痛ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止せという警告を与えたのである。
夏目漱石『こころ』を読みました。
『坂の上の雲』以来、乃木希典の殉死に影響を受けたと言われるいわゆる”乃木文学”を読んできましたが、何よりも先に手に取るべきは『こころ』でしたね。
確か漱石は今から十年ほど前に、代表作と呼ばれるような作品は全て読んだはずだったのですが……正直なところ、『こころ』が乃木希典の殉職に関連する作品だなどとはさっぱり記憶していませんでした。
それどころか、内容すらほぼ忘れてしまっていたようです。
ネットでなんだかBL、BL騒がれていたなぁ、ぐらいの認識しか残っていません。
ちょうどよい機会なので、改めて『こころ』について読み返すとともに、備忘録兼ねて内容について記しておきたいと思います。
先生と私……そして一つの謎
作品の冒頭において、私と先生との出会いが描かれます。
鎌倉の海で、西洋人とともに海水浴にやってきた先生に私は興味を惹かれ、翌日以降も先生がやって来るのを心待ちにし、接触する事に成功するのです。
以後、東京に戻ってきてからも私と先生の不思議な関係は続くのでした。
不思議な関係というのは、つまるところ私から先生に向けられた恋愛感情にも似た想いです。私は先生に心酔し、先生の下を訪ねては、先生とともに過ごす時間に浸っていくのです。
この辺りの様子がBL(=ボーイズラブ)と呼ばれる所以なのでしょうが、この辺りの分析は既にインターネット上に山ほど展開されているのでやめましょう。
そして冒頭では、先生と私の関係の他、以後の物語の核となる重要な謎が提示されます。
それは先生が毎月決まった日になると墓参りに出かけるというものです。
先生は訳あり風でありながら、仔細を語ってはくれません。私が唯一知る事ができたのは、その墓は先生の友人のものである、という事だけでした。
しかしながらその墓は、先生がどこか厭世的な、世捨て人のような生活をする理由にも密接につながっているように感じざるを得ません。
日本の古典文学として名高い『こころ』は、先生の過去に一体何があったのかを探るミステリ小説と言えるのです。
ミステリというスパイス
もう十年以上前に読んだ評論で、「ヒット作を生み出したいならミステリというスパイスを足せ」というものがありました。
恋愛作品であれ、時代小説であれ、そこにちょっとした”謎”というスパイスを効かせろというのです。
言われみると、思い当たるかも……という作品、ありませんか?
何故か女嫌いの主人公とか、何故か剣を振るえない剣豪とか。敵か味方か、はたまた何を考えているかわからないミステリアスなキャラクターなんて、古今東西枚挙にいとまがありませんよね。
そういった小さな”謎”の一つ一つは、物語を盛り上げるスパイスとなり、読者の興味を大いにそそって、ページをぐいぐい読み進める力を与えてくれます。
「先生の過去に何があったのか」という一つの謎を持って、物語の最初から最後まで読者の興味を惹き付けてやまない本作は、上記のような”ミステリというスパイス”を効かせた作品のはしりと言えるのではないでしょうか。
先に書いた通り、僕が『こころ』を読むのは二度目になるのですが……二度目の今回、『こころ』の面白さに驚きました。翻ってみればそれは「先生の過去」に対する興味に他なりません。
一つ、また一つと明かされていく先生の過去に、読む手が止まらなくなるのです。
特に第三章にあたる『先生の手記』において、謎の核心に迫るに至っては、比喩ではなく、本当に読むのを止められなくなりました。
そうして全てが明らかになると……冒頭に描かれた墓の意味も、奥さんが先生にとってどんな人なのかも、それまで朧気にしか描かれてこなかった全てがくっきりと浮かびあがってくるのです。
これって、立派な本格ミステリじゃありませんか?
乃木大将の殉死
文豪夏目漱石が書いた純文学作品として、あるいは先生と私とのBL小説として、あるいは先生の過去を追うミステリ小説として、様々な楽しみ方ができる『こころ』ですが、忘れてはいけない点があります。
それこそ、僕が本書を読み返すに至った理由です。
それから約一カ月ほど経たちました。御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。
私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間あいだ死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。
それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。
先生は乃木大将の死に衝撃を受け、自分の身に置き換えて様々な想いを馳せた後、一つの決断へと至るのです。
『こころ』において乃木大将の死は、物語における大きな意味を持っていました。
……ホント、ねぇ。乃木文学だのなんだのと言っておきながら、今の今まで『こころ』に行きつかなかったのには恥じるばかりです。しかも『こころ』は一度読んだ事があるはずなのですが。
言い訳をすると、その頃は日露戦争や乃木希典について全く知識がなかったものですから、上に引用したようなエピソードを読んでもさっぱりピンと来なかったのでしょう。乃木希典という人物について知った上で読むのと、知らずに読むのとでは全く印象が異なってきます。
初読の際には唐突に訪れたように見えた先生の死にも、深い理由があると思えるようになるのです。
改めて思いますが、やはり小説は、書かれた時代の社会的背景や人々の精神性について理解した上で読んだ方が百倍良いですね。僕は『人間失格』がさっぱり楽しめなかったという経験から太宰治を避け続けているのですが、今もう一度読み返したら楽しめるのでしょうか?
そろそろもう一度、日本の古典文学を読んでみる時期なのかもしれません。