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年間100冊前後の読書を楽しんでいます。推理小説・恋愛小説・歴史小説・ビジネス書・ラノベなんでもあり。

『私本太平記』吉川英治

 ええと。。。

 

ブログを書くこと自体約一月ぶりなので、なんだか戸惑ってしまいます。

かねてより予告していました『私本太平記』をようやく読み終えました。青空文庫だと帖別となっていて全13帖。文庫版では全8巻だったそうです。加えて、同じく青空文庫に公開されている『随筆・私本太平記』まで。これは新聞連載の合間に、本来であればそれまでのあらすじが載ったりするのをつまらなく思った吉川英治が、連載小説に関するエッセイのようなものを載せてていたのものを集めたものらしいです。

 

ブログを書くにしてもページ数を稼ぐためには一帖ずつ書く方がいいのでしょうが、それもそれで書く側としても面倒ですし、たぶん読む側としてもいちいちページが飛ぶのは面倒そうなので一つにまとめてしまう事にしました。

 

なので必然的に、事細かな細部の感想というよりは全体的なおおよその感想という体裁になってしまいます。

 

僕自身がそうでしたが、歴史小説というと圧倒的に戦国・幕末が人気です。次いで明治から第二次世界大戦の辺りでしょうか。比較的太平記の舞台となる南北朝室町時代や『平家物語』のような平安・鎌倉時代は不人気な気がしています。

 

でもこうして『太平記』を読む事で、理由がよく分かった気がします。

 

吉川英治の筆力も手伝って、登場人物は非常に魅力的です。主人公である足利尊氏こそのらりくらりとしていまいちつかみどころのない人物ですが、佐々木道誉なんてそのまま戦国や幕末に突っ込んでも負けそうにありませんし、楠木正成の実直さも際立ったものです。

 

ただし、いかんせん登場人物が多すぎる

さらに、すぐ死ぬしすぐ裏切る

 

この辺りがいまいち太平記が人気の出ない理由なんだと思います。

せっかく仲間になった実力者や期待の若者が呆気なく死んでしまったり、頼みの綱の味方に裏切られたり、味方同士が殺しあったり。。。

漫画でも負けた相手が仲間に加わって、どんどん仲間が増えていくのがいわゆる少年ジャンプ的な王道ストーリーであって、仲間同士が次々殺し合い、自滅し合っていくとか絶対人気出ませんよね。

裏切りや身内での対立は以降の戦国や幕末でもよくあるパターンではありませんが、こと太平記においてはあまりにも多すぎて読者もうんざりしてしまいます。

 

特にせっかく主権を取り戻したかにみえた足利家中において、直義と師直が反目し合うくだりなんて、宿命のライバルである楠木正成新田義貞も没後であるだけに、「最後の最後にこいつら一体何やってんの?」感が否めません。

尊氏がうまく裁けず、結果として自らの両腕を失うような最悪の事態を招いてしまうのも残念です。史実を元にしている以上、仕方ないんでしょうが。こりゃあ足利幕府、長続きしませんよ。。。

 

となると逆に徳川幕府初期の万全っぷりが際立ちます。家康ってとっても有能だったのね、と。同じ幕府でも天下統一の名に相応しい徳川幕府と、とりあえず朝廷から脅し取ったかのような室町幕府では大きな差が感じられます。

 

まぁそんな事を感じられたのも、読んで良かったと思える一因かな。

 

加えて久しぶりに電子書籍での読書になりましたが、これがまた至って快適。いつも持ち歩いているスマホでいつでもどこでも読めるというのは非常に効率が良いです。Kindleの購入まで考えてしまったけど、スマホと分離するのは本末転倒というわけでとりあえず保留としています。

 

でも青空文庫には吉川英治をはじめ、江戸川乱歩だったりの作品がどんどん増えています。実は、まだ青空未収録ではあるのですが吉川英治の『新・平家物語』の全巻セットが99円で販売されていたのでつい購入・ダウンロードしてしまいました。

『新・平家物語』は『私本太平記』よりさらに長い大作ですが、こうなるとやはり鎌倉幕府の成立も読んでみたい。義経にも会いたいし、名前だけ知っている「敦盛」がどんなものなのかも知りたい。

 

ただ、このまま『新・平家物語』に突入してしまうとまたまたしばらく他の本が止まってしまうので、買っただけでこれも保留としています。何冊かは普通の小説を読んで、それからにしようかな、と。

 

あとはもう一つ。

私本太平記』についてはかく帖ごとのあらすじ・概略があまりないようなので、僕自身の覚書として下記に書き記しておく事にしました。長編作品って、後で思い出そうとした時思い出せなかったりしますので。

かなり誤字脱字もあるだろうし文章として滅茶苦茶のままですが、あくまで覚書として書きなぐったものなのでそっとしておいてください。

それでは。

 

 

01 あしかが帖

文庫で全8巻、青空文庫版では全13巻という長い長いこの『私本太平記』は、一色右馬介とその主人である又太郎の登場から始まります。

どうやら関東からやってきたらしい二人は、都のとある酒屋で年の瀬を過ごしている様子。

居合わせた鎌倉武士たちが連れていた犬を又太郎が蹴とばした事から諍いになり、挙句噛みつこうとした犬の口に逆に足を突き入れ、二人はそそくさと逃げ出します。

犬は犬でも、彼らが連れていたのは帝へ献上するための闘犬であった様子。

それを知った上で暴挙に出た又太郎こそ、太平記に登場する主役の一人、ある足利高氏(尊氏)なのです。

 

実のところ、又太郎たちの旅は幕府への届け出のないお忍び旅。一度は都を見せてやりたいという親心と本人の希望が相まって、足利家から伊勢神宮へ上納を献じる一団に紛り、上京する事になったのです。

二人は六波羅評定衆の一員であり、又太郎の伯父である上杉憲房の屋敷に身を寄せます。さらに伯父の伝手を借りて、後醍醐天皇行幸も見物。

屋敷では同じ足利から琵琶修行に来ていた盲目の少年・覚一と出会い、国元の母へ向けた手紙を預かります。

そうして帰るはずの又太郎ですが、せっかくの機会なのだからとさらに西へと足を向けようとします。右馬介の必死の説得も、又太郎にはどこ吹く風。

しかし、北で戦が起こったらしいという噂を耳にした又太郎は前言を撤回し、帰郷を宣言します。

 

帰路の船中、又太郎と右馬介が出会ったのが菊王という少年と一人の公卿らしき人物。

公卿は船内の人々に、鎌倉幕府の腐敗を嘆いて聞かせるのでした。

その後、立ち寄った代官の家で公卿の名が日野俊基である事を知り、さらに又太郎の祖父が死の間際に遺言書を残している事を知らされます。すっかり忘れていましたが、又太郎が元服の際にも、見せるべきか否か周囲が真っ二つに割れ、それきりになってしまっていたのです。

 

遺書の存在を思い出し、足を早める二人の前に現れたのが佐々木道誉という当時流行りの婆娑羅大名。

道誉の館に招かれた又太郎は、幕府転覆を匂わせる秘事を打ち明けられ、その上で、首謀者の公卿である日野俊基と会って欲しいともちかけられます。返事を濁す又太郎でしたが、その席で出会ってしまったのが後々まで又太郎の人生に尾を引くこととなる田楽女の藤夜叉。

その夜、庭で再び出くわしてしまった藤夜叉と、又太郎は衝動的に関係を結んでしまいます。

 

そして再び足利の地へ戻った又太郎でしたが……彼を待っていたのは捕縛の徒でした。

 

         *      *      *

 

続いて場面は足利へ。

登場するのは又太郎の父である足利貞氏と、妻の清子。弟の直義。

高氏を拘束したのは隣国で、旧来の怨敵でもある新田義貞。時はいつの間にかそれから二年の月日が流れています。

そこにかつて上京の際にも世話になった伯父上杉憲房六波羅の任を解かれ、帰郷するとの手紙が届きました。憲房は帰郷の折には、又太郎の罪を解くべく努力すると告げており、直義は大喜び。

母の戒めに背き、幽閉された兄高氏に吉報を届けようと行動を起こしてしまったのです。

直義の試みは失敗し、警固にあたっていた新田兵に追い回された結果、足利勢と新田勢による小戦を引き起こし、お互いに死傷者を出す大事件へと発展してしまいます。

過失は明らかに足利にあり、自ら新田義貞を訪ね、謝罪しようと言い出した母清子を見かねて代理を願い出たのが盲目の琵琶弾き・覚一の母である草心尼。

姉が新田義貞の乳母であった草心尼は、義貞とは今でいう幼馴染みの関係。当時の間柄を利用してなんとか穏便にと義貞に懇願しますが、やむなく断られてしまいます。

事態の悪化を受けて、鎌倉へと向かう事を決意する清子でしたが、道中上杉憲房の兵と出会います。二年を経て、ようやく高氏が鎌倉への出頭を命じられたのです。

 

