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年間100冊前後の読書を楽しんでいます。推理小説・恋愛小説・歴史小説・ビジネス書・ラノベなんでもあり。

『終わった人』内館牧子

定年って生前葬だな。

 

内館牧子終わった人』を読みました。

内館牧子という名前は聞いた事はあるものの、小説作品を読むのはこれが初めてです。

僕にとっては小説家というよりは有名な脚本家、もしくは度々ニュースで目にする大相撲の偉い人、という印象でしょうか。

 

いずれにせよ、著者がどうこうというよりは「定年退職後の男性を描いた小説」という作品そのものに興味を抱いて手に取った次第です。

その理由については、後ほど記したいと思います。

 

それでは、内容についてご紹介しましょう。

 

 

あらすじ

主人公は田代壮介。63歳にして定年退職を迎えたばかり。

彼こそがタイトルにある「終わった人」なわけですが、すごいのがその経歴。東大法学部を卒業後、大手銀行に勤務。エリート街道まっしぐらに突き進むも、出世街道から転落。定年前の十年強を、出向・転籍先の子会社で過ごしたという人物です。

 

仕事一筋で生きてきた田代にとって、仕事を取り上げられた生活は想像以上に苦痛でした。

エリートだった自分には、図書館に通ったり、カルチャースクールに通ったりと、そこいらのジジババのような生活は真似できないというプライドも邪魔をします。

そこで再就職のために就職活動をしてみたり、一転、大学入学を志してみたり、たまたま出会った39歳の女性に恋をしたりと、試行錯誤を繰り返す中、若きIT社長鈴木との出会いが生まれます。

鈴木は田代の経歴を知り、事業を手伝って貰えないかと持ち掛けます。好条件の顧問として社会復帰を果たした田代でしたが、ある日鈴木が急逝。残った若き役員らから社長就任を懇願され、あれよあれよという間に田代はIT企業の代表取締役に就いてしまうのでした。

 

 

定年後のジェットコースター

内館牧子氏の作品を読むのは初めてですが、すごい技量ですね。

定年を迎えた田代があれやこれやと次々手を出してはコレジャナイ、を繰り返す前半部の苦悩ぶりから一転、驚天動地の社会復帰。それだけに留まらず、社長就任に経営危機と、次から次へと休む間もなく物語が進展していきます。

口コミの中には「リアリティが」といった意見も散見されますが、現代のドラマ・アニメといったエンタメ創作物にも通じる展開の速さです。まさしくジェットコースター。しかもそれが定年後、本来であれば穏やかな老後を過ごすべき時期に展開される恐ろしさ。

そして……上のあらすじには触れませんでしたが、IT企業の社長として再び表舞台に飛び出したかに見えた田代が、すぐさま経営破綻によって真っ逆さまに急降下。全ての保証債務を負い、定年後の生活資金まで手放すハメに遭うに至っては、お見事としか言いようがありません。ジェットコースターのレールまで飛び出して、地面の奥底まで落としちゃいます。

 

とはいえまぁ、やっぱり口を挟みたくなるところはありますよ。

社長就任にあたって、会社の債務に対する保証責任はどうするか、といった点はしっかりと煮詰めておくべきだと思いますし、元銀行マンという経歴を考えればやっていて当然とも思いますし。

仮に全ての債務保証を覚悟の上で社長就任を引き受けたのだとしたら、正気の沙汰とは思えませんよね。これが安定企業ならともかく、吹けば飛ぶようなベンチャーITなわけですから。万が一の保身は考えてしかるべきでしょう。ましてや、そこで多額の債務なんて引き受けてしまえば自身の残された人生が真の意味で「終わって」しまう事は明白なわけですし。

 

そのあたり、強引かなぁとも思うわけですが、改めて考えてみると、それは僕達読者側が期待したものと、作者が書きたかったもののズレだったのだろうとも思えてくるのですね。

 

 

田代壮介は終わっていない

ここの認識の違いですね。

僕達は「定年退職して終わった人の話」だと思って本作を読み始めるわけですが、主人公の田代壮介は実際には「終わっていない」わけです。少なくとも本人はそう思っている。

作中の言葉を借りるならば、「成仏していない」という事になります。

 

そこで作者は、田代を成仏させるために再び社会に復帰させるわけです。

それにより田代は、会社を潰し、1億以上あった老後資金を溶かし、妻にまで愛想を尽かされ、成仏せざるを得ない状況にまで陥ってしまいます。

真の意味で、「終わった人」になるのです。

 

本書にとっては、ある意味ではここまでが序章でありプロローグと言えるのかもしれません。

そこから田代は、意気揚々と毎日を送る妻に対し、まるで受刑者のような態度で接し続けます。

専業主夫として掃除洗濯をし、食事を用意し、妻の顔色を伺いながら、贖罪の日々を送るのです。

そんな中、ひゅんな事から故郷盛岡の同級生達と再会を果たした田代は、故郷に想いを募らせるようになります。しかし妻は、絶対に一緒に帰郷するなんて言うはずがない。ましてや勝手に老後資金を溶かしてしまった田代には、それを提案する権利もない。

妻もまた、夫の気持ちを知りつつも、今さら離婚するふんぎりもつかない。かといって凍り付いた二人の関係は、毎日顔を合わせるのも苦痛でしかない。

 

こうして振り返ってみても、前半から中盤にかけてのやや強引な展開がどうでもよくなるぐらい、終盤部の夫婦の葛藤が生々しいのです。

この生々しさというのは、単に定年退職して「終わった人」としてうじうじ毎日を過ごす男からは生まれ難いでしょう。まだ成仏していない田代が、強制的に成仏させられ、社会的にも夫婦関係の上でも、真の意味で「終わった人」に陥ったからこそ生まれるドラマなのだと思います。

 

なので、本作は「終わった人」の物語だと思って読むべきじゃないんですね。

まだ成仏しきれていない定年後の男が、真の意味で「終わった人」になり、その後の人生について思い悩む物語なのだと思います。

口コミではいろいろと賛否両論ありますが、僕は非常に素晴らしい良書だと思いました。

 

 

余談

さて、冒頭にも触れた「本書を読む至った理由」なのですが。

実は、知人に似たような人がいるのです。定年退職を迎え、毎日趣味であるスポーツにだけ精を出す毎日を過ごされている人。仮にA氏としましょう。

 

