『光の帝国』恩田陸
矢田部さん、『常野』という言葉の由来を知ってますか? 権力を持たず、群れず、常に在野の存在であれ。そういう意味だそうです。
前回のブログにも書きましたが、ようやく『私本太平記』を読み終えたにも関わらず、続いて『新・平家物語』に手を出したい衝動に駆られています。というか、既に全巻セットをポチッてしまいました。
だって全16巻セットで99円ですよ……。
衝動買いするにはあまりにもハードルが低すぎます。
とはいえ『私本太平記』ですらなんだかんだ約ひと月もかかってしまったというのに、さらに長い『新・平家物語』になんて手を出した日には、さらに長い時間かかりっきりになってしまうのは間違いありません。
とりあえずその前に、幾つか積読の方を昇華しつつ、現代小説を楽しんでしまおうというわけです。
さて何を読もうか……と本棚を眺めると、やはり最初に目についたのは恩田陸。
『蜜蜂と遠雷』も『夜のピクニック』も『チョコレートコスモス』も良かった。
手が伸びてしまうのは必然ですよね。
不思議な力を持つ常野の人々
本書は基本的には全10作の短編集の体裁を取っています。
一つ一つの話は非常に短く、あっという間に読み終えてしまうのですが、各話に共通して登場するのが“常野”という不思議な土地であり、その血をひく不思議な能力を持った人々。
途方もない記憶力を持つ家族や、予知・千里眼的な能力を持つ人間等、彼らの持つ不思議な能力は多種多様に及びます。
そんな彼ら本人であったり、彼らに関わる人々のちょっとした物語の数々が収められた作品です。
とはいえ正直なところ、“常野”というキーワードを除けば、特に何らかのテーマが流れているわけではありません。
本書を読んだ限り、”常野”が一体なんなのか、なんの為に存在する(した?)のか、全くわからないままです。
あくまでその力の不思議さ、神秘さを楽しむだけの物語のようです。
常野物語はこの後『蒲公英草紙』、『エンド・ゲーム』と続いていきますので、あくまで常野物語シリーズ全体の序章的な位置づけとしてとらえた方がいいのかもしれませんね。
その都度違うキャラクターでという浅はかな思い付きを実行したために、手持ちのカードを使いまくる総力戦になってしまった。
(中略)
「オセロ・ゲーム」や「光の帝国」はもともと独立した長編で考えていたものだし、「達磨山への道」は、四人の少女の神隠しのプロローグとなるエピソードとして予定していたものだった。
と書いていますので、とりあえず「ありったけのアイディアを全部入りさせた面白い話」が先行しただけで、作者にとっても着地点は未定のままなのかもしれません。
各話のまとめ・登場人物
シリーズ序章という事で実際に『蒲公英草紙』、『エンド・ゲーム』にも繋がる話・登場人物もいるようですから、簡単に各話をまとめておきたいと思います。
『大きな引出』
本や音楽を「しまう」暗記能力を持った春日一家の話。
主人公である光紀他、父と母、姉・記美子。
『二つの茶碗』
青年・篤が未来を見る能力者・美耶子と出会い、結ばれる話。
ラスト、篤は選挙事務所の手伝う事に。
『達磨山への道』
神隠しの山であり、人生の転機にある人間には、重要なものが見えてしまう山。
『オセロ・ゲーム』
拝島暎子と娘・時子。不意に遭遇するナニモノかと「裏返し」「裏返される」戦い。
夫は数年前に失踪。ラストでは時子が「裏返す」能力に覚醒する。
『手紙』
常野について調べる寺崎。百年以上前から同じ姿で存在する「ツル先生」を追う。
ついに達磨山でツル先生に会う。
『光の帝国』
ツル先生が山の中で始めた学校に、1人二人と子供たちや先生が増えていく。
対象を「燃やす」能力者・信太郎。やがて常野の人々を狙う軍に見つかってしまう。
『歴史の時間』
亜希子は転入生の記美子と出会い、忘れ去っていた「飛べた」という昔の記憶を取り戻す。
『草取り』
記者である私は、都内の様々な場所に生える謎の赤い「草」を取る男の取材をする。
『黒い塔』
亜希子は喫茶店で自分の持つ念動力の力に気づく。篤は政治家として美耶子とともに選挙活動中。美耶子の制止を聞かずバスに乗った亜希子は崖崩れに襲われ、「時を戻す」能力に目覚める。
『国道を降りて…』
フルート奏者・美咲とチェロ奏者・律。律は重要な事はどこにいても「聞こえる」能力の持ち主だった。
このうち 「しまう」暗記能力を持った春日一家が『蒲公英草紙』、拝島暎子と娘・時子の「裏返す」戦いが『エンド・ゲーム』に繋がっているようです。
結論として
面白か、面白くないか、という点を書いておかないといけませんよね。
個人的にはかなり微妙です。
微妙の本意的な意味ではなく、昨今使われているネガティブな意味での微妙と思っていただいて差し支えありません。
小説というよりは、映画の前の予告を見せられているイメージです。
断片的に切り貼りされた映像とテキストが踊って、なんとなくこんな映画なんだろうな、という予告が次々と流れるあの感じ。
だから面白いとか面白くないとか以前に、そもそも作品として未完の状態にあるんじゃないか、と。
だいぶ前に書いた大塚英志の『キャラクター小説の作り方』の記事からの抜粋を再び抜き出しますが、
ただ単に「左右の目の色が違うゴーストバスターの少年が戦うお話」と「左右の目の色が違うがゆえにゴーストバスターにならなければならなかった少年が葛藤しつつ戦うお話が全く違うのはわかりますよね。「左右の目の色が違うこと」というキャラクターの要素と「ゴーストバスターをする」というドラマの骨格が自然に結びついていることが大切なわけです。その手続きを怠らなければ、そこにはもう「物語」が成立しかけているはずです。
こんなふうにぼくの作品でもどうにか上手くいった作品は主人公の外見的、身体的な特徴(多重人格とか全身が人工身体とか)がその主人公のその後の行動、つまり「物語」に自然に結びついているのです
まさしく、本作ではこれのダメなパターンなんですよね。
「しまう」能力も「裏返す」能力もなんのために、どうして存在するのかがさっぱりわからないままなんです。
上記の例で言えば「左右の目の色が違うキャラクターがゴーストバスターをする」だけの短編と言えばよいでしょうか。
せっかくの面白そうな設定が物語に結びついていないため、物語としてとてもとても浅いままで終わってしまうんです。
それこそが僕が上に「序章的な位置づけ」と書いた理由なんですが。
今後シリーズ作品がどんどん刊行されて、世界観が決まっていけば「始まりの物語」として価値も大きく変わるかもしれませんが、本作だけ読んでもそう深く楽しむ事ができないと言って間違いないでしょう。
『蒲公英草紙』や『エンド・ゲーム』では能力を絞り込んでより深い世界観で書き込んでいるようですから、そちらを読めばまた変わってくるかもしれませんね。
どちらもAmazonのレビューを見るとあまり評価が高くないのが気がかりなところですが。。。
恩田陸の初期作品はどうしても伏線の未回収やプロットの粗さが目立つだけに、今後発表する作品はしっかりと作り込んだ上質なもの期待したいですね。
なんだったら『蜜蜂と遠雷』の続編なりアナザーストーリーを書いてくれてもいいんですけど。