ついに幽閉を解かれ、鎌倉へ向かう事になる尊氏でしたが、その前に祖父の遺言書を見せてくれるよう願い出ます。

祖父の祖先は、「七代の孫、かならず天下をとり、時の悪政を正し、また大いに家名をかがやかさん」という遺言を残していました。祖父の遺言もまた、祖先の遺言に触れ、七代目にあたる自分の力量不足を嘆き悲しむものでした。

その上で「自分より三代後の孫にこれを託す」と遺しているのです。

祖父から三代目こそ、又太郎こと足利高氏でした。

遠い祖先から続く倒幕・天下とりの意志と、自分に託された運命を知り、又太郎は困惑します。

 

やがて鎌倉へ上り、新田義貞とともに問注所に出頭する尊氏。

先だっての不安もどこへやら、新田義貞はあくまで温厚・平穏を貫き、足利新田両家の間に巻き起こった騒動については和議に。

ところが又太郎のみはその場に残され、先の上洛の意図について問いただされます。そこに現れたのが佐々木道誉。捕縛の件に関しては、さては道誉が裏切ったに違いないと怒る尊氏でしたが、道誉はあっさりと尊氏の弁明に同調した上、救いの手まで差し伸べた事で、高氏は無事無罪放免となるのでした。

 

ようやく解き放たれた尊氏は赤橋守時の下を訪ねます。守時こそ、伯父上杉憲房とともに尊氏の赦免に苦心してくれた恩人でした。

そこで守時の娘である登子と出会います。彼女こそ、後の高氏の妻です。

一方、時の最高権力者である鎌倉幕府の執権・北条高時問注所での一件を耳にして以来、高氏に関心を持っていました。

高氏は高時に招かれ、守時とともに当時人気だった闘犬の会場を訪れます。

闘犬の縄を取って、会場を三周しろと命じられた尊氏は衆目の面前で犬に引きずられ、取っ組み合いを演じるという醜態を晒します。彼の無様な様に笑いの収まらない高時でしたが、高氏は人知れず涙を流すのでした。

 

そんな高氏に、赤橋守時は娘の登子との縁談を持ちかけます。

迷いを見せる高氏に対し、一色右馬介は真意を問います。登子との結婚を決めたという尊氏に、安堵を見せる右馬介。

ところが彼は、不意に遺言状の一件を匂わせます。尊氏が見たどころか、まるで右馬介自身も内容を目にしたような口ぶりです。知ってしまったからには放ってはおけないと右馬介に襲い掛かる高氏を、右馬介はねじ伏せ、罵倒し、彼の前を去ってしまいます。

 

それまで従順につき従ってきた一色右馬介がいなくなってしまった事に後悔を隠せない高氏。そこに現れたのが藤夜叉。どうやら右馬介が彼女を尊氏に合わせようと、手引きしていたようです。

藤夜叉は高氏に会いたかったと言い、さらに二人の間には子どもがいる事を告白。以前佐々木道誉の館で契ったたった一度の関係により、藤夜叉は身ごもり、不知哉丸という男の子を生んでいたのでした。

その存在を知った右馬介は、不知哉丸を預けて欲しいと藤夜叉に懇願。

そうして不知哉丸を連れて、高氏の前から姿を消したのです。右馬介の離反は、遺言状の一件や不知哉丸の問題等を、全て一身に背負って片づけようという彼の忠臣ぶりとの現れでした。さらに国元から届いた手紙で弟・義直も遺言状の事を知って兄を心配していると知り、尊氏は涙を流すのでした。

 

02 婆娑羅

舞台は再び都へ。

登場するのは日野俊基日野資朝という日野姓の二人の公卿。

彼らの他、文談会と名付けた会合に集まる公卿の面々でしたが、会の実際は倒幕を夢見る公卿たちの密談の場だったのです。

警固についていた武士の一人、船木頼春が嫉妬にかられた妻にその夜の顛末を話してしまったのをきっかけに、彼女の口から父の奉行へと漏れ伝わり、正中ノ変と呼ばれる一大捕り物劇に発展してしまいます。

文壇会の参加者の下には六波羅の兵が次々と押し寄せ、ある者は自害し、ある者は捕縛されてしまうのでした。

 

日野俊基も覚悟を決め、菊王に手紙を託します。

ようやく初登場となる河内の楠正成に向けたものでした。

遂に捕えられ、首謀者として鎌倉に送られる日野俊基日野資朝でしたが、道中の宿において、船木頼春が床下から彼を訪ねてきます。船木頼春は自らが招いた事態を侘びに来たのです。

俊基は彼を利用して、資朝と意志を通わせます。

二人共倒れとなるのは口惜しく、自分が罪を被るから生き延びて欲しいと願い出た俊基でしたが、資朝もまた同じ想いを抱いており、そうであるならば年長者である自分がその役を負うと応じます。

かくして日野資朝は全ての罪を負い、死罪となって佐渡島流罪日野俊基は赦免となりました。

 

         *      *      *

 

舞台は再び鎌倉へ。

登子との祝言が迫った中、佐々木道誉の使いとして一人の女性が祝いの品々とともに足利家を訪れます。彼女こそ、藤夜叉でした。

突然現れた藤夜叉に嫌悪感を示す尊氏でしたが、「近々またお会いする事でしょう」と藤夜叉は不気味な言葉を残します。

どうやら佐々木道誉には、藤夜叉との関係は全て知られてしまっているようです。

 

祝言に向けてやってきた弟義直は、遺言の内容を知るだけに、北条一族である赤橋家から嫁をとろうという尊氏に不信感をぶつけます。押し問答の末、落着する兄弟でしたが、すぐ近くに琵琶引きの覚一がいた事に気づき、同様します。

何も聞いていなかったと言う覚一ですが、帰ってすぐ、母の草心尼に都行きを願い出ます。尊氏たちが抱く倒幕の想いを知ってしまった覚一は、鎌倉には戦乱が迫っていると恐れ、都に逃げようというのです。

難色を示した草心尼でしたが、子を想い、都行きを心に決めます。

 

登子との祝言を無事終えた高氏は、登子を伴って北条高時の下を訪ねます。

祝いの酒盛りに招かれた二人の前に、再び舞子として藤夜叉が現れます。どうやらこれも、佐々木道誉の策略のようです。

言い寄る高時の杯を藤夜叉が拒み、アクシデントも発生して高時は薙刀を手に激昂。尊氏は騒ぎに乗じて、藤夜叉を逃がします。さらに、立ちはだかる道誉も投げ捨て、妻の登子を探し当てると、やっと安心して眠ってしまったのでした。

 

後日、大馬揃いの場で道誉と再会した尊氏は、道誉に招かれた先で仇敵・新田義貞と同席する事に。

執権北条高時は先日の騒ぎの後、病に倒れてしまい、回復の兆しが見られない様子。幕府では次の執権の話題まで出ているという。

そうしてやはり高時は執権職から退き、次は二転三転の後、赤橋守時を執権に、北条維貞を連署となす、という発表がされます。

 

そんな最中、覚一と草心尼が暇乞いをして、京へ向けて旅立つ事になりました。

上杉家からつけられた二人の家臣に加え、高氏もまた御厨ノ伝次を伴につけます。しかし二人の家臣は命に反して、このまま覚一と草心尼を連れて離反してしまおうと企てます。

覚一と草心尼が足利ゆかりの縁者であると気づき、助けに現れた女性が藤夜叉。その後、遂に二人の家臣が反旗を翻し、御厨ノ伝次と斬り合いに。覚一と草心尼は藤夜叉の忠告の甲斐あって逃げ出す事が出来ました。

二人の窮地を救ったのは一色右馬介の父、刑部の一党の者でした。高氏の隠し子である不知哉丸を預かり、高時の屋敷から逃げ出した藤夜叉が身を寄せたのも、この里だったのです。

 

         *      *      *

 

再び舞台は転じて、奈良河内街道

若い郎従と、弁の殿と呼ばれる主の登場です。

一絵師に身をやつした日野俊基と菊王その人です。

二人が訪ねたのは散所義辰。正中ノ変のきっかけとなり、その後俊基の命を救った船木頼春を紹介した先でした。俊基は朝廷旗揚げを諦めておらず、その時に備えて僧団勢力を仲間に引き入れようと、訪ね歩く旅路の中だったのです。

