田と統子、京美の三角関係、まだ恋愛に目覚めているとも思えない他の少女たちの中で、隼子だけが異質の存在として浮かび上がるように描かれていきます。

 

やがて実際に、隼子は1人浮いた存在となり……物語は20年以上を経て、大人になった彼らの後日譚へと移っていきます。

 

冗長で目まぐるしい

読み始めてすぐわかる事ですが、本書はとにかく視点が入れ替わります。それが非常に目まぐるしい。

視点の主がある程度限られた人物ではなく、ほぼ全ての登場人物が主になる点が混乱に拍車を掛けます。

 

529ページという決して短くはない物語の中で、登場する様々な人物にスポットライトが当たり、その人物についてのエピソードや心理描写が入れ代わり立ち代わり描かれていくのです。それによって全体のボリュームが増して物語の重厚につながっているとも言えますが、正直なところ、もしかしたら必要ないんじゃないか、という枝葉末節的な印象も拭えません。なので中心人物であるはずの隼子についても、ちょっと薄れがち。

 

好奇心と冒険心で教師と関係を結んでしまった隼子の心情が、一番描けていないように感じてしまいました。

 

話すのももどかしく、彼らはヤった。服を脱ぐのさえもどかしく、彼らは犯った。ヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯ってヤって犯って(略

 

こういう描写も悪くはないんですけどね。肉欲に溺れるのと同時に、両親に対する罪悪感や世間に対する背徳感、誰かに知られたらと恐れる恐怖、その他諸々の葛藤もあったんじゃないかと思うんですが。自分が知った“未知の体験”を誰か友達に話したくなる衝動とか。そういう描写が本当に少ないのです。

 

肉欲的な探究心を目的に、教師と関係を結んだ同級生を記号的に描いたらどうなるか。

 

結果、リアリティーがなくなるのは必然と言えるでしょう。

 

妄想っぽいのは萎える

リアリティーの欠如は、当事者感が希薄である事に起因しています。

思春期当時、周囲や学校の一部であった噂話やエピソードを渦中の人物が描くのではなく、聞く側だった人間が描いた印象。実体験ではなく、それっぽく妄想を膨らませて書いた感がいっぱい。型に嵌めた、記号的な人物描写が非常に目立ちます。

 

登場人物たちが大人になって以後の後日譚には特にそれが顕著です。

彼らは中学時代の同級生にしては、ずいぶん繋がりを強く持ちすぎています。かといって、それを裏打ちするようなエピソードがあったわけではなりません。ごくごく一般的な学生生活を過ごしただけで、妙に深い絆のような関係で結ばれ続けている。

 

中学時代の恩師(担任ではない)が亡くなったからといって、全国に散った彼らが集まってくるのもちょっと無理がある話でしょう。彼らの一部が不倫関係に陥っていて「多分昔から好きだったんだと思う」というような昼ドラのような月並みのセリフが出てくるのも萎える原因になっています。そのキャラが主役級ではなく、あくまで端役扱いのキャラだったりすればなおさらです。本筋とは関係ない昼ドラの一幕を描きたいがために、彼らを登場させたのでしょうか。

 

全体的に月並み・型どおりのキャラクターを並べて、文学的な文章で膨らませたような印象です。

思春期の恋愛風景を描きたかったのか、教師と生徒との純愛(?)を描きたかったのか、何が描きたかったのかすらわかりかねます。終盤の昼ドラ不倫やハッピーエンドっぽい幕引きがあまりにもお粗末なだけに、疑問が膨らむ一方。

 

作品同士を比較するのは本望ではありませんが、その点『ナラタージュ』はまだ描きたい主題ははっきりしていたなぁと改めて感じさせられました。

 

https://www.instagram.com/p/B-D1e1QDBsP/

#ツイラク #姫野カオルコ 読了ううん。この作品が何を書きたいのか、どんな物語にしかたかったのか、最後までわからずじまいになってしまいました。枝葉末節にしか思えないエピソードの数々……特に「昔から好きだったんだと思う」とか言わせちゃう脇役キャラ同士の昼ドラのような同級生不倫に意味は合ったのでしょうか?それも文学??? #本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。

『ナラタージュ』島本理生

なにもいらないと思っていた。そんなふうに一緒にいるだけで手に余るほどだったのにいつの間にか欲望が現実の距離を追い越して、期待したり要求したりするようになっていた。どんどん贅沢になっていたんだな、と思った。

島本理生の『ナラタージュ』を読みました。

島本作品は2018年の12月に『ファーストラヴ』を読んで以来、二作目となります。

 

『ファーストラヴ』は第159回直木賞受賞作ということで手に取った作品だったのですが、今読み返しても当時のイライラが思い出されるぐらい、辛辣な感想を書いています。

 