僕はA氏とサークル活動のようなものを介して出会ったのですが、その人がある日、一人の女性を連れてきたんですね。彼女はA氏よりも一回り以上若い年齢です。こちらはB美さんとでもしましょう。

B美さんも同じスポーツを始めたばかりで、たまたまA氏と出会い、一緒にやらないかと誘われたのだというのです。

それから彼女は、僕達のサークルに参加するようになりました。

 

A氏とはそれ以外にも、度々一緒に活動しているようです。

一回り以上離れているとはいえ、男女二人きりで行動したりして大丈夫なのかな、と気にはなっていたのですが、不安が的中したのはつい先日。

サークルで暑気払いを行った翌日の事でした。

 

「実は相談したい事がありまして」

 

それまではサークルのLINEグループ上でのやりとりしかなかったのですが、突然B美さんから直接メッセージが送られてきたのです。

まぁ想像がつくかとは思いますが、暑気払いの後、帰りの車の中でA氏に肉体関係を迫られたというのですね。

 

その場はうまく断って逃げたものの、今後A氏には会いたくない、というのがB美さんからの相談。

もちろんそれまで二人きりで行動するなどB美さんにも明らかに過失はあるのですが、それによりA氏はすっかり勘違いしてしまったようなのです。

 

このA氏というのが、いわゆる聖職者と呼ばれる職業に就いていた人で、見た目からにもいかにも生真面目で、外見にも無頓着。およそ女遊びとは無縁そうなだけに、僕にとっても非常に驚きでした。

ましてや定年後の年齢ですから。えー、その歳で?というのが正直な気持ち。

 

ところが後々考えてみると、だからこそ、だったりするのかなぁと思えてきたりもするのでした。

聖職者という、一般の会社勤めよりも品行方正さが求められる職業。

これまでの人生で女遊びなど無縁。多分、これからもそんな機会はないであろうと自他ともに思っていた矢先、定年して悠々自適な暮らしを送る中、たまたま出会った一回り以上若いB美さん。

しかも彼女は、誘われるがまま一緒に(スポーツをしに)出掛けてくれる。

 

だからこそ、勘違いしてしまったのかな、と。

 

ちなみに二人で運動後に温泉で汗を流したり、食事や観光に立ち寄ったりしなかったの? と聞いたところ「言われた事はあるけど早く帰りたいんでって断ってました」との事。

いやぁ、A氏。これは脈ないよ。この状況でホテルに誘うのは、いくらなんでも無謀過ぎる。

 

とはいえ同じ男として、一回り以上年上のA氏になんだか無性に同情してしまう部分も多々ありまして。

自分もあの歳になって、若い女性と仲良くなったら同じように舞い上がったりするのかなぁ、なんて。

 

そんなA氏の事件が僕の身辺を賑わせている間にたまたま本書を知り、田代氏の迷走ぶりはA氏とも重なるようで、読んでみようと思ったのでした。

 

今から二週間前には、折よくABEMA Primeで高齢者の性について特集があったばかり。

 

 

幾つになっても人間、恋と性欲からは離れられない……ものなんでしょうか?

なかなか考えさせられるテーマですね。

 

 

『リーダーの仮面』安藤広大

 リーダーの仮面をかぶって仕事を進めて、人から嫌われたとしても、それはあなたの人格が否定されたわけではありません。

 いちいち落ち込む必要などないのです。

安藤広大『リーダーの仮面』を読みました。

当ブログでビジネス書・自己啓発書の類を取り上げる事は少ないのですが、先日、現在の勤め先の社長が本書をやたらと人に進めていたので、読んでみることにしました。

 

”識学”とは

著者の安藤広大氏はマネジメントコンサルティング会社である(株)識学の代表です。

つまりは”識学”という中間管理職向けのマネジメントシステムを商売にしている会社の社長さん、という事になります。

本書はというと、その”識学”について書かれたいわば識学のPR書・教科書的な本になろうかと思います。

 

……なんて書くと、ちょっと怪しさが漂ってしまいますね(笑)

 

では実際のところ、”識学”がどういうものであるのか、本書に沿って解説します。

 

 

リーダーは人間性を排除せよ

”識学”は非常に極端な考え方で、リーダーにとってカリスマ性や人間的魅力は不要だと言います。

「ルール」「位置」「利益」「結果」「成長」の5つのポイントに絞ってマネジメントを行えばいい、とするのです。

そのためには飲み会のようなイベントも不要。そもそも部下と仲良くする必要などない。仮面をかぶったつもりで、粛々とマネジメント業務を遂行せよ、とまで言います。

 

5つのポイントについて一言で言うなれば、

 

「ルール」

  言語化されたルールを作る

   →厳守。例外・特別扱い厳禁。

 

「位置」

  上下の立場を明確に。

   →指示・命令は絶対。

    結果が出ても褒めるな。

 

「利益」

  利益の有無で人を動かす。

   →言い訳を潰し、事実だけを拾え。

 

「結果」

  結果が全て。プロセスは評価するな。

   →結果に繋がらない努力は無意味。

 

「成長」

  目の前ではなく未来の成長を選ぶ。

   →リーダーは先頭を走るな。

 

ざっと上記のようなものになります。

これだけでもかなり尖った考え方だという事がわかりますね。

 

 

経営者らが飛びつく理由

しかしながら(株)識学は僅か三年で上場を果たし、本作は70万部を超えるベストセラーに。弊社の社長もそうですが、識学に傾倒する経営者は後を絶ちません。

その理由はなんなのか……漠然と知る事ができました。

 

要するに”識学”とは「経営者にとって耳障りの良いマネジメント手法」なのです。

カリスマ性や人間的魅力は皆無ですから、部下の機嫌を取ったり、顔色をうかがったりする必要はありません。結果を出した部下をいちいち褒める必要もなく、努力や労力といった義理人情で訴えてくる部下に対しては結果が全て、とぶった切ります。その結果として仮に部下が付いてこなかったとしても、それは上司(=経営者)の人格を否定するものではありません。

 

”識学”ではそれでいい。いや、そうするべきだ、と言うのです。

 

経営者にとって、これほどまでに耳障りの良い考え方はないと思いませんか?

