『坂の上の雲』司馬遼太郎
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ」
今年に入ってから沖縄関連の小説を紹介して以来、すっかりブログの更新が途絶えていましたが……実は『坂の上の雲』に挑戦していました。
『竜馬がゆく』や『飛ぶが如く』をはじめ、司馬作品はたくさん読んできたつもりだったのですが、どうも明治以後の話には食指が伸びず……今回沖縄の歴史についての作品を読む中で、改めて明治・大正・昭和に至る近代日本の歴史について学び直す必要性を感じたのです。
その点『坂の上の雲』は維新の混乱も冷めやらぬ中、新政府が日清戦争・日露戦争へと突入していくというまさに恰好の教科書でした。司馬史観という言葉がある通り、司馬作品の内容をそのまま正史として受け取ってしまうととんでもない誤解を生んでしまうという危険性はあるのですが、危険性を認識した上で読む分には問題ないでしょう。
そんなわけで読み始めた本作。せっかく盛り上がって来た場面で急に脱線したり、同じようなエピソードが何度も繰り返されたりという久しぶりに触れる司馬作品あるあるのお陰でいまいち興が乗らない時期もあったりしましたが、約二か月半ほどかけてようやく全八巻を読み終える事ができました。
前置きはこの辺りまでにして、読後の再整理と備忘録を兼ねて、各巻ごとの大雑把なあらすじをまとめておきたいと思います。
坂の上の雲 一
まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている。
あまりにも著名な書き出しから、本作は始まります。
佐幕派として明治維新の賊軍の地位に貶められた伊予松山藩は経済的に困窮しており、本作の主人公である秋山好古・真之の家も貧乏でした。
無料で入れる師範学校ができると耳にした兄・好古は大阪へ出、ただし年齢が満たなかったためにまず教員試験を受け、見事合格。その後年齢を偽って師範学校に入学・卒業し、教員としてそれなりの高給を得る資格を得たにも関わらず、続いて士官学校へと入学を果たします。後世の今でこそ秋山好古は日本騎兵の祖と言われますが、士官へと至る足跡の中に、軍人・軍隊への嗜好などは一切なく、あくまで生きるため、より多くの給金を得るために軍人への道へ進んだ事がわかります。
とはいえそれは偶然・たまたまといったものではなく、当時の時代背景として、薩長閥のような強い力を持たない地方の貧乏士族が立身するためには、公職である教員か、はたまた士官を目指すしかないという現実があったのです。
ある意味必然として好古は陸軍へと入り、後を追うようにして東京へ出た真之も一時は大学予備門へと進みますが、結局は中退して、海軍兵学校へと転身します。中学から大学予備門までずっと同学であった幼馴染みの正岡子規と、一時はともに文学の道を志そうと約束しますが、子規を裏切り、今生の別れを告げるのです。
その後、好古やフランスへ留学し、先進的な騎兵について学びます。この事が、やがて好古を日本騎兵の父としてその創設を一挙に担う立場へと押し上げる事になります。
一方その頃、子規は肺結核を病み、喀血をするほどの病状へと陥っていました。故郷松山へ帰り、療養する子規の下へ、兵学校の真之がお見舞いにやってきます。二人はここで数年ぶりに再会を果たすのでした。
坂の上の雲 二
子規は再び、母と妹とともに帰京します。
新聞「日本」に入社し、編集者として働く事になります。
そして早くも物語は、日清戦争へと入ります。
韓国で反乱がおこり、その平定のために韓国政府は清に救援要請を行うのです。清国の朝鮮半島出兵を危ぶんだ日本は、「韓国における日清両国の勢力均衡を維持」という閣議決定の下、自分達も兵を送り出します。
時の首相伊藤博文も陸軍大臣大山巌も非戦派で、特に戦争の勃発を恐れた伊藤は戦争だけは逃れようと必死でもがきます。ところが彼らの思惑とは別に、陸海それぞれで予期せぬ交戦が始まり、ついに日清戦争の火ぶたが切って落とされてしまうのです。
この戦いには秋山好古・真之の兄弟もまた参戦していました。
真之の属する日本海軍は、黄海決戦において清国艦隊を打ち破ります。しかし全てを沈没させるには足らず、残った七隻は旅順へと逃げ込んでしまいます。これによって制海権を得た日本は、あらたに大軍を満州へと送り込みます。好古の騎兵第一大隊もそのまた、陸路にて旅順を目指していました。
