おすすめ読書・書評・感想・ブックレビューブログ

年間100冊前後の読書を楽しんでいます。推理小説・恋愛小説・歴史小説・ビジネス書・ラノベなんでもあり。

『とらドラ!』竹宮ゆゆこ

「俺は、竜だ。おまえは、虎だ。
――虎と並び立つものは、昔から竜と決まってる。
だから俺は、竜になる。
お前の傍らに居続ける」

竹宮ゆゆことらドラ!』を読みました。

そろそろkindle Unlimitedの解約を考えていまして……というのも、ちょっとめぼしい本は読みつくしてしまった感があるのです。

 

もちろん角田光代をはじめ、僕が好きな作家さんでまだまだ未読の作品も残ってはいるのですが、同じ作者の作品ばかり読み続けるのもなんだかなぁ、と思いまして。

なんかないかなー、面白そうなのないかなー、とひたすら検索していたところ、行きついたのがこちらの作品。

 

あまりライトノベルが得意ではない僕でも、『とらドラ!』が名前は聞き覚えがありました。

引き続き異世界転生やら悪役令嬢やらといった作品が続くライトノベル業界において、恋愛モノの作品として根強い人気を誇る作品なのでしょう。

とはいえ、よくよく調べてみれば初出が2006年3月……だいぶ古いですね。

 

まぁいずれにせよ物は試し。

読んでみることにしましょう。

 

最恐ヤンキー×手乗りタイガー

主人公の高須竜児は父親譲りの鋭い目つきのせいで、最恐ヤンキーとして周囲から恐れられています。

一方、逢坂大河は誰かれ構わず噛み付く性質から、手乗りタイガーとして同じく畏怖されています。

 

誰もいない放課後の教室で、竜児は大河にばったり遭遇してしまいます。

なんと大河は、竜児の親友である北村祐作と間違えて、竜児の鞄にラブレターを入れていたのです。

その夜、過ちに気づいた大河は竜児の家にバッド片手に忍び込み、竜児ものともラブレターを亡き者にしようと企てるのです。

 

……とまぁ、序盤のあらすじはそんなところ。

 

周囲からは恐怖の対象としておそれられる竜児が、実は母親想いで料理も得意な優しい男であり、手乗りタイガーこと大河もまた、不器用でドジなだけの女の子だったり……そんな二人が互いの恋を実らせようと共闘していくうち、お互いが特別な存在になっていたということに気づくというラブコメテンプレ的な作品です。

 

 

ラノベでした

大人になってしまった僕からすると、特に深い感想もなく……「最初から最後まで想像した通りのラノベでした」という陳腐な言葉しか出てきません。

序盤のほんの数ページを読んだだけで、最終的にどうなるか想像ついちゃいますし。

 

古き良きラノベですよね。

 

既存のアニメや漫画をノベライズしたかのような、破天荒で突拍子もない展開が続くライトノベル

それでも物語の筋はちゃんと通ってるし、アニメや漫画を読むようにサクサク読み進めることができるでしょう。

 

まぁでも、本書を読んでやっぱりKindle Unlimitedを解約する決意は固まったかな。

僕は本の虫なので、常に読みかけの本が側になければ気が済まないタイプなのですが、それにしても、読む本はなんでもいいというわけではありません。

 

そこにはやはり、今まで読んだことのないような興奮や、味わった事のない読後感を追い求めたいのであって……必死に探して検索して、妥協の上で本作のような自分にとってあまりモチベーションの上がらない本に手を出してしまうのは、自分にとっても、作品に対しても失礼だな、と改めて思いました。

 

そんなわけで短いですが、今回の記事はおしまいです。

読みたい本を、読みましょう。

 

 

 
 
 
 
 
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『ひそやかな花園』角田光代

「ねえ樹里、はじめたら、もうずっと終わらないの。そうしてもうあなたははじめたんでしょ。決めたときにはもう、はじまってる。悩んでる場合じゃないわよ」

 

角田光代『ひそやかな花園』を読みました。

角田光代といえば、当ブログにおいても既に5冊をご紹介しているという、僕にとっては大好きな作家の一人。

 

linus.hatenablog.jp

特に『八日目の蝉』を読み、映画版を観た際の衝撃というのは未だ冷めやらぬ興奮として残っており、さらにここ最近では『愛がなんだ』の原作小説と映画が良すぎて、主演女優である岸井ゆきのにもハマってしまい……などという角田作品とのエピソードについては過去記事にもさんざん書いてきましたので、割愛させていただきます。

 

さて、本作。

何をさておき、まずは公式のあらすじを引用させていただきます。

 

幼い頃、毎年サマーキャンプで一緒に過ごしていた7人。
輝く夏の思い出は誰にとっても大切な記憶だった。
しかし、いつしか彼らは疑問を抱くようになる。
「あの集まりはいったい何だったのか?」
別々の人生を歩んでいた彼らに、突如突きつけられた衝撃の事実。
大人たちの〈秘密〉を知った彼らは、自分という森を彷徨い始める――。

 

ヤバくないですか?

『八日目の蝉』における宗教団体でのエピソードや、スティーブン・キング的な暗さを彷彿とさせ、これだけ読んでも絶対面白いって確信しちゃいますよね?

ましてや作者はあの角田光代

 

今まで気づかなかったのがもったいないぐらい、興味をそそられます。

 

早速、内容についてご紹介していきましょう。

 

 

7人の少年少女たちの断片的な記憶

冒頭から、子どもたちのおぼろげな、しかしキラキラとしたキャンプの記憶が断片的に語られます。

彼らはそこで初めて会った子どもたちと、川で泳いだり、バーベキューをしたり、出しものをしたりと、楽しいひと時を過ごしたのです。

一年に一度だけ、夏休みに突然訪れるその非日常的なイベントは、子どもたちにとって特別な体験でした。

 

しかしある日突然、キャンプはなくなってしまいます。

夏休みに入り、その日がくるのを今か今かと待ち続けていたにも関わらず、とうとうキャンプは実施されないまま、夏休みは終わってしまうのでした。

 

そのまま二度とキャンプは実施されず、彼らは大人になってしまいます。

 

そして描かれる、大人になった彼らの姿――。

 

いじめられっ子として卑屈な人生を送る者。

親を失くし、一人ぼっちを紛らわせるためにと次々と家出少女を泊める者。

ミュージシャンとして名を馳せるものの失明の可能性を伴う難病に苦しむ者。

突如豹変する夫との関係に悩む者。

不妊に悩む者。

 

ひゅんなことから彼らは互いの存在を知り、一人、また一人と再び繋がりを取り戻していきます。

そしてあのキャンプに隠されていた衝撃の事実へとたどり着くのです。

 

 

物足りない

……で、キモとなるのはやはり「衝撃の事実」の部分ですよね。

これがまぁ正直、物足りないという感想になるわけです。

 

『八日目の蝉』の影響もありますが、一番想像しやすいのは「宗教の集まりだった」という結論。

親たちは信者同士で、しかもオウム真理教をオマージュしていたりなんかしたら展開としては滅茶苦茶盛り上がっちゃいますよね。

遺された子どもたちは、あの事件で逮捕された幹部たちの子どもだった……しかし当人たちはそのことを知らない、とか。

 

子どもたち目線で語られる序盤からは親たちの考えや関係性が全く掴めないせいで、読者側の妄想がどんどん膨らませられてしまいます。

その意味では角田光代、やっぱり滅茶苦茶腕のいい作家さん。

 

ただ繰り返しになりますが、残念なのは着地。

衝撃の事実って、そっち???と完全に肩透かしを食った気分になってしまいました。

 

自分のルーツを探るという観点で掘り下げると、なかなか面白い題材だとは思うんですが……父とは、親とは、といったテーマを描くとするならば是枝裕和監督の『そして父になる』の方がストレートに胸に響いたかな、と。

 

再会した七人が期待通り慣れ合わないどころか余所余所しかったり、一向に距離が縮まらないどころか広がる一方だったり、という人物模様も生々しくて面白いのですが……そのせいで、衝撃の事実を受け止めた後の展開が散逸的になってしまった印象を受けました。

