世界はどこにもないよ
だけど いまここを歩くんだ
希望とか見当たらない
だけど あなたがここにいるから
岩井俊二『キリエのうた』を読みました。
説明は不要ですね。
10月13日(金)より全国公開となった映画『キリエのうた』の監督岩井俊二自身が書いた原作小説です。
先日久しぶりに映画を観に行きました。
観たのは波瑠と二宮和也が主演の『アナログ』でした。
『アナログ』自体もなかなか良い映画だったのですが、映画を観に行く度に楽しみになっているのが、上映前に流れる公開予定映画のCM。
意外とこのCMを観て、次に観たい映画が見つかったりします。
正直なところ、今回はいまいち惹かれるCMがなかったのですが……妙に気になったのが岩井俊二の新作映画『キリエのうた』。
岩井俊二と言えば僕の中では『スワローテイル』の人で、その昔レンタルビデオで観た映画の内容こそほとんど覚えていないのですが、荒廃した世界観を映し出す映像美と『YEN TOWN BAND』の曲だけは未だに鮮明に記憶に残っていました。アルバム『MONTAGE』のCDも持っていて、何度となく聴きましたし。ソラで歌詞が浮かぶぐらいには、ヘビーに聴き込んでいました。
そのせいもあってか、『キリエのうた』のCMでアイナ・ジ・エンドが歌うシーンが、その昔見た『スワローテイル』でのcharaの姿に重なって見えたんですよね。
ただ『スワローテイル』の頃から大きく時間が経ちましたが、その間自分の中で岩井俊二作品との接点もほとんどなく、「今さら岩井俊二?」という今さら感の方が強く出てしまって、映画館でCMを観ただけではそこまで観に行こうとは思わなかったんです。
でもふとした時に見つけたのが、下記のポスト。
《『キリエのうた』10/13公開決定記念》
— 岩井俊二映画祭 Iwai Shunji film festival (@iwaiff) 2023年10月7日
岩井俊二監督作品
『リリイ・シュシュのすべて』配信中!https://t.co/KtAPFguwKk
僕にとって、リリイだけがリアル。… pic.twitter.com/IWMIc9g3vC
おぉ、リリィ・シュシュじゃん!
今まで何回も観たいと思いながらなかなか機会のなかったリリィ・シュシュじゃん!
というわけで、早速観させてもらったんですね。
気づいたのが10月11日とかで、ほとんど日にちもなかったのですぐに一気見して。
……で……見終わった後には、すぐさま岩井俊二熱が再燃していましたね。
昔『スワローテイル』を観て、『YEN TOWN BAND』の曲を聴きまくってた頃の感情が、怒涛のように押し寄せてきたんです。
ぶっちゃけ『リリィ・シュシュのすべて』が面白かったかというと、最初から最初までずっと陰鬱だし、あまりにもストーリーが取っ散らかっていてわかりにくいし、そもそも何を描きたかった作品なのかもぼんやりとしかわからないという、まさに1990~2000年代初頭に流行った「余白だらけの作品から作者の意図を想像・議論して楽しむ」というエヴァンゲリオン的な作品で、こんなの万人向けしないし今の時代だったら世の中に受け入れられないだろうな、なんて思ってしまったんですが。
でも、やっぱり僕らにとってはこういう作品こそが酷く懐かしくて、不思議と親近感すら感じてしまうものなんだと心の底から思い知らされてしまったんです。
いずれ『リリィ・シュシュのすべて』についても原作を読んだ上でブログに書こうと思っているので今回は割愛しますが、見ている途中からこれはもう『キリエのうた』も観るしかないな、と覚悟が決まり、となると先に原作を読んでおこうと早速電子版をポチってしまったのです。
かなり前置きが長くなりましたが、それでは『キリエのうた』の内容について触れていきたいと思います。
さすらう二人
主人公はキリエ。路上ミュージシャンです。
ある日歌い終わったキリエに、一人の女性が声を掛けます。たくさんの投げ銭をくれ、食事を奢り、ネカフェで寝起きしていたキリエに寝床まで提供してくれます。
ゴスロリに青い髪の彼女はイッコと名乗ります。
翌朝目が覚めたキリエは、ノーメイクのイッコの顔を見て見おぼえがある事に気づきます。イッコもまた、「ルカ」と名乗ったはずもないキリエの本名で呼びかけます。
キリエとイッコはそれぞれ本名を「路花」、「真緒里」と言い、高校生時代に北海道で親しく過ごしていた時期があったのでした。
イッコはキリエのマネージャーとなり、二人は様々な街を流離いながら、路上ライブを成功させていくようになります。次第に協力者が増え、観客が増え……とキリエの魅力はどんどん広がっていきます。イッコのパイプから、芸能事務所との繋がりまで持つようになりました。
しかしそんなある日、突然イッコは姿を消してしまいます。