しかし早速六波羅の者と思われる山伏に目をつけられ、どうやら待ち伏せされているらしいと知り、頼治が俊基に化け、菊王とともに屋敷を出ます。山伏はまんまと二人について来ますが、それもまた山伏の思う壺。相手は二人の正体に気づいた上で、生け捕りにしようと企てていたのです。

周囲を六波羅の仲間に取り囲まれ、万事休すかに思えた二人でしたが、不意の加勢に助けられます。偶然、楠正成の弟・正季の一行が通りかかったのでした。

正季の提案で、一行は近くにあるという正成・正季の師、毛利時親を訪ねます。

 

 

03 みなかみ帖

船木頼春と菊王の帰りを待つ俊基は、自身が身をひそめた周囲も六波羅に取り囲まれた事を知ります。味噌蔵に身をひそめ、周囲の喧騒におののく俊基の下に菊王が駆けつけ、今の内に逃げ出すよう促します。

頼春が俊基の身代わりとなって捕らわれた事から、周囲の囲みが薄くなっているのです。

荷舟に乗って逃げ出した俊基と菊王は、ひとまず侘しい川辺に船を停めます。ところが、すぐ隣の苫舟から赤子の鳴き声がして耳に障る。場所を移ろうか思案していたところ、当の苫舟の主人がやってきて、町へ買い物に出かけたいから苫舟を見張っていて欲しいと懇願します。

苫舟には男の妻と赤子が眠っているのですが、妻は病床にあり乳も出ず、赤子も弱ってしまっているのだとの事。

男が出ている間に、俊基は自分の持っている薬を男の妻に差し上げました。戻ってきた男はそれに感激し、さらに町で噂になっていた尋ね人がどうやら目の前の俊基たちらしいと気づき、裏道を案内してくれます。男の名は雨露次、妻の名は卯木と告げ、別れますが、別れた後で俊基は失態に気づきます。卯木に渡したのは薬ではなく、もしもの時に備えて携帯していた毒薬の方だったのです。

戻ってきた雨露次は待ち構えていた六波羅の連中に、日野俊基の逃亡に加担した疑いで捉えられてしまいます。卯木と赤子は既に連れ去られた後でした。

 

 

六波羅の検断所では、俊基の身代わりとして捕えられていた船木頼春が自ら舌を噛み切って命を絶ったところでした。

引き立てられた卯木は尋問に遭いますが、病に臥せっていたという彼女からは全く要領を得ない話ばかり。かくなる上は、と雨露次が連れてこられるのを待ちますが、鎌倉の北条氏からは引き上げ令が下され、結局方々から集めた怪しき散所民たちも全て解き放たれる事になります。

六波羅の連中が引き上げた後、荒れ果てた寺の様子にため息をつく堂守の妙達でしたが、1人残ってうろつく男を見つけます。妻の卯木を探す雨露次でした。観音堂に寝かされていた卯木と再会を果たす雨露次ですが、赤子は既に事切れた後。

ささやかに通夜を催す雨露次たちの下へ、今度は散所屋敷の豊麻呂が現れます。俊基の窮地を救った雨露次たちに礼を述べ、恩人として厚く遇したいと言いますが、雨露次たちは頑なに断ります。散所屋敷からは何度も従者が訪れますが、雨露次たちはついにこっそりと寺を起ってしまいました。

 

         *      *      *

 

ところは変わってとある法師が登場。風に飛ばされた笠を追いかけて、危うく崖から落ちそうになるようなおっちょこちょいですが、実はこの法師、かの有名な兼好法師だったりします。

町で扇子を売る夫婦を見つけ、声をかけます。法師は夫婦を雨露次と卯木であり、雨露次の正体が服部治郎左衛門元成であると見抜きます。卯木の実家は伊賀の楠家であり、卯木は正成や正季の妹でもありました。

その昔、自らも辛い恋をしたと打ち明ける法師との会話から、元成と卯木の過去が暴かれます。烏丸家の小姓であった元成は、後宮の侍女卯木と恋に堕ちてしまう。おりしも盗賊が出没、町の警固が厳しくなった頃であり、元成は不審者として捕まってしまう危険を犯しても夜な夜な卯木の下を訪ね、実際に捕まったりもします。

そんな元成の情熱と大胆さに、一方では「慎め」と戒めつつも喜んでいたのが主人である烏丸成輔。成輔は元成の勇気を買って、大判事中原ノ章房の暗殺を命じます。上手くやり遂げた暁には、卯木との仲も改めてとりはかろうというもの。

元成は命を受け入れ、章房暗殺を志しますが、章房の人となりを知れば知るほど、迷いが生じてしまいます。章房は宮中で沸き立つ倒幕の機運に対し、一石を投じた事から倒幕派である成輔らから命を狙われる立場となってしまったものの、清貧で品行方正な人柄で知られていました。

暗殺を仕損じた元成は、いつしか卯木を連れて姿をくらまします。以来、雨路次と名を変えての、逃亡生活が始まったのでした。

法師は舞楽を得意とする雨路次に、好きな道を進んで幸せになるべく努力すべしと諭します。二人は勧められた通り、卯木の実家のある伊賀で興りつつある山田申楽に向けて再び旅立ちました。

 

         *      *      *

 

再び場面変わって今度は楠正季。

雨乞いの神事を前に、師である毛利時親より、いましばらく雨が降る様子はないので延期するよう言伝をもらいます。雨も降らないのに雨乞いをして領主としての沽券を落とすよりも、時期を待って祈祷を行う事こそ人心掌握の術であり、兵法である、との弁。

正季は早速それを兄正成に伝えに行きますが、正成は予定通り実施すると断言します。

師は兵法と言っても、正成にとっては雨乞いは雨乞い。祈りであると言うのです。

 

そして再び元成と卯木。

ようやく故郷にたどり着いた二人でしたが、ここにも追っての手は延びていました。早速捕えようという相手を、たまたま通りかかった具足師の柳斎に助けられます。

楠家と関わりのあった柳斎の手により、無事楠家に身柄を寄せる元成と卯木ですが、家長である正成にとっては悩ましいところ。本筋としては元成を元の烏丸家に引き渡し、卯木は出家でもさせるべきところですが、二人の間を引き裂くのも兄正成の本位ではありません。

そんな折、空からはついに待望の雨が降ってきます。

自らも神前にお礼参りに立つという正成は、家臣にもまた、里のほうぼうに慶びを触れ回れと命じます。

一方で、元成と卯木には旅支度をして準備しろ、と命じるのです。

雨と混乱に乗じて、二人を逃がしてしまおうという策略でした。

別れに際し、初めて元成と面会した正成は、妹を末永く頼むと告げ、卯木に路銀を渡します。思わぬ好意に涙ぐむ二人に、具足師柳斎も同行を申し出、三人はひっそりと故郷を後にします。

 

やがて時は過ぎ、舞台は住吉ノ浦へと移ります。

柳斎はその町で具足師として商いを始め、元成と卯木もその下請け仕事を請け負いながら、細々と生計を立てていました。

そんなある日、柳斉は数日の留守を二人に告げ、旅に出てしまいます。

そこへやって来る客人が二組。一組目は志津三郎と後藤助光という音に聞こえた刀鍛冶二人で、大量の鎧を注文しに来たという。

さらにもう一組は、盲目の琵琶法師と母の二人組。覚一と草心尼の親子です。柳斎を訪ねてきたものの、留守と知り、二人は卯木とともに長屋に逗留する事になります。

ところが都で天皇謀反の噂が持ち上がり、武具職の工房調べに六波羅の兵隊ややってくるはずだと大騒ぎ。鎧の材料やら何やらを全て隠すべく長屋は混乱に陥りますが、元成と卯木にとっては身の危険が迫る事になります。せっかく落ち着いてきた長屋を離れなければならないと覚悟をする二人の横で、覚一と草心尼の親子もまた、柳斎はもう戻らぬと見て旅立ちを決意します。その二人の口から、柳斎が高氏の傅役一色右馬介であると知るのです。

帰路をつく覚一と草心尼は、幕府に叛意をいだき、日頃宮方と名乗る7人の武士たちとともに、淀川を登る船に乗ります。ところがその船に、武士たちを狙う六波羅の兵士たちが迫るのです。あわれ親子も一緒に、六波羅によってとらえられてしまうのでした。

 

 

鎌倉幕府の内へ、吉田ノ大納言定房を名乗る公卿から密書届きます。

それこそが、宮中において討幕の準備が着々と進んでいるとする密告でした。

これにより元弘の乱が火ぶたを切り、六波羅探題では一斉に取締りを強め、公卿や僧侶の検挙、さらに武具の隠し場所や製作者なども次々に暴かれていったのです。

当然その手は、討幕の第一人者である日野俊基の下へも及びます。

追手の手を逃れ、宮内まで逃れる俊基でしたが、衛府の兵士たちの制止も聞かず、六波羅の一団は宮内にまでなだれ込み、俊基はついに捕縛される事となりました。

鎌倉に運ばれ、刑を翌日に控えた俊基の前に、1人の客人が現れます。本書の中においては久々の登場となる足利高氏でした。義父赤橋守時は既に執権の座を譲っていましたが、守時の近親者として高氏は幕府内においても一目置かれる存在だったのです。