七人それぞれが期待するところも、受け止め方も、その先に望むものも違い過ぎて、てんでバラバラに物語が進んでいった、という感覚。

子どもの頃のほんの短い時間を一緒に過ごしただけなんだから、他人で当たり前。足並みそろわなくて当たり前なのは生々しいんですけど、小説である以上、そこに七人が手を取り合えるような共通の目的を見出して欲しかったと思います。

 

あとは一応、補足として本作に関するインタビュー記事のリンクを載せておきます。

 

 

短いですが、本作に関してはこんなところで。

 

 

 
 
 
 
 
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『眠れるラプンツェル』山本文緒

私は夫を愛している。好きなことだけして生きていくために、結果的には嫌いなことも懸命にこなしているらしい、夫が。

山本文緒『眠れるラプンツェル』を読みました。

先月『あなたには帰る家がある』を読んだばかりですので、短いスパンで山本文緒作品が続く事になります。

 

Kindle Unlimitedに掲載されている作品の中だと、角田光代作品や山本文緒作品って妙に目につくんですよね。

どちらも実力派の作家さんだけに、読み放題に掲載されているというだけでつい読んでおかなくちゃという使命感のようなものに追われてしまいます。

 

さて、前置きはさておき、さっそく内容をご紹介していきたいと思います。

 

 

現代の有閑夫人

有閑マダム、なんて言葉であれば一度は耳にした事があるのではないでしょうか。

 

有閑夫人とは、昭和3年(1928)発表に発表された池谷信三郎の小説であり、そこから転じて「時間的にも経済的にも余裕があり、趣味や娯楽などで気ままに暮らす夫人」を指す言葉になりました。

太宰治の作品『斜陽』から斜陽族という言葉が生まれたように、昔は人気小説から流行語が生まれるケースも多かったんですね。

 

本書の主人公汐美は特に仕事にも就かず、子どももおらず、毎月夫から振り込まれる15万円の生活費で勝手気ままな生活を送る、まさしく有閑夫人と言えそうな女性です。

とはいえ似た境遇の奥様方と優雅にティータイム……というわけでもなく、汐美の場合には日がな一日ごろごろしたり、テレビゲームをしたり、パチンコをしたりと、どうしようもなく怠惰な日々を送っています。

 

そんな彼女がふらりと立ち寄ったゲームセンターで、隣の部屋に住む中学一年生の男の子を見かけます。補導されそうになった彼を助けてあげた縁から、彼は毎日汐美の部屋で学校や塾をサボるようになります。

映画『フック』の登場人物によく似ているという彼を、汐美はこっそりルフィオと呼んでいました。

 

彼の母親はエリート志向で、ルフィオの中学受験が済んだ後は妹を子役タレントとして売り込むのに必死です。ルフィオはそんな毎日に飽き飽きしていたのでした。

 

 

続いて汐美は、パチンコ屋でルフィオの父親と遭遇します。慣れない手つきでパチンコに興じるルフィオの父を手助けしたのをきっかけに、こちらもまた、汐美の部屋まで遊びに来るように。

チビでハゲでデブという外見から、映画『ツインズ』にちなんで汐美は彼をダニーと呼ぶようになります。

 

母親と妹は芸能活動に忙しく、ルフィオとダニーは自分の家ではなく汐美の部屋に入り浸るように。

汐美とルフィオ、ダニーによる不思議な疑似家族の生活が始まるのでした。

 

 

塔の上のラプンツェル』の原作

言わずもがなですが、タイトル通り本書は『ラプンツェル』をモチーフにしています。

ただし、ディズニー映画のきらきらしたプリンセスものではなく、ややブラックな原作版『ラプンツェル』を下敷きにしているのだと思います。

 

あまり『白雪姫』や『シンデレラ』に比べ、原作版の『ラプンツェル』については認知度が低いと思われますので、簡単にご説明しましょう。

ラプンツェルと言われる女の子が魔女の手により高い高い塔に閉じ込められるのはディズニー同様。そこへ訪ねて来た王子を、長い髪の毛を垂らして招き入れると、二人は関係を結んでしまいます。

毎夜二人は愛し合い、やがてラプンツェルは王子の子どもを身ごもる事に。それを知った魔女はラプンツェルの髪を切り、ラプンツェルは放逐されてしまうのです。

 

……という予備知識を前提に本書を振り返ってみると、汐美が住むのは塔ではなく、高層マンションの一室。

彼女を閉じ込めたのは魔女ではなく、夫です。

 

そこへ王子様役のルフィオが現れ、何かと汐美に対して声を掛けてくる。

そのうち汐美はルフィオに心惹かれるようになり、やがて二人は……というのが本書で描かれる物語の主軸となります。

 

上に描いた通り、原作においてラプンツェルは王子様と関係を結び、身ごもってしまうのですが――果たして汐美とルフィオの場合には、どのような運命をたどるのでしょうか。

その結末は、ぜひご自身の目で確かめていただきたいと思います。

 

 

『あなたには帰る家がある』との繋がり

小ネタですが、本書には『あなたには帰る家がある』とリンクする部分があります。

というのも、作品の舞台となっているマンションは、『あなたには帰る家がある』において主人公の佐藤真弓らが住んでいたのと同じマンションなのです。

 

実際に、マンションの会議への参加を促しに汐美が真弓を訪ねるシーンが、それぞれの作品で描かれています。

 

本書ではこちら。

 

明らかに迷惑そうな彼女に、私は自転車置き場を作る話し合いをしているのだと説明した。いるのに連れて来なかったなんてことが三十代主婦にばれたらまた厭味を言われる。私は佐藤さんに、ご近所との関係もあるからたまには顔を出したほうがいいですよなんてお節介なことまで口にしてしまった。

 

これを『あなたには帰る家がある』の真弓視点で描いたのがこちら。

 

「あの、差し出がましいですけど」

 真弓が何も答えずにいると、隣の奥さんはおずおずと言った。

「佐藤 さんはいつもお家にいらっしゃらないから、たまには顔を出しておいた方がいいと思いますよ」

 彼女の言葉に厭味はなかった。たぶん、他の住人達から文句が出ているのだろうと 真弓は思った。

ちなみに真弓が見たその時の汐美の印象は、以下の通り。

 

隣の奥さんは抑揚のない声で言った。彼女はたぶん真弓と同い年ぐらいだろうと思わ れる。けれど、潑剌としている真弓に比べてどこか疲れた感じがあった。

 

こういう全く関係のない二つの作品で物語や登場人物をリンクさせるのって、作者やコアなファン向けの遊びのような部分があり、賛否両論あったりするのですが……山本文緒の場合、元々の作品を壊さず、邪魔しないレベルで自然に描いてしまうのが好印象ですね。

これがいかにも「皆さんが大好きなあのキャラクターを特別出演させました!魅力もたっぷり描いてますよ!」とばかりに本筋となんら関係のない会話やシーンを挿入されると興ざめになってしまうんですけどね。

 

『眠れるラプンツェル』と『あなたには帰る場所がある』のリンクについては、気づく人が気づけばそれで良いし、知っても知らなくても作品にはなんら影響を及ぼさないレベルの些細な仕掛けですし。

まぁどうせどちらも読むのであれば、頭の片隅にでも入れておけばちょっとは楽しみも増えるかなぁ、なんて思いました。

 

本書をはじめ、『あなたには帰る家がある』や直木賞受賞作である『プラナリア』等など、山本文緒作品はじんわりと楽しめる良書揃いです。

読みたい本がない時、リラックスして肩ひじ張らない読書を楽しみたい時などに、気軽にお試しになってみてはいかがでしょう?