そうして半年はかかると言われた旅順要塞は、僅か一日で陥ちてしまうのでした。
一方その頃、次々と従軍記者として出て行く同僚達を横目に見ながら、子規もまた、自ら従軍したいという欲を膨らませます。しかし子規の健康状態では、従軍は叶うはずもありません。
子規はこの戦によって日本が滅びるのではないか、自分達の生命も脅かされるのではないかと恐れを抱く一方、新聞に寄せられる戦勝の報告に安堵したりします。文字通り一喜一憂し、自分の知る真之やその兄が従軍していると思うと、居ても経ってもいられなくなるのでした。
子規だけではなく、内地で見守る国民全員が、戦勝の知らせに熱狂せずにはいられなかったのです。維新から二十七年がたち、奇しくもこの戦争をきっかけに、明治以前にはなかった「国民」という観念が日本に浸透しはじめ、いつしか国民戦争の様相を呈していました。
やがて従軍記者の動員がかかり、子規は懲りずに立候補の手を挙げます。今度こそ、子規の希望が受け入れられ、従軍が決まりました。宿願叶った子規は、意気揚々と東京を離れるのでした。
日本軍は陸・海ともに威海衛攻撃を決定します。
政権末期にあった清国は陸・海の足並みがそろいません。連日の水雷攻撃で次々と艦艇を失い、呆気なく砲台を捨てて逃げ去った陸軍のせいで、港内は終日砲弾を浴びせられる状況へと陥ります。
艦隊司令官である丁汝昌は降伏を決意し、日本軍へ軍使を派遣すると同時に、自らは毒を仰いで自殺しました。
これにより戦意を喪失した清国との間に講和談判が始まります。そのため、子規の従軍は戦場となった各地を軽く周った程度で、あっという間に終わってしまいました。
下関に戻って来た子規は、自分では歩けないほどに自分の病が重くなっている事に気づきます。
伊予松山に返って来た子規は、中学の英語教師として赴任してきた夏目漱石の家の一階を間借りするようになります。
子規の影響で、漱石もまた本格的に俳句を始めるようになりました。
そんな子規のところへ、休暇をとった真之が帰省がてら立ち寄ります。二人はつい先日の戦と今後の日本の行く末について、感想を述べあうのでした。
再び東京へ出た子規は、結核性の脊髄炎という痛みに苦しむようになります。
真之はそんな子規を訪ね、アメリカ行きを告げます。真之はアメリカで海軍について学び、米西戦争にも観戦武官として乗船を許されます。そこで過去の無敵艦隊であったスペインが大敗を喫するのを目撃する幸運を得るのでした。
そしていよいよ視点はロシアへ。大津事件で切りつけられて重傷を負って以来、日本人を猿呼ばわりして嫌悪するニコライ二世と、その腹心であるウィッテが登場します。
日清戦争の勝利と引き換えに、日本は清から遼東半島を得ましたが、ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉により、すぐに返還せざるを得ませんでした。ところがその後、ドイツはすぐさま自ら膠州湾を奪うという暴挙に出ました。ロシアもまた、遼東半島を制圧してしまおうというのです。
ウィッテはロシア内において数少ない日露戦争反対派でしたが、彼の反対も空しく、ニコライ二世は兵を極東へ送り込むと決定します。
そうしてロシアは遼東半島へ進出し、旅順・大連を占領します。
清では義和団事件が勃発し、国内は大いに荒れます。外国公館が襲われ、公使が殺される事件が相次ぎ、首都北京はおよそ二十万人の義和団により略奪、放火が繰り広げられます。さらには清国政府も義和団と手を握るという事態に発展しました。
これに対し、他国からの要請もあって日本は兵を送り鎮圧に乗り出します。
その裏でロシアもまた、義和団鎮圧を名目に満州に出兵します。そしてあろうことか、そのまま満州に居座ってしまったのです。
坂の上の雲 三
本作における三人の主人公のうちの一人、正岡子規がこの世を去ります。
真之は出張中の電車内で、乗り合わせた客の会話から死を知ります。
高浜虚子や碧梧桐らは、子規の葬儀は質素に行う意向でしたが、ふたを開けてみれば百五十人もの会葬者が訪れました。
その中には真之の姿もありました。
満州に居座ったロシアと日本の間で、争点となるのは朝鮮の扱いでした。ロシアが朝鮮半島を狙っているのは公然の事実でしたが、日本としてはロシアとの緩衝地帯としての意味合いでも朝鮮半島は重要であり、またあわよくば経済的市場としても活用したいと考えていたのです。
