「小僧! くらえ!」
という呶声は、斬りつけてから出た。
あまりの急なことに、信玄は立ち上がるすきがない。まして刀をぬくひまはない。床几にかけたまま、軍配うちわで受けた。うちわは薄金づくりだが、鋭い切っ先は半ばまで切り裂いた。
「しぶとい!」
再び長らくブログの更新が途絶えていましたが、今回読んでいたのは海音寺潮五郎の『天と地と』。文庫本で上・中・下と三冊組の長編小説です。
今をさかのぼること50年以上前、1969年に7作目のNHK大河ドラマとして放映された原作作品。
僕もなんとなく作品名は聞き覚えがあったのですが、実際に読むのは初めてになります。
時代としては人気の戦国時代ですが、基本的に信長・秀吉・家康が中心に語られる事が多く、室町末期から信長上洛以前というのはいまいち影の薄い時代に感じています。同時代だと信長絡みで義理の父である斎藤道三が頻繁に登場するぐらいで、それ以前の武将にはなかなかスポットライトが当たる事が少ない。
具体的に言えば本作の主人公である上杉謙信、武田信玄もそうですが、今川義元、北条 氏康も同様に感じています。今川義元なんて、信長の噛ませ犬的な扱いに終始している作品も多いですよね。
現在放送(休止?)中の大河ドラマ『麒麟がくる!』においては、今川義元が家康や信長との絡みで地味に触れられるぐらいで、信玄・謙信の名前はほとんど出てきていません。
信長が今川義元を討ち果たした頃、謙信と信玄の争いも佳境を迎えていたわけで、当時時の情勢を考えればどちらも名前ぐらい出てきてもおかしくないぐらいの存在のはずなのですが。
僕自身、信長以降の武将ものの作品についてはだいぶ読んだつもりなのですが、考えてみると上杉謙信・武田信玄という二人の武将についての作品にはこれまでに触れた事がなかったので、今回ついに読んでみる事にしました。
こうして一つ一つ、自分の中でピースが収まるように歴史のパズルが繋がっていくのは読書の醍醐味の一つでもありますよね。
父から迫害・兄との対立
本作は上杉謙信の父であり越後の守護代、長尾為景から始まります。
足利時代末期の当時、既に全国各地は戦国の乱世に突入。為景も名のある武将として日常的に争いに明け暮れる日々が続いています。英雄色を好むという言葉の通り、為景は63歳にして四人目の妻、袈裟を迎えます。
問題が発生するのはその直後。
妻に娶って程なくして、袈裟は妊娠します。
それがあまりにも早すぎると、為景はいぶかしく思い始めるのです。
「お腹の子は本当に俺の子なのか」
「既に仕込まれた状態で嫁いできたのではないか」
という疑惑ですね。現代でも話題の❝托卵疑惑❞とでも言いましょうか。
生まれた子供は虎千代と名付けられ、為景は表面的には自分の子として育てますが、実際には虎千代を愛せず、遠ざけようとするばかり。
唯の保護者であった袈裟の早世も重なり、虎千代はまだ幼いうちから出家させられたり、春日山から遠く離れた他家に出されたり、といった迫害に遭うのです。
こうして父の愛情を知らずに育った虎千代こそが、後の上杉謙信。
為景が栴檀野で討死した後、長尾家の家督は兄の晴景に承継されますが、この晴景も困った人物。
年若ながら徐々に名声を集めていく景虎(虎千代)と手を合わせ、協力して長尾家再興を目指せばよいのですが、一向に父の仇討ちに動く気配も見せず、周囲の豪族らは荒れるばかり。加えて、なにかと比較されがちな景虎を疎ましく思うばかりで、やる事なす事裏目に出ます。
最終的に景虎を攻め落とすつもりが逆に反撃に遭い、長尾家の家督を景虎に譲るに至ります。
上巻~中巻中盤までは、こうした景虎の父からの迫害、兄との対立といった肉親との対立が中心に描かれていきます。
朝廷・幕府への忠誠
長尾家を継いでからというもの、景虎は武田晴信(信玄)との度重なる領土争いや、北条氏との争い等、関東を舞台とした戦乱へと入っていきますが、本書において、主人公である景虎はあくまで「善の人」という立ち位置で描かれています
そもそも景虎が仕えている上杉家は関東管領、つまり関東を統べる官位であり、景虎は自ら京へと上り、朝廷や幕府に参内しています。末期の当時は既に名ばかりの存在であった、という但し書きは必要ですが、松永久秀ら幕府や朝廷を食い物にする連中とは異なり、朝廷や幕府に忠誠を誓う武士としての姿が描かれています。
まるで江戸末期の会津藩のような立ち居振る舞いです。
やがて景虎は上杉家の家督と関東管領職を相続し、名を上杉政虎と改めます。
落ち目の朝廷や幕府が求められるがままに衣冠が職をバラまいていたのが、当時の国が荒れていた一番の原因なんじゃないかと思えてきたりもするんですけどね。
「俺の領地はここからここまでだ!大義名分もあるぞ!」
と各々が好き勝手言う原因を、国の偉い人たちが自ら作っていたわけですから。
困った時代です。
そして第五次川中島の合戦が終わったところで、3巻に及ぶ壮大な歴史長編は終わりを告げます。
乃美との純愛
本書は史実を元にした歴史小説なのですが、一番印象に残っているのはという女性とのエピソードの数々でしょうか。
乃美は景虎の少年期の師となり、以後は軍師としても名高い宇佐美定行の娘です。
少年時代に宇佐美の屋敷でたまたま出会った乃美に心を惹かれ、度々彼女の下を訪ねる景虎の初々しさは清々しくさえありますし、年上ぶって景虎の身を案じる乃美に、感情的に一喝してしまうシーンもまた、ほろ苦い青春の1ページを感じさせるものです。
生涯独身を貫いた事から「女性説」や「男色説」が渦巻く謙信ですが、本書においては乃美という一人の女性への純愛が、一つの答えとなっているようです。
本書は第五次川中島の決戦を終え、戻ってきた謙信を宇佐美正行が迎える場面で終わっています。
史実としては以後、武田軍との抗争は収束するものの、北条との関東方面での争いが続き、やがては信長との争いの中で謙信は果ててしまうわけですが、やはり上杉謙信の武将としてのピークであった信玄との抗争で幕引きとするのは良い判断だと思います。
この後、信玄亡き後に滅亡の一途を武田家や、同様に衰退していく上杉家を描くのは寂しくなるばかりですしね。
一説によると武田信玄が強いとされてきた理由は、後に天下統一を果たす徳川家康が唯一大敗した相手でもあり、武田家滅亡以後は家臣団を大量に雇い入れた事もあって、「武田は強くなくてはならない」とする徳川家のお家事情が働いたとか。
となると武田と五分の戦いを繰り広げた上杉謙信も強くならねばならず。。。なんて邪推もあったりするわけですが。
本作においては上杉目線での作品でしたので、次は武田側から描いた作品も読んでみたいと思います。海音寺潮五郎の歴史解釈上、武田軍の名軍師・山本勘助も本作には登場していませんし。
いつもながら散文的・支離滅裂な文章ですが今回はこんなところで。