僕は3分の1ぐらい読んだ時点で、なるほどなぁと感心してしまいました。

 

もちろん全てがそういった偏った話ばかりではなく、普通にビジネス手法として使えるものもたくさんあります。

目標設定は数値化する、プロセスは自分で考えさせる、といったものは一例として挙げられるでしょう。

この辺りも、サラリーマンとしての経験の薄い二代目、三代目経営者にとっては目から鱗が落ちる思いなのかもしれません。

 

 

本音と建て前

そしてこの本のよくできている最たる点は、あくまで「これからリーダーになる人のための必読書」として書かれている点です。

著者は、あくまでリーダーたる人に語り掛ける体裁で書いているのです。

これが本当に上手い。

 

この本を手に取った経営者からすると「これだよ!本当のリーダーシップってこういうものなんだよ!」と思わず膝を打ちたくなるに違いありません。

 

要するに本書は、建て前としては「リーダー向け」として書かれているにも関わらず、本音としては実際的にクライアントとなる「経営者向け」に書いているのです。

読んだ経営者は「これは(自分にとって都合の)とっても良い本だ」と感動し、幹部や部下に本書を回覧したりしてしまうわけです。

弊社の社長のように。

 

ところが不思議な事に、本書のAmazonレビューにも、「時代錯誤」「ブラック」といった辛辣な感想が多く見られます。

当たり前ですよね。

リーダー向けと書いてはありますが、あくまで経営者の心に寄り添う形で書かれているのですから。

リーダーの立場にある、またはこれからそういった立場になろうという人が、お題目通り期待して読んだら、的外れに感じてしまうのは仕方がありません。

 

上記のような低評価レビューは、本音と建て前が違うという本書の建付けが生んだ歪と言えるかもしれませんね。

 

 

”識学”はアリかナシか

さて、僕の見解です。

結論から言ってしまえば、どちらでもありません。

アリと思える人もいるでしょうし、ナシナシ、絶対ナシという人もいるでしょう。

こんなもん導入された日には会社が潰れるぐらいの否定をする人も少なくないかもしれません。

 

でもそれもこれも、人対人の問題なので何が正解かなんてわからないし、そもそも正誤の判断なんてつけようがないと思っています。

識学的に、まるで仮面をかぶったかのようなリーダー像でうまくいく会社もあるでしょうし、もっと一人一人にコミットして、泥臭く濃密な人間関係を築いて成功する会社もあるでしょう。

 

いずれにせよリーダー論・組織論なんてものは千差万別・十人十色の世界で、しかもビジネスの場合にはリーダー論なんてもの自体が数ある課題のなかのほんの些末な要素でしかないので、それでもって成功した、失敗したと論ずる時点で安直だな、と思ってしまいます。

日露戦争日本陸軍のように、どんなに屈強で組織だった軍隊があったとしても、本体が財政難で喘ぐような状況では本来のポテンシャルを発揮するのは難しいでしょうし。

どんなに優良企業でも、コロナ禍のような外的要因で呆気なく破綻するケースも多々ありますし。

 

まぁもちろん、上記のような大局での見方は別として、今まさにリーダー的ポジションに就いたばかりで、どんなリーダー像が相応しいか日々頭を悩ませている人々もたくさんいるはずで、そういった方が藁にも縋るような想いで本書のようなビジネス書に手を伸ばすパターンも少なくないのでしょうけど。

 

特効薬なんてものはないので、様々な本を読んだり、そこで得た学びやヒントを活かしたり、精一杯やってみるしかないですよね。

一つだけアドバイスがあるとすれば、たった一冊の本の考え方に妄信してしまったりするのはよくないですよとだけ、付け加えささせていただきます。

では。

 

 

『マディソン郡の橋』Robert James Waller

〈この曖昧な世界では、これほど確信のもてることは一度しか起こらない。たとえ何度生まれ変ったとしても、こんなことは二度と起こらないだろう〉

ロバート・ジェームズ・ウォラーマディソン郡の橋』を読みました。

今さらご紹介するまでもなく、滅茶苦茶有名な作品ですよね。

ブックオフなんかに行くと未だに100円コーナーに並んでいるのを見ますし、僕の実家にもなぜか本が会った事を覚えています。

当時は読む気もしなかったのですが。

ふと思い当たり、今さらながら読んでみる事にしました。

 

あらすじ

主人公のフランチェスカは農村で暮らす平凡な主婦。

同じく平凡な夫リチャードとの間に、二人の子供に恵まれ、平々凡々と暮らしています。

そんな穏やかな毎日を送る中、夫が子供を連れて旅行に出かけたある日、激震が走ります。

カメラマンであるロバート・キンケイドが道を尋ねにやって来るのです。

ひと目見て、二人は恋に落ちてしまいます。

フランチェスカは率先して道案内に乗り出し、撮影が済んだ後は、キンケイドに食事を振る舞います。

そのまま何事もなく一度は別れを告げる二人でしたが……後ろ髪引かれたフランチェスカは、翌朝彼が再び訪れるであろう橋のたもとに、置き手紙を残すのです。

キンケイドは手紙の誘いに応じて再び彼女の家を訪問。そして――互いの間に迸る想いを抑えきれなくなった二人は、溺れるような四日間を過ごします。

フランチェスカ四十五歳、キンケイド五十二歳で初めて経験する、奇跡的で運命的な巡り合いでした。

 

リチャード達が帰るという日、キンケイドはフランチェスカに一緒に来ないかと提案しますが、残された夫や子どもを懸念した彼女は、苦渋の中、彼の申し出を断ります。

そうして二人は永遠の別れを告げるのですが、以後の人生も、二人で過ごした四日間と相手の事を想いながら生きるのでした。

 

……とまぁ、ざっくりあらすじをまとめてみると、なかなかに微妙な物語です。

要するに「家族の不在中、たまたま訪れた旅人と恋に落ち、その秘密の恋が忘れられない主婦の話」いう事にでもなりましょうか。いわゆる”不倫モノ””不貞モノ”の代名詞とも呼べる作品と言えそうです。

 

実際に不倫した芸能人なんかはマスコミや世間から袋叩きに遭い、仕事も干されるといった致命傷を負うわけですが、一方で不倫を題材にした小説・マンガ・ドラマといった創作物は、現在においても常に一定の人気を集め続けています。