高氏は立場を利用しつつも、胸中にはいつか討幕を成し遂げるという志を胸に秘め、俊基の遺言を聞き取りに現れたのでした。俊基は高氏に、妻への伝言と、自分の身代わりに佐渡島流しにあった日野資朝への言づけを残し、翌日、刑に処されてしまいます。

その様を見守っていた高氏は、期せずして一色右馬介と再会を果たします。早速右馬介にに、佐渡へ渡り、日野資朝に会うよう命じます。

 

高氏の命を受けて佐渡へと渡った右馬介でしたが、既に資朝は死んでしまった事を知ります。しかし城内には、資朝をあんじてやってきた阿新丸が幽閉されていたのです。資朝は幕命により処刑されたのですが、すぐさま幕府からはやはりやめるよう沙汰があり、生死そのものを隠し伏せたという事情がありました。従って阿新丸に真実を明かして帰すわけにもいかず、いずれ父に会わせるという約束の下、城内に留め置かれていたのでした。

右馬介から事情を明かされ、ともに脱出を計画する阿新丸でしたが、脱走に際して父の仇である本間三郎を討ち果たすという無鉄砲さを見せます。お陰で逃亡が城中に知れ渡り、追手が向けられてしまいますが、二人は阿新丸の部下である久米内とも合流し、無事佐渡から逃げ出す事に成功します。

 

 

04 帝獄帖

第四武となる帝獄帖では、叡山の山門に身をひそめた大塔ノ宮と宗良という後醍醐天皇の二人の皇子が登場。

身体も大きく勇ましい兄・大塔ノ宮に対し、弟・宗良は線も細くなよなよした感じ。二人を中心に集まった宮方の者たちは、事態の脱却へ向けて天皇の遷幸を企てるのです。

 

宮中でも彼らの動きに呼応し、後醍醐天皇たちは味方の目も欺く形で、夜中にそっと宮門を抜け出します。一路叡山へと合流するはずが、行く手を阻まれやむなく天皇は笠置の山へ。

一方天皇を迎えるはずだった叡山でも困り果て、花山院師賢を偽の天皇として擁してしまおうという始末。

天皇脱出に気づいた六波羅では大騒ぎ。早速内裏にも兵が殺到し、更には寝耳に水であった宮方派閥の公卿の屋敷にも押し寄せ、問答無用で引き立てられてしまいます。

さらに、天皇が笠置に雲隠れしているとは思いもよらないのは六波羅も一緒二皇子の率いる叡山へと兵を進めます。当初こそ叡山側も大いに戦功を挙げますが、いつしか兵の内に、簾中にいる帝は本物の帝ではないという噂が伝え漏れてしまいます。一機に統率は乱れ、叡山の陣中は瓦解。

大塔ノ宮と宗良も、叡山を捨てて逃げ出します。

 

一方、笠置の山に入った後醍醐天皇の下には、周囲から続々と宮方を名乗る兵が集まってきます。しかしながら、いずれも小粒ばかりで、かねてより通じていたはずの武者が一人もやって来ない事に不安が募ります。

そんな最中、後醍醐天皇は「巨大な見た事もない木から二人の童子が現れ、南枝を頼れと告げる」という夢を見ます。

南の木とは、楠。

元々楠正成は宮方の有力者として名が挙がっていましたが、参陣がないのでいぶかしげに思われていたところです。早速使者を遣わせるのでした。

 

 

むろん、河内の楠方でも都の動静は伝わっています。

ところが周囲がどんなに言っても、正成は他人事のように動じようとはしません。

痺れを切らした弟・正季は今すぐ天皇の下へ馳せ参じようと、単独へ兵を率いて出発してしまいます。

そこへやってきたのが天皇の使者。後醍醐天皇の勅として参戦を促しますが、正成はなかなか首を縦に振りません。戦争が始まれば、これまでの平和な日々は失われてしまう。家族や家臣、領民にまで危害が及ぶ。正成はそう案じて、戦争に乗り気ではなったのです。

再三に及ぶ周囲からの説得もあり、ついに正成は参戦を決断するのでした。

天皇に参詣する正成でしたが、笠置には踏みとどまらず、いったん河内に戻ってしまいます。

その間、鎌倉の大軍に繰り返し猛攻を受け、ついに笠置も陥落してしまいます。後醍醐天皇たちは命からがら逃げ出し、河内を目指しますが、道中ついに鎌倉の手によって捕縛されてしまうのでした。

 

正成たちは河内に戻ると、すぐに赤坂の丘に築城を始めます。

そうして新たな城を築くと、慣れ親しんだ河内の屋敷を焼き払ってしまいます。それが正成の覚悟の現れでもありました。

既に天皇以下は鎌倉送りになっていましたので、鎌倉軍は総出で赤坂城へ襲い掛かります。

一時は耐え忍んだ正成たちも、こうなると時間の問題。城の陥落を前に、正成は後日の再起を誓い、解散を言い渡します。

そうして赤坂城は堕ち、世間には「楠一族は死に絶えた」という風聞だけが残ります。

 

         *      *      *

 

さて、シリアスな戦争シーンから場面は変わって兼好法師が登場。

服部治郎左衛門元成と妻卯木から手紙が届き、戦乱の訪れにより、元成もまた伊賀の養家で武士に戻った事が知らされます。

ひょんな事から兼好法師佐々木道誉の屋敷に招かれ、死んだ日野俊基の妻・小右京を探し出すよう求められます。

 

翌朝、近くで合戦があったと知り、洛内の巡察に出かける道誉。

六波羅に立ち寄り、越後守北条仲時から獄中の後醍醐天皇の様子を聞いた道誉は、火鉢すらないという状況に驚き、待遇改善の為に自ら鎌倉の執権・高時に直接了解を得ようと動き出します。

これをきっかけに、道誉は天皇のお世話係として出仕する権利を得るのです。

天皇は道誉の心遣いに感謝し、道誉はさらに、三位ノ局廉子・小宰相・権大納言ノ局の三人の妃を側に付ける事を叶わせます。

そんな最中、足利又太郎高氏がようやく入洛。

あまり便が良いとは言えない羅刹谷に居を構えが高氏の下に、道誉が探していた小右京が助けを求めてやってきます。夫である日野俊基の最期に何かと親切にしてくれた高氏を慕っての行動でしたが、高氏は冷たく突き放してしまいます。

ところがその帰り道、小右京は道誉の家臣によって襲われてしまいます。急報を聞きつけ、即座に救出で乗り出す高氏。取り急ぎ小右京の身を羅刹谷にかくまうよう言いつけますが、そのせいで六波羅の会議には送れる始末。

議題は後醍醐天皇に関するもので、隠岐の島に流すにあたり、佐々木道誉が護衛につくというものでした。

さらに北ノ探題仲時に呼ばれた高氏は、仲時の屋敷に草心尼と覚一が居候しており、その二人を頼ってやってきた藤夜叉と不知哉丸を預かっていると知らされます。

仲時からは一度会ってやった方がいいと親身に説得されますが、高氏は打ち捨ててしまうよう、強く固辞してしまいます。

 

05 世の辻の帖

一色右馬介こと柳斎が登場。

その後も事ある度に右馬介は高氏を訪ね、諸国の様子を報告していました。

宮方残党の者と、実は生きている楠正成が共謀して、隠岐島流しとなる後醍醐天皇の奪還を企てているというのです。

高氏は道誉を訪ね、忠告します。しかし、二人の間は小右京のやり取りがあったばかりでぎくしゃくする一方です。

高氏の好意に反し、道誉は家臣の提案そのまま、藤夜叉の誘拐に同意してしまいます。

お互いを認め合いながらも、どうしても女性を挟んで対立してしまう二人です。

 

以降、本章では後醍醐天皇の流浪に伴うエピソードが続きます。

同じく流される皇子の宗良の手紙を兼好法師が預かり、道誉を通じて後醍醐天皇へと渡します。

また、天皇を奪還しようともくろむ大覚寺ノ宮たちは途中の山に待ち伏せしますが、道誉に看破されてしまい、別の道を抜けられてしまいます。

大覚寺ノ宮は高徳とともに宿所に忍び、一目天皇に会おうと試みますが、康子に嵌められて失敗してしまいます。二人とも捕えられますが、道誉の手によってこっそり何事もなかったかのように解放されるのでした。

