『無双の花』葉室麟
「立花の義とは、裏切らぬということでございます」
前回の更新からまだ5日しか経っていませんから、ここ数ヶ月の中ではだいぶ早い更新になりました。
ずっと「読書に対するモチベーションが落ち気味」と言い続けてきましたが、ここにきてようやく快方に向かってきたようです。趣味とはいえ、そんな時もありますよね。
……で、読んだのは葉室麟の『無双の花』。
西国一の無双の者
立花宗茂……正直あまり聞かない名前ですよね。
ところが、実は“戦国最強の武将”と言われていたりもします。
有名な逸話が本書の中にも紹介されています。
小田原城攻めの際、豊臣秀吉が集まった諸大名の前でこう立花宗茂を紹介したというのです。
徳川家康の家臣で既に勇将として知られた本多忠勝とともに並べることで、若き立花宗茂の名は戦国武将たちの間で一気に広まったのでした。
この立花宗茂、元々は 九州の豊後国(現・大分県)を鎌倉時代から治める大友氏の家臣の出でしたが、大友家の重臣であった立花道雪の婿養子に入ります。
島津義久ら近隣戦国大名との争いにより苦境に立った大友氏は、当時天下人となった秀吉に支援要請。秀吉の九州征伐により島津は降伏。大友氏は豊臣家の配下として存続する事となり、立花宗茂は秀吉の九州平定に尽力。その功績を認められ、遂には一大名として取り立てられるに至るのでした。
以降も一揆の平定に、朝鮮出兵にと獅子奮迅の働きを見せる立花宗茂でしたが、一方で彼を取り立てた豊臣家には、秀吉の死と同時に暗雲が立ち込めます。天下を決する関ヶ原においては、豊臣から受けた恩に報いようと西軍に属しますが、西軍の総大将であるはずの毛利輝元をはじめ、豊臣家奉行の煮え切らない態度に憤り、自国の柳川領にもどってしまいます。
関ヶ原は呆気なく東軍の勝利で決着。西軍に組した立花宗茂には、同じ九州で徳川方についた黒田如水や加藤清正が立花の征伐にと兵を挙げます。ところが、かねてより立花宗茂の武勇や人柄を知り、特に朝鮮出兵の際には命を救ってもらった恩もある加藤清正は、立花宗茂の助命にと尽力するのでした。一般的にも名だたる武将として知られる加藤清正が立花宗茂のために駆けずり回ったと聞くだけで、立花宗茂が当時どのような評価をされていたのかが如実に現れているように感じられますね。
とはいえ西軍に組した立花家をそのまま存続させるはずもなく、所領を取り上げられた立花宗茂は浪人となってしまいます。そんな彼を打倒徳川の仲間に引き入れようと、真田幸村や長宗我部盛親らが誘いますが、豊臣への義は関ヶ原で終えた、とする宗茂は断固断り続けます。逆に家康に拝謁し、徳川の配下としての道を選ぶのです。
家康から提示された禄高は5千石。
筑後国柳川13万2000石は僅か5000石へと減らされてしまいました。
間もなく禄高は10,000石となり、家康の嫡男・徳川秀忠の御伽衆に列せられますが、陸奥棚倉藩へ。
今でいうと、福岡から福島へと移された形になります。
しかしながらこれにより、立花宗茂は再び大名としての身分に還る事ができたのです。しかも秀忠の御伽衆という名誉ある役職付。
さらにそう時を置かず三万石へと加増されます。
そして大阪冬の陣・夏の陣においても目覚ましい活躍を見せた立花宗茂は、 遂に筑後柳川十一万石に再封という前代未聞の沙汰を受けるに至るのです。
関ヶ原の戦いで西軍に加担した武将の中で、領地に戻れたたった1人の武将となったのでした。
戦国時代最強……?
ここまでさっくり立花宗茂の半生を振り返ってきましたが……なんとなく腑に落ちない感がありませんか?
そうなんです。
戦国時代最強と言われても、その強さがいまいち伝わって来ないんです。
今まさに放送中の大河ドラマ『麒麟がくる!』では明智光秀を主人公に、織田信長の義父である斎藤道三や今川義元が登場。今後信長自身や武田信玄、上杉謙信、そして秀吉以下、名だたる戦国武将たちが登場してくる事でしょう。
信長や秀吉、家康はもちろんのこと、ともに天下を獲ったわけでもなく、よくよく見てみれば局地的な争いでしかなかったにも関わらず、武田信玄と上杉謙信の猛将ぶりなんかは歴史に興味のない人にも知られるところです。
戦国時代を紐解けば、枚挙に暇がないほど伝説的な戦いが繰り広げられています。
ところが、立花宗茂はどうでしょう?