 

 

 
 
 
 
 
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『やがて海へと届く』彩瀬まる

「あなたたちは、忘れられることがいやじゃないの?」

「そりゃ、覚えてもらえたら嬉しいけど。でも、あんな死に方をしたかわいそうな子って意味でならいやだなあ」

「なにをとっといてもらうかです。よくある、忘れない、無念を忘れないみたいな、暗いことを広い集めるような思われ方より、どうせなら一緒にいて楽しかったとか、そういうのがいいよね」

彩瀬まる『やがて海へと届く』を読みました。

ここしばらくKindle Unlimitedの読み放題から選んだ本ばかり読んでましたので、一冊の本をお金を払って買う、というのはだいぶ久しぶりです。

2月に読んだ朝倉かすみ『平場の月』以来ですね。

 

ましてや彩瀬まると言うと、どことなく一般文芸よりもライト文芸寄りなイメージがあって、なかなか食指の伸びなかった作家さんです。

一体どうしてそんな本を、急に読もうと思ったかと言うと……

 


youtu.be

ここ最近当ブログを読んで下さっている方であればお気づきかもしれませんが、本書『やがて海へと届く』の劇場版作品が絶賛公開中であり、その主演を務めるのが、僕が最近夢中で追いかけている女優・岸井ゆきのなのです。

 

劇場版作品を観る際には先に原作小説を読まないと気が済まない、という面倒な性分が僕にはありまして、それで急ぎ読み始めたという次第です。

だって劇場版って、どうしても当たりハズレがありますし。

演者が合わないとか、演技が下手くそだとか、ハズレと見做される理由は多々挙げられるのですが、商業ベースで劇場版制作が進められた場合にありがちなのが「原作読んだ人にしかわからない」という原作ダイジェスト版のような映画。

たった二時間の中に本一冊の分量を詰め込めきれず、かといってうまく再構築するような荒業もできずに、最終的に物語の象徴的なシーンだけをぶつ切りにしてつなぎ合わしたMADムービーのような仕上がりになってしまうのです。

 

その他、原作レイプと呼ばれるような仕打ちは数知れず……その点、事前に原作を読んでさえいれば、映像化に際してカットされたエピソードや描き切れなかった人間関係も脳内補完されますし、仮に上記のようなハズレ作品だったとしても、安心して楽しめるというもの。

ただし、事前に読んだ原作の感想がいまいちだった場合、劇場版への期待値も大きく目減りするというデメリットもはらんでいるのですが……その点本作は、どうだったのでしょうか。

 

早速ご紹介していきましょう。

 

遺された人々はいつまで寄り添い続けるべきなのか

物語は、ホテルのバーで働く主人公・真奈のもとにかつての同級生遠野が訪ねてくるところから始まります。

彼は引っ越しを決断したと真奈に告げ、荷物の処分を持ち掛けます。

それは遠野の恋人であり、真奈の唯一無二の親友すみれが残していった物なのです。

 

三年前、「ちょっと息抜きに出かけてくる」と言い残したまま、すみれは姿を消しました。

同時に起こったのは、東日本大震災

かといって遺体が見つかったわけでもなく、すみれはその日以来、何の手掛かりもなく行方不明になったままなのでした。

 

すみれは死んだのか、まだ生きているのか。

いずれにせよ彼女が帰って来ない以上、遺された人々はいずれ結論を下さなければならない。

 

すみれの荷物を処分すると決めた遠野は、すみれがもう二度と帰って来ない過去の存在であると、割り切ろうとしているのでしょうか。

三年以上経ってなお、気持ちの整理がついていない真奈にとっては受け入れがたい決断でした。

 

真奈への形見分けを済ました遠野は、彼女を伴い、すみれの実家を訪ねます。

元々はすみれの物ですから、彼女の母親にも荷物に目を通してもらい、遺したいものがあれば引き取って貰おうとするのです。

久しぶりに出会ったすみれの母親は、遠野や真奈よりもだいぶ早い段階で、すみれの死を受け入れていた様子でした。

過去にすみれから母親とあまりうまくいっていないと聞いていた真奈は、そんな母親の潔さにも違和感を禁じ得ません。

 

誰が見放したとしても、自分だけはすみれを信じて待っていたい。

いつまでも親友のまま、すみれと繋がっていたい。

でも本当に、このままでいいんだろうかーー。

 

そんな遺された側の苦悩と葛藤を描いたのが、本作『やがて海へと届く』です。

 

忘れないっていう言葉が、すごくうさんくさい

正直なところ、作品としての完成度はそう高くはありませんでした。

きらりと輝くような面白い文章が見られる一方で、ちょっと引っ掛かるような表現や言い回しも目につきます。

Amazon等のレビューにも散見されますが、特に合間合間に挿入される、すみれと思しき人物による回想(冥想?)シーンは生と死の狭間にあるような幻想的な世界観を描こうとするあざとさばかりが先行し過ぎて、いったい何が書きたいのか理解しがたく、読んでいて意味のある文章だとも思えませんでした。

 

そのモノローグの中に、すみれが津波に飲まれるシーンが登場するのも後から考えればマイナスだったような気がします。

すみれは生きているのか死んでいるのかもわからない。

津波に飲まれたのかもしれないし、もしかしたらそうではないのかもしれない。

 

だからこそ、真奈たちにはすみれが帰って来ない事に対して明確な区切りがつけられず、ズルズルと長年にわたり苦しんできたわけで……本人たちも真相はわからないままなのに、作者の側から「津波に流されて死んだ」と読者に提示してしまうのは蛇足だったような気がします。

安否不明の失踪者をいつまで待ち続けるべきか、という物語と、死んだ人をいつまで引きずるべきか、という物語では大きく意味合いが違ってしまいますもんね。

 

結果として本書は、すみれの死が明らかではない前半部と、モノローグによって死を提示された後半部では、読者側の受け止め方が大きく変化してしまいます。

前半部は「そうだよね。すみれの事を考えたら死んだ事になんてできないよね」と真奈に共感していたのに、後半部は「もう死んでるんだよ。割り切りなよ」という具合に。

 

なのでやっぱり、すみれのモノローグは蛇足だったかなぁ、と。

 

ただし、遺された人々がどのようにして死と向き合い、心の整理をつけていくか。

それと同時に、亡くなった人がどのようにして過去のものとして処理されていくか。

 

こういった”死”との向き合い方については、非常に卓越した観察眼と表現力だな、と脱帽でした。

 

作中、真奈はたまたま出会った高校生の少女たちに、こんな質問を投げかけます。

 

「もしも、もしもだよ。あなたたちのうちの一人が、なんらかの事故や災害で亡くなってしまったら、残る一人にどんなことをして欲しい? ずっと覚えていて欲しいとか、変わらないでいて欲しいとか……どんなことを望むんだろう」

 

女子高生たちが悩み、導き出した結論がこちら。

 

だから、忘れない、ってわざわざ力んで言うのはもっともやーっとした…… 死んだ人 はくやしかったよね、 被災者がかわいそうだよね、私たちみんな一緒だからね、みたいな感じでしょ。でも、戦争とか体験してないし、私は身内を亡くしたわけでも家が流されたわけでも ないんだから、ほんとはぜんぜん一緒じゃない。だんだん、忘れないっていう言葉が、すごくうさんくさく思えてきたの」

「なんか古いってか、ポエムっぽいしね」

「うん。それさえ言っとけばいいだろ的な。考えるのをやめてる感じ」

 

彼女たちはさらに続けます。

 

「あなたたちは、忘れられることがいやじゃないの?」

「そりゃ、覚えてもらえたら嬉しいけど。でも、あんな死に方をしたかわいそうな子って意味ではないやだなあ」

「なにをとっといてもらうかです。よくある、忘れない、無念を忘れないみたいな、暗いことを広い集めるような思われ方より、どうせなら一緒にいて楽しかったとか、そういうのがいいよね」

 

読んだ瞬間、冷水をぶっかけられたような感覚でした。

毎年3.11が近づく度に繰り返される「あの日を忘れない」という言葉。

東日本大震災ばかりではなく、熊本地震もそうだし、終戦記念日やら同時多発テロやら大きな出来事があった日には、必ず耳にする言葉です。

 

それを著者は「それさえ言っとけばいいだろ的な。考えるのをやめてる感じ」とぶった切った。

 

中には反発を覚える人もいるのかもしれませんが、僕にとっては逆でしたね。

真理、だと思いました。

 