ファーストコンタクトとなった『ファーストラブ』がいまいちだった事もあり、『ナラタージュ』も実はだいぶ前に買っておきながら、なかなか食指が伸びず積読化していました。

最近推理小説が続いていたのでちょっと趣向を変えてみようとようやく手に取ってみたわけです。

 

『ファーストラブ』の感想を一言で表すならば「作者とわかりあえなかった」。

物語の構成や主題、登場人物全てにおいて、いっさいの感情移入や共感を覚えない稀有な作品でありました。

そんなわけで期待値としてはかなり低い……初対面の印象が「苦手」だった人にもう一度会いに行くような、そんな気分で本読書は始まったのです。

 

OBとして高校の演劇部に参加する大学二年生

大学二年生の春、高校時代の演劇部の恩師・葉山から主人公の泉に一本の電話が入ります。

現役演劇部の部員数が少なくなってしまったので、OBである泉たちに手伝って欲しいという依頼です。

泉は同じOBである志緒や黒川、さらに黒川の大学の友人である小野とともに、後輩たちの舞台の参加者として、定期的に練習を始める事になります。

 

……というのがざっとしたあらすじ。

一方で物語の多くは、泉と二人の男性との関係に費やされる事になります。

 

1人は小野。

人当りが良く、誠実そうな彼は泉に一目惚れし、少しずつ彼女との距離を縮めようとさりげない言動を繰り返します。

しかしながら、泉の視界の中に小野が入る事はありません。

あくまで友人として小野と接する泉の目は、恩師である葉山に向けられたままなのです。

 

※以下ネタバレ※

 

推理小説ではないのでネタバレ覚悟で書いてしまいます。

未読の方でネタバレを避けたいという方はここで引き返すようお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

教師と教え子との禁断の恋

まーこう見出しに書いてしまうと下世話なラブロマンスものになってしまいますが。。。

 

基本的には相思相愛になってしまった教師・葉山と元生徒・泉の恋愛を描いた作品です。

これがまぁ……ビンビン刺さるんですよ。

 

教師として、また、他の理由からも泉に好意を打ち明けるわけにはいかない葉山の辛さもわかりますし、そんな葉山に惹かれる泉の気持ちもよくわかるんです。

 

でもって本作、ここがすごく重要な点だと思うんですが、決して綺麗な恋愛作品ではないんです。

 

物語の表面だけなぞっていくと、「理想の教師像・葉山」と「一途で純真な泉」の綺麗な恋愛っぽく見えるんですが、決してそうではない。

だって間違いなく葉山はポンコツです。教師という身分でありながら、必要以上に女生徒を気にかけてしまう時点でポンコツでしょう。ましてや私物を貸したり、二人きりで散歩をしたりといった行動を泉が在学中にもしていたようですから、かなり倫理観というか、危機意識に欠けているのは間違いないです。

 

さらに、「想いを抑えきれない」のも泉のようでいて、実際のところは葉山です。

後輩の演劇を手伝ってくれ、と電話をしてきたのも葉山ですし、以降も要所要所で葉山の側から重要なアプローチを仕掛けてきています。小野君との関係が破たんするに至ったきっかけも、葉山からの電話なのは間違いありません。

まだ二十歳そこそこの泉が盲目的に恋に走ってしまうのは仕方がない事だと思えるのですが、三十歳を過ぎ、さらには結婚歴(←実際には歴ではなく現在進行形)もある男が衝動的な行動をとってしまうのはかなり人間性に欠陥を抱えているとしか言いようがありません。

 

一方で泉もまた、だいぶ欠陥を抱えた人間です。

彼女は「異性に勘違いさせてしまう」性質をナチュラルに備えたヤバい子。小野君なんて、気の毒でしかありません。多分、小野君の立場になったら男はみんな泉に恋をしてしまうし、「イケるかも」と思ってしまうのも大いに納得です。

さらに葉山と別れを告げた側から小野君に誘われるまま旅行に出かけたり、葉山に対するような情熱的な想いではないと自覚しながらも小野君と付き合うあたり、かなり自己中心的なようにも感じられます。まぁもちろん、誰しも似たような経験はあったりするんですが。

 

葉山を忘れさせてくれる優しいナイト役だったはずの小野君は、若気の至りで失恋直後の女性になんて手を出してしまったがために、地獄の苦しみに味わう羽目になります。いわゆる“嫉妬狂い”ですね。

泉は本当はまだ葉山が好きなんじゃないか、という疑心暗鬼から半永久的に解放されない、という地獄です。

地獄から逃れようと盗み見た泉の携帯や手帳には、逆に葉山への想いが残っていてさらに苦しむ事になります。自分が愛した相手のはずの泉にまで、苦しみのあまり逆上するような狂いよう。

 

あ~、あるある笑

 

旦那や彼氏の鞄や財布や携帯を覗いても、 そこに君らの幸せは絶対にないよ。

 