朝鮮半島を巡り日露の関係が目に見えて悪化する中、なんとしても戦争だけは避けたい伊藤博文は、首相の座を下りてもなお、外交手段でもってロシアとの軋轢を回避したいと考えていました。
英独日の三国同盟や、いっそロシア自身との同盟を模索するのです。
日本にとって一番の理想は、当時世界随一の国力と文明力を誇るイギリスとの同盟を結ぶ事でしたが、まるで夢物語に過ぎないと最初から無理と諦めているような状況でした。
ところが半ば試しに接触してみたところ、イギリスは驚くほど積極的に、日英同盟に向けて前向きに捉えてくれるのでした。
その好感触ぶりに、伊藤は水面下で進めていた日露同盟を破棄。日英同盟が結ばれる事になりました。
日露の開戦が近いと想定していた日本海軍では、戦争に向けた人事が水面下で進められていました。
司令長官には閑職にあった東郷平八郎を抜擢し、全作戦を行う参謀として秋山真之を置く。
また陸軍では、参謀本部次長田村怡与造の逝去に伴い、現役の内務大臣・台湾総督である児玉源太郎が自ら降格し、その任に就く事になりました。
この人事は、日本の対露戦への決意を世界に向けて知らしめるものになりました。
そして明治三十七年、日本はロシアに対して国交断絶を通告し、ついに日露戦争が開戦します。
日露戦争における日本軍の狙いは最初から明確で、極めて短期的にはなやかな成果をあげて、有利な条件で和平に持ち込むというものでした。
どんなに考えても五分五分、よく行って六分四分まで持ち込めれば上々という戦力差がある上、致命的な財政難に窮する日本にとって戦争の長期化は是が非でも避けなければならなかったのです。
真之ら連合艦隊は出向します。目的は旅順艦隊のせん滅です。
まずは仁川港外において、ロシアのワリャーグ・コレーツの二艦と戦闘になり、仁川港内に逃げ帰らせる事に成功しました。艦が傾くほどのダメージを受けていたワリャーグは自らキングストン・バルブを抜いて沈没。コレーツも火薬庫に火を転じて爆沈と、規模は小さいながらも、日本人がヨーロッパ人を相手にした初めての海戦で、完勝を飾る結果となりました。
さて、ロシアの極東艦隊のほとんどの旅順港内にありました。
かつての日清戦争の頃とは比較にならないほどの要塞化が進んだ旅順港に、日本艦隊は近づく事すらできません。しかしロシアはバルチック艦隊を遥かヨーロッパから極東へ向かわせています。バルチック艦隊が合流する前に、極東艦隊だけでも潰しておきたいと言うのが日本の狙いでした。
一方ロシアからすれば慌てて戦いに挑む必要はなく、数の上で有利な状況を作るためにもバルチック艦隊の到着を待つつもりでした。そのため港内深くにひきこもり、日本の誘いには乗ろうとしません。
日本は闇夜に乗じて水雷艇を送り込んだり、旅順口に古船を沈めて閉塞させたり、といった作戦を実行します。特にこの閉塞作戦は、多数の決死隊を必要とする恐るべき作戦でした。
海軍に対し、日本陸軍が行動を開始したのはやや遅れての事です。
黒木為楨を大将とする第一軍は次々と朝鮮半島に上陸し、鴨緑江を目指しました。ロシアとしては旅順にひきこもっている極東艦隊こそがこの上陸を阻む役割を果たすものとして捉えていたがため、予想に反し日本軍の上陸を阻むものはありませんでした。
鴨緑江を挟んでロシア軍、日本軍が対峙するも、第一戦となった鴨緑江渡河戦はロシア軍が逃げ出し、続く九連城も呆気なく捨て去る始末となりました。日本軍は出だしから快勝を重ねます。
初めて足止めを食らったのは、金州南山における戦いでした。南北を分断され、旅順の孤立化を恐れたロシア軍は、南山を要塞化して日本軍を待ち構えていたのです。この構築した陣地に立てこもり、敵を迎え撃つという戦法こそがロシア軍の常套手段でした。
南山の要塞は協力で、五時間砲兵が撃ち続けても、砲火が静まる様子はありません。
たった一日で、日清戦争で消費した全砲弾量を越えてしまった日本軍は、銃剣突撃という肉弾戦に出る他なくなってしまいます。しかしロシア軍が装備した機関銃を前に、日本兵は瞬く間に粉々にされてしまうのでした。
この状況を打破したのは、東郷艦隊によう海上からの艦砲射撃でした。ロシア軍の露天砲はことごとく破壊され、続けて陸上から一点集中攻撃を繰り出す事で、ようやく南山を落とすに至ります。