 

そうしてついに後醍醐天皇の一行は隠岐の島に到着。ようやく役目を果たした道誉を待ち構えていたのは、あまりにも天皇に近づいた彼の腹を疑う鎌倉の譴責。謹慎を申し渡され、ようやく屋敷に戻った道誉は、高氏とともに小右京も関東へ引き上げたと知ります。

帰った道誉は、自分の部下が藤夜叉をさらい、以降旅の間ずっと軟禁状態にあった事を思い出し、途方にくれます。

今回の旅を経て、道誉は高氏に対する意識を一変させました。高氏こそは将来手を握るべき相手だと考えていたのです。

道誉は藤夜叉の解放を申し付けますが、その前に自身の口から釈明を行おうと考えます。そうして対面してみると、結局一度も手をつけずに高氏に返してしまうのが惜しくなり、無理やり手籠めにしてしまうのでした。藤夜叉は深く傷つき、道誉の屋敷を逃げ出します。

絶望した藤夜叉は川に身を投げますが、そんな彼女を子供たちが見つけ、助け出します。

 

 

いったんは戦に敗れた正成たちでしたが、彼らは元成・卯木夫妻の下に身を寄せていました。

月日が経ち、彼らの根城であった河内は味方の手の内にある事を知り、ついに河内に戻る事を決断します。

再び各地に要塞を築き、正成の下には再度仲間が集まってきます。

 

 

兼好法師の住居には、いつの間にか女性が一人かくまわれていました。

身投げをして、床に臥せっていた藤夜叉です。

これから先、どうしようと思案する彼女は、一色村の郎党に発見され、無事不知哉丸の下へ帰る事が叶います。

 

謹慎を命じられていた道誉は鎌倉に出頭し、自身の口から申し開きするよう沙汰がおります。さらに、鎌倉へ下くだす宮方の一公卿を護送して来るようおまけ付。

道誉が連れていく公卿は北畠具行。道誉は後醍醐天皇にそうしたように、彼にも好意に溢れる親切を重ね、やがては自身の胸の内に秘めた宮方の秘事すら明かしますが、道中、幕府から北畠具行の処刑を命じられます。

道誉は命じられるまま北畠具行を斬り、北畠具行は彼の道化を恨みながら、死んでいきました。

 

 

06 八荒帖

鎌倉では以前、一度執権職を退いたはずの北条高時が再び権力の座を手に入れていました。彼の側に侍るのは佐々木道誉。一時は宮方の疑惑をかけられていた道誉でしたが、類稀な人心掌握術を駆使して、彼もまた高時の側近としての立場を確立していたのです。

鎌倉には西から続々とただならぬ動きを告げる早馬が届き、評定の場でも激論が交わされます。笠置攻めを上回る兵を向かわせなければ、鎌倉の存亡にも関わる。必要な兵数は、ざっと十万。

高時が目を付けたのは足利高氏。各国から兵が西へ向けて出兵しているというのに、足利はさっぱり動きを見せません。憤りを耳にした道誉は、足利屋敷へ足を向けます。ところが高氏は姿を現さず、応対に現れたのは家臣の師直。智謀に長けた道誉でしたが、すっかり師直の策略に嵌められ、泥酔の上、暴れ馬から振り落とされるという失態を演じてしまいます。

 

やはり高氏とは相容れぬ存在らしい。不満げな道誉の下に、隠岐ノ判官佐々木清高

がやって来ます。道誉の言いつけ通り、隠岐の島では後醍醐天皇たちに不自由なく過ごしてもらっていたところ、全て鎌倉へと筒抜けとなっており、呼び出しの上こってり絞られたとの事。どうやら後醍醐天皇に就いた典侍のひとり、小宰相ノ局は鎌倉の回し者のようです。

身の危険を感じた道誉は前言を撤回。すぐさま幕府の言いつけ通り、厳しく対処せよと命じます。

 

そうして隠岐の島へと帰った清高でしたが、島の実情としては既に後醍醐天皇周辺は宮方と思われる者たちで固められてしまい、いまさら自由を奪うような真似は簡単にはできません。

そこで、強引ではありますが天皇を別の島に移す事に決めます。合わせて周辺についていた地方の武士達も解任。強制的に天皇を孤立に追い込んでしまう作戦です。

しかし既に天皇の下へは密使が入り込んでいました。足利・新田ともゆかりの深い海賊岩松家の三男、岩松吉致。彼は既に新田と倒幕に向けた謀を進めており、天皇の綸旨をもらいにやってきたのです。

 

さて、幕府の諜報として後醍醐天皇に侍る小宰相でしたが、彼女は天皇の子を宿しておいました。従順に鎌倉の指示に従っていた小宰相も、子を授かってみると母親としての想いが勝ってきます。

後醍醐天皇は彼女の過去の行動に感づいていましたが、小宰相の心からの謝罪を受け入れ、脱出の際にも一緒に連れていくと約束します。

作戦決行の日を迎え、島中に火の手が上がります。天皇の一行は迎えにきた船に乗って脱出。船中、小宰相を目障りに思っていた三位ノ局廉子は、僕の童子を遣い、混乱に乗じて小宰相を海に突き落とします。それと知らずに船は進み、哀れ小宰相は腹中の赤子ごと海の藻屑に消えてしまいました。後醍醐天皇は小宰相の姿がないのに気づきますが、「今はそれどころではない」という廉子の言を受け入れ、それっきり小宰相に触れられる事はありませんでした。

 

隠岐を脱出した帝は名和長年に受け入れられ、船上山へ登ります。すぐさま鎌倉に恩義を唱える近郷の地方武者が征伐に集まるものの、わずか20日あまりで尻すぼみとなってしまいます。

船上山から次々と発せられる天皇の勅は四国や九州といった離れた土地にも影響を及ぼし始めます。倒幕の狼煙が次々と上げられます。

 

          *      *      *

 

ここで突然登場するのが忍の大蔵、権三の二人。

大蔵は以前、日野俊基の身代わりとなった船木頼春と菊王の二人を襲った際に楠木正季たちに捕縛され、毛利時親に預けられたままとなっていた忍です。

たまたま再会した二人でしたが、権三が千早城の水ノ手の調書を寄手へ届けに行く道中と聞いて、大蔵の顔色が変わります。権三を強引に連れ出し、あべこべに楠木正成のいる千早の城へと向かいます。

 

 

07 千早帖

長期間籠城戦を続けてきた難攻不落の千早城でしたが、兵は皆、空腹と疲労に重ね、誰しもが傷を負っていました。楠木正成も例外ではありません。

自発的な攻撃は禁止とし、ひたすら守備に徹する正成に対し、弟である正季は好戦的であり、何かと理由をつけては兵を率いて飛び出そうとし、正成に諌められています。

そんな彼らの下にも、帝が隠岐を脱したという一報が届きます。しかしながら、寄せ手からは手を変え品を変え、攻撃の手は止まる事がありません。そこへやってきたのが忍の大蔵。

大蔵は毛利時親の下で過ごした事で心を入れ替えており、寄せ手に渡れば致命傷になりかねなかった千早城の水ノ手の調書を正成に届け、感謝されます。

 

          *      *      *

 

一方、加賀田の隠者こと毛利時親の下へは六波羅の使者が訪れていました。楠木兄弟をはじめ、 今や幕府に反旗を翻す者たちの中には彼の教えを受けた者が少なくないという事で、幕府から疑惑を持たれているのです。

再三の呼び出しにものらりくらりと応じず、ついに毛利時親は山荘を捨て、山を下りる決断をします。そこで忍の大蔵と再会。浮世の事など何もしらない毛利時親は大蔵に身を任せますが、独りよがりな兵法を唱えてばかりの彼に愛想を尽かした大蔵に嵌められ、六波羅に捕えられてしまいます。

 

          *      *      *

 

一色右馬介は故郷三河の一色村に戻ります。そこには藤夜叉とともに、不知哉丸の姿がありました。足利高氏の世継ぎとして周囲から甘やかされて育った不知哉丸は、母である藤夜叉にも暴言を振るうわがままぶり。

いよいよ高氏の上洛も近いと知った右馬介は、父子の対面を誓い、いっそ不知哉丸を陣中に入れて初陣としてもらおうと提案します。

 

鎌倉では北条高時に出陣令を下される高氏でしたが、妻である登子と不知哉丸を含めた三人の子供を人質として幕府に渡すよう言い渡されます。周囲の心配もどこ吹く風、あっさりと受け入れた高氏は、進軍を始めます。しかし、既に胸中では倒幕の計画が進んでいたのです。