と言ったのは確か島田紳助だったか。

 

小野君は世の男性陣にとってありがちな最悪のパターンにすっかり嵌まってくれます。

というより、泉と小野君のような関係が現実にどれだけ繰り返されてきた事か。

 

なので小野君に関してはネットで「クズ」的な扱いが目立つのですが、個人的には非常によく共感できたりします。

 

そうして最終的に泉は再び小野君に別れを告げ、憔悴している葉山の下へ駆けつける事を選ぶわけです。

 

この登場人物たちのポンコツさがあまりにも現実味を帯びていて、まーとにかくグイグイ刺さるんですよね。

全くもって綺麗な恋愛ではない、という点が特に刺さった原因かと。

 

ラストは個人的には残念

えーと、あとは自論になってしまいますが。。。

僕は自身の経験的に、「何もなかった(=プラトニックのまま)相手の方が気持ちを引きずる」と思っています。

 

一度付き合ったり、それなりに関係を築いた相手に関しては、破たんした後はそう振り返る事もないんですよね。再び同じ相手とヨリを戻したいな、とはあまり思わない。お互い離れている間に変わる部分もあるでしょうけれど、芯の部分で別人になるわけではないですし。不満があっていったん中断したセーブデータから再びやり直すっていうのはちょっと現実的じゃないですよね。

 

なので、かえって「何も始まっていない」相手との方が、想いを馳せやすいのです。

中学生時代に好きだった人、とかね。

 

綺麗なままの思い出として残っているからこそ、大事だったりするんだろうなぁ、と。

 

そういう意味で本書、最終的に葉山が理性を保ちきれなかったあたりが残念です。

気持ちはわかりますけどね。「据え膳食わぬは男の恥」みたいな言葉もありますし。

 

でもそこで事に及んでしまったら終わりなんだよなぁ、と苦々しく思わざるを得ません。

最後に、泉が共通の知人から葉山が自分とのツーショット写真を大事に持っていた事を知らされて感涙するシーンがありますが、あれもね……プラトニックなままの関係を貫いておけば綺麗だったんだろうでしょうけど。

 

下世話に言い換えてしまうと「一発やった教え子(不倫)の写真を肌身離さず後生大事に持っている教師」って鳥肌半端ない。これはヤバい

 

プラトニックで良かったんですよねぇ。相思相愛をお互い感じながらも、ギリギリの線一歩手枚で踏みとどまれば美しく追われたと思うんですが。

 

ちなみに映画版もいまいち評判は良くなかったみたいですね。

 

 

まだ観ていませんが、二時間ドラマに仕立ててしまうとおそらく「教え子に手を出すゲス不倫イケメン教師」のポンコツ具合や「その気もないのに男に身を任せる泉の軽さ」がより際立ってしまうのではないでしょうか。

 

誤解のないように書いておくと、その辺りのポンコツさってすごくリアリティーに溢れていて、だからこそ物凄く胸に刺さる文学作品になっているんですが。

ただエンターテインメント作品として一般向けに提供するには、逆にマイナス要素になってしまいますよね。

映画版だけでも、プラトニック路線で脚本を書き直したら『君の膵臓をたべたい』ぐらにの評価にはなっていたんじゃないかと思うんですが。

 

……で、なんとも批判とも賞賛ともつかない駄文になってしまいましたが。

結論としては滅茶苦茶胸に刺さって共感しまくりの面白い作品でした。

『ファーストラブ』の時のわかり合えない感は払しょくされたように感じます。

早くも他の作品を読みたい気持ちでいっぱいです。

『Red』が話題作のようですが、とりあえず目についたところから読んでいこうと思います。

 

 

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#ナラタージュ #島本理生 読了以前 #ファーストラヴ を読んで「さっぱりわかり合えない」と苦手意識のあった島本理生さん。そのせいもあってあまり期待せず読み始めたのですが……めっちゃイイじゃないですか。よくある綺麗な恋愛小説とは違い、リアリティに溢れていてグイグイ胸に刺さりまくりました。登場人物たちは理性や常識に欠けているところが目立つのですが、そのポンコツさがむしろ現実的でした。個人的なMVPは小野君。失恋直後の女の子に手を出したばかりに嫉妬狂いという地獄に嵌まり込んでいく様は感情移入なしでは読めませんでした。泉の気持ちもわかる。ただ葉山先生は……ちょっと理性失い過ぎかな笑 多分この人先生向いてないし、続けてたらいつか事故(事件?)を起こすタイプ。惜しむらくはプラトニックを貫いておけば綺麗な思い出になったのに、と思えてしまう点。そこは理性を失っちゃ駄目だったんだよなぁ。そういう関係になった教え子の写真を別れてからも肌見放さず持ち歩くとか……冷静に考えてみるとちょっとヤバ過ぎて笑えないし泣けない。しつこいけれどプラトニックなまま終わっておけば綺麗な思い出にできたのにね、残念。#本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。