イッコとともに居候していた男の元には警察が来訪。自らも被害者かもしれないとショックを受ける男から、キリエはイッコの裏の顔を知るのでした。
明かされる過去
映画のメインビジュアルでは路上で歌うキリエの姿が鮮烈であり、彼女がミュージシャンとして大成していく立志伝のような作品なのかと思っていましたが……実際には(少なくとも僕が読んだ原作小説は)キリエが歌う場面は最初と最後の一部だけで、キリエとイッコ、夏彦という三人の過去に大半のページが割かれていました。
特にキリエと夏彦については、キリエが喋れなくなったきっかけや、夏彦が妹のようにキリエを気に掛ける理由など、十年以上前に起こった東日本大震災の影が、明確に今の今まで影響を及ぼし続けている事がわかります。
特に夏彦の視点において、多くの真実が描かれていきます。
なので読み終えてみると、本作は路上ミュージシャンのキリエの作品というよりは、震災当時高校三年生だった夏彦の人生に東日本大震災がどんな運命をもたらしたか、という点が主題だったように思えてきます。
キリエはある意味夏彦の物語における脇役・付属品的立ち位置であり、前後して描かれるイッコの過去に関してはそもそもキリエ・夏彦の物語に比べるといまいち共感性が薄いように感じてしまいます。ほぼ自業自得としか言えないようなエピソードばかりですし、ぶっちゃけ風琴や松坂珈琲がいれば存在自体不要じゃね?と言えそうな。。。
こうして読み返せば読み返す程、やっぱり『キリエのうた』は夏彦の物語だったように思えてしまいます。ただそうすると、キリエが路上ミュージシャンである必然性や、そもそもキリエが本作品の主役として位置づけられる理由についても疑問に思えてきてしまうんですよね。
どうも作品と一つにまとまりきれてないような……なんて考えれば考える程、もしかして『キリエのうた』って、色んな「映像的に面白そうな」要素をつぎはぎして作られたオシャレ映画、雰囲気作品なんじゃないかなんて一抹の不安を覚えてしまったり。
映画を観る前段階における個人的な総括
おそらく上に書いた
色んな「映像的に面白そうな」要素をつぎはぎして作られたオシャレ映画、雰囲気作品なんじゃないか
という予感は原作だけを読んだ側の感覚としては割と的を得ているように思えるんですよね。
特に岩井俊二作品と馴染みのない人ほど、そう感じてしまうんじゃないかと。
でもまぁ前段で『リリィ・シュシュのすべて』を観た僕の想像はもう少し違います。
キリエのような路上ミュージシャン・パフォーマー的な人って都内にはたくさんいて。彼らはキリエ同様に日々の寝床も定まらないような生活を送っていたりします。多くの人にとってそれは特に目を止める事もない風景の一部か、または目障りな社会の害悪ぐらいに受け止めている人もいるかもしれません。
そんな彼ら一人一人にも、筆舌し難い壮絶な過去や、眩いぐらいに輝かしい夢や、側にいてくれる愛おしい人や、一緒に歩いてくれるかけがえのない仲間がいるかもしれない。そういった「もしかしたら」の一つ一つを紡ぎ合わせ、作品に昇華してみたのが本作『キリエのうた』なのではないでしょうか。
新宿駅南口で、一人ギターを抱え、いつライブを始めるのか、それともただそこに座っているだけなのか。それすらも定かではない一人の女の子――その背景には広がっているかもしれない架空の物語を切り取って、岩井俊二ならではの映像美で映画に仕上げたもの。それが『キリエのうた』なんじゃないかな、と。
――とまぁ、まだ映画も見ていない癖に、想像だけで分析してみたのですが。
とりあえず今日のところはここまでにして、映画を観た後で、その感想など書き足しておきたいと思います。
『キリエのうた』映画版を観て
さて、本日は10/19(木)。
映画版を観てきましたので幾つか感想を書きたいと思います。
①小説版とは異なる構成・凝縮されたエピソード
映画の冒頭が北海道でのルカとマオリのシーンで始まるなど、物語の大筋はほぼ同じですが、構成の異なる部分が多く見られました。ただしそれによりしきりに時間軸が行き来するので、原作を読んでない人には「今目の前のこのシーンがいつの話なのか」を瞬時に理解するのが難しいかも。
②ルカ=キリエ=アイナ・ジ・エンド
2023年現在のキリエを名乗るルカと、2011年に夏彦と恋に落ちたルカの姉のキリエが、どちらもアイナ・ジ・エンドという配役は、最初は抵抗を感じました。しかしほくろの有無やアイナの演じる性格など似て非なる部分もあり、見ているうちに馴染んだように感じます。2023年に5年ぶりにルカと再会した夏彦が、キリエと酷似する成長を遂げたルカを前に慟哭するシーンがこの映画の見どころだけに、後々考えればやっぱりこれがベストだったのでしょう。
③イッコの過去、大幅カット