「とりあえず忘れないって言っときゃいいだろ」というのは、きっと多くの人の本音でしょう。国も、行政も、政治家も、メディアも、一般の人も含めて。

そう言っておきさえすれば、なんとなく恰好がつくから。

あまり親しくない人の葬儀に出て「ご愁傷様です」と挨拶するのと同じぐらい形式的に、無味無臭な「忘れない」という言葉を口にしているだけ。

現実には行方不明者の捜索も、追悼イベントも、被災者に対する支援も、何もかもが縮小し、薄れていくばかりなのに。

 

一方で、本当に「忘れない」「忘れたくない」「忘れられない」と囚われ続けている人々も間違いなくたくさんいる。

震災に限らず、大切な人を失くした人はみんなそうでしょう。

 

でもいつかはその人たちにも本当に、忘れる日が来る。

忘れたくて忘れるわけじゃなくとも、想いは過ぎ行く日々にどんどん上書きされて、記憶の奥深いところへと追いやられてしまう。

 

それは決して悪い事ではないし、責められる事でもない。

誰かに後ろ指差されたり、罪悪感に苛まれたりするようなものではなく、生きていく上では自然なもの。

 

本書では、「喪に服す」ように過去にとらわれ続けてきた真奈や遠野が、すみれの死を忘れるのではなく受け入れる事で、少しずつ、少しずつ乗り越えていく姿が描かれていきます。

その中で心の整理をつけていくことの辛さを描いたという点こそが、特筆すべき点なのだと思います。

 

心の整理をつけていくことの辛さ

本書のあらすじや紹介文には必ずと言ってよいほど「喪失と再生の物語」と書かれているのですが、厳密には「喪失」ではないんですよね。

真奈をはじめ、登場人物達は「喪失」の痛みはとっくの昔に乗り越えているんです。何せすみれがいなくなって3年が過ぎていますから。既にそれぞれが、すみれのいない日常を歩み始めている。

 

それでもなお彼らを襲う痛みは、「喪失」ではなく「心の整理をつけていくこと」の痛みなのでしょう。

遺体も見つからないままにすみれは亡き者とされ、本人たちが望む望まないに関わらず、過去のものとして処理されてしまう。または、しなければならない時期をとうに過ぎていながら、それでも真奈たちはすみれの記憶に縋り続けている。

 

大事にしなければいけないと思っているのに。

決して忘れてはいけないと思っているのに。

 

3年という月日は、それまで盲目的に信じてきたそんな想いすらもが自己満足であって、故人の遺志ではないのではないか。すみれはもう気にしないで欲しいと願っているのではないか。それともやっぱり忘れられたら寂しく思うのか。なんて待ち続ける事すら疑問に思わずにはいられなくなるほど、長い長い月日だったのです。

 

何よりも、すみれを亡き者として処理しようとしている自分たちが悲しく、腹立たしく、辛い。

同じように心の整理をつけようとするすみれの母親や、遠野の言動に、自分の心を映し出す鏡を見ているようで、反発してしまう。

そんな真奈たちの苦しみが、全編を通してひしひしと伝わってきます。

 

死を描いた作品、死生観を描いた作品は数多ありますが、別れを越えていくことの辛さを描いた作品は少ないのではないでしょうか。

これは死だけが対象なのではなく、愛する人との別れ全般に当てはまる辛さでしょう。

 

僕も読み終えた後、亡くなった肉親との別れだったり、昔の恋人との別れを思い出して、なんとも言えない切ない気持ちになりました。

でも結局、いつかは乗り越えてしまうんですよね。

失った瞬間は心に大きな穴が空いたような喪失感を抱いていたとしても、いつの間にか穴は埋まって、かさぶたになって剥がれ落ちて、よく見ようとしなければ気づかないぐらいの傷跡しか残らない。

 

わかってはいても、そうなるまではやっぱり辛いんですよね。

 

劇場版、観ましたよ

……というわけで、劇場版『やがて海へと届く』を観てきました。

率直な感想を先に書くと、微妙でした。

 

本作は登場人物たちの心の機微がポイントとなっています。

小説であれば地の文で描かれる心情を、映像でどう表現するのか。

上に長々と書いてきたような複雑な感情を、岸井ゆきのら俳優陣はどう演じるのか……という点に注目していたのですが。

 

まさか……ね。

物語の主軸そのものを捻じ曲げてしまうとは。

 

注意深く振り返ってみると、映画の公式サイトにのせられた著者・彩瀬まるからのコメントにそれらしいヒントが書かれていました。

 

原作を丁寧に型どりして空白の領域を埋め、飛躍が必要な箇所では血が通った真摯な創造を行い、まったく新しい物語を産み出してくれた中川龍太郎監督とチームの皆様に、心よりお礼を申し上げます。 

 

……ね?

著者から見ても、劇場版は自身の書き上げた小説とはまったくの別物だと言っているのです。

 

劇場版は簡単に言うと、「真奈とすみれの百合作品」に改変されていました。

 

序盤はとにかく「すみれの失踪を悲しむ(引きずる)真奈」の姿が描かれます。

同棲していた彼氏が登場するすみれとは異なり、真奈は親友という言葉では言い表せないような特別な想いをすみれに対して抱いていたように感じられます。

しかし物語終盤では、全く同じシーンをすみれの側からもう一度描きなおします。

そこで視聴者は、すみれもまた同じように真奈を大切に想い、彼氏である遠野との同棲すらも、真奈を想う気持ちから(不本意ながら)決断したと知るのです。

 

結果として、真奈とすみれは両想いでした。

死してなお、すみれも真奈を想っているよ……めでたしめでたし、というような結末。

 

これはちょっと……というか、滅茶苦茶残念でしたね。

 

その他、他にも残念な点で原作からの改悪が目立ちました。

遠野が「婚約した」とか言い出したり、すみれが真奈と一緒に住み始めた理由が、「一人で生きていけると思ったら大間違いよっ」なんてどこのご家庭でも一度はあるような親子喧嘩が原因であるかのように描かれたり。

 

「よくある、忘れない、無念を忘れないみたいな、暗いことを広い集めるような思われ方より、どうせなら一緒にいて楽しかったとか、そういうのがいいよね」と語る原作から相反するかのように、亡くなったすみれの人生がとてつもなくつまらなく、不幸で、真奈との生活以外には何一つとして救いがなかったかのような設定だったり。

 

かといって明確に作品として百合を押し出しているわけでもなく、真奈とすみれの関係はあくまでどうとでも受け止められる仕上がりになっている。

最初から「どちらとも受け止められる」ように考えて制作されたのか、結果として曖昧になってしまったのかが問題ですが、過去のインタビュー記事等を読む限り、どうも後者のように思えます。

 

すみれに関するあれこれを言語化してしまうのは違うような気がしましたし、監督もそこは言葉で説明されなかったんですね。先ほど(この取材の前)監督と一緒に取材を受けたのですが、「岸井さんと僕がすみれについて思っていることがバラバラだったのが良かった」と仰っていた

 

 

 

多分この映画は、監督や演者の間で詳細な意思統一がなされないまま撮影されたのでしょう。

 

そう感じた理由は、作品全体を通していまいち熱や生々しさのようなものが感じられなかったから。

映画の大半は岸井ゆきの演じる真奈と、浜辺美波演じるすみれとのやり取りに費やされるのですが、演技巧者のはずの二人にも関わらず、何も伝わってこないんですよね。

一つ一つの動作や言葉が、友人としてのものなのか、恋人としてのものなのか。二人の間の距離感や親密さのようなものが、全くわからない。

 

『愛はなんだ』において、岸井ゆきの成田凌が実在のカップル顔負けのイチャイチャぶりを見せつけたのとは、あまりにも対照的な仕上がりでした。

 


別に岸井ゆきのの演技に問題があったわけではないんですよ。

浜辺美波以外の、遠野役の杉野遥亮や楢原役の光石研を相手にしたやり取りは相変わらず非常に見ごたえがありました。

しかし、相手が浜辺美波演じるすみれとなると、なぜか演じている本人たちの迷いのようなぎこちなさばかりが目立ってくる。

 

きっとこれって、岸井ゆきの浜辺美波も二人とも、自分達が演じる人間達の関係性がうまく見えていなかったんだと思います。

結果として、気持ちの入っていないような曖昧な演技になってしまったんじゃないかなぁ、と。

 