不倫・不貞を許せないものとして位置づけつつも、ある意味では誰しも心の奥底では不倫願望のようなものを抱いており、退屈な日常を一変させる王子様やお姫様の登場に憧れている事の証明だったりもするのだと思うのですが、そこには一つ、共通する重要な条件があるようです。

ただただ性欲だけを理由にとっかえひっかえ男漁り、女漁りを繰り返すような物語はあまり見られないんですね。そういった作品はエロ本・官能小説ぐらいでしょうか。いずれにせよ一般大衆向けには受け入れられないようです。

 

では人気の作品は何が違うのかというと……傍からみれば不純・不倫・不貞な関係なれど、本人達にとっては至って純愛であるという点でしょう。

 

不純な関係の間の純粋な愛

本書の中でも、家族のいない間に間男を自宅に引きずり込んだフランチェスカはとんでもないあばずれのようにも思えます。しかしながらあえて彼女を擁護しておくと、フランチェスカの行動はあくまでキンケイドを想う心からやむなく発してしまったものなのです。

それまでの四十年以上にもわたる人生の中で、いや、その後の人生も含めたフランチェスカの生涯において、たった一度だけ訪れた運命の出会いこそが、キンケイドでした。

彼女が結婚し、子どもを産み、四十五歳になった今になってキンケイドとの出会いが訪れたのは、運命のイタズラとでも言う他ありません。当事者たる彼ら二人も、夫や子どもに対する裏切り行為にあたるなんて事は重々承知の上で、それでも互いの想いを抑える事ができないのです。

 

この「わかっていても止められない」「不純な関係だけど想いは純愛」的な構図こそが人気の秘訣なのでしょう。

 

なおフランチェスカは夫や子どもとの生活を守る選択をしますが、以後もずっとキンケイドを想い続けます。

彼とダンスを踊った時に着たワンピースを大事にしまい、彼と歩いた場所を訪ね、あの夜と同じようにブランデーを傾けては、忘れられない四日間に想いを馳せたりします。

 

そんなフランチェスカの姿は、いじらしくもあり、美しくも見えるのでしょう。

沢山の人の共感を呼び、本作は世界的なベストセラーとなりました。

 

 

運命のイタズラ……で許容できますか?

ただし、批判を恐れず断言してしまえば、流石に時代遅れな点も否めません。

上にも一度触れましたが、現代において不倫は禁忌です。薬物違反や人身事故等によって刑事罰を受けた芸能人が簡単に復帰を遂げる一方、不倫のスキャンダルを報じられた芸能人は、より長い期間干された状態が続いたりします。

もちろん芸能人がイメージ商売であるという点も重要ですが、一般社会においても、数年前から比べれば不倫に対するイメージは格段に悪くなっていると言って間違いないでしょう。

 

フランチェスカとキンケイドは、運命のイタズラによって不幸なタイミングでの出会いを果たしました。

あと二十年早ければ。もっと若かりし頃に二人が出会う事ができていたならば。

きっと二人はもっと自然な形で、もっともっと大きな幸せを手に入れる事ができていたはずです。

しかしながら全ては運命のイタズラのせい……という解釈が許されたのは、やはり本書が書かれた1990年代という時代だからこそ許された部分もあるでしょう。

 

googleで『マディソン郡の橋』と入力するとサジェストに「気持ち悪い」という言葉が出てきます。

本書発行から30年が経ち、現代を生きる人々にとっては真っ当な感覚と言えるかもしれません。

 

夫も子もある身で、その日出会った相手に一目惚れするだけに留まらず、自宅に招き入れてあちこちで性行為を行う。

あまつさえそれらを美しい思い出として書き留めた上、自分の子ども達に遺して死んでいく。

母親が死んだと思ったら、残された手帳から生々しい不倫の一部始終とともに、「私を愛しているのなら私のしたことも愛しなさい」などという手紙が見つかるのですから、自分の身に置き換えてみたらおぞましいどころの騒ぎではありません。

気持ち悪い、というのは極めて自然な感想であって、運命のイタズラなんだからしょうがないね、最期まで想い合っていた二人は美しいね、と済ませられる人はかなりの少数派なのではないでしょうか。

遺された二人の子どもはもちろん、妻の秘めたる想いに薄々感づきながら、先に旅立っていった夫のリチャードを不憫に思う人も多い事でしょう。

もちろん、現代日本と1990年代アメリカでは感覚も大いに違うのでしょうけど。

 

二人の関係が純愛だったとも、結局ただの不貞だったとも、僕はどっちの感覚も理解できる年齢なので、読むタイミングとしては非常に良かったな、と感じています。

まぁただやはり昨今の小説に比べると全体的にちょっと単純だし、あっさりし過ぎているかなぁという感覚でした。そのせいか、二人が結ばれるまでの過程も拙速に感じてしまったようです。

その点、映画版はだいぶ原作とも違っているようですし、メリルストリープとクリントイーストウッドの演技で、どこまで説得力を持たせられるものなのか非常に気になります。

時間が空いた時にでも、観てみたいと思います。

 

 

『すべて真夜中の恋人たち』川上未映子

真夜中は、なぜこんなにきれいなんですか。真夜中はどうしてこんなに輝いているんですか。どうして真夜中には、光しかないのですか。

 

川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』を読みました。

今年の春先から続いていた乃木文学の追求も前回の『こころ』をもってひと段落し、改めて全く違うジャンルの作品が読みたいと思った次第です。

細かい前置きは抜きにして、早速ご紹介していきます。

 

簡単なあらすじまとめ

主人公はフユコ。

フリーランス校閲者として働く34歳の独身女性で、唯一の楽しみは誕生日の夜に一人で散歩すること。

人付き合いも苦手で、趣味もなく、そんな自分に多少の引け目を感じつ、実際に以前と勤めていた会社では変わり者のような扱いを受けていたにも関わらず、特に変化を求める事もなく、繰り返される日々の中で淡々と暮らし続けている……そんな女性。

 

ある日彼女は、自分がお酒を飲める事に気づきます。

缶ビールなら一本、日本酒なら一合で「わたしはいつものわたしではなくなることができる」ようになる事にも。

そこから彼女は、どんどん酒に溺れるようになっていきます。

最初は仕事が終わってから、寝るまでに時間がある時だけ飲んでいたはずが、あっという間に真昼間から日本酒やビールを開けるようになってしまいます。完全にアルコール中毒です。