行軍を進める高氏の下へは続々と参陣が相次ぎ、兵数は五千を超えるに至ります。ここで師直の献策により、高氏は家臣に幕府顛覆の大謀を打ち明けてしまいます。

 

さらに高氏の下へは一色右馬介が登場。藤夜叉と不知哉丸との面会を願い出ます。高氏は一旦は断りますが、不知哉丸との初対面については受け入れる事とします。会う事も適わないと知った藤夜叉は一人、涙にくれるばかり。

そこへ不知哉丸の身柄を引き受けに幕府の使者がやって来ますが、既に倒幕の意を知り、さらに不知哉丸に対する愛情も深い三河勢を中心に、引き渡しに応じようとする高氏に反対します。そこに弟・直義まで賛同の意を示したため、事態はとどまる事を知らず、高氏の意に反して使者は殺されてしまいます。

仕方なく先を急ぐ一行でしたが、立ちふさがったのが佐々木道誉。高氏たちの謀反を警戒した幕府により、居城である伊吹の城へ先に戻されていたのでした。挑むように布陣を固める佐々木勢に、一戦は避けがたいと色めく足利勢でしたが、高氏は彼らを宥め、直接道誉に会いに行くと告げます。言葉通り藤夜叉と不知哉丸を連れ、高氏は伊吹の城へと向かいます。

 

高氏の行動は道誉にとっても予想外のものでした。

使者の殺害も耳にし、戦うしかないと腹を決めていたような道誉も、不知哉丸を人質にと差し出し、全て包み隠さず打ち明ける高氏の話に徐々に心を開きます。二人は和解し、道誉もまた、高氏に協力を決めます。

高氏はお礼にと、藤夜叉を道誉にやると宣言します。しかし藤夜叉はこの言葉を耳にしてしまうのでした。伊吹の城は高氏との出会いの場であり、藤夜叉にとっては一時期を過ごした勝手知ったる屋敷でもあります。

その夜、その昔契った伊吹の庭で相対した高氏を藤夜叉は詰りますが、高氏からは道誉に一度身を許した罪を責められ、突き放されてしまうのでした。

 

 

08 新田帖

ついに京についた足利勢五千に加え、名越尾張高家七千が到着。さらに周囲からも兵が集まり、幕府軍は二万を超える軍勢に。

早速宮方の赤松勢と戦闘に入りますが、名越尾張高家が討取られ、幕府軍は混乱。しかし副将足利高氏は健在のはずと後を追うも、足利軍は不可解に軍を進めるばかり。そのまま足利の飛び領である丹波篠村を中心に陣を構え、後醍醐天皇からの綸旨を手に、周囲に参陣を呼び掛けます。

窮地に立たされた六波羅では、獄中から毛利時親が千早の城にいる二万の兵を差し戻しせと策を授けるものの、時すでに遅し、千種忠顕赤松円心も攻め入り、光厳帝をはじめ六波羅北条仲時たちは逃げ出します。

ところが宮方どころか、戦を聞きつけた周囲の山賊からも狙われる始末。せめて伊吹の城まで行けば佐々木道誉に助けて貰えると必死で逃亡を続けますが、伊吹に送った使者もなしの礫。伊吹まであと少し、というところで道誉の背信にも気づきますが、もうどうにもなりません。

仲時を始めとする幕府方の者たちは四百三十二人ことごとく枕を並べて自害。光厳帝たちは堂の中に隠れていたところを、賊の手によって発見されるのでした。

 

六波羅を落とした高氏はすぐさま奉行所を設け、治安の回復に務めます。直義に市中取締りの任を与えますが、たまたま取り押さえた強盗が大塔ノ宮の家臣だと知ります。

宮の引き渡しに応じようとする高氏でしたが、直情型の直義は譲らず、兄に無断で強盗を斬ってしまいます。この事が高氏と大塔ノ宮の間に禍根を残す結果なっていまします。

 

楠木正成の要塞である千早では、取り囲む幕府軍の様子の異変に気づきました。どんどん兵が退いてしまいます。

六波羅が堕ちたと見た正成たちはついに攻撃へと転じ、既に逃げ腰だった幕府軍を負い散らかし、勝利を手にするのでした。喜びの声をあげる千早の奥では、卯木の生んだ赤ん坊が産声をあげていました。

 

          *      *      *

 

その頃鎌倉では、足利高氏の子である千寿王がいなくなったという噂が流れていました。同時に、赤橋守時の邸が兵に囲まれたり、新田義貞の屋敷がもぬけの殻だったりといった事態が起こっています。

 

上野国新田義貞屋敷には、50名ほどの幕府の使者が向かっているという情報が入ります。名目的には徴税使ですが、新田は上納を拒みます。徴税使たちはやむなく強硬手段として、領内の庄屋や富豪から直接的な徴発を行います。

家中では倒幕に向けた旗揚げを決意しつつ、上方や鎌倉の動向を伺いながら、いつ行動を起こすべきか議論が続いていましたが、ついに動くべき時と決めます。しかしながら、そうなると幕府からやってきた徴税使たちが目障りで仕方がありません。

岩松吉致を使い、各地に点在する同族のものたちに触れ回る事とします。続けて、住民から徴発により恨みを集めていた徴税使たちを切り捨ててしまいました。そして、わずかわずか百五十騎という少数で決起するのです。

各地から仲間も駆けつけ、続々と軍勢が増える中、足利高氏の子・千寿王も合流し、戦線を共にします。ここに足利・新田の確執を越えた倒幕軍が成ったのです。千寿王は高氏から命を受けた家臣が、新田勢への合流に向けて無事保護していたのでした。残念ながらもう一人の子・竹若は幕府に殺されてしまったそうです。

兵を進めるにつれて討幕軍は膨れ上がり、とくに千寿王は「足利どのの若御料」と呼ばれ、人心を集めました。

 

幕府では異変を聞きつけ執権・北条高時ですら具足姿で眠るという日々をおくっていました。高時の周囲では、身内の訃報を聞きつけた人々が涙にくれています。ひたすらに酒を空ける高時には、次々と敗報ばかりが届きます。

やってきたのは赤橋守時。高氏の義兄です。守時は義兄として、周囲の蔑みの視線を受けながらも、自ら責任を果たすべく出陣を直訴しに来たのでした。高時に娘・登子の消息を聞かれた守時は、千寿王脱走の責任を負い、自ら命を絶ったと告げます。

高時の任を受けた守時は出陣。登子は死んでおらず、守時が逃がした事実が明かされます。しかし鎌倉を襲う新田勢の激しさに抵抗むなしく、追い詰められた守時は自ら命を絶ちます。

鎌倉の通じる三つの口は全て落とされ、いよいよ執権御所は兵と炎に囲まれます。

 

北条高時は周囲の逃亡を促す声を拒んでいました。

追い詰められた高時は、最後にと開いた酒宴の中で舞を披露し、着き従った工匠や遊芸人が詠や楽器で呼応して、寄せ手の兵たちを困惑させます。

そして北条家の血縁者や側近ともども、炎の中で自害して果てました。

鎌倉幕府は、ついに滅んだのです。

 

09 建武らくがき帖

鎌倉幕府が落ち、都では後醍醐天皇の還幸が始まっていました。そこへ現れたのが楠木正成。正成の忠心ぶりを、天皇が褒め称えます。

帝が戻り、平和を取り戻したはずですが、大塔ノ宮護良親王だけが未だ信貴山にこもり続けています。六波羅を落とした後、自らが六波羅奉行と成り代わって仕切り始めた高氏を、第二の北条高時と呼んで不満に思っていたのです。

しかしながら、父である後醍醐天皇を悩ませ続けるわけにもいかず、洛内入りに同意します。

 

一方鎌倉では、仲良く手を結んで幕府を倒したはずの新田と足利の間で、小競り合いが頻発していました。新田義貞は、このまま鎌倉にいたのでは都の高氏に好き勝手に差配され、論功行賞から漏れてしまうと、上京を決意します。

京に入る際には六波羅奉行である足利に届け出た後、証をもらわなければ宿所割りなどにも預かる事ができないという家臣の進言も、義貞は無視します。高氏にわざわざ許可を得る必要はない。むしろ千寿王を預かった恩もあるのだから、高氏からやって来るべきだというのが義貞の主張です。

しかし高氏の弟・直義が道中で新田勢を出迎え、宿所割りから証判まで揃えてくれるという手厚い歓迎ぶりに、義貞も機嫌をよくします。

都では千種忠顕を訪ね、佐々木道誉とも再会。さらに義貞の律儀さに心を打たれた忠顕の手筈で宮中の方々にも拝謁を済ませます。

やがて高氏からの招きに応じて足利屋敷へ出向いた先で、義貞は草心尼や覚一とも再会。遅れてやってきた高氏とも邂逅を済ませ、すっかり高氏に対する心証を良くします。

 