原作を読んだ読者としても、岸井ゆきののファンとしても、色々と残念な映画でした。

 

 
 
 
 
 
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『雪国』川端康成

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

川端康成『雪国』を読みました。

ノーベル文学賞を受賞した偉大なる文豪ですので、今さら改めて説明するような事もないのですが……本作をKindle Unlimitedで見つけたので、ついつい手を出してしまいました。

 

川端康成は昭和47年(1972年)4月16日にその生涯を終えたので、令和4年(2022年)である今年は没後50年にあたります。

そのため全国各地において没後50年を記念するイベントや展覧会が開かれているのですが、ここで取り上げておきたいのが、近年問題となった著作権の保護期間の話。

日本では元々没後50年を超えれば著作権が切れ、自動的にパブリックドメインとなるはずでした。

ですから今年の4月16日で、川端康成の著作も全て青空文庫等で無料公開されるはずだったのです。

 

ところが今から遡ること約4年前、TPP(環太平洋連携協定)の発効と合わせ、著作権の保護期間はそれまでの没後50年から没後70年へと延長されました。

 


夏目漱石太宰治、近年で言えば江戸川乱歩のように無料化される事で、川端康成の作品も気軽に手に取れるようになるはずだったのですが、パブリックドメイン化は20年先延ばしされ、残念ながら読むためにはこれまで同様、幾ばくかの料金を払わざるを得なくなってしまいました。

 

まー正直言えば、ブックオフ等の古本屋へ行けば100円で販売されているのですが、ただでさえ読みづらい古典作品を金払ってまで読むかというと、『ビブリア古書堂の事件簿』を読んで気になったとか、『文豪アルケミスト』のゲームをプレイして興味をもったとか、何かきっかけでもない限り難しいのではないでしょうか。

パブリックドメインの延長に関しては常々遺憾に思っていたために、せっかくKindle Unlimitedに含まれているのであればこの際読んでみようか、と思った次第です。

 

では早速……と言っても、『雪国』に関する感想や解説なんて今さら僕が書くすき間もないぐらい世の中に溢れていますので、ちょっと変わった角度で、『雪国』を読むにあたって少しでもハードルが下がってくれればいいな、というぐらいの立ち位置でご紹介していきたいと思います。

 

妻子ある旅の男と山村の芸者娘の恋物語

主人公の島村は、実際に観た事もない西洋舞踊のポスターやプログラムを参考に想像だけで紹介文を書くなどしながら、親譲りの財産で勝手気ままに生きる自由人。

そんな彼が旅先の山村で出会った駒子という女性に会いに、ほぼ一年おきに山村を訪ねるというだけのお話です。

 

学校教育のせいで、古典文学というとなにやら深く難解なテーマがある、とつい身構えてしまいがちですが、実際には上記のような、至ってシンプルなものだと思ってもらえば間違いないと思います。

 

問題なのは島村には既に家庭があり、あくまで旅先でのランデブー的な余興として、駒子との恋愛を楽しんでいるのに対し、駒子の側はどんどんのめり込んでしまうという点。

現代に置き換えれば、水商売の女性が客に本気になってしまう無情さや意地らしさを描いた作品であると言えます。

 

客の側からすると、お金を払う代わりに、安全に女の子と疑似恋愛を楽しみたいがために店を利用します。どこまで楽しませてくれるかは相手次第、店次第ではありますが、その曖昧な線引きの探り合いというのも、水商売で遊ぶ醍醐味と言えるでしょう。

仮に女の子の方が本気になって、自分の思うがままに操れるとすればシメたものです。

 

ただし、そこには「安全に楽しみたい」という大前提が存在します。

 

素人相手の不倫のように泥沼化したり、世間から後ろ指差されたりするのを避けたいがために、わざわざ金を払って専門のお店で「遊ぶ」のです。女の子が身も心も自由にさせてくれるのは嬉しい反面、度を越してしまえば、いずれ「遊び」という言葉では済まされなくなってしまいそうで、逆に怖くなってくる。

 

駒子に対する島村の気持ちは、まさにそういった心情でしょう。

駒子もまた、そんな島村の立場を良く理解しているにも関わらず、惹かれる想いを止める事ができない。

 

……というような、現代にも通じる男と女の関係を描いた作品。

そう考えれば、少し手に取りやすく思えてきませんか?

 

さらに、もっとハードルを下げるために今風に言い換えれば本作『雪国』は「駒子萌え」を愉しむ作品と言えるのです。

 

ツンデレ駒子萌え

主人公の島村の年齢については記されていませんが、奥さんがいて、小太りな中年男という事だけはわかります。

対して、駒子は19歳。

二人の関係性から察するに、島村から見れば軽く子ども扱いできるぐらいには年が離れているのは間違いないでしょう。

 

駒子は相手に帰る家があり、決して好きになってはいけないと思いつつも、惹かれる心を止める事ができません。

「もう帰って」と詰った直後、「やっぱり帰らないで」と縋りつきます。

「もう来ないで」と突き放す一方、「ずっと待っていた」と喜びます。

 

結果として、島村が逗留する宿にほぼ入り浸り、身も心も尽くしてくれる。

こんなツンデレぶりを見せつけられたら、男冥利に尽きますよね。

 

島村の立場になれば、駒子との関係はたまらなく甘美なものでしょう。

自分よりずっと年下の愛らしい女性が、刹那的な関係だと理解した上で、自分を愛してくれるのですから。

 

好きな人の名前を書いてみせると言って、島村のてのひらに、指で芝居や映画の役者を2~30人並べ、その後「島村」と何度も書き続けた

前に会ったのは「五月の二十三日ね」「ちょうど百九十九日目だわ」と島村に告げた。よく日付を覚えているといわれると、日記をつけていることを話した

 

きっとリアルタイムで『雪国』を読んでいた諸氏も、そんな駒子の意地らしさにキュンキュン胸をときめかせていたのではないでしょうか。

要するにこれって、今で言う「萌え」に近い感覚なわけです。

 

島村の普段の生活ぶりはあまり窺い知ることができませんが、居住地とは遠く離れた田舎の山村で、可愛い女の子とイチャイチャできちゃう。ほとぼりが冷めたら帰り、一年ぐらい経ってまた訪ねてみると、待ってましたとばかりに尻尾を振って喜んでくれる。

しかも相手は、読者層の大半を投影したような小太りのおっさんです。

 

川端康成が『雪国』の執筆を始めたのは1934年頃。

川端康成が35歳ぐらいの時です。

今でこそ文豪と崇められる川端康成ですが、世のおっさん達が思い描く夢の世界を活字化しちゃったって、冷静に考えるとかなりイタイおっさんですよね。

 

ちょっと癖のある文体とか、当時の文化様式とか、古典小説に読みなれない人が引っ掛かるポイントは多々あると思うのですが、上記のように「おっさんが書いたおっさんと田舎の生娘との元祖ツンデレ萌えラブコメ作品」と認識してもらえると、かなり読みやすくなるんじゃないかなと思うのです。

 

しかもこのおっさん(島村=川端康成)、かなりキモさが垣間見られる点にもご注目。

 

島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、

 

露骨ですよねー。

「この指だけは女の触感で今も濡れていて」って、読んでいるこっちが赤面してしまいそうです。

 

可哀そうなのは駒子の立場。

「この指だけが覚えている」なんて、本人には到底聞かせられません。

島村ってホントひどい男。

 

読んで分析すればするほど”文豪”という言葉の持つイメージとの乖離が進みそうです。

国語の授業では重く、堅苦しくなりがちですが、でも結局当時の世間に本書が受け入れられた理由って、上のような”萌え”とか”エロ”の部分が大きいんだと思うんです。

 

綾辻行人の『another』に対しても、「世界観が」「トリックが」「設定が」とか蘊蓄語る輩よりは、「見崎鳴萌え~」って言ってるブタの方が圧倒的に多かったのと同じで。←極論

 

 

ちょっと真面目に文学的な見地から

僕は別に文学科で学んだわけではないので、日本文学の体系的な分析はできないのですが、それでも本書からは今の文学作品に通じるエッセンスみたいなものが感じられたりします。

