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年間100冊前後の読書を楽しんでいます。推理小説・恋愛小説・歴史小説・ビジネス書・ラノベなんでもあり。

『黄泉がえり』梶尾真治

「実は、死んだ主人が帰ってきまして。今朝がたですよ。気がついたら帰ってきてて」

っっっっっ!!!!!

 

思いがけず、二日続けての更新となってしまいました。

どれだけ怠けていたことか。

 

前置きはさておき、読んだのは梶尾真治黄泉がえり』。

2003年には当時SMAPの草彅剛主演で映画化もされた話題作。

 

 

映画は未鑑賞ですが、そこそこ評価の高かった作品という印象だけは残っていて、古本屋でタイトルを見た瞬間に衝動買いしてしまいました。

 

 

死者が“蘇る”

タイトルオチしてるので説明するのも憚られますが、文字通り次々と死者が蘇ってくるお話。

それを商社(?)に勤める雅人やその部下の中岡、警備会社に勤める義信らを視点に、様々な角度から描いています。

 

雅人の場合には、勤務先の先代社長が黄泉がえり、さらに実父も蘇ります。

中岡は少年時代に自分を救って死んだ兄が、さらにアプローチしていた未亡人の玲子の夫が蘇ってきます。

義信に関しては、昔から大ファンだった歌手のマーチン(女性)が蘇ります。全国的に知名度のあるマーチンの復活が、熊本を中心とした局地的な現象であった黄泉がえりを日本中に知らしめる結果となります。

 

それぞれが感動の再会に喜び、さらに蘇った者たちが社会活動を取り戻すために行政や世の中が変わっていく様が描かれていくのですが、後半からもたらされるターニングポイントに向かって、急激に物語は変容、収束していきます。

 

映画化も納得の思わず唸るようなプロットです。

 

 

素材を活かしきれなかった

ところが残念ながら、著者にせっかくの素材を活かしきるだけの腕が足りなかったのがもったいないところ。

 

一人称「私」にも関わらず語尾に「ッス」をつける謎の口調の中岡をはじめ、登場人物たちはやたらとキャラクター性(昭和的)の先行が目立ち、彼等からは日常生活のリアリティーが一切感じられません。

そのせいか、言動の一つ一つにも整合性が得られません。

 

序盤、市役所に多数の人々が詰めかけるシーンがあります。

彼等の目的は「死んだ人が帰ってきたから死亡届を撤回させて欲しい」というもの。

それにより市役所窓口は混乱に陥り、市長は黄泉がえってきた人に対する対策に迫られるというものです。

 

……おかしくないですか?

 

仮に死んだ肉親が突然戻ってきたとして、まず一番最初に取る行動ってソレですかね?

普通に考えるといくら本人に瓜二つだったとしても、まず信じませんよね。誰かの悪いいたずらか、何かの間違いだと思うはずです。どんなに似ていて、本人しか知らないはずの記憶を所持していたとしても、です。

 

なのでまず蘇った人が求められるのって、本人確認で間違いないと思うんですよ。蘇った本人にとっても、肉親にとっても。

とすると一番は死亡届けを出した病院ですよね。仮に本人だと確認できたとしたら「じゃあ葬式やって火葬場で燃やしたアレは誰なんだ? もしかしてよく似た他人の死体で葬式上げたのか?」となるでしょうから、とかく病院がらみの騒ぎになるのは間違いありません。

 

役所に届出を……なんて考えに及ぶのは、なんやかややって「とにかくどうやら目の前にあるこの人は死んだと思っていたあの人に違いないらしい」と医学的にも証明を得られてからになると思うんですよね。

だって本人確認取れないのに「先に戸籍を元に戻して」なんて言いませんし、役所側も「まず本人だと確認を取って下さい」と突っ返すのは間違いありませんし。

 