海上では、日本の連合艦隊と旅順艦隊との駆け引きが続いています。
日本の艦隊が攻撃を仕掛けると、ロシア艦隊が呼応するように向かってきます。しかし互いに決めた安全ラインより踏み込む事はなく、距離を隔てたまま砲弾を交わしては引き返す、という追いかけっこに終始します。
ロシア艦隊の動きに規則性があると気づいた日本は、そのコース上に水雷を仕掛ける事にしました。果たして、出てきたのは猛将と名高いマカロフ中将の旗艦ペトロパウロウスクでした。
いつも通り、港外で起こった小競り合いに飛び出したペトロパウロウスクは、東郷の主力艦隊の出現を見て退却します。しかしその時、旗艦ペトロパウロウスクは水雷に接触し、あっという間に沈んでしまうのでした。
坂の上の雲 四
満州に上陸した陸軍は、遼陽の大会戦が近づいていました。
ただしそこで表面化したのは、旅順という要害の存在でした。
当初陸軍では遼東半島の根本さえ分断してしまえば旅順など放っておいても勝手に朽ち果てる、と想定していました。
しかしこのまま放っておけばやがて到着するバルチック艦隊とともに、ロシア海軍は数に物を言わせて日本艦隊を沈め、日本海の制海権を奪いに来る。そうなれば今後の輸送手段は途絶え、満州に上陸した日本陸軍も孤立してしまいます。
とはいえ肝心の旅順艦隊は港内に引きこもったまま全く出て来ようとしません。かくなる上は陸上から旅順要塞そのものを襲撃する以外に、旅順艦隊を沈める手段はありません。
ここで初めて、まず旅順こそ攻略しなければならないという手抜かりに、日本は気づいたのでした。
旅順攻略のためにと、急ごしらえで編成された第三軍の司令官こそ、ある意味本作の影の主人公とも言える乃木希典だったのです。
旅順艦隊に対しては、ロシアの大本営からウラジオストックへ退避せよ、との命令が下ります。
同じ旅順にいるロシア陸軍からも、なぜ海軍は港を出て統合と戦わないんだ、という批判が強まります。陸軍からすると、海軍がいるせいで旅順全体が日本軍の標的にされているんだ、という思い込みもありました。
旅順艦隊司令長官ウィトゲフトは、ついに出て行かざるをえない状況に追いつめられます。戦うためではなく、ウラジオストックへ逃げるための航海の中で、黄海決戦が始まるのです。
一隻でも逃がしてしまえば後々まで海上輸送を脅かす脅威になるとして、必死で砲弾を浴びせる日本に対し、ロシア側は逃げながら砲を撃つという消極的な戦いに終始します。その結果、運命の一弾が旗艦ツェザレウィッチに命中。ウィトゲフト以下幕僚は砕け散り、艦長や操舵員も命を落とします。
旗艦と司令長官を失った旅順艦隊は混乱に陥り、ほぼ全滅に等しい損害を負いました。
黄海決戦はその下馬評を覆し、誰の目にも信じがたい事に日本の圧勝にて幕を閉じたのです。
その後、旅順艦隊を迎えにやってきたウラジオ艦隊もまた、上村彦之丞中将率いる第二艦隊と戦闘。いわゆる蔚山沖海戦にて、ウラジオ艦隊もほぼ壊滅的ダメージを負います。
これによって回航中のバルチック艦隊を除くロシア海軍はほぼ全滅しますが、沈没させられないまま取り逃した船も多く、以降も日本軍は修理を終えたロシア艦船が再び現れるのではと疑い続ける事になります。
陸軍は遼陽会戦に臨みます。
ここで好古ら騎兵隊が偵察部隊として活躍を見せます。しかしながらせっかくの偵察の成果を作戦に活かしてもらえないといった日本陸軍のちぐはぐさが目立ちます。
日本軍は前哨陣地と思い込み首山堡に臨みますが、ロシア側は首山堡を防衛線と捉えて強力な要塞化を施していました。事前に騎兵の諜報によって予測は立っていたはずなのですが、この見込み違いが、日本に大苦戦を強いらせます。最終的には攻城砲の導入と黒木軍の太子河渡河による不意を突いた強襲によって、戦況を好転させます。
これに衝撃を受けたロシア満州軍総司令官クロパトキンは一転、全軍に黒木軍への総攻撃を命じます。しかし天王山たる饅頭山を黒木軍に奪われたと知った途端、あっさりと遼陽を捨て、奉天への敗走を決めるのです。
旅順の乃木軍では8月19日、第一回の総攻撃が始まります。
わずか六日間で15800人という大量の死傷者と引き換えに、敵に与えた損害は小塁ひとつ抜けないという軽微なものでしかありませんでした。
以後旅順では、ただひたすらに肉弾攻撃を行っては大量の死傷者を出すという、もはや作戦とは呼べないような無為な突撃が繰り返されるようになります。