川端康成横光利一らとともに〈新感覚派〉と呼ばれるグループに属していました。

 

新感覚派〉は20世紀西欧文学の影響による擬人法と比喩の手法を導入し、従来の日本語の文体に大きな影響を与えたとされています。

代表的な例として挙げられるのは、横光利一の『頭ならびに腹』の一文。

 

特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。

 

言わずもがなですが、「電車が全速力で駆け、駅が石のように黙殺される」というのが人間以外のものに人間の表現を用いるという新感覚派的な擬人法。

それまでの自然主義と呼ばれる作家であればそのままストレートに「列車が猛烈な勢いで通り過ぎた」とでも書いたのでしょうが、上記の表現技法を用いる事によって、走り抜ける電車の勢いはもちろん、吹き付ける風の強さまで感じられるような気がします。

 

国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。

 

『雪国』の有名な冒頭の一文もまた、まさに〈新感覚派〉を感じさせるところです。

「夜の底が白くなった」なんていう表現は、当時はとても斬新だったのでしょう。夜の黒と雪の白のコントラストとともに、澄み渡る雪国の凛と張り詰めた静けさまでもが伝わってくるようです。

 

そうして注意深く見てみると、本書の中には今でも鮮烈な印象を与えてくれる斬新な比喩表現が目立ちます。

 

島村は駅で帰りの汽車を二時間近く待った。弱い光の日が落ちてからは寒気が星を磨き出すように冴えて来た。足が冷えた。

 

上記なんてとても好きな部分です。「寒気が星を磨き出すように冴えて来た」なんて、間違いなく著者独自のオンリーワンな言い回しでありながら、それでいて万人に通じる素晴らしい表現ですよね。

終盤の火事のシーン等は、特に読み応えがあります。

 

 黒い煙の巻きのぼるなかに炎の舌が見えかくれした。その火は横に這って軒を舐め廻っているようだった。

炎が屋根を抜いて立ちあがった。

その火の子は天の河のなかにひろがり散って、島村はまた天の河へ掬い上げられてゆくようだった。煙が天の河を流れるのと逆に天の河がさあっと流れ下りて来た。

 

炎を舌に例えるなんて、今となっては定番化された比喩表現と言えそうですが、当時はきっと非常に斬新に捉えられた事でしょう。

屋根を抜いて立ち上がった、という勢いも目に浮かぶようです。

ライトノベルのように簡素化された文体が好まれる現代において、上記のような表現は一部の純文学作品でしか見られなくなったかもしれませんが、今から50年以上も前に既に存在していたとは素直に驚きです。

 

むしろ当時はそれが当たり前で、今の文章が稚拙になったのかもしれませんが。

 

さて、そんなわけで決して読みやすい作品ではありませんが、上に長々と書いてきたような点に着目していただくと、楽しみが増え、結果的に読書も進むんじゃないかなと思っています。

先日NHKでドラマも放送され、いずれ近いうちに再放送もされるでしょうから、ぜひ一度原作『雪国』も読んでみてはいかがでしょうか?

 


キモいおっさんこと島村役が高橋一生と考えると、ミスキャストなような気がしてしまいますが……。

島村役は佐藤二朗とかそういうので十分なんですけどね。

それじゃあ視聴率とれないか。

 

なお、本書を書いた川端康成はなかなかのキモイおっさんだと思いますが、他にも僕がおすすめする変態文豪としては田山花袋がいます。

あまりにも有名な『蒲団』の他、筆舌し難いほどの変態ぶりに満ち溢れた『少女病』など、こちらは既にパブリックドメインとして青空文庫等で無料で読めますので、ぜひ併せてお楽しみください。

 

 

 
 
 
 
 
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『あしたはうんと遠くへいこう』角田光代

 そうやって禁止事項で自分を追いつめ、さらに事態を悪化させるぐらいなら、と悩んであたしが考えた解決策は、「修三瞑想時間」だった。夏休みのあいだ、一日に一時間半、縁側に座って物思いにふける。その時間内だけは、野崎修三のことをどれだけ考えても、また、どんなこと――恥ずかしくて口に出せないことでも、現実味も突拍子もないことでも考えて可、とした。

角田光代『あしたはうんと遠くへいこう』を読みました。

ついひと月前に『愛がなんだ』を読んだばかりなので、短期間で角田光代作品が続いています。

 

『八日目の蝉』以来の角田光代ファンですが、先日読んだ『愛がなんだ』がこれまでの彼女の作風とはガラリと変わって、それがまた良かったせいでもあり……

 


 

ついに観た劇場版『愛がなんだ』もまたすこぶる良かったせいで、その余韻に浸りつつ、角田光代作品を読みたくなったわけです。

 

Kindle Unlimitedには都合よく角田光代作品も多数収録されていますが、その中から厳選したのが本作『あしたはうんと遠くへいこう』。

気になる内容については、早速下記よりご紹介していきます。

 

ちなみに『愛がなんだ』については下記記事をご覧ください。

 

恋愛依存体質の15年間

主人公の栗原泉は、一人の異性を好きになるととことん没頭してしまうタイプ。

冒頭から、野崎修三という同級生の男の子に夢中になる高校生時代が描かれます。

 

朝から晩まで野崎修三の事で頭がいっぱいな泉は、ある日修三に渡すためにと、厳選した曲を録音したカセットテープを何時間もかけて作成します。

しかし、受け取った修三と友人の反応はさんざんなものでした。

 

「何今の」小さな声で中村が彼に訊く。「知らねーよ」「告白? もてるねえ」「ていうか、こえーよ」「え?」「あいつなんかこえーよ」

 

勝手に期待と妄想を膨らまし、実際の相手がどうであるかなんてどうでもいいぐらいに突っ走った挙句、失敗する――そんな自己満足で構成された盲目的な泉の恋愛体質が顔を覗かせる一面でもあります。

 

大学に進んだ泉は、バンドのヴォーカルのぶちんに恋をします。

のぶちんの歌は、何もかもがどうでもよくしてくれて、自己肯定感をもたらしてくれると盲目的に彼に心酔するのです。

 

サークルで結成されたバンドで、泉は楽器も歌もできないにも関わらず、彼らのため、のぶちんのために、ライブの度に雑用係として参加します。

のぶちんはじめ、バンドメンバーからは良いように使われる泉ですが、特に不満を抱くわけでもなく、献身的に彼らのために尽くします。

 

そんな泉の恋がどうなるかというと……これはまぁ、読者の想像通りのパターンですね。酔っぱらった流れで正式なプロセスもなく体を重ねた後も、意識高いバンドマンの彼には泉よりも重要なものがたくさんあって、ぞんざいな扱いばかりを受ける。

まるで幸せになる日が来るとは思えない関係です。

 

やがてのぶちんはバンドのヴォーカルに迎えたエチカという女の子をあからさまに優先するようになり、そんなのぶちんとの関係に病んだ泉はアイルランドへ旅に出ます。自転車に乗って、アイルランドを一周するという無謀な旅は当然うまく行かず、不本意ながら現地の学生アパートに入って、無為な生活を送るように。

そうしてのぶちんとの関係を良くしようと決行したアイルランド旅行でしたが、約一年の海外生活を経て、戻ってきた泉を待ち受けていたのは自分の居場所にすっかり収まってしまったエチカでした。

 

居場所を失い、収入もない泉は、毎夜行きずりの男と体を重ねては、引き換えに寝床を得るような堕落した生活を送るようになります。

そのうちの一人、大学5年生のキョージは何人もガールフレンドがいて、泉はキョージから違法薬物の味も教わります。

もうひたすらに墜ちていくばかり。

 

そんな中始めたCDショップのアルバイト先で、ポチと名付けた年下の男の子から生まれて初めて愛を告げられ、二人で普通の幸福を得るためにと海のある田舎に引っ越し、同棲生活を送るようになります。

一見幸せなように見えますが、ポチはあまり率先して働かず、泉は毎日水産加工会社でアルバイトをこなし、薄給で爪に火灯すような貧乏生活。

ポチと二人で所在なく過ごす休日が苦痛な泉は、スポーツクラブへ入会します。そして今度は、そこのインストラクターに恋をしてしまうのでした。

 

ポチと同棲する一方、インストラクターに好かれるためにトライアスロンへの出場を決め、順調にインストラクターとの恋を育む泉でしたが、次章ではポチとの同棲生活も破綻し、そのインストラクターが泉のストーカーに変貌を遂げているという恐ろしい展開に。

 

本書は上記のように、高校時代から始まり、約15年にも及ぶ泉の恋の変遷を描いた作品です。

 

愛がなんだ……?