『疾風ガール』誉田哲也

「分かんないかな……力だよ、力。そうやってあんたは、あんたの才能は、周りを潰してるんだって話だよ。殺してるんだって話よ。分かるんだからあたしには。あんたにいっぺん殺されてっから」

しばらく本格推理小説ものが続いていましたが、ちょっと趣向を変えまして、今回読んだのは誉田哲也『疾風ガール』です。

誉田哲也作品としては2018年7月の『ヒトリシズカ』以来です。


ヒトリシズカ』が正直微妙だったので、本作『疾風ガール』は同時期に購入しつつも、すっかり積読化していてようやく今になって着手する事になりました。

 

ヒトリシズカ』の記事にも書きましたが、僕にとって誉田哲也といえばなによりも〈武士道〉シリーズ。

 

初代『ふたりはプリキュア』の生き写しとも思える香織と早苗という相反する性格の女の子二人を主人公にした青春活劇は、シリーズを一気読みする程楽しく読んでしまいました。

 

そこから期待して手にしてみた『ヒトリシズカ』だったのですが、残念ながら期待外れ……。

やはり誉田哲也は十代の女の子を主人公にした青春モノの方が面白いのではないかと思い、チョイスしたのが本作『疾風ガール』なのです。

 

芸能事務所の下っ端とバンドガール

本作の主人公は、元バンドマンで現在は芸能事務所で働く祐司と、そんな祐司に見初められたバンドガール柏木夏美。

誉田作品の特徴と言っても良いのかもしれませんが、そんな二人の視点が交互に入れ替わり、それぞれが一人称の語り手となりながら物語は進んで行きます。

 

祐司は過去に担当した女の子の売り出しに失敗し、彼女の華々しい十代の数年間を無駄に終わらせてしまったという負い目を背負っています。

そんな彼が見初めたのが、バンド「ペルソナ・パラノイア」のギタリストとして活躍する柏木夏美。

祐司の勤める芸能事務所は主にロリ顔で巨乳という女性を主に扱っているのですが、事務所や上司の意向に反しても、祐司は夏美を芸能界に引き入れようと熱心に勧誘します。

しかしながら夏美は「ペルソナ・パラノイア」のヴォーカルである城戸薫に対する憧れが強く、祐司の勧誘に耳を貸そうとはしません。

 

当初は自由奔放で活発な夏美に振り回される祐司といったコミカルな描写が続きますが、物語が大きく転換するのは中盤以降。

ヴォーカル薫が、謎の自殺を遂げてしまうのです。

それをきっかけに、彼の名が本名ではないと判明します。

 

薫は一体誰なのか。彼の死は本当に自殺なのか。どうして自殺したのか。

 

夏美は祐司とともに、手がかりを探る旅へと出発します。

 

光と影の関係を光から描いた作品

ミステリではないのでネタバレ承知で書いてしまいますが、本書を簡単にまとめえると光と影の関係を光から描いた作品と言えるかと思います。

 

どこの世界にもありますが、強烈な光を放つ人物が加わる事で全体が明るくなったように感じる事があります。

その実、まぶしく見えるのは照らしている本人から見ているからであって、照らされている人々の背中にはどんどんどす黒い闇が深まっている、という構図。

 

本人にその気はないのに、その人が実力や才能を発揮する事によって、知らず知らずの内に周囲は打ちのめされ、傷ついて疲弊していく。

 

本書の主人公の一人である柏木夏美はそんな強烈な光を持つ人物。

哀しいかな、夏美の光は彼女自身の憧れである薫をどんどん闇堕ちさせてしまっていました。

薫は素晴らしい、薫は眩しい、と夏美が彼を照らせば照らす程、薫はどんどん闇を深めてしまっていました。

 

物語全体のちぐはぐさ

題材としては面白いと思うんですけどねー。

全体としてはちょっとちぐはぐさを感じてしまいました。

 

1つ目の要因としては、題材に対して夏美というキャラクター設定を誤ったかな、と。

 

明るく奔放で才能に溢れたキャラクターという意味では、まさしくアニメの主人公のようで愛嬌のある人物ではあるのですが、そのコミカルさ故に作品で描きたかった“闇”がいまいち稀薄だったように感じられます。

夏美は〈武士道〉シリーズでいう香織、柔と剛でいえば剛、動と静でいえば動、といった活発なキャラなのですが、むしろ逆の人物設定の方が良かったんじゃないかな、と。

〈武士道〉シリーズの早苗のように、穏やかで物静か、なのに才能には溢れていて……といったキャラクターの方が、無自覚に周囲を打ちのめしていく主人公としては相応しかったように思います。

 