 

そんなフユコはたまたま手にしたチラシがきっかけで、なにがしかの講座に申し込んでみようとカルチャースクールを訪ねます。しかし自分の番が回って来た途端、トイレに駆け込んで床に嘔吐するという大失態を犯します。

その時出会った男性が、58歳の物理教師・三束さんでした。

 

三束さんが勤めているという学校の近くの喫茶店で、度々二人は逢瀬を重ねるようになります。

その度にフユコは大量のアルコールを摂取し、足元もふらつくような状態なのですが、三束さんに気にする様子は見られません。そんな三束さんに、フユコはどんどん惹かれていきます。

 

三束さんの誕生日祝いにはこれまでした事のないオシャレをし、レストランで二人きりのディナーを過ごします。ついに想いを告げたフユコは、間もなく訪れる自分の誕生日には、二人で真夜中を一緒に過ごすと約束するのでした。

 

 

地味女のベタな恋愛

本書のストーリーを強引にまとめてしまえば、彼氏いない歴34年の地味女がたまたま出会った初老男性に対する生まれて初めての恋心を描いた作品、と言えるでしょう。

……う~ん、でもこうして文字にしてみるとさっぱり面白そうに感じませんね。

 

実際に描かれる二人の関係性も、地味です。

茶店でのデートが繰り返されるばかりで、フユコが常に酔っぱらっているという奇妙さも手伝い、恋愛小説にありがちなキュンキュン、ドキドキといった感覚とは程通りもの。会話の内容も互いの仕事に関わりのある校閲や物理に関する禅問答のようなものが大半を占めます。

 

物語がいよいよ盛り上がるのは三束さんの誕生日を祝うディナーデートですが……どこかぎくしゃくとした雰囲気ばかりが漂います。それもそのはず、フユコが美容室で施してもらった化粧は時代錯誤のとんでもないものでしたし、予約したレストランもオシャレで前衛的過ぎ、二人には似つかわしくないものでした。

そうとは気づかないまま、夢のような時間を過ごしたつもりのフユコが、友人の言葉によって夢から醒める場面は残酷です。残酷すぎます。

ほぼ平坦な日々を過ごしている彼女は、たまに勇気を出して違う世界に踏み出そうとする度に、必ずと言って良い程失敗し、あるいはピントがずれた行動により周囲から浮き上がり、嘲笑されます。フユコの人生は、ずっとこんな事の繰り返しだったのだと思うと、胸が痛みます。

 

 

光という暗喩

つまるところ本作は地味な女性の地味すぎる恋を描いた作品で、究極の恋愛というキャッチに惹かれて手に取った人の多くは肩透かしを覚えるのではないかと推察します。実際僕も、これはこれで面白いけど期待していた内容とはちょっと違ったかな、と思ってしまいました。

 

……が

 

ブログを書くために読み返していたところ、ふと気づいてしまいました。

本書の中で繰り返される”光”と、タイトルである「すべて真夜中の恋人たち」の意味を。

 

真夜中は、なぜこんなにきれいなんですか。真夜中はどうしてこんなに輝いているんですか。どうして真夜中には、光しかないのですか。

「光というのは、ほんとうに不思議なものなんですね。正体がよくわからないんです。」

「その……、三束さんが考えている光というのは、その、わたしの言っている光と、なんというか、おなじものなんでしょうか」

「もちろん、そうだと思いますよ」と言って、三束さんは笑った。

「おなじ光について話していると思いますよ」

光に、さわることってできるんですか。

 

これはあくまで個人的な見解である、と前置きしておきますが、彼らの語る”光”とは文字通りの意味以外の意味を持っているのだと思ったのです。

つまり、希望や憧れ、夢、愛といったキラキラとしたもの。

昼間の沢山の光の中では気づく事ができませんが、太陽が沈み、明かりが落ちた真夜中では、その存在がキラキラと浮かび上がって見える。でも夜が明ければ、全てまた元通り、儚く消え去ってしまう。

 

翻って見れば、フユコ(と三束さん)の毎日は真夜中で生きているようなものです。希望も、憧れも、夢も、愛も、何もない。そんな真っ暗闇の人生を生きる彼らだからこそ、光に憧れ、光に惹かれてしまう。でも光は決してフユコ達の手が届くことなく、夜が明ければ消えてしまう。

永遠に手が届かず、儚くキラキラと輝いて見えるもの――それがフユコたちにとっての光。

 

手が届かない事をわかっていながらも、キラキラと輝く光に惹かれずにはいられない、(すべて真夜中にあるような人生を生きる)恋人たち……というのがタイトルに隠された意図なのではないでしょうか。

そんな風に考えてみると、作中で描かれる一つ一つのエピソードや、二人の会話も、大きく印象が変わってきます。作品全体に、深みが増したように思えてきます。

 

まぁ上記のような考察が当たっているのが、的外れなのかはわかりませんが、このような考察を展開する余地があるという点も、本書の懐深さと言えるのでしょう。

少なくとも、一般的な恋愛小説としてだけ読むのは勿体ないように思えました。

 

一度は読んだことがあるという方も、ぜひ見方を変えて、再読してみてはいかがでしょうか。

 

 

『こころ』夏目漱石

痛ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止せという警告を与えたのである。

 

夏目漱石『こころ』を読みました。

坂の上の雲』以来、乃木希典の殉死に影響を受けたと言われるいわゆる”乃木文学”を読んできましたが、何よりも先に手に取るべきは『こころ』でしたね。

確か漱石は今から十年ほど前に、代表作と呼ばれるような作品は全て読んだはずだったのですが……正直なところ、『こころ』が乃木希典の殉職に関連する作品だなどとはさっぱり記憶していませんでした。

それどころか、内容すらほぼ忘れてしまっていたようです。

ネットでなんだかBL、BL騒がれていたなぁ、ぐらいの認識しか残っていません。

 

ちょうどよい機会なので、改めて『こころ』について読み返すとともに、備忘録兼ねて内容について記しておきたいと思います。

 

 

先生と私……そして一つの謎

作品の冒頭において、私と先生との出会いが描かれます。

鎌倉の海で、西洋人とともに海水浴にやってきた先生に私は興味を惹かれ、翌日以降も先生がやって来るのを心待ちにし、接触する事に成功するのです。

以後、東京に戻ってきてからも私と先生の不思議な関係は続くのでした。

 