 

次々と一癖も二癖もある男に恋をしては、その度に自分の人生ごと捻じ曲がっていく様子は、目を覆いたくなるほど醜悪な一方、どこかコミカルでもあります。

 

よくもまぁ次から次へと変な男ばかり渡り歩くもんだ、と呆れたいところではありますが、実際には笑えませんよね。

しかしながら、今現代、まさに青春真っただ中にあるような若い子の恋愛がどうなのかはわかりかねますが、少なくとも二十年ぐらい前の若い世代の恋愛って、本書のような無謀なものが多かったように思います。

 

ナルシストでやたらと自意識過剰なバンドのヴォーカルがカッコよく見えたり、自暴自棄になってワンナイトラブに身を任せてみたり、別に好みでもなんでもない相手から「好きだと言ってくれる」という理由だけでお付き合いしてみたり。

沢山の失敗を繰り返し、その代償として取返しのつかない傷を負ったり、助けを求めて踏み出したつもりの恋愛がむしろ泥沼だったり、まさに無謀という他ないような恋愛を繰り返しながら、気づいてみるといつの間にかみんな結婚してそれなりに無難な家庭を築いて幸せになってる……という昭和末期~平成にかけて過ごした若い世代の青春時代。

 

本書で描かれる泉達は、まさしくその時代を生きているのだと思います。

そう考えると、今の若い子たちがあまり恋愛しないという理由もわかってくる気がしますね。

 

生まれながらにしてリスク社会で育った若い世代は非常に理知的で、後先考えず衝動的に恋に走るなんてなさそうですし。

まずはSNSで繋がるところから始めて、少しずつ距離を縮めていくのが今の若い世代の恋愛であって、大きく傷つきそうな気配があれば先手を打って終わらせる、というのが常套でしょうから。

 

もちろん、未だに恋愛が最優先というタイプもいるでしょうが、それはあくまで思春期のとある時期の話で、泉のように長々と恋愛を中心に人生を送るような人は少ないのでしょうね。

 

さて、話を本書に戻すと、恋に、愛にと衝動的に、病的に不可解な方向へと突っ走っていく泉の姿は、『愛がなんだ』のテルコに通じるモノを感じたりもします。

そういう意味では、僕のチョイスは完璧なように思えます。

元々『愛がなんだ』のような作品に触れたくて本書をチョイスしたのですから。

 

とはいえよく似たようでいて、蓋を開けてみれば二つの作品の方向性は全く正反対だったりもします。

 

『愛がなんだ』のテルコは、あくまで自身の恋愛(信念?)に向けて迷いなく突き進んでいく様が印象的でした。他人がどう思おうと、どう見られようとテルコには一切関係なく、テルコにあるのはただただマモちゃんとの繋がりを保ち続けたい一心のみ。その姿は歪ながらもどこまでも一途で、純愛で、きらきらと輝いて見えるようでもありました。

ただし、泉は違います。

泉は常に、迷いの中にあります。自分の選択に対しても、相手との関係性に対しても、疑心暗鬼であり続けます。その人に会えるだけで毎日幸せと思えるぐらい盲目的に恋に溺れる一方で、こんなのは普通じゃないと拒否反応を覚える理性を持ち合わせています。

 

恋に夢中になる女の子のお話として、一見よく似た題材を扱っているように思えるのですが、『愛がなんだ』と『あしたはうんと遠くへいこう』は全く違う作品なのです。

それは二つのタイトルにもそのまま現れていると言えるかもしれません。

『愛がなんだ』と吐き捨て自らの思うまま歩み続けるテルコと、『あしたはうんと遠くへいこう』と常に現状から逃げ出したい願望に苛まれる泉。

 

作風で言えば、『愛がなんだ』はどこまでも前向きなのに対し、『あしたはうんと遠くへいこう』は後ろ向きと言えるかもしれません。

そういう意味でいうと、読んでいて面白かったのは、圧倒的に前向きな『愛がなんだ』の方でした。『あしたはうんと遠くへいこう』も文章の熱量こそ高いのですが、そのほとんどが負のベクトルに向かっている感覚があって、読んでいて気が滅入ってくるような気がしました。

 

『愛がなんだ』と同じようなテーマを扱いつつ、全く違う作品に仕上がっているという時点で興味深く、十分に楽しませて貰ったんですが。

主人公泉に当たり前のように岸井ゆきのを想像していたのも、楽しめた理由かな。

 

ここのところ毎日、寝ても覚めても岸井ゆきのばっかりです。

僕も病的なのかも。

 

 

 
 
 
 
 
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『護られなかった者たちへ』中山七里

  護らなくてもいい人間が存在しないのと同じ理屈で、殺されてもいい人間など存在 しない。

中山七里『護られなかった者たちへ』を読みました。

大ベストセラー作家中山七里作品としては『連続殺人鬼カエル男』以来二作目となります。

 

 

Kindle Unlimitedでも常にオススメ作品上位に表示され、「とにかく読め!」と言わんばかりの圧が強かったのですが……『連続殺人鬼カエル男』の感想がいまいちだったせいもあって、いまいち食指が伸びずにいました。

 

しかしながらKindle Unlimitedの中でも読みたい作品が見つけられなくなってきた事もあり、いい加減読んでみようと取り掛かってみた次第です。

ファーストインプレッションがいまいちでも、読む作品によって作者に対する評価が大きく覆るケースって、これまでにも度々ありましたし(僕にとって貴志祐介島本理生がそれにあたります)。

 

何よりも本作『護られなかった者たちへ』も、映画化までされた大ヒット作品。

しっかりと期待して読んでみる事にしましょう。

 

被害者を餓死に追い込む異常な連続殺人

県警捜査一課の笘篠が目にしたのは、廃墟同然の古びたアパートで、両手両足の自由を奪われたまま餓死に追いやられた凄惨な遺体。

被害者は福祉保険事務所の課長、三雲でした。

 

同僚の蓮田とともに捜査にあたる笘篠でしたが、職場からも、家族からも、故人に対して聞かれるのはまるで仏様の生まれ変わりと言わんばかりの聖人君子ぶり。

仕事ができて、部下からの信頼も篤く、家庭でも常に他の家族を優先する。

そんな三雲は、誰に聞いても「殺されるような恨みを買うはずがない」と断言するのです。

 

捜査の糸口すら掴めず苦慮する笘篠達の前で、二つ目の事件が発生します。

校外の農器具小屋の中で、三雲と同様に餓死した状態で見つかった二人目の被害者は、あろうことか現職の県議会議員城之内。

 

城之内について調査を進める笘篠達は、城之内もまた、以前福祉保険事務所に勤めていた事を知ります。

しかも三雲とは、塩釜の福祉保健事務所において被っていた時期があるのです。

 

二人の被害者をつなぐミッシングリンクに気づいた笘篠達は、塩釜の福祉保険事務所で過去に起きた事件について調べを進めます。

しかしながら、笘篠達が目にしたのは、生活保護を巡る目を覆いたくなるような現実でした。

 

不正受給者の裏で、需給を受けられない困窮者たち

本書では、生活保護を受けているにも関わらず隠れて働いて給料を受け取ったり、あるいは暴力団関係者である事を隠して生活保護を受けたり、といった様々な不正受給者の姿が描かれます。

一方で生活保護の予算には限りがあり、福祉保険事務所の所員は不正者に対して厳格に対応しつつ、本当に困っている人達に対して支援を行えるよう日々奮戦しているのです。

 

そのような役所の窓口に、トラブルはつきもの。

 