ようやく各武将が心待ちにしていた恩賞が沙汰となりますが、結果は誰の目から見ても不満足なものでした。わけても赤松円心則村に対するものは眼を疑うばかり。

公卿としては武家の作った幕府を倒し、今後は自分たちの世が訪れると考えていたのです。北条家が持っていた多くの所領はほぼそのまま天皇家を中心に分配され、武家へと分けられた領地はごくわずかなものでしかなかったのです。

さらにこれまで政治になど触れた事もない公卿たちが政務についた事で、朝令暮改や二重三重の沙汰は当たり前。同じ土地を複数人に与えてしまい、武士同士で殺傷沙汰となるような有様でした。

武士たちの不満は募り、町はどんどん荒れて行きます。彼らの心の拠り所として浮かんだのは、公卿に親しもうと励む新田義貞ではなく、足利高氏でした。

高氏は周囲の期待もなんのその、ひたすらに慎重な言動に終始し、必要以上に自分に期待が集まる事を避けている風でした。そんな彼に後醍醐天皇は、自身の諱である尊治から一文字授け、尊氏と名乗るよう言い、尊氏は感激するのでした。

 

宮中では皇后の禧子が逝去。鎮守府将軍号をうけた尊氏の下に続々と不平を唱える武士たちが集まりつつあるという噂に、危機感を募らせます。一方、宮方の第一人者として千早に戦った楠木正成も、戦後宮中からの評価は高くありません。気の利かない田舎侍とあざけられる始末。

代わりに反尊氏として白羽の矢が立ったのは新田義貞後醍醐天皇は千草忠顕や殿の法印とともに、謀を巡らします。まずは後醍醐の第八皇子義良親王と十七歳の少年北畠顕家を奥羽鎮撫に派遣。未だ戦乱やまぬ奥羽の平定と合わせて、東国武士たちをけん制する役目を負います。

続いて尊氏の弟である足利直義を相模守として鎌倉へ派遣。尊氏・直義を分断し、さらには東国武士同士で互いをけん制させようという狙いです。

 

 

その頃、都では新たに発行された楮幣という新通貨が波紋を呼んでいました。元々は新政府の財源不足を補うために他国の例に倣って発行されたものですが、それまでの銭と異なり、紙切れ同然の楮幣は商人たちから毛嫌いされます。しかしながら、通貨として楮幣で報酬を渡される武士にとっては受け取ってもらえない事には生活もままならず、それは政府が発行した通貨を認めない商人たちへの怒りと転じてしまいます。

業を煮やした殿ノ法印は不平を唱える商人たちを次々と捕え、見せしめのために首切りを命じます。恐れおののく囚人たちでしたが、佐々木道誉の機転によって命を救われます。

道誉は自らの蔵に貯蔵された交易品の数々を楮幣と交換すると触れ、市中に楮幣をばらまく事で楮幣の認知度と通貨としての信用度を向上させようと考えたのです。

加えて新政府から各国へ徴税を課す事で、財政危機はようやく改善へと転じたのでした。

 

さらに新政府では、次々と捕えられた北条残党の首切りが行われていました。俄かに沸き起こりつつある残党たちへの見せしめのためでしたがなんの効果ももたらさず、民衆からも新政府への落胆の声ばかりが募り、二条河原に記された「この頃、都に流行はやるもの 夜討ち、強盗、偽綸旨……」から始まる落書きが流行となります。

迎えた六月六日、尊氏を疎ましく思う宮方の士たちは足利屋敷の襲撃を計画しますが、これは他ならぬ道誉の密告により、未遂に終わるのでした。

 

その後も尊氏は闇討ちに遭いますが、下手人は楠木家の郎党と発覚します。ところが正成の及ばぬところで家臣が勝手に企てたと知り、尊氏と正成は最初で最期となる邂逅の場を持ちます。ところが、これにより尊氏は正成と手を結ぶ事は難しいと悟る結果となってしまうのです。

足利家では尊氏に向けられる悪意に対抗するため、高ノ師直を中心として准后廉子に取り入ります。尊氏を敵意する一番の首謀者は大塔の宮ですが、皇太子恒良の生みの親である廉子と、後醍醐天皇の嫡子でありながら皇太子の座を奪われた大塔の宮は自然反目する間柄にあります。

廉子は大塔の宮が武威を振るう中で恒良が帝位に就いたとしても宮が従うはずがないと嘆き、後醍醐天皇に訴えます。結果十月二十二日、大塔の宮は捕えられ、殿ノ法印以下、宮に従う者たちも次々と捕縛されるのでした。

捕えられた大塔の宮は足利直義のいる鎌倉送りに。

その後、北条残党の根城となっていた西園寺公宗も一族郎党ごと掃討されてしまいます。

 

そうした時に、信濃では遂に北条残党が決起。

勢力を増し、破竹の勢いで向かってくる的に、直義も支えきれずに鎌倉を放棄し、西へ逃げる事とします。

ところが直義は大塔の宮の存在を思い出し、混乱に乗じて宮を殺害してしまいます。

 

 

10 風花帖

一路三河に落ちる直義の急報を聞きつけた尊氏は征夷大将軍総追捕使の印綬を求めますが、武家最上の任である征夷大将軍を許すのは鎌倉幕府の再来に他ならないと、宮廷は拒み続けます。業を煮やした尊氏は、朝命を待たずに出陣。公卿たちは待ちかねていたとばかりに、これに乗じて尊氏の非を声高に叫びます。

道誉とも合流した足利軍は僅か20日で鎌倉を取り戻します。そのまま鎌倉に逗留していたところ、都からは尊氏上洛すべしとする勅使がやって来ます。尊氏の身を案じた直義たちは、尊氏に無断で勅使を追い返すという強硬手段に出てしまいます。直義を責める尊氏に対し、直義もまた、兄の優柔不断さを詰ります。尊氏は後事は全て直義に任せるとし、自らは出家してしまいます。

 

朝廷から逆賊尊氏の掃討を命じられた新田義貞は東下。尊氏から「あくまで新田義貞の攻撃に対して応戦するのであって、自ら京に向かって進軍してはならない」と申し伝えられていた足利軍は苦境に立ち、やがて佐々木道誉は新田軍に投降してしまいます。

尊氏の参戦を訴える家臣の涙に、尊氏もようやく出馬。新田軍内では佐々木道誉が裏切りを見せ、これまでの敗戦を吹き飛ばすような大勝を収めます。

足利軍はそのまま京へと攻め上り、後醍醐天皇は再び叡山へ落去。しかし、宮廷では待ちにしていた奥州の北畠顕家の援軍が到着し、戦況は再び一変。今度は足利軍内で寝返りが相次ぎ、尊氏・直義の消息さえ不明となるほどの大敗を期してしまいます。

赤松円心の助力により尊氏たちは播州に逃れ、さらに九州へ落ち、味方を募って再びの上洛を企てます。そこへ先の天皇である光厳帝から綸旨が届き、尊氏もまた、逆賊としての汚名を注ぎ対等な立場を得たとします。

 

一方都では、新田義貞が帝から勾当ノ内侍を賜ります。かつて思いを寄せた草心尼にも似た彼女に一目惚れした義貞の意を汲んで、千種忠顕が動いたのです。

また、楠木正成は参内し、新田義貞には人望がなく、尊氏を敵に回す現状は不幸を招くを後醍醐天皇に言います。義貞を斬ってでも、尊氏と和解すべきだと。しかしながらこれが認められるはずはなく、正成はただ不逞の人物としての評だけを厚くする結果となります。

 

 

 

11 湊川

都では正成が乱心したという噂が立ちます。周辺の公卿は正成の重罰処分を求めますが、後醍醐天皇はただ療養を命じるのみ。また、尊氏を追いやった立役者でもある北畠顕家は奥羽へ帰任が決定。

一方で尊氏討伐の総帥として足利を追うはずである新田義貞は病に伏せ、出立できずにいました。ところが周囲では勾当ノ内侍に溺れているためと不名誉な噂が立ってしまい、義貞は病を押して発向を決意します。

 

弟正季とともに河内へ引き上げ、閉居する正成の下には、尊氏からの密命を帯びた

一色右馬介が具足師柳斎として忍び込みます。山上の金剛山寺へと出かけた正成を追い、尊氏と同盟を結ぶよう持ち掛けますが、正成からは拒絶されてしまいます。

柳斎の動きを不審に思った正成の家来によって捕らえられる右馬介でしたが、正成の善意により無事帰還を遂げます。

 

