定年って生前葬だな。
内館牧子という名前は聞いた事はあるものの、小説作品を読むのはこれが初めてです。
僕にとっては小説家というよりは有名な脚本家、もしくは度々ニュースで目にする大相撲の偉い人、という印象でしょうか。
いずれにせよ、著者がどうこうというよりは「定年退職後の男性を描いた小説」という作品そのものに興味を抱いて手に取った次第です。
その理由については、後ほど記したいと思います。
それでは、内容についてご紹介しましょう。
あらすじ
主人公は田代壮介。63歳にして定年退職を迎えたばかり。
彼こそがタイトルにある「終わった人」なわけですが、すごいのがその経歴。東大法学部を卒業後、大手銀行に勤務。エリート街道まっしぐらに突き進むも、出世街道から転落。定年前の十年強を、出向・転籍先の子会社で過ごしたという人物です。
仕事一筋で生きてきた田代にとって、仕事を取り上げられた生活は想像以上に苦痛でした。
エリートだった自分には、図書館に通ったり、カルチャースクールに通ったりと、そこいらのジジババのような生活は真似できないというプライドも邪魔をします。
そこで再就職のために就職活動をしてみたり、一転、大学入学を志してみたり、たまたま出会った39歳の女性に恋をしたりと、試行錯誤を繰り返す中、若きIT社長鈴木との出会いが生まれます。
鈴木は田代の経歴を知り、事業を手伝って貰えないかと持ち掛けます。好条件の顧問として社会復帰を果たした田代でしたが、ある日鈴木が急逝。残った若き役員らから社長就任を懇願され、あれよあれよという間に田代はIT企業の代表取締役に就いてしまうのでした。
定年後のジェットコースター
内館牧子氏の作品を読むのは初めてですが、すごい技量ですね。
定年を迎えた田代があれやこれやと次々手を出してはコレジャナイ、を繰り返す前半部の苦悩ぶりから一転、驚天動地の社会復帰。それだけに留まらず、社長就任に経営危機と、次から次へと休む間もなく物語が進展していきます。
口コミの中には「リアリティが」といった意見も散見されますが、現代のドラマ・アニメといったエンタメ創作物にも通じる展開の速さです。まさしくジェットコースター。しかもそれが定年後、本来であれば穏やかな老後を過ごすべき時期に展開される恐ろしさ。
そして……上のあらすじには触れませんでしたが、IT企業の社長として再び表舞台に飛び出したかに見えた田代が、すぐさま経営破綻によって真っ逆さまに急降下。全ての保証債務を負い、定年後の生活資金まで手放すハメに遭うに至っては、お見事としか言いようがありません。ジェットコースターのレールまで飛び出して、地面の奥底まで落としちゃいます。
とはいえまぁ、やっぱり口を挟みたくなるところはありますよ。
社長就任にあたって、会社の債務に対する保証責任はどうするか、といった点はしっかりと煮詰めておくべきだと思いますし、元銀行マンという経歴を考えればやっていて当然とも思いますし。
仮に全ての債務保証を覚悟の上で社長就任を引き受けたのだとしたら、正気の沙汰とは思えませんよね。これが安定企業ならともかく、吹けば飛ぶようなベンチャーITなわけですから。万が一の保身は考えてしかるべきでしょう。ましてや、そこで多額の債務なんて引き受けてしまえば自身の残された人生が真の意味で「終わって」しまう事は明白なわけですし。
そのあたり、強引かなぁとも思うわけですが、改めて考えてみると、それは僕達読者側が期待したものと、作者が書きたかったもののズレだったのだろうとも思えてくるのですね。
田代壮介は終わっていない
ここの認識の違いですね。
僕達は「定年退職して終わった人の話」だと思って本作を読み始めるわけですが、主人公の田代壮介は実際には「終わっていない」わけです。少なくとも本人はそう思っている。
作中の言葉を借りるならば、「成仏していない」という事になります。
そこで作者は、田代を成仏させるために再び社会に復帰させるわけです。
それにより田代は、会社を潰し、1億以上あった老後資金を溶かし、妻にまで愛想を尽かされ、成仏せざるを得ない状況にまで陥ってしまいます。
真の意味で、「終わった人」になるのです。
本書にとっては、ある意味ではここまでが序章でありプロローグと言えるのかもしれません。
そこから田代は、意気揚々と毎日を送る妻に対し、まるで受刑者のような態度で接し続けます。
専業主夫として掃除洗濯をし、食事を用意し、妻の顔色を伺いながら、贖罪の日々を送るのです。