笘篠達が調査を進めると、いくつものきな臭い事件が見つかります。

その中には警察からの捜査協力要請に対し、福祉保健事務所が事件そのものをもみ消したような痕跡も。

執拗な捜査により笘篠達は、福祉保険事務所の窓口で対応した職員に暴力を振るい、さらに事務所の建物自体に放火した容疑で逮捕された利根勝久に辿り着きます。

 

彼こそは、本書における二人目の主人公とも言える重要人物です。

 

二極化する社会の闇

利根は両親が離婚し、引き取られた母親も高校の終わりに行方を晦まし、たった一人で生きる天涯孤独の身。

しかも他愛もない諍いで暴力沙汰を起こし、前科まで負うという二十歳にしてお先真っ暗の人生を歩んでいました。

一度罪を犯した人間は社会から虐げられ、虐げられた者同士でつるむしかなくなってしまうが故に、再び罪を犯す。

貧困は貧困を生み、富は一部の層にだけ集中する。

二極化する社会は、本書が投げかける一つのテーマともいえるでしょう。

 

そんな社会の底辺を生きる利根が、ひゅんな事から出会ったのが貧しい老婆遠島けいと、その近所に住む少年カンちゃん。

水商売の母親を持つカンちゃんは、日ごろからけいばぁちゃんの部屋に身を寄せているのです。

 

面倒見の良いけいばあちゃんに惹き付けられるように、疑似家族のような三人の不思議な生活が始まりますが……やがて少し離れた土地で利根が仕事を得、かんちゃんも親の都合で引っ越す事になってからは、疎遠になってしまいます。

 

しばらくして久しぶりにけいの下を訪ねた利根が見たのは、電気もガスも止められた部屋で、ティッシュを口に運ぶけいの姿でした。

他に身よりもなく、満足な年金も受けられないけいは、食うにも困る程に生活に困窮していたのです。

利根は生活保護を受けるよう諭し、嫌がるけいとともに福祉保険事務所へ出向きますが、職員の無情な対応によってその場で生活保護申請は却下されてしまいます。

 

繰り返す事三度、けいは生活保護の申請を行いますがいずれも承認は受けられず、そのさ中、けいは餓死という悲惨な最期を迎えてしまうのでした。

怒り狂う利根は塩釜の福祉保険事務所に怒鳴り込み、担当した職員に暴力を振るいます。それだけでは飽き足らず、闇夜に紛れて建物に放火まで……その罪を問われて八年という長きに渡り懲役の刑に服す結果となるのですが、この時の担当者こそが殺された三雲であり、城之内。

 

利根が服役を終えて釈放されて間もなく、二人は何者かによって殺害される。

笘篠達は利根こそ犯人に間違いないと、彼の行方を追うのでした。

 

薄れる説得力

あらすじはこの辺りまでとしまして……やはり致命的なのはリアリティーの部分でしょう。

生活保護に詳しくない僕にとっても、読んでいて違和感を感じる部分が多々あるんですよね。

 

以下は、けいとともに生活保護の受給申請に出向いた利根と、窓口を担当していた三雲とのやり取りです。

 

「だから、関係ない第三者は口出ししないでくださいって、さっきから何度も」

「あんた、要するにけいさんの申請を受け付けたくないんだろ。それで無茶なことを要求して一件落着にしよ うとしているだけだ。そんなの役所の横暴だ。横暴でなけりゃ怠慢だ」

「失敬ですな」

 三雲はそう言い捨てると、手にしていたけいの申請書をいきなり縦に破った。

「何するんだ」

「受付で破壊行動ならびに迷惑行為や職員に対する威嚇・中傷をした方は即刻退去願います」

 

……おいおい。

この短い一幕の間だけでも突っ込みどころはいっぱいですね。

 

縁戚関係はないにせよ、自身での手続きが困難な本人の付添人に対して「他人は口を挟むな」はいくらなんでもありえませんし、目の前で申請書を破り捨てるなんて言語道断でしょう。

スマホSNSが発達した現代では、例え本人がアクションを起こさずとも周囲にいた人々によってあっという間に拡散されてしまいそうな事件です。

 

そもそもが予算に上限があるからと言って、窓口の担当者や事業所の課長レベルの独断で、調査等のしかるべきプロセスも踏まずに申請を却下したり、窓口で追い返したりなんてできるはずがないんです。現場の職員であれば、「そんなことできりゃ世話ねえよ」と鼻で笑い飛ばしたくなるところでしょう。

 

ましてや上記のような常軌を逸した言動を常日頃から行ってきた三雲のような人物が、同僚や家族から一点の曇りもない聖人君子として語られるはずもありません。

さぞかし多くの恨みを買ってきた事でしょう。

 

↓↓↓以下ネタバレ注意↓↓↓

実際に部下であった円山は、三雲のやり方に耐えがたい程の反発を覚えており、それが殺害の動機にも繋がったわけですし。それ以前に市民からの通報や同僚からの内部告発によって立場を追われる確率の方が遥かに高かったと思えてしまいますよね。

 

その他、実際の作者が取材を怠ったのか、あえてフィクションとして歪曲させたのかはわかりませんが、生活保護を巡る実態とはかけ離れた部分が多数目につきます。

一例をあげれば、基本的に申請があった際には必ず自宅を訪問するなどの調査を経てから、需給の可否を決定します。

その期間も原則14日以内、最長30日以内と定められており、そういったプロセスも踏まずに却下と断じられる事は絶対にありえません。

 

それ以前の問題として、書類の不備による訂正や資料の追加を求められたとしても、申請そのものは市民に与えられた権利ですから、申請すらさせないなんて事はあり得ないんですよね。

こんな職員がいれば内外問わずすぐさま通報を受けて排除されるのは間違いありません。

 

結果として餓死という死者まで生み出したとすれば、これは本書が題材とした現実に大阪で起こった事件がそうであったように、即座に世の中から糾弾されるでしょう。

ちょっと調べればわかりますが、大阪の親子餓死事件にしても、そこに至るまでに生活保護を受給したり、停止されたり、減額されたりといった様々なプロセスを経ているのです。そこには現実として、お役所仕事と揶揄されても仕方がないような柔軟性に欠いた対応や、生活保護という制度の持つ問題点が幾つも浮かび上がってきます。

だからこそ、大きな社会問題として世の中に広まったのでしょう。

 

その非常に重要な部分を本書においては「予算が限られているから組織ぐるみで生活保護を受けさせないように意地悪していた」と大雑把に歪曲してしまいました。

国や行政を諸悪の根源に祭り上げ、担当者はただの操り人形化。

しかもひとたび業務を離れれば誰に聞いても聖人君子。

 

そんな謎理論がベースになった物語に、説得力が生まれるはずはありません。

 

付け加えると、主人公格である刑事笘篠は震災で妻子を失っており、彼は「家族を護れなかった自分」と「けいを護れなかった利根」を重ね合わせる事で、利根に対して何度も共感らしき感情を吐露します。

……これもねぇ、津波という不可抗力で失われた命と、明らかな人災で奪われた命を同一視しようとするロジックが完全に破綻してるんですよねぇ。

せめて利根が「もっと早くけいの異変に気付いていたら」等と自身の行動に後悔しているのならともかく、利根はひたすら「塩釜の福祉保険事務所の奴らが憎い」の一辺倒ですし。

『護られなかった者たちへ』というテーマに絡めたかったのでしょうが、こういう作者にだけしか理解できないような謎論理・謎設定って、読んでいて共感するどころか逆に冷めていってしまいます。

 

『連続殺人鬼カエル男』でも、無差別的に三人が殺されたからと言って暴徒化した市民が警察署に殴り込むという謎展開があったのを、妙に強く思い出しました。

中山七里は、物語の構成にいっぱいいっぱいで、一つ一つの事象に対する整合性や説得力については行き届かない作家さんなのかもしれませんね。

 

『連続殺人鬼カエル男』で抱いた違和感が払しょくされる事を期待した読書でしたが、かえって違和感を深める結果になってしまったかもしれません。

『総理にされた男』も気にはなっていたのですが、レビューを見るとやはり「リアリティーが欠如している」という指摘が多いようですし。

 

やはり、僕は距離を置いた方がいい作家さんなのかもしれません。

 

 

 
 
 
 
 
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