不思議な関係というのは、つまるところ私から先生に向けられた恋愛感情にも似た想いです。私は先生に心酔し、先生の下を訪ねては、先生とともに過ごす時間に浸っていくのです。

この辺りの様子がBL(=ボーイズラブ)と呼ばれる所以なのでしょうが、この辺りの分析は既にインターネット上に山ほど展開されているのでやめましょう。

 

そして冒頭では、先生と私の関係の他、以後の物語の核となる重要な謎が提示されます。

 

それは先生が毎月決まった日になると墓参りに出かけるというものです。

先生は訳あり風でありながら、仔細を語ってはくれません。私が唯一知る事ができたのは、その墓は先生の友人のものである、という事だけでした。

 

しかしながらその墓は、先生がどこか厭世的な、世捨て人のような生活をする理由にも密接につながっているように感じざるを得ません。

日本の古典文学として名高い『こころ』は、先生の過去に一体何があったのかを探るミステリ小説と言えるのです。

 

 

ミステリというスパイス

もう十年以上前に読んだ評論で、「ヒット作を生み出したいならミステリというスパイスを足せ」というものがありました。

恋愛作品であれ、時代小説であれ、そこにちょっとした”謎”というスパイスを効かせろというのです。

言われみると、思い当たるかも……という作品、ありませんか?

何故か女嫌いの主人公とか、何故か剣を振るえない剣豪とか。敵か味方か、はたまた何を考えているかわからないミステリアスなキャラクターなんて、古今東西枚挙にいとまがありませんよね。

 

そういった小さな”謎”の一つ一つは、物語を盛り上げるスパイスとなり、読者の興味を大いにそそって、ページをぐいぐい読み進める力を与えてくれます。

 

「先生の過去に何があったのか」という一つの謎を持って、物語の最初から最後まで読者の興味を惹き付けてやまない本作は、上記のような”ミステリというスパイス”を効かせた作品のはしりと言えるのではないでしょうか。

先に書いた通り、僕が『こころ』を読むのは二度目になるのですが……二度目の今回、『こころ』の面白さに驚きました。翻ってみればそれは「先生の過去」に対する興味に他なりません。

一つ、また一つと明かされていく先生の過去に、読む手が止まらなくなるのです。

 

特に第三章にあたる『先生の手記』において、謎の核心に迫るに至っては、比喩ではなく、本当に読むのを止められなくなりました。

そうして全てが明らかになると……冒頭に描かれた墓の意味も、奥さんが先生にとってどんな人なのかも、それまで朧気にしか描かれてこなかった全てがくっきりと浮かびあがってくるのです。

 

これって、立派な本格ミステリじゃありませんか?

 

 

乃木大将の殉死

文豪夏目漱石が書いた純文学作品として、あるいは先生と私とのBL小説として、あるいは先生の過去を追うミステリ小説として、様々な楽しみ方ができる『こころ』ですが、忘れてはいけない点があります。

それこそ、僕が本書を読み返すに至った理由です。

 

それから約一カ月ほど経たちました。御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。

 

私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間あいだ死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。

 

それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。

 

先生は乃木大将の死に衝撃を受け、自分の身に置き換えて様々な想いを馳せた後、一つの決断へと至るのです。

『こころ』において乃木大将の死は、物語における大きな意味を持っていました。

 

……ホント、ねぇ。乃木文学だのなんだのと言っておきながら、今の今まで『こころ』に行きつかなかったのには恥じるばかりです。しかも『こころ』は一度読んだ事があるはずなのですが。

 

言い訳をすると、その頃は日露戦争乃木希典について全く知識がなかったものですから、上に引用したようなエピソードを読んでもさっぱりピンと来なかったのでしょう。乃木希典という人物について知った上で読むのと、知らずに読むのとでは全く印象が異なってきます。

初読の際には唐突に訪れたように見えた先生の死にも、深い理由があると思えるようになるのです。

 

改めて思いますが、やはり小説は、書かれた時代の社会的背景や人々の精神性について理解した上で読んだ方が百倍良いですね。僕は『人間失格』がさっぱり楽しめなかったという経験から太宰治を避け続けているのですが、今もう一度読み返したら楽しめるのでしょうか?

そろそろもう一度、日本の古典文学を読んでみる時期なのかもしれません。

 

 

『興津弥五右衛門の遺書』森鴎外

いかにも某は茶事の心得なし、一徹なる武辺者なり、諸芸に堪能なるお手前の表芸が見たしと申すや否や、つと立ち上がり、脇差を抜きて投げつけ候。某は身をかわして避け、刀は違棚の下なる刀掛に掛けありし故、飛びしざりて刀を取り抜き合せ、ただ一打に横田を討ち果たし候。

 

森鴎外『興津弥五右衛門の遺書』を読みました。

またまたマニアックな古典・短編です。

上に引用した通り、江戸時代の武士の手紙を模した文章はそうろう文。読みにくい事この上ありません。

 

ですが芥川龍之介の『将軍』同様、こちらも乃木将軍の殉死直後、森鴎外が発表したと言われています。いわゆる“乃木文学”と言えるでしょう。

 

さて、早速内容についてご紹介します。

 

遺書を書くに至る経緯

興津弥五右衛門は細川家の家臣。元々は沖津と言いました。茶事に用いる珍品を買い求めよという藩主の命を受け、同僚の横田清兵衛とともに長崎へと向かいます。

そこで見つけたのが伽羅の大木。

しかしながら横田との間に、一木の下部(末木)を買うべきか、より上質とされる上部(元木)を買うべきかで口論となります。

珍しい品を買って来いというのが主命なのだから当然元木を買うべきだと主張する沖津と、茶事ごときのために大金をはたく必要はないと主張する横田。

やがて横田の放った「阿諛便佞の所為なるべし(=このごますり野郎)」という一言に、沖津はカチンと来てしまいます。

 

それはいかにも賢人らしき申条なり、さりながら某はただ主命と申物が大切なるにて、主君あの城を落せと仰せられ候わば、鉄壁なりとも乗り取り申すべく、あの首を取れと仰せられ候わば、鬼神なりとも討ち果たし申すべくと同じく、珍らしき品を求め参れと仰せられ候えば、この上なき名物を求めん所存なり、主命たる以上は、人倫の道に悖り候事は格別、その事柄に立入り候批判がましき儀は無用なり