一応補足しておくと本書の中にも、役所の対応として「戸籍に代わる登録の手段」や「認定」、「本人鑑定」という文字が出てくるのは出てくるのですが、それは記者の口から「そういう対応を取るらしいよ」という言葉として出てくるだけであり、実際にそれに伴う混乱等が描かれるわけではありません。現実的な手続きとして、本人確認だけでも数か月から半年はかかりそうな気がしますが。

基本的にほぼ全ての遺族は故人が現れた瞬間に本人である事を盲目的に受け入れ、次に取るべき行動として役所に戸籍を求めるとともに、日常生活への復帰を始めようとします。

雅人の会社の先代社長に至っては蘇って早々にお披露目パーティーを開催してしまいますし、マーチンは早々にアーティストとして復帰を果たし、作曲やレコーディングを始めてしまうのです。小学生姿の中岡の兄に至っては、翌日から近所の老人たちの手伝いを申し出て小遣い稼ぎを始める有様。

 

フィクションとしてある程度のご都合主義は否めないのかもしれませんが、最終的に二万人以上の黄泉がえり申請があったというのですから、世の中の混乱ぶりはある程度は描いてくれないと白けてしまいます。

 

 

描きたかった事とは

一番わからないのがコレですね。

一体何が描きたかったのか。

 

多分、「死者が蘇って、原因は〇〇で、クライマックスがこうなる」みたいなプロットが全てになってしまったのかな、と。

 

死者が蘇るというと辻村深月の『ツナグ』が真っ先に思い出されますが、書きようによっては同じようなじんわりとした感動を呼び起こす作品にもなり得たと思います。いや、スケールの大きさから言っても、『アルマゲドン』のようなハリウッド超大作になり得る題材だったのかも。

 

先代社長が突如蘇った会社、帰ってきた祖父、帰ってきた夫、帰ってきた兄、帰ってきた憧れのスターと、他にも様々なパターンの黄泉がえりが描かれているのですが、そのどれもが描き切れたとは思えません。

それもこれもステレオパターンな登場人物たちに起因しています。

 

蘇った先代社長は最初から最後まで先代社長でしかありません。

先代社長の父親としての顔、夫としての顔、生前やり残した悔恨等はほとんど描かれないのです。

 

同様に、マーチンも蘇った瞬間からアーティストであり、一人の女性としての彼女や生前の交友関係、両親や親族との邂逅といったものは一切描かれません。唯一彼女が所属していた事務所の社長が蘇った彼女を売り出そうと躍起になるばかりです。

 

あくまで「蘇った〇〇」というキャラクターを演じさせられるのみで、人間としての深みが一切ないのです。

 

もっと端的に言えば、死に対する深みが感じられない。

だから生き返ってきた事に対する喜びや感動も感じられない。

 

田舎で飼っていた猫がある日突然いなくなったと思ったら、数日後にふらっと戻ってきたという、そんな感じなんですね。「あれ?生きてたんだ。じゃあご飯の用意してあげなきゃ」みたいな受け止め方。

 

復活してきた時の感動を描き切れていないので、再度消えゆく際の感動も薄いままになってしまうのは必然です。

『ツナグ』的世界観であれば、「悔恨に悔恨を重ねて死んでいった人が奇跡的に蘇った数日間の間に未練を一つ一つ断ち切り、改めて清々しい気持ちで遺族に別れを告げてあの世へ旅立つ」感動巨編になったはずなんですが。

 

いずれにせよ題材としては非常に優れた作品なので、いずれ時間ができた際にでも映画版を観てみたいと思います。多分こういうのは、エンターテインメントのプロがリメイクして作品に仕立てた方がよくなるはず。そう期待して。

 

 

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Linus on Instagram: “#黄泉がえり #梶尾真治 読了 死んだはずの人がある日突然帰ってくる。しかも次々と。 一体何が起こっているのか。 彼らは一体どうなるのか。 2003年に草彅剛主演で映画化され大ヒットを記録したそうで、かなり魅力的な題材でした。…”