「最強の武将と言われている」と言っても、「じゃあ代表的な戦いは?」「どんな活躍をしたの?」と聞かれても、ほとんど知られてしません。
また、本書においても関ヶ原以後を描いているため、徳川による戦後処理の中を義を全うしながら生きる立花宗茂の姿が大半です。彼が戦っている様子は、その昔大友氏の家臣として島津と戦った事や、朝鮮の役で加藤清正を救った逸話が一部取り上げられるぐらいでしょうか。
戦国武将たちが軒並み高く評価するほど、最強の武将と称えられながらも、いまいち立花宗茂の戦功というのは見えて来ないんですよね。
理由を書いてしまうと、戦国武将としては遅い生まれであった、というこの点に尽きると思います。
よく伊達政宗を指して「あと○十年早く生まれていれば」「仙台ではなくもっと京に近い場所だったら」天下人になっていただろうなどという話を聞く事があります。
政宗がまだ若い二十代の頃、会津の芦名氏と死闘を繰り広げていた頃、秀吉は既にほぼ天下を手中に収めようとしていましたから。政宗がどんなに才覚に溢れていようと、天下の動向がほぼ決まりかけていたのではどうにも打つ手がありません。
群雄割拠の時代であればそれぞれの力関係だけで勝敗が決まったかもしれませんが、ある程度天下の趨勢が見えてきた段階において、それをひっくり返すのはたやすい事ではありませんよね。
信長・秀吉・家康が三大キャリアだとすれば、政宗は既に成熟しかかった通信産業にこれから進出しようとする楽天のような立場だったと言えるのでしょう。
そんなわけで、政宗と同じ年齢であった立花宗茂もまた、同じような立場であったと言えそうです。
大友家の家臣として島津と争いを繰り広げた若年の頃、秀吉はもう既に天下に王手を掛けていたわけですから。
川中島の戦いのような名勝負があったとしても、それは大局でみれば秀吉の九州平定の中のいち戦としかならず、それぞれの武将の代名詞的戦いにはなり得なかったのでしょうね。
また、宗茂が戦上手としての本領を発揮したのは朝鮮の役のようですが、こちらもまた、秀吉の朝鮮出兵自体が後年否定されまくっていますので、その中でどんな死闘を繰り広げようと評価はされにくいですよね。
政宗もあれだけ有名な戦国大名でありながら、戦に関しては会津の芦名氏との戦いがほぼ最後になるのではないでしょうか。以降は秀吉や家康に組しながら、上手く戦国の世を渡り切り、南蛮交易やら金の採掘やらに才覚を発揮した印象です。
なので立花宗茂もまた、戦国最強と呼ばれながら、活躍の機会に恵まれなかった武将と言えるのではないでしょうか。それが悲運かどうかはまた別の話になるかと思いますが。
立花の義と純愛と
さて、本書はというと関ヶ原以後の立花宗茂の半生を、「立花の義」と「純愛」という2つのテーマによって書き上げた作品と言えます。
冒頭に抜粋した「決して裏切らない」というのが立花の義。
象徴的な例として、関ヶ原後、立花宗茂をどうにかして救おうとやってきた加藤清正らは、徳川への恭順を示すために、同じく西軍に組した島津攻めの先手を務めるよう勧めます。
元はと言えば島津とは敵対関係にあり、宗茂にとって島津は実の父を討った仇でもあります。
しかしながら、宗茂は「朝鮮の役でともに戦った島津を討つのはできない」ときっぱりと断るのです。
この一例にも表れる通り、立花宗茂は終始「立花の義」を守り続けようとするのです。
そしてその「立花の義」こそ、妻である誾千代が父・橘道雪より言い聞かされた言葉なのです。
関ヶ原以後、浪人の身に落ちぶれた宗茂が再起を遂げる前に、妻・誾千代は病によりこの世を去ってしまいます。そんな中においても誾千代は宗茂の身を案じつづけ、宗茂もまた、誾千代を想い続けます。
無双の者、最強と名高い立花宗茂をモデルとしながらも、戦場で獅子奮迅の活躍をする姿ではなく、義を重んじ、愛に生きた立花宗茂を描いたのが本作と言えるでしょう。
そもそも立花宗茂という人物の一生を知りたくて本書を選んだ僕にとっては、正直ちょっと物足りないところもありますが。
葉室麟さんはもう亡くなってしまいましたが、直木賞を受賞した『蜩ノ記』や『散り椿』等映画化された作品も多く、人物の内面に重きを置いた作品を書かれる作家さんのようなので、より小説的に過去の歴史を楽しむ事ができるようです。
『散り椿』は岡田准一や西島秀俊の好演も話題でしたしぜひ原作も読んでみたいところですね。
ようやく読みたい本が出てきそうです。