 

文章は相変わらずのそうろう文ですが、いかにも顔を真っ赤にして早口で言ってそうな雰囲気が伝わってきます。某掲示板のレスバトルのようです。

最終的に、以下のような流れで悲劇が起こってしまいます。

 

沖津「香木の価値がわからないとか頭悪すぎワロタ」

横田「あーそうだよ。俺は武芸にしか能がないんで。お前はなんでもできるらしいから腕前見せてみろよ(脇差投げつけ)」

沖津「(脇差かわしつつ)やりやがったな(刀抜いてグサリ)」

 

国へ帰った沖津は三斎公に「切腹します」を願い出ますが、三斎公はその献身ぶりに胸を打たれ助命するとともに、自ら横田の子どもと和解の場を設けた上、自身の名では細川忠興から興の一文字を与えます。以後、沖津は興津と改めるようになりました。

興津が持ち帰った香は珍重され、以後も興津は細川家中で大いに引き立てられる事になります。

やがて三斎公がこの世を去るにいたり、自分が今の今まで生きてこられたのは三斎公の大恩あってこそ、とその一年後、興津は殉死を遂げます。

事前に当代藩主に暇乞いした際には茶を振る舞われ、引出物をいただき、さらに多くに人々からも餞別を送られます。自刃の際には立会人に見守られ、大勢の見物客の中で腹を切るという立派な最期でした。

 

本作の大部分を占める遺書とは、この殉死の際に興津が息子と、その子孫に向けて書き残したものなのです。

 

 

乃木将軍の殉死との類似点

冒頭にも書きましたが、本作は森鴎外が乃木将軍の殉死の一報を受けて書いた作品です。

以下、Wikipediaより抜粋。

 

1912年9月13日に行なわれた明治天皇大喪の礼に出席した帰りに乃木大将の殉死の報を受ける。一般国民の多くは殉死を賛美する一方、報道機関や知識人の一部には否定的な論調があり、また乃木の遺書はなかなか公表されず、公表されたものは一部改竄されていた。そのような騒動の中、鷗外は同作の執筆に取り掛かり、9月18日に青山斎場で行なわれた乃木の葬儀の帰りに中央公論に原稿を渡した。翌10月に掲載されたが、史実に関する資料整理を行なったうえで、翌1913年(大正2年)春に改作した。

 

本作における興津同様、乃木希典は生涯に二度、明治天皇に死を願い出た事があると言われています。

一度目は西南戦争の際、敵に軍旗を奪われた失態から。

二度目は日露戦争において大量の犠牲を出した責任から。

しかしその二度とも、明治天皇は許しませんでした。

 

「今は死ぬべきときにあらず。もし死を願うなら、朕が世を去りてからにせよ」

 

死を乞うた乃木大将を、明治天皇はこう言って諫めたと言いますが、その言葉通り、乃木は夫婦ともども明治天皇の後を追って殉死したのです。

 

「うつし世を 神去りましゝ 大君の みあと志たひて 我はゆくなり」

 

あの世の明治天皇も、まさか言葉通り乃木が殉死するとは思っていなかったのではないでしょうか。

人生のある一点において死を免れ、その後も大恩を受けた主君の死に殉じようとする。

明治天皇と乃木大将の間柄は、まさしく本書の興津と三斎公の関係に重なります。

 

 

100%の創作ではありません

なるほどなぁ、乃木大将の殉死にインスパイアされて森鴎外が作った話なのね……と思いきや、そうではありません。

本作には元となる物語が存在するのです。

それも明治からは遥か昔、江戸時代の随筆集「翁草」に収載されている『細川家香木』が元になっています。

興津と横田が香木を買い付けにいくという話の筋も、彼ら登場人物の名前も、後に香木に付けられた名前すらも、すべてが一緒です。そっくりそのまま森鴎外テイスト(武士の遺書風)に書き換えただけと言い換える事もできるでしょう。

 

ですからおそらくは、乃木将軍の殉死に際して、森鴎外は元から聞き覚えのあった「翁草」の一節を思い出し、重ね合わせたというのが正しい流れなのでしょう。

明治天皇に殉じただと⁉ それじゃあまるで「翁草」の興津弥五右衛門のようじゃないか!」と。

 

江戸時代の武士の生き様にもよく似た乃木希典の生き様……最後の武士と呼ばれる所以も、よくわかるような気がします。

それにしても乃木将軍、本当にいろいろなところに影響を与えていますね。

 

他にも僕も以前読んだ事のある、有名なあの文豪のあの文学作品もまた、乃木文学のひとつに数えられるというので、次はそちらを再読してみようと思います。

では。

 

 

『将軍』芥川龍之介

が、自殺する前に――」
 青年は真面目まじめに父の顔を見た。
「写真をとる余裕はなかったようです。」

 

芥川龍之介『将軍』を読みました。

 

一時期青空文庫にはまっていた時期があって、芥川龍之介はよく読んだんですよね。

未だに『地獄変』『鼻』『蜜柑』『芋粥』あたりは本当に面白い作品だと思ってますし、漱石や太宰に興味を持ったという若者には「そんな読みづらいのに手出してもどうせ途中で読むのをやめるようになるから、こっちを読んだ方がいい」と勧めていたりします。

読書感想文にも最適ですよね。なにせ短いですし。

でもこの『将軍』という作品は未読でした。正直、作品名も初めて聞きました。芥川の作品を勧めている人の中にも、本作を挙げている人は少ないんじゃないかな。

 

そんな作品をなぜ今さらかと言うと、『将軍』のタイトルに注目です。

将軍と言えば一般的には徳川なイメージかと思いますが、本作に登場するのはN将軍……しかも時勢は日露戦争の真っただ中。

 

そうです。本作は『坂の上の雲』にも登場したあの乃木希典将軍を描いた作品なのです。

坂の上の雲』を読んで乃木将軍に興味を持ったとすると、やはり手軽に読めるこちらには手を出さずにはいられませんよね。本作もまた、乃木夫妻の殉職によって巻き起こったという乃木文学の一つと言えるのでしょう。

 

それではさっそく内容についてご紹介したいと思います。

 