二〇三高地を落としさえすれば、そこから港内に残る旅順艦隊を砲撃する事ができる。旅順艦隊さえせん滅できれば、旅順攻略の作戦目的は達成できる。だから二〇三高地を攻めろ、という東京の大本営の依頼に対しても、乃木軍は頑として聞き入れず、正面からの攻撃ばかりを続けます。そんな乃木軍のやり方に方々から批判が募るも、現地の作戦は現地にまかせるという原則が邪魔して、満州軍総司令部も強く言う事ができませんでした。
司馬氏によると司令官乃木・参謀伊地知はあくまで薩長の藩閥人事によって選ばれたものであり、無能と無能が合わさった事で不幸にも旅順の悲劇が生まれた、という論調に終始します。
この辺りは後に多くの批判・反論を巻き起こすいわゆる司馬史観によるものですね。
10月、シベリア鉄道を利用した大量補給によって増強を果たしたクロパトキンは、いよいよ攻勢へと転じます。
一方、遼陽の日本軍は兵・砲弾の数ともに補給がままならず、攻め入ろうとするロシア軍に緊張が走ります。沙河戦の始まりでした。
南下する大量のロシア軍に対し、日本軍は細く長く北上する事で少数をもって包囲するという奇策に出ます。日本にとっては紙一重の戦いが続きますが、これを救ったのはまたもクロパトキンの退却癖でした。奥軍の奮闘により戦線に一部ほころびが出たと知るや否や、戦力的に圧倒的優位に立っているにも関わらず、退却へと転じてしまうのです。
沙河会戦は日本軍に約二万人、ロシア軍に約六万人の損害を出し、両軍ともに体制立て直しのため、ここからしばらく沙河の対陣と言われる冬営のにらみ合いが続くようになります。
この頃ロシアでは、10月15日、ついに司令長官ロジェストウェンスキー率いるバルチック艦隊がウラジオストックへ向けて出港します。
一万八千海里を大艦隊を率いて航海するというのは史上初の試みである上、いつどこで日本の水雷艇に襲われるかわからないという妄想に憑りつかれ、この艦隊は行く先々で民間船を誤射したり、英国からの妨害を受けたりといったトラブルに苛まれ、文字通り順風満帆なものではありませんでした。
旅順では11月26日、第三次総攻撃が行われます。これは旅順の死闘の象徴的な存在として有名な白襷隊によるものでした。しかし、この突撃も三千人中約半数が一挙に死傷するという損害を出すに終わるのでした。
坂の上の雲 五
旅順のふがいなさに業を煮やした満洲軍総参謀長児玉源太郎は、自ら旅順へと乗り込みます。二〇三高地攻めに戦力を集中させ、活路を切り開こうというのです。
児玉の機転や兵の奮戦の甲斐ありついに日本軍は二〇三高地の占領に成功します。旅順港を見下ろせる二〇三高地を観測所とする事で、二十八サンチ榴弾砲を山越えで港内に撃ち込む事が可能になり、しかもほぼ百発百中で残る旅順艦隊を沈める事ができたのでした。
さらには市街地も同様に砲撃する事で、ほぼ旅順は陥落したも等しい状況に陥ります。
乃木希典が遺した高名な爾霊山の詩は、陥落から幾日後の十二月十日の夜に作られたそうです。
爾霊山険豈難攀
男子功名期克艱
鐵血覆山山形改
萬人齊仰爾霊山
爾霊山は嶮(けん)なれども豈(あに)攀(よ)じ難(がた)からんや
男子功名艱(かん)に克(か)つを期す
鉄血山を覆うて山形(やまがた)改まる
万人斉(ひと)しく仰ぐ爾霊山
爾霊山が二〇三高地を指している事は言うまでもありません。
旅順陥落がほぼ確定した事で、旅順港にへばりついていた連合艦隊も一時日本へ戻り、艦船の修理に取り掛かります。
その間も真之の頭の中は、バルチック艦隊との決戦でいっぱいでした。
しかし当のバルチック艦隊は、苦難の航海を続けていました。
劣勢が続く戦況を受けて、同盟国であるはずのフランスですら、手のひらを返したように非協力的な態度に出はじめたのです。裏には日本の同盟国である英国の恫喝がありました。
そのため石炭等の補給作業すら港外で行わなければならない上、長期間の航海により故障も相次ぎます。ロシア大本営は、バルチック艦隊の航海はあくまで現場任せであり、何ら支援の手を差し伸べてはくれないのでした。
追いつめられた旅順要塞司令官のステッセルが降伏を決意したのは、1月2日のことでした。
乃木とステッセルが直接顔を合わせた水師営の会見では、明治天皇の意志でもって、敗軍の将であるステッセルにも帯刀が許されました。