もう1点は、光側から書いてしまったのがやはり失敗だったかな、と。闇側から書いた方が共感も呼びやすかったし、物語としても膨らんだんじゃないかな、と思います。

強烈な個性と才能に溢れているにも関わらず、自分を同等以上の存在として過大評価する太陽のような女の子に無自覚に追い詰められていく男の苦しみ、葛藤なんかを朝井リョウあたりが書いたら全然違う作品になるのだろうな、と思ってしまいました。

 

ヴォーカルの薫、なんか可哀想なんですよね。

遺書が残っていない以上死んだ理由は周囲が推察するものでしかありませんし、そこに至るまでの彼の孤独や苦しみはいまいち伝わって来ないまま、太陽に照らされて闇堕ちしたイケメンというアイコンで終わってしまっています。

繰り返しになってしまいますが、物語の素材としては薫の方が圧倒的に可能性を持っていたはずなので、惜しい事したな、と。

 

駄目押しで付け加えるとすれば、柏木夏美のようなキャラクターはやっぱり高校生ぐらいまでかなぁ。

〈武士道〉シリーズでは素直に読めたキャラクター設定も、いい加減二十歳近い年齢になるとイタく感じちゃいます。

まだyoutubeも確立しておらず、バンドマンがスターダムに上り詰めるには芸能事務所のスカウト必須、みたいな古い時代なので仕方ないかもしれませんが。

才能に溢れたバンド少女という柏木夏美のイメージが、令和を迎えた現代においてはちょっと古すぎるような気がします。2000年代初頭にはこういう感じの子、いたかもしれませんが……。

一応〈柏木夏美〉シリーズとして続編も刊行されているようですが、今のところちょっと食指は伸びません。

 

https://www.instagram.com/p/B90RfCtlIm4/

#疾風ガール #誉田哲也 読了#武士道シリーズ がとにかく大好きな誉田哲也作品。本書は元バンドマンで芸能事務所で働く祐司と天才的な才能を持つバンドガール夏美の二人が主人公の作品。誉田哲也はやっぱり少女を主人公にした青春ものが良いのかと思い手にしたのですが。。。 ちょっと夏美のキャラクター設定、古過ぎませんかね?天真爛漫で言動は粗雑だけど見目麗しく音楽センスは最高……ってどこの昭和漫画かと(武士道シリーズでは主人公たちが十代半ばという事で目を瞑れてた部分も、主人公が二十歳前後になってくるとちょっと違和感が出てきますね。また、本書は光と影を光の側から描いた構図になってるんですが、どちらかというと影の方から描いた方が面白かったんじゃないかな、と。強烈過ぎる光が無自覚に相手に影を作り、落ち詰めていくのだとしたら、やっぱり追い詰められる側の方が物語として語るものは多そうな気がします。大筋としては面白い作品なんですけど、ちょっと色々勿体ない作品でした。 ※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。..#本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい

『七回死んだ男』西澤保彦

おわかりだろうか。つまり同じ日が何度も繰り返されるのである。しかしそれを認識しているのはどうやら僕独りで周囲の誰もそのことに気がついていない。

西澤保彦『七回死んだ男』を読みました。

彼の作品はだいぶ前に『人格転移の殺人』を読んで以来なのですが、そちらはクローズ・ド・サークルの中で、登場人物たちの身体と人格が一定期間ごとに入れ替わる中、次々と殺人が起こるというかなりぶっ飛んだ作品で、最初から最後まで面白く読んだのを覚えています。

 

西澤保彦について記事にするのは初めてなので、作者について改めて説明しておきます。

 

西澤保彦芦辺拓二階堂黎人らと賞レースを争っていた世代となります。

ただし彼の場合、メフィスト賞鮎川哲也賞を受賞して作家デビューを果たしたわけではなく、賞レースで最終選考に残る等の実績から作家や編集者に引き上げられた形となります。

 

その作家というのが島田荘司であり、編集者というのが宇山日出臣

 

いずれも綾辻行人法月綸太郎我孫子武丸歌野晶午らをデビューさせ、「新本格」ムーブメントの仕掛け人となった人物でもあります。

ちなみに宇山日出臣はその後メフィスト賞を創設し、京極夏彦森博嗣舞城王太郎西尾維新らの発掘にも関わる等、日本の推理小説界を陰から支えた立役者ですので、興味がある方は色々と彼の功績を調べてみるのも良いでしょう。

 

つまるところ、西澤保彦という人物は綾辻行人法月綸太郎我孫子武丸歌野晶午らに続く系譜の作家である、という事がおわかりいただけたかと思います。

 

ただし、本人自らもあとがきで

むしろ西澤保彦は、デビュー四年目にして早くも使い古されつつある“新勢力”の一員だという認識の方が強いようで、“イロモノ”とは、そういう意味です。

と記す程、推理小説作家の中では異端の部類に入れられてしまう作家だったりします。

 