ここが原作と大きく違う点で、映画版では夏彦に勉強を教わって大学に合格する2018年の高校生時代しか描かれないんですね。ちなみに夏彦に対する淡い恋心らしき描写もなし。その後2023年にキリエと再会するまでの経緯をすっ飛ばし、奇抜なファッションに身を包む結婚詐欺女へと変わり果ててしまっているだけに、原作未読の人にとっては理解不能だったのではないでしょうか。一応、「アテにしていた母の再婚相手に逃げられて大学に通えなくなった」という理由が語られますが、だから結婚詐欺に落魄れた、とまで飛躍してしまうのは流石にかわいそうに思いました。映画の中でのイッコはさんざん削られまくって、あくまで「自分が嫌悪していた女を武器にして金を稼ぐ女」になった残念な人であり、キリエが唯一心を許せる親友という二つの主要素だけが残った感じです。原作版の感想でも「存在自体不要じゃね?」と書きましたが、まぁやっぱり必要性は薄かったんだろうな、という感想です。ただし演者である広瀬すずの演技力は抜群で、彼女抜きではこの映画は成立しなかっただろうとも思えるので、話の筋としては不要でも映画を撮るための要素としては不可欠なものでしょう。やはり映像的にも映えますしね。なんならプロモーション的にも広瀬すずの存在は大きかったのではないでしょうか。アイナ・ジ・エンドと松村北斗だけだとぶっちゃけちょっと弱いですもんねぇ。
④やっぱり夏彦の物語
原作同様、映画においても夏彦はかなり重要な位置を占めていました。震災前から今まで、キリエを繋がっているのは夏彦だけなのだから当然と言えば当然ですが、言葉が少なく、震災当時の記憶を失くしたというキリエに代わり、彼女の過去の姿を語れる人間としても唯一無二の人間です。
映像化によってキリエ(※ルカの姉)との関係もかなり鮮やかに描かれるとともに、夏彦のキリエに対する後ろ暗い想いというものも、原作より鮮明だったように感じました。特に大阪でルカを保護した風花に自分達の間柄について説明するに際し、まず最初に「あんまり好きじゃなかったんです」とキリエへの想いを吐露する下りは衝撃的でした。
特段好きとも思えない相手と、相手の好意に付け込むようにズルズルと肉体関係を結び、妊娠までさせてしまい……産んでいいとは言ったものの、自分の親にも言えず、産んだ後について具体的に何を言ってあげる事もできず、逃げ回っているうちにキリエは震災によっていなくなってしまった。
夏彦のキリエに対する想いが愛なのか、なんなのかという点に関しては観る人によって異なるのだと思いますが、僕はやはり、贖罪なのだと思いました。キリエに対して犯してしまった罪を償いたい、許されたいという思いが、ルカを守りたいという気持ちに繋がっているのだと。
……とまぁ、この作品、原作小説にしても映画にしてもやはり話題は夏彦に終始してしまい、いくらでも語れたりするわけですが、映画に関連するインタビューに色々と目を通す中、やっぱりと膝を打つ記事を見つけました。
夏彦はある種自分の思い出の集大成のような存在です。映画では主演じゃないけれど、物語を託しているようなところがあります。自分のなかでは『キリエのうた』を撮りながら、夏彦の映画を撮っている感覚がありました」
もともと(夏彦の物語が)独立した話だったというのは、最初にお会いした時に教えていただきました。
やっぱり『キリエのうた』は夏彦の物語だったんですね。
小説でも映画でも、夏彦が担う要素やパートが長い事もよく頷けます。
これでようやくすっきりしました。
アイナ・ジ・エンド
それにしても恐るべきはアイナ・ジ・エンド。
正直なところ、僕は彼女がちょっと前まで所属していたBISHというグループをよく知りませんでした。時々テレビ等で目にする度に「解散したアイドルグループのセンターがゴリ推しされるパターンね」というぐらいの穿った見方をしていました。
ところが『キリエのうた』の予告で初めて歌声を聴いて以来、僅か二週間程度なのですがすっかり印象が変わってしまいました。YOUTUBEやAMAZON MUSICで『憐みの讃歌』や『燃え上がる月』を毎日聴きまくり、昨日公開されたTHE FIRST TAKEは既にもう十回以上見ています。
歌唱力はもちろんですが、歌っている最中のパフォーマンスがとにかく素晴らしい。
『キリエのうた』の節々でも感じましたが、神々しさすら感じてしまいます。
アイナ・ジ・エンド自身も言うように決して優れた容姿の持主とは言えないと思うのですが、彼女の歌っている姿は可愛いでも綺麗でもなく、ただただ美しいと見惚れてしまいます。
瞳が大きくて、鼻筋が通って……という現在の画一的なルッキズムでは表す事のできない美しさは、もっと世の中に評価されても良いのではないでしょうか。
僕はひらすたに彼女の歌を聴いて、動画を再生する事で、本当に微力ながら彼女を応援したいと思います。