また、居合わせた外国人記者からの撮影の要請にも、乃木はステッセルらにとって恥が残るような写真を撮らせる事は拒否し、会見後、同列に並んだ写真のみを許可しました。
撮影された写真と経緯については世界各国に配信され、日本の武士道精神を世界に知らしめる結果となりました。
坂の上の雲 六
日ロ両軍が冬営しているさ中、好古の騎兵隊は盛んに敵陣奥深くまで騎兵斥候活動を行っていました。
冬の間はロシア軍は動かないという総司令部の甘い予測を覆し、ロシア軍が好古のいる沈旦堡・黒溝台へと迫りつつありました。好古は前々からその気配を察知し逐次報告を入れていたのですが、総司令部はそんなはずはないと一蹴してきたのです。
救援に向かった立見中将率いる弘前師団は情報の誤りから秋山好古らと連携もできないまま包囲され、その救援に向かった木越らもすぐさま窮地に陥るという大混乱ぶり。
この黒溝台会戦において、日本軍は出だしから遅れた上、その対応に戦力の逐次投入という最大の愚を犯してしまいます。
日本はかろうじて持ちこたえているだけで、もうあと一押しで壊滅という瀬戸際にありましたが、この窮地を救ったのも、いつものクロパトキンの撤退癖でした。大山・児玉が偽装工作として施した中央への攻撃に対し、クロパトキンは過敏に反応し、日本が中央を抜こうとしているとして全軍に撤退を命じたのです。
この作戦の主導者であるグリッペンベルグは「ロシア帝国の敵は日本人にあらず、クロパトキンである」と大いに怒り狂い、欧露へ帰ってしまいました。
一方、バルチック艦隊は二ヵ月ともいう長期間にわたり、マダガスカル島の漁港で足踏みしていました。旅順艦隊が全滅したという報告を受け、どうすべきか本国に確認求めていたのです。
このままウラジオストックへ進むべきか、本国へ引き返すべきか。
それに対し、ロシア皇帝は予想外の回答を返します。戦力にならない老朽艦であるとしてロジェストウェンスキーがわざわざ置いて来た旧艦で第三艦隊を結成し、バルチック艦隊に合流させた上でウラジオストックを目指せというのです。
一路ウラジオストック入りをバルチックにとって、性能に劣る第三艦隊は足手まといでしかありません。しかし帝政ロシアはニコライ二世による独裁政権であるがため、大本営の決定には大人しく従うほかありませんでした。
旅順から北上し、ようやく合流を果たした乃木の第三軍に命じられたのは、最左翼をひたすら北西にまわって敵の背後を目指すという揺動作戦でした。
右に鴨緑江軍、左に乃木軍を進めて敵を引き付けた上で、中央を主力部隊でもって一気呵成に突破させるという算段です。
要するに乃木軍は黒木・奥・野津らが戦果をあげるための囮になれ、と命じられたに等しい事になります。旅順の苦しい戦いに続き、乃木は不遇の宿命を抱いているようです。
しかしながら乃木は不平も要望も一切唱える事なく、粛々と命令に従うのでした。
※他、本巻には明石元二郎が欧露において不平党・反露党と結び、ロシアを内部から崩壊させるための諜報・揺動活動を行う様子にかなりのページ数が割かれていますが、本筋にはほとんど影響はないとの判断から割愛します。
坂の上の雲 七
先に書いた通り、乃木軍はあくまで囮となり、中央に構える黒木軍・奥軍・野地軍Rが本体として中央を突破する、というのが当初の作戦でした。
この時好古はというと、乃木軍のさらに最左翼として、率先して敵の背後を突くべく突き進む立場にありました。
クロパトキンは旅順を陥とした乃木軍に対して最大の警戒を抱いていましたが、その乃木がどこに出てくるかがわかりません。乃木を恐れるあまり、最初に鴨緑江軍が東部戦線において火ぶたを切った途端、それが乃木軍だと早とちりして十分すぎる量の増援部隊を送りこんでしまいます。
やがて本物の乃木軍が逆の西部戦線にあると気づくと、せっかく送り込んだ戦略予備軍を東から西へと大転換させます。
乃木軍の戦闘行軍は凄惨なものになりました。敵の裏へ回ろうとする乃木軍に対し、ロシア軍もぐんぐん伸長して侵入させまいとします。乃木軍はどんどん北へ北へと伸びる形になります。戦線は薄く長く伸びるばかり。その分、各戦線が手薄になっていくのは言うまでもありません。