西澤保彦“SF新本格推理”なる作風を得意とする作家なのです。

そしてその代表作と呼ばれるのが本作『七回死んだ男』なのです。

 

“反復落とし穴”というタイム・パラドックス

主人公久太郎(以下・キュータロー)は自らが“反復落とし穴”と呼ぶ不思議な体質の持ち主。

“反復落とし穴”はある日突然始まり、全く同じ一日が9回繰り返されるという謎の現象。

基本的に他の人物たちは同じ言動を繰り返すものの、唯一繰り返しの記憶を持つキュータローだけは意図して別の行動を選択する事ができる(一周目に踏んだ犬のフンを二周目以降は踏まないように避ける等)。それにより、他の人物たちの言動には大小の影響を与えたりする。ただし、大筋としてのオリジナル周の内容が変わる事はほとんどない。

 

そんなキュータローは外食チェーンを経営する祖父を持ち、祖父にはキュータローの母を入れて全部で三人の娘がいます。毎年正月には親族一同が会し、祖父が遺言状をしたためるのが恒例行事となっていました。

祖父の財産を巡りそれぞれの陰謀や思惑が渦巻く中、1月2日に“反復落とし穴”に嵌まってしまうキュータロー。一周目であるオリジナル周には何事もなく帰宅したはずが、二周目では祖父が殺されるという事件が発生してしまいます。

 

祖父を殺した犯人は誰なのか。

 

三周目では疑わしい人物を祖父から遠ざけ、殺人事件が起こらないように画策するキュータローですが、なぜか同じように祖父は殺されてしまいます。

四周目には、二周目・三周目でそれぞれ犯人と思わしき人物を隔離しますが、それでも祖父は殺されてしまう。

 

オリジナル周では殺人事件など無かったにも関わらず、二周目以降は何度やり直しても殺されてしまう祖父。これこそが『七回死んだ男』たる由縁。

一体どうして殺されてしまうのか。どうしたら祖父の殺害は防げるのか。

 

まさに“SF推理小説”の金字塔とも呼べる作品なのです。

 

ゲームブック

ただねぇ……七回は多い(笑

 

キュータローが一周ごとに考察を重ね、反省と改善を繰り返す事でそれぞれの登場人物の隠されていた関係性や思考等が明らかになっていくのが本書の醍醐味だとは思うのですが、基本的には都度やり直しになってしまうというのがなかなか歯がゆいところ。

一周ごとに変わったところもあれば、変わらないところもあるわけで。

キュータローの行動が何に影響を及ぼし、逆に一切関わりのない事柄はなんなのか、といった点にも注意しながら読み進めるわけですが、流石に何度も何度も繰り返されると読んでいる方も疲れてきますね。

 

連想したのは昔流行ったゲームブック

前回『殺戮にいたる病』でご紹介した『かまいたちの夜』の小説版のようなもので、選択肢を選ぶ度に違うページに進み、誤った選択をするとすぐゲームオーバーになってしまう、というもの。

まさしくこれに近い感覚がありました。

 

いやいや、それじゃ殺されるのはわかったわー。

はよ正解教えてよー、的な。

 

 

どうすれば殺人を防げるのか

本書においては一周ごとに犯人(と思われる人物)は異なるため、一般的な推理小説のような犯人当てゲームではありません。

 

最大の謎(答え)は「どうすれば殺人を防げるのか」という一点に尽きます。

7回死ぬのはタイトルからわかりきった話です。

 

ところがどっこい(←古)、要所要所にちょっと気になるような違和感があったりするんですよねぇ。妙な感じがするんだけどもしかしたらこれってなんか企んでない?みたいな。

この辺り、西澤保彦の代表作として、さらには新本格推理小説の中でも読むべき本の一冊に挙げられるだけの事はあるなぁ、と唸ってしまいます。

 

SFだったりコミカルだったり色々と複合的な要因は多いんですが、読み終えてみればやっぱりこれは『本格ミステリなんですよね。

しかもフェア&フェア&フェアで、伏線と手がかりがしっかりと提示された王道の推理小説だったりします。

普段はできるだけ無防備に読んで「騙されたー」と楽しむ僕ですが、本書に関しては6割方作者の狙いに気づいたり。。。むしろわかり易過ぎるぐらいのトリックかもしれません。

 

