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『興津弥五右衛門の遺書』森鴎外

いかにも某は茶事の心得なし、一徹なる武辺者なり、諸芸に堪能なるお手前の表芸が見たしと申すや否や、つと立ち上がり、脇差を抜きて投げつけ候。某は身をかわして避け、刀は違棚の下なる刀掛に掛けありし故、飛びしざりて刀を取り抜き合せ、ただ一打に横田を討ち果たし候。

 

森鴎外『興津弥五右衛門の遺書』を読みました。

またまたマニアックな古典・短編です。

上に引用した通り、江戸時代の武士の手紙を模した文章はそうろう文。読みにくい事この上ありません。

 

ですが芥川龍之介の『将軍』同様、こちらも乃木将軍の殉死直後、森鴎外が発表したと言われています。いわゆる“乃木文学”と言えるでしょう。

 

さて、早速内容についてご紹介します。

 

遺書を書くに至る経緯

興津弥五右衛門は細川家の家臣。元々は沖津と言いました。茶事に用いる珍品を買い求めよという藩主の命を受け、同僚の横田清兵衛とともに長崎へと向かいます。

そこで見つけたのが伽羅の大木。

しかしながら横田との間に、一木の下部(末木)を買うべきか、より上質とされる上部(元木)を買うべきかで口論となります。

珍しい品を買って来いというのが主命なのだから当然元木を買うべきだと主張する沖津と、茶事ごときのために大金をはたく必要はないと主張する横田。

やがて横田の放った「阿諛便佞の所為なるべし(=このごますり野郎)」という一言に、沖津はカチンと来てしまいます。

 

それはいかにも賢人らしき申条なり、さりながら某はただ主命と申物が大切なるにて、主君あの城を落せと仰せられ候わば、鉄壁なりとも乗り取り申すべく、あの首を取れと仰せられ候わば、鬼神なりとも討ち果たし申すべくと同じく、珍らしき品を求め参れと仰せられ候えば、この上なき名物を求めん所存なり、主命たる以上は、人倫の道に悖り候事は格別、その事柄に立入り候批判がましき儀は無用なり

 

文章は相変わらずのそうろう文ですが、いかにも顔を真っ赤にして早口で言ってそうな雰囲気が伝わってきます。某掲示板のレスバトルのようです。

最終的に、以下のような流れで悲劇が起こってしまいます。

 

沖津「香木の価値がわからないとか頭悪すぎワロタ」

横田「あーそうだよ。俺は武芸にしか能がないんで。お前はなんでもできるらしいから腕前見せてみろよ(脇差投げつけ)」

沖津「(脇差かわしつつ)やりやがったな(刀抜いてグサリ)」

 

国へ帰った沖津は三斎公に「切腹します」を願い出ますが、三斎公はその献身ぶりに胸を打たれ助命するとともに、自ら横田の子どもと和解の場を設けた上、自身の名では細川忠興から興の一文字を与えます。以後、沖津は興津と改めるようになりました。

興津が持ち帰った香は珍重され、以後も興津は細川家中で大いに引き立てられる事になります。

やがて三斎公がこの世を去るにいたり、自分が今の今まで生きてこられたのは三斎公の大恩あってこそ、とその一年後、興津は殉死を遂げます。

事前に当代藩主に暇乞いした際には茶を振る舞われ、引出物をいただき、さらに多くに人々からも餞別を送られます。自刃の際には立会人に見守られ、大勢の見物客の中で腹を切るという立派な最期でした。

 

本作の大部分を占める遺書とは、この殉死の際に興津が息子と、その子孫に向けて書き残したものなのです。

 

 

乃木将軍の殉死との類似点

冒頭にも書きましたが、本作は森鴎外が乃木将軍の殉死の一報を受けて書いた作品です。

以下、Wikipediaより抜粋。

 

1912年9月13日に行なわれた明治天皇大喪の礼に出席した帰りに乃木大将の殉死の報を受ける。一般国民の多くは殉死を賛美する一方、報道機関や知識人の一部には否定的な論調があり、また乃木の遺書はなかなか公表されず、公表されたものは一部改竄されていた。そのような騒動の中、鷗外は同作の執筆に取り掛かり、9月18日に青山斎場で行なわれた乃木の葬儀の帰りに中央公論に原稿を渡した。翌10月に掲載されたが、史実に関する資料整理を行なったうえで、翌1913年(大正2年)春に改作した。

 

本作における興津同様、乃木希典は生涯に二度、明治天皇に死を願い出た事があると言われています。

一度目は西南戦争の際、敵に軍旗を奪われた失態から。

二度目は日露戦争において大量の犠牲を出した責任から。

しかしその二度とも、明治天皇は許しませんでした。

 

「今は死ぬべきときにあらず。もし死を願うなら、朕が世を去りてからにせよ」

 

死を乞うた乃木大将を、明治天皇はこう言って諫めたと言いますが、その言葉通り、乃木は夫婦ともども明治天皇の後を追って殉死したのです。

 

「うつし世を 神去りましゝ 大君の みあと志たひて 我はゆくなり」

 

あの世の明治天皇も、まさか言葉通り乃木が殉死するとは思っていなかったのではないでしょうか。

人生のある一点において死を免れ、その後も大恩を受けた主君の死に殉じようとする。

明治天皇と乃木大将の間柄は、まさしく本書の興津と三斎公の関係に重なります。

 

 

100%の創作ではありません

なるほどなぁ、乃木大将の殉死にインスパイアされて森鴎外が作った話なのね……と思いきや、そうではありません。

本作には元となる物語が存在するのです。

それも明治からは遥か昔、江戸時代の随筆集「翁草」に収載されている『細川家香木』が元になっています。

興津と横田が香木を買い付けにいくという話の筋も、彼ら登場人物の名前も、後に香木に付けられた名前すらも、すべてが一緒です。そっくりそのまま森鴎外テイスト(武士の遺書風)に書き換えただけと言い換える事もできるでしょう。

 

ですからおそらくは、乃木将軍の殉死に際して、森鴎外は元から聞き覚えのあった「翁草」の一節を思い出し、重ね合わせたというのが正しい流れなのでしょう。

明治天皇に殉じただと⁉ それじゃあまるで「翁草」の興津弥五右衛門のようじゃないか!」と。

 

江戸時代の武士の生き様にもよく似た乃木希典の生き様……最後の武士と呼ばれる所以も、よくわかるような気がします。

それにしても乃木将軍、本当にいろいろなところに影響を与えていますね。

 

他にも僕も以前読んだ事のある、有名なあの文豪のあの文学作品もまた、乃木文学のひとつに数えられるというので、次はそちらを再読してみようと思います。

では。