一方日本軍が本命と定めた中央陣地は旅順を彷彿とさせるような鉄壁の要塞と化しており、ロシア軍の数は日本軍の想定を大きく超えていました。戦局は硬直状態どころか、ややもすれば日本は劣勢となる危機にさらされ、いつしか囮役であったはずの乃木軍が敵の側背を突けるかどうかが勝敗の分かれ目になってしまいます。
しかもクロパトキンは、乃木軍こそ日本の主力であると見誤ったまま、どんどん戦力を投入し続けます。陽動役としての戦力しか持たない乃木軍にとってはたまったものではありません。
しかし苦しい苦しい戦いをかろうじて潜り抜けた好古率いる騎兵隊は、ついに奉天北方へと抜け出します。その事が退避癖のあるクロパトキンを大いに刺激しました。
鉄道線路を遮断される、と恐怖に陥ったのです。
さらには乃木軍に注力し過ぎた故に中央部の戦力低下が目立ち始め、いつ抜かれるかという不安もクロパトキンを襲います。自分で兵を動かし、手薄になった戦況を見て不安になるというのが、クロパトキンの不思議なところです。
各戦線においては五分以上の、日本にとってはいつ破られるかという紙一重の戦いを繰り広げておきながら、クロパトキンは突如退却を命じます。
一度は運河付近まで、とされた退却は、結局のところ奉天を捨てて70km北方の鉄嶺までと覆されます。
これまで同様、クロパトキンにとってはあくまで態勢を立て直すための積極的退却というのが言い分ですが、陣地を捨てて退却するというのは兵にも大きな負担がかかりますし、士気も下がります。実際にロシア軍の退却は大量の損害を生み、敗軍そのものと化しました。
敗走に次ぐ敗走でロシア軍将校の権威は失墜し、軍紀は乱れ、多数の逃亡兵も出る始末。
日本軍の追撃は鉄嶺に拠ろうとしていたクロパトキンをさらに変心させ、遠く公主嶺まで逃亡する事になります。ここで日本軍の兵力も底をつき、追撃をあきらめざるを得なくなりました。
奉天会戦のあと、陸軍大臣のサハロフは「われわれは負けた」と公言し、クロパトキンは解任され一軍司令官の位置に落とされました。
奉天会戦を終えた総参謀長児玉は、これが潮時と日本への帰国を決意します。一国も早く講和へと動くよう、本国に促すためです。
アメリカのルーズヴェルトらをはじめ様々な手でロシアに講和を求めますが、ロシアはまだ敗戦を認めません。結論は来たるべき海戦の結果に委ねられる運びとなりました。
肝心のバルチック艦隊は、ネボガトフ少将率いる第三戦艦戦隊と合流を果たし、ウラジオストックへ向けて前進します。ロシア本国からはなんの支援もなく、いつ来るのか、どこで会えるのかといった具体的情報を互いに知らぬまま、手探り状態の中の奇跡的な邂逅でした。
しかしロジェストウェンスキーは、ネボガトフに対し特に迫りくる日本軍との海戦に備えて戦略をすり合わせるようともしません。彼が命じたのは、ネボガトフ艦隊の煙突を全て黄色に塗りつぶす事でした。
黄色の煙突はバルチック艦隊のシンボルであると同時に、後に日本軍が敵味方を見分けるための目印として大いに役立ちました。
待ち受ける真之は、バルチック艦隊がどの航路をとるかだけが心配で、悩める日々を送っています。
当たり前に考えれば対馬海峡を通るはずですが、太平洋側を回ったり、あるいはバルチック艦隊が分散して別の航路もとる、という可能性も否定できません。大して日本の海軍は、その全ての船を沈める事だけが目標であり、一隻でも討ち洩らせば失敗である、と捉えています。
しかしバルチック艦隊は定石通り、真之ら連合艦隊が待ち受ける対馬海峡へと向かうのでした。
やがて互いの位置は互いに知るところとなり、ついに日本海海戦の機運が高まります。
坂の上の雲 八
最初にバルチック艦隊を発見したのは、日本の哨戒船信濃丸でした。
「敵艦隊見ゆ」の一報を受け、巡洋艦和泉が急行。以後和泉はバルチック艦隊に並走し、その位置や速度、陣容に至るまで、無線で知らせ続けます。これに対し、ロジェストウェンスキーは存在を知りながら放置するという不可解な処置を取ります。
もちろん無線は、東郷や真之らが乗る旗艦三笠にもたらされました。
いよいよ出撃という時、大本営に送られた電報こそ、かの有名な下記の一文です。
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ」
これを見るために全八巻もの長い長い物語を読み進めてきたかと思うと、感無量ですね。