“SF本格推理”などと聞くと食わず嫌いを発症してしまう方もいるかもしれませんが、中身は間違いなく“本格推理”ですのでぜひぜひ手に取ってもらいたいです。

なお、冒頭にご紹介した『人格転移の殺人』もオススメですよ。

 

https://www.instagram.com/p/B9seqtRlajI/

#西澤保彦 #七回死んだ男 読了意図せず同じ一日を8回繰り返す体質を持ったキュータローは、親族が集まった正月のその日に「反復落とし穴」を発症してしまいます。ところがやり直した2周目からは、最初のオリジナル周にはなかった祖父の殺害事件が。疑わしき人物を祖父の側から引き離し、殺人事件を回避しようとするキュータローですが、すると別の人物の手によって祖父は殺されてしまいます。一体どうすれば祖父の殺害は防げるのか。最後にはやっぱり祖父は殺される(←7回は間違いなく死ぬ)とわかって繰り返される周回を読むのは食傷気味にならざるを得ませんが、なかなか面白い展開が控えていて楽しめました。いつもは素直に読んで「騙されたー」を楽しむ僕ですが、本書は6割方トリックを看破できました。 "SF新本格"などと言われると食わず嫌いを発症する方もいるかと思いますが、意外とフェア精神に則った本格推理ものですのでぜひ一度お試し下さい。 ※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。..#本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい

『殺戮にいたる病』我孫子武丸

稔が試験のために大学へ出かけたのが昼食を終えてからだったので、雅子は二時頃になって息子の部屋へ入った。

我孫子武丸『殺戮にいたる病』を読みました。

我孫子武丸といえば綾辻行人歌野晶午法月綸太郎に続く「講談社新本格ミステリブーム」の四男坊。

 

最近は歌野晶午の作品ばかり読んでいましたが、我孫子武丸作品は本当に久しぶりですね。

 

ちなみに僕、名だたる新本格ミステリ作家の中でも、我孫子武丸は昔から好きでした

『0の殺人』、『8の殺人』こそ横並びの本格推理小説感がありましたが、『人形はこたつで推理する』からはがらりとテイストが変わり、腹話術師・朝永嘉夫と彼が操る人形・鞠小路鞠夫という異色のコンビを主人公に添えたほんわかムードの読みやすい作風へと変わりました。

当時は赤川次郎三毛猫ホームズシリーズに代表される異色コンビ・読みやすい作風がメインストリームだった時代でもあり、他の三人よりも先んじて〈新本格〉の枠(呪縛?)から飛び出していったイメージがあります。

 

彼の名前を世の中に知らしめたのは1994年、前作『弟切草』を超える第ヒット作となったサウンドノベルかまいたちの夜』。

斬新なゲームシステムに加え、幾通りにも分岐するマルチエンディングの物語は世の若者を夢中にさせたものです。特にお泊り会には『かまいたちの夜』をプレイしながらワーキャーするのが定番となりました。

 

 

そのシナリオライターこそ、我孫子武丸

さらに当時の人気クイズ番組『マジカル頭脳パワー』にもブレーンとして参加。

誰よりも先にメディアミックスや異業種への参戦を果たし、頭角を現したのが我孫子武丸だったのです。

 

ところが

 

小説になると話は別。

我孫子武丸って、自身の小説では話題作と呼べるようなものを生み出せていないんですよねぇ。

 

作数こそ少なくはないものの、賞レース界隈で言うと2006年『弥勒の掌』がこのミステリーがすごい!19位、本格ミステリー・ベスト10の3位というのが最高記録といった感じ。。。

 

未だに『かまいたちの夜』が代表作のように語られてしまうのがその表れとも言えますが。

正直、僕も初期作品しか読んでいないので、上記〈鞠夫〉シリーズが印象に残っているばかりでした。

 

そんな中で気になっていたのが本作『殺戮にいたる病』。

講談社の刊行順で言うと6冊目なんですよね。でもって、未だ作品の評価も高い。

 

しかしながら、僕には読んだ記憶がない。

当時は新作が出ればとにかく買うぐらい推理小説に熱中していた時期なので未読のはずはない。

印象に残らない本だったのか、それとも本当に未読だったのか。

それを確かめようというのが、今回の読書の理由です。

 

 

フーダニットの放棄

本書を開くと、最初に飛び込んでくるのが「エピローグ」の文字。

僕も含め、大半の読者は何かの間違いかと目次を見直す事でしょう。

しかし、間違いではありません。

本書は犯人である蒲生稔が逮捕されるという、エピローグから物語が始まるのです。

 

これ、ヤバくないですか?