 

N将軍を描く四つのエピソード

本作は短編なのですが、その中でも4つのエピソードに分けて語られています。

 

『一 白襷隊』

二〇三高地奪還に向けて結成された白襷隊。

彼らは死を覚悟せざるを得ない任務を目の前に、様々な軽口をたたいています。一人 堀尾一等卒だけが、選ばれたのは名誉だの死ぬのが任務だという言葉に不満そうにしています。

そこへ現れたのがN将軍。彼は一人一人の手を握り、「大元気で」と声を掛けて回り、今回の作戦がいかに重要であるかを説いて回ります。

N将軍の激励に感銘を受けた堀尾一等卒は、将軍の握手に報いるため、肉弾になろうと決心するのです。

その後、敵の手りゅう弾によって黒焦げになった味方の死骸が転がり、砲弾が飛び交う中、大笑いする男の姿がありました。よく見ればそれは、頭部に傷を負い気が狂ってしまった堀尾一等卒の姿でした。

 

『二 間牒』

A騎兵旅団(秋山?)の参謀が、小屋の中で捕まえた二人の中国人を取り調べしています。

二人は無罪を主張。そこへやってきたのが、N将軍ら旅団将校でした。

裸にされた中国人を見るなり、N将軍は靴を調べろと言います。靴の中には地図や秘密書類が隠されていました。

処刑を命じられた田口一等卒は二人を外に連れ出しますが、観念したかのような中国人の態度になかなか剣を振るえません。そこへ通りかかった騎兵が、俺にも一人斬らせろと声をあげます。

小屋から出てきたN将軍は「斬れ! 斬れ!」と命じ、一刀両断に斬り捨てた騎兵に「よし。見事だ。」と愉快そうに頷きながら去って行きます。

一部始終を見ていた穂積中佐は、「勲章に埋ずまった人間を見ると、あれだけの勲章を手に入れるには、どのくらい××な事ばかりしたか、それが気になって仕方がない」と身震いするのでした。

『三 陣中の芝居』

軍司令部や外国の観戦武官の中で、芝居が供されます。

しかし一幕目、ふんどし姿の主人と下女が相撲を取る段になった途端、N将軍は「なんだその醜態は!」と怒鳴り、芝居を中断させてしまいます。

何事かと戸惑う外国の観戦武官に、穂積中佐は「将軍は下品な事は嫌いなのです」と説明します。

続く二幕目も、「余興やめ!」と怒鳴るN将軍。男女の相撲ですら黙っていられない将軍にとって、男女の濡れ場などもってのほかでした。

しかし三幕目、強盗を捕まえた巡査が致命傷を負い、介護する署長に「何も心残りなどない」と誇りを告げる愁歎場に至っては、将軍は涙を流して感動します。

将軍は善人だ、と穂積巡査は軽い侮蔑とともに好意も感じるようになります。

 

『四 父と子と』

こちらはぐっと時代が下がって、日露戦争から二十年余り過ぎた頃。

当時の軍参謀中村少佐の下へ、息子がやってきます。

壁の絵を掛け替えた息子に、中村少佐は「N閣下の額だけは懸けて置きたい」と注文します。しかし、息子にはその気持ちが理解できません。

息子が掛けたレムブランドの絵を見ながら、中村少佐は問いかけます。

 

「あれもやはり人格者かい?」
「ええ、偉い画描きです。」
「N閣下などとはどうだろう?」
 青年の顔には当惑の色が浮んだ。
「どうと云っても困りますが、――まあN将軍などよりも、僕等に近い気もちのある人です。」
「閣下のお前がたに遠いと云うのは?」
「何と云えば好いですか?――まあ、こんな点ですね、たとえば今日追悼会のあった、河合と云う男などは、やはり自殺しているのです。が、自殺する前に――」
 青年は真面目まじめに父の顔を見た。
「写真をとる余裕はなかったようです。」
 今度は機嫌の好い少将の眼に、ちらりと当惑の色が浮んだ。

 

結局分かり合えないまま、親子はこの話題を打ち切ります。

 

 

十人十色の乃木将軍

芥川龍之介がどこまで乃木将軍本人の人柄に寄せて書いたのかはわかりませんが、本作では四つのエピソードそれぞれで、違った角度から乃木将軍の人となりを描いています。

特に興味深いのは、『四 父と子』でしょう。

 

明治天皇崩御に際し、乃木夫妻が殉死を遂げた事は、日本中で熱狂の渦を巻き起こしたそうです。

葬儀には何十万人もの人が詰めかけ、その人数は伊藤博文の数倍だったと言われるほど。

後にその死を悼み、日本各地に乃木神社が創設された事でも反響の大きさがうかがい知れます。

 

僕は将軍の自殺した気もちは、幾分かわかるような気がします。しかし写真をとったのはわかりません。まさか死後その写真が、どこの店頭にも飾られる事を、――」

 

上記のような一文からも、当時の熱狂の様子が伝わってきます。

どこの店頭にも、死の直前に撮影された乃木将軍の写真が飾られていたというのです。民衆がどのように乃木将軍の死を捉えていたか、よくわかります。

しかもそれは日露戦争に従軍していた中村少佐らの世代はともかく、その子ども達の世代にはさっぱり理解できない趣向であった、という事実もまた、本作からは垣間見えてくるのです。

 

「それは酷だ。閣下はそんな俗人じゃない。徹頭徹尾至誠の人だ。」
 しかし青年は不相変、顔色も声も落着いていた。
「無論俗人じゃなかったでしょう。至誠の人だった事も想像出来ます。ただその至誠が僕等には、どうもはっきりのみこめないのです。僕等より後の人間には、なおさら通じるとは思われません。……」

 

いやぁ、実に面白いですね。

乃木将軍の殉死と、それによる世間への影響の大きさがひしひしと伝わってきます。

 

読んだ後に、色々と考えさせられる。本当に面白いと思わせてくれます。

まさに僕がイメージする芥川の短編、という印象です。

……とはいえ本作に関しては、『坂の上の雲』を読み、乃木希典の人となりや殉死の経緯等を知らなければ、なんのこっちゃで終わってしまうでしょうけど。

 

そうでないかた、それなりに乃木将軍の事は知ってるよという人には、ぜひぜひおすすめしたい短編でした。