その頃尊氏は、長門を離れ筑前に着こうとしていました。筑後ノ入道妙恵の子の頼尚が迎えにやってきますが、実はその間に太宰府は堕ち、父妙恵をはじめとする一族のほとんども自害して果てていました。

九州上陸の端から目論見が外れる足利軍でしたが、太宰府・博多と敵の菊池軍に向けて進軍するにつれ、周辺からは反宮方の地侍が参陣し、さらに圧倒的に不利な人数で臨んだ多々羅合戦においては、ここでも敵陣から離反者が続出した事で形勢は逆転。勝利を収めます。

博多を治めた尊氏は取って返すかのような速さで再度長門へ渡ります。今度九州で味方にした大軍を引き連れての凱旋です。長門でさらに周辺諸国から仲間と船を募り、勢力を拡大します。

公称六万の兵を率いた新田義貞軍は赤松円心の白旗城一つ抜けず停滞し、義貞に対する不信感を強めていました。そこへ足利直義の東上軍が押し寄せ、逆に押し返されてしまいます。

勢いを増す足利軍は、やがて兵庫にまで差し掛かろうとしていました。

 

12 湊川

故郷で遁世していた正成の下へ、出陣を求める勅使がやってきます。正成は一期の大戦と見極め、周辺にもそのつもりで準備に当たるよう差配します。

一緒に初陣を果たしたいと願う子・正行に理解を求め、また、元成・卯木の妹夫婦には武門を捨て、かねて臨んだ芸能者としての道に進むよう促します。

再び参内にあがった正成は、後醍醐天皇に対し、 新田義貞との間にはなんら隔意はないものとしつつも、この戦には勝ち目はないと断言し、公卿たちを激昂させてしまいます。

以前正成自身が千早に籠城した時とは異なり、人心は今や宮方からは離れてしまった。また、多数の船を揃えた足利軍に対抗するためには、いったん天皇を叡山に動座し、尊氏を京に誘い込んだ上で、自分たちは周辺の山々に拠点を築き、長期戦にて心身ともに敵の疲労を招けば自ずと自壊するだろう、との戦略を打ち出します。

ところが当然、公卿たちにとって受け入れられる策であろうはずがありません。その時点で、正成は死を決します。

 

新田義貞の下に散陣した正成は、海・陸両者に対応すべくまんべんなく配置された陣に対して意見を求められ、もっと海からの上陸に備えて兵を割くべきと進言します。手薄になる陸の直義軍に対しては、正成自身が僅か一千の兵をもって会下山に構えるというのです。

船の上にあった尊氏は、会下山に正成が陣を構えたと知り、作戦を変更します。上陸を阻止しようと海際を追う新田軍の軍勢を惹き付けたまま、さらに先での上陸を狙うのです。ところがこれは尊氏の偽装で、尊氏本人は僅かに残した舟に残り、新田軍の去った磯からやすやすと上陸を成し遂げるのでした。

正成は押し寄せる直義の軍勢を見極め、全軍に決死の突撃を命じます。海軍が先へと流れてしまった以上、新田軍の一部でも陸の直義に向けてくれれば、直義軍を挟撃できると考えたのです。しかし残念ながら、新田軍は逆方向へと兵を退いてしまいます。それと知った正成も、孤軍奮闘を決意します。

決死隊と化した楠木軍に直義軍は惨敗。直義は兵を退かせ、兄との合流を目指します。

 

楠木軍は自分たちが孤立したと知りますが、尊氏の行動を見透かした正成は、すぐ目の前の浜に上陸した一隊こそ尊氏であると弟正季に告げます。再び決死隊となって尊氏に迫る楠木軍でしたが、あと一歩のところで及びません。このまま雑兵に命を獲られるのは本意ではないと、正成たちは会下山を目指して撤退します。ところが会下山もまた既に足利軍の手に占拠されており、死の場所を求めてさまよう内に、無人の小さな部落を発見。敵兵に取り囲まれる中、一同揃って自刃を遂げます。

 

正成の首級を確認した尊氏は、いったんは晒し首としつつも、大人数の僧侶たちに読経を命じ、正成以下楠木一族の供養まで命じます。さらに右馬介に正成の首を遺族の下へ届けるよう命じるのです。これが、足利尊氏一色右馬介の、事実上の今生の別れにもなってしまいます。

 

足利軍は京へと入り、その後も戦は続きます。その前面に立ち、猛威を振るうのは直義です。ことなかれ主義の尊氏に対し、実直な直義との間には意見の相違も増えていきます。

尊氏が後醍醐天皇との和議を画策していると知った直義は涙ながらに怒り、また全て自分にまかせるとしながら裏で暗躍する尊氏を罵ります。この場はなんとか直義を説き伏せる尊氏。

後醍醐天皇は渡りに船と和議に応じ、はしごを外される形となった新田義貞は越前金ヶ崎へと北国堕ちします。

その後の尊氏の言動に約束違反だと訴える後醍醐天皇ですが、尊氏は取り合わず、幕府の再建を求めます。 帰り、廉子から大東の宮を殺した直義は天皇に近づけるべきではないとの助言を受けます。

 

引き続き宮方の人物の粛清を続ける直義に、尊氏は釘を刺します。直義はそんな兄の不明さを嘆きます。

 そんな中、後醍醐天皇の逃亡を許してしまうのです。

 

 

13 湊川

後醍醐天皇は吉野金峰山に入御し、ここに南朝である吉野朝廷が発足します。

その頃、尊氏の一子である不知哉丸は元服し、直冬と改名して直義の養子となります。

 

 新田義貞は北国で奮戦したものの、ついに足利軍に敗れます。

ここへきて奥羽の北畠顕家も、京を目指して立ち上がります。鎌倉を打ち破り、周囲からも参陣を募りながら美濃路へと入りますが、既に待ち構えていた足利直義軍と対峙。苦戦しつつも、なんとか吉野朝廷の下へと馳せ参じます。

 奈良はこれまでにない足利軍の猛攻に遭い、顕家は河内へ退く事に。北畠顕信が男山に、顕家は天王寺に拠って戦うものの、やがて顕家もわずか二十一にして斃れてしまいます。

 

 絶望の吉野朝廷では後醍醐天皇崩御

 その中で周囲の期待を集めたのは、正成の遺子・正行でした。

しかしながら決戦を前に陣を開け、母に会った事を責める北畠親房の言に胸を打たれてか、無謀な戦によって呆気なく命を落としてしまいます。

 

足利家内では高ノ師直と直義の対立が表面化。義父である直義の命を受けて、師直の曲事を嗅ぎまわっていたのは直冬でした。直義に対して憤懣やるかたない師直でしたが、罷免及び屏居謹慎の処分を科せられてしまいます。

しかしいったんは受け入れたかに見えた師直も突如決起。軍勢でもって足利屋敷を取り囲んでしまいます。飼い犬に手を噛まれたと悔やみつつも、尊氏と直冬は師直の訴えを受けて家臣を引き渡し、さらに直義も失脚となります。

 

ところがこれを面白く思わなかった直冬は、全てが尊氏と師直の芝居と決めつけ、吉野朝廷に帰降を申し出てしまいます。養子直冬とともに決起する直義に、足利軍の諸将は次々と手のひらを返し、直義の下へと走ってしまいます。

追い詰められた尊氏は直義と和睦。騒ぎの元凶となった師直、師泰の兄弟は引き渡せないものの、高野山で出家させるとしますが、護送の最中、直義の手によって斬殺されてしまいます。合わせて、高ノ一族もろとも、すべてみなごろしにされてしまうのでした。

 

一旦は和睦に落ち着いたかに見えた兄弟げんかでしたが、やがて尊氏の友軍が京をふさぐような不審な動きを見せ始め、再び衝突。東下した直義を追い、直義はついに捕らえられてしまいます。

 延福寺に収められた直義は約束が違うと怒り狂い、どうにも手の付けようがありません。意を決した尊氏は、自身の命により弟直義を毒殺します。

 そのまま鎌倉にとどまる尊氏でしたが、京とに残した義詮が窮地に陥ります。光厳院の第三の皇子、弥仁親王皇位に即けて難を逃れましたが、さらに九州の足利直冬南朝から綸旨を受け、都へ攻め上る事態に。

そんな中、尊氏自身も背にできた腫瘍が原因で、この世を去ります。

 

物語の最期に現れるのは、尊氏の会葬に現れた盲目の集団。

検校となった覚一が率いる一団です。

覚一はそこで法師となった右馬介、さらに田楽能の一座を開くようになった元成と卯木の夫妻と再会します。覚一の側には既に草心尼の姿はなく、小右京が彼の妻となっているのでした。

彼等は尊氏のために琵琶供養を催します。