 

1992年の作品ですよ。

推理小説における一番の花形である「犯人当て」を初っ端から放棄してしまうんですから、かなり大胆な作品です。

改めて、我孫子武丸半端ねー。

 

 

混乱とグロ不可避の3視点

そして物語は、三者の視点から語られ始めます。

1人目は蒲生雅子。彼女は自分の息子が犯罪者なのではないかと疑い始めます。

2人目は蒲生稔。彼の視点では初めての人を殺すところから始まります。

3人目は元警部の樋口。彼は自身と関わりの深い女性が殺された事を知り、やがて犯人探しに乗り出す事になります。

 

この三人の視点が交互に入り乱れつつ、厄介な事に時系列も入り乱れながら、物語は進んで行きます。

特に要注意なのが稔のターン。稔の視点ではターゲットとなる女性を見つけ、殺人を犯す様子がこれでもかと事細かく語られます。

これがヤバい。

 

グロ注意ってヤツですね。

 

グロさの度合いで言えば、綾辻行人の『殺人鬼』よりも上かもしれません。『殺人鬼』の場合には人ではない怪物が犯した残虐さですのでまだ救いがありますが、本作『殺戮にいたる病』では世間では一般人として分類されるシリアルキラー・蒲生稔が残虐を尽くします。

苦手な人は読めないレベルのグロさ。

犠牲者は皆女性ですので、特に女性の方は要注意かもしれません。

 

 

フーダニットを放棄して目指したもの

さて、細かい作品内容はこのぐらいにして、本作の目指したところについてまとめていきたいと思います。

本書は冒頭で犯人の名前が明らかになってしまいますので、フーダニット(=誰が殺したか)という謎は解明された状態から作品が始まります。

 

そこから僕ら読者が取り掛からなければならないのは、「作者は何を目指そうとしているのか」という謎。

 

一番安易なのはホワイダニット(=動機)を一番の謎に持ってくるパターンです。

西村京太郎や松本清張から始まり、未だに二時間ドラマの主役たる位置をキープし続ける社会派推理小説はこのパターンでしょう。

 

蒲生稔は、なぜ殺人を犯すのか。

 

ただし、動機の点については作中で稔自身が語ってくれます。稔のターンはどうしてその女を選んだのか、次の被害者を欲するようになるのはどうしてか、をかなり丁寧に書き連ねていますから、読んでいる中で動機については納得させられてしまいます。

 

犯人は冒頭に明かされ、作中で動機についても理解が得られる。

 

……となると、やはり作者は何が狙いなのか、という点が一番の焦点となります。

このまま終わってしまえば、やたらとグロい描写が続くだけのサスペンス小説になってしまいます。実際に後半、ヒロインが追い詰められていく様はハラハラさせられっぱなしです。

もちろんこのままでも作品としては成立しますが、〈新本格〉ブームの渦中に書かれた本だけに、さらなるもう一押しを期待せざるを得ません。

 

何か、に期待しながら読み進めれば……最後には期待通りのカタルシスと、度を超えたグロ描写が味わえるはずです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……と、ここまで書いてわかりました。

僕は『殺戮にいたる病』、未読でした。

 

おそらく上記の通り、「犯人当てでもない、探偵も出てこない、密室もないサスペンス小説なんて読まなくてもいいや」とする―し

 

普通に名作

例によってネタバレが嫌いなのでトリックや謎には触れません。

ただ読み終えて本当にびっくりしました。

普通に名作ですよ?

 

 最近の作品のように、アンフェア開き直り強引感がないのが何よりも素晴らしいです。

本作に限ってはフェア中のフェア。限りなく白に近い白。

読み終えて解決サイト読んでも、「なんだそりゃ?」ではなく「ほぇ~なるほど」と納得させられてしまいます。この辺りの作り込みって、本当にすごい。感心させられるばかりです。

 

最近は俄かに推理小説ブームが再燃しつつあるように感じています。

実際に20年以上前の〈新本格〉系の作品を初めて読んだ、という方も少なくないようです。

 

ヴァン・ダインです」に引っくり返る人が未だに毎日増え続けているというのも、嬉しい限りですし、『葉桜』や『密室殺人ゲーム』もまだまだ現役で世の読書人の頭を幻惑しつつあるようです。

 

そんな中、我孫子武丸でオススメするとすればやっぱり本作『殺戮にいたる病』かなぁ、と思います。むしろ『葉桜の季節に君を想うということ』や『イニシエーション・ラブ』、『十角館の殺人』、『迷路館の殺人』を読んで「他にもないの?」とおかわりしたい人には、ぜひぜひオススメしたい。

 

 

ただし、グロ注意(笑)です。

 

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#殺戮にいたる病 #我孫子武丸 読了久々に触れた講談社新本格推理小説の四男坊こと我孫子武丸の作品。1992年の作品にも関わらず冒頭で犯人を明かしてしまう大胆な作品。犯人自身が視点になるので動機についても明らかになってしまう。フーダニット=犯人当てホワイダニット=動機当てどちらも放棄され、もしかしたらグロいだけのサスペンス小説かと思えば最後に待っている期待を裏切らない仕掛けいやーこれが新本格ミステリ全盛期に書かれたのは本当にスゴい。っていうかどうしてあまり話題にならないのか不思議なくらい。未読の方はぜひ一度騙されたと思って、騙されるもんかと身構えて読んで下さい。ただめちゃくちゃグロ描写があるので苦手な方は要注意です。特に女性はご注意を。 ※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。