そんな中、ひゅんな事から故郷盛岡の同級生達と再会を果たした田代は、故郷に想いを募らせるようになります。しかし妻は、絶対に一緒に帰郷するなんて言うはずがない。ましてや勝手に老後資金を溶かしてしまった田代には、それを提案する権利もない。
妻もまた、夫の気持ちを知りつつも、今さら離婚するふんぎりもつかない。かといって凍り付いた二人の関係は、毎日顔を合わせるのも苦痛でしかない。
こうして振り返ってみても、前半から中盤にかけてのやや強引な展開がどうでもよくなるぐらい、終盤部の夫婦の葛藤が生々しいのです。
この生々しさというのは、単に定年退職して「終わった人」としてうじうじ毎日を過ごす男からは生まれ難いでしょう。まだ成仏していない田代が、強制的に成仏させられ、社会的にも夫婦関係の上でも、真の意味で「終わった人」に陥ったからこそ生まれるドラマなのだと思います。
なので、本作は「終わった人」の物語だと思って読むべきじゃないんですね。
まだ成仏しきれていない定年後の男が、真の意味で「終わった人」になり、その後の人生について思い悩む物語なのだと思います。
口コミではいろいろと賛否両論ありますが、僕は非常に素晴らしい良書だと思いました。
余談
さて、冒頭にも触れた「本書を読む至った理由」なのですが。
実は、知人に似たような人がいるのです。定年退職を迎え、毎日趣味であるスポーツにだけ精を出す毎日を過ごされている人。仮にA氏としましょう。
僕はA氏とサークル活動のようなものを介して出会ったのですが、その人がある日、一人の女性を連れてきたんですね。彼女はA氏よりも一回り以上若い年齢です。こちらはB美さんとでもしましょう。
B美さんも同じスポーツを始めたばかりで、たまたまA氏と出会い、一緒にやらないかと誘われたのだというのです。
それから彼女は、僕達のサークルに参加するようになりました。
A氏とはそれ以外にも、度々一緒に活動しているようです。
一回り以上離れているとはいえ、男女二人きりで行動したりして大丈夫なのかな、と気にはなっていたのですが、不安が的中したのはつい先日。
サークルで暑気払いを行った翌日の事でした。
「実は相談したい事がありまして」
それまではサークルのLINEグループ上でのやりとりしかなかったのですが、突然B美さんから直接メッセージが送られてきたのです。
まぁ想像がつくかとは思いますが、暑気払いの後、帰りの車の中でA氏に肉体関係を迫られたというのですね。
その場はうまく断って逃げたものの、今後A氏には会いたくない、というのがB美さんからの相談。
もちろんそれまで二人きりで行動するなどB美さんにも明らかに過失はあるのですが、それによりA氏はすっかり勘違いしてしまったようなのです。
このA氏というのが、いわゆる聖職者と呼ばれる職業に就いていた人で、見た目からにもいかにも生真面目で、外見にも無頓着。およそ女遊びとは無縁そうなだけに、僕にとっても非常に驚きでした。
ましてや定年後の年齢ですから。えー、その歳で?というのが正直な気持ち。
ところが後々考えてみると、だからこそ、だったりするのかなぁと思えてきたりもするのでした。
聖職者という、一般の会社勤めよりも品行方正さが求められる職業。
これまでの人生で女遊びなど無縁。多分、これからもそんな機会はないであろうと自他ともに思っていた矢先、定年して悠々自適な暮らしを送る中、たまたま出会った一回り以上若いB美さん。
しかも彼女は、誘われるがまま一緒に(スポーツをしに)出掛けてくれる。
だからこそ、勘違いしてしまったのかな、と。
ちなみに二人で運動後に温泉で汗を流したり、食事や観光に立ち寄ったりしなかったの? と聞いたところ「言われた事はあるけど早く帰りたいんでって断ってました」との事。
いやぁ、A氏。これは脈ないよ。この状況でホテルに誘うのは、いくらなんでも無謀過ぎる。
とはいえ同じ男として、一回り以上年上のA氏になんだか無性に同情してしまう部分も多々ありまして。
自分もあの歳になって、若い女性と仲良くなったら同じように舞い上がったりするのかなぁ、なんて。
そんなA氏の事件が僕の身辺を賑わせている間にたまたま本書を知り、田代氏の迷走ぶりはA氏とも重なるようで、読んでみようと思ったのでした。
今から二週間前には、折よくABEMA Primeで高齢者の性について特集があったばかり。
幾つになっても人間、恋と性欲からは離れられない……ものなんでしょうか?
なかなか考えさせられるテーマですね。