遂に出撃した連合艦隊は、敵前で突如Uターンを繰り出します。敵の進路を横一文字に遮断しようというのです。回頭中は無防備で敵砲に晒されるという大きな欠点を持つのですが、ロシアは砲撃な下手な上、風下に立ち、波も荒いために致命傷は追わずに済みます。
そして三笠が正面を向いた時、今度は敵艦隊も三笠の標的となるのです。
こうして常に敵の全面を抑え込む事で、敵を取り逃がす事なく追い詰めていく。後に乙字戦法と呼ばれる手法でした。
日本は下瀬火薬という特殊な砲弾を使用していた他、個々に砲撃を行うロシア海軍とは異なり、砲術長の砲火指示によって一斉に同じ目標に向けて砲弾を放つという組織的な手法を編み出していました。これにより、日本の放つ砲弾は面白いようにバルチック艦隊を襲い、ロジェストウェンスキーの乗る旗艦スワロフも、戦艦オスラービアも、瞬く間に火炎に包まれました。
戦闘開始三十分をもって、日本海海戦の大勢は決してしまったのです。
途中、スワロフの回頭が故障だと気づかず、三笠ら第一艦隊は一緒になって回頭してしまいます。それにより、敵から離れてしまうのでした。
しかしながら第二艦隊戦艦出雲の参謀佐藤鉄太郎・司令長官上村彦之丞らは舵の故障と見抜き、半ば命令を無視する形で独走。第一艦隊と入れ替わり、第二艦隊がロシア艦隊の矢面に立ちます。。
ロシア艦隊は戦いを捨て、ただひたすらに北へ遁走しようとしますが、佐藤は食らいついて放しません。そこへ三笠ら第一艦隊もようやく戻ってきました。さんざんい砲火を浴びせられ、ロシア艦隊はほぼ海面に漂う残骸とでも言うべき姿に変わっていました。
以後、いったん日本軍から離れた旗艦スワロフは同じくはぐれていた駆逐艦ペドーウィと合流し、重症を負っていたロジェストウェンスキーはペドーウィへと移ります。しかし間もなく日本船に見つかり、ペドーウィごとロジェストウェンスキーは捕虜となってしまいます。
ロシア艦隊において唯一軽症のまま残っていたのは、ネボガトフ率いる第三艦隊の五艦だけでした。しかし彼らもまた日本軍に発見され、降伏を決意します。
この時ネボガトフらは降伏を示す信号旗や白旗を掲げますが、日本軍は気づかないまま容赦なく砲弾を浴びせます。
全く抵抗を見せない敵艦隊の異常に気付いた真之は東郷に「降伏している」と告げます。それでも平然として射撃を続ける東郷に真之は叫びます。
「長官、武士の情けであります。発砲をやめてください」
しかしながら艦は停止しておらず、しかも砲門は三笠に向けられていたままでした。そのままでは国際法に則った正式な降伏の意志表示にはならない、というのが東郷の言い分でした。
その後、使者としてネボガトフの船に向かった真之は、甲板に横たわった死骸の前にひざまずいて黙祷します。それを見て、ロシア兵の目からも反抗の色が消えたのでした。
戦後、佐世保へと収容されたロジェストウェンスキーを東郷らが見舞います。
ルーズヴェルトの仲裁により、米国のポーツマスにて講和条約が調印され、日露戦争は終結します。
その後、三笠は佐世保港内で自爆し、海底に沈んでしまいました。火薬庫が爆発したためと言われており、339人もの死者を出す大事故でした。
本作の終幕間近、凱旋した真之が子規の墓を見舞う場面が描かれます。
戦後、真之は満49歳で没します。
好古は糖尿と脱疽のため左足を切断し、それでも手遅れとなり71歳で没しました。
乃木・乃木・乃木
さて、一通り筋書きをまとめたところで、蛇足とは思いつつも読み終わっての読後感を記しておきたいと思います。
全八巻の本作には、良くも悪くも非常に個性的な登場人物たちが描かれます。秋山好古・真之、正岡子規ら三人の主人公らは元より、ステッセル、ロジェストウェンスキーといった敵将も人間臭く、不完全なところがかえって魅力的です。
ところが不思議なもので、読後に一番胸に残っているのは誰だろうと考えてみると、乃木希典だったりするのです。
作中作者によりボロクソに貶され、叩かれ、救いようのない愚かな将軍として描かれ続ける乃木希典ですが、不思議と彼が戦後英雄視され、神として祀られるに至った気持ちもわかるような気がします。
本人にとっては悲運以外のなにものでもなかったでしょうが、振り返ってみれば、難攻不落の要塞旅順攻略の指揮を命じられたのも、奉天において囮役のはずが主力部隊と化してしまったのも、全てが乃木希典という人間が”持っている”天運だったのでしょう。
日本の連合艦隊司令官として、時の海軍大臣山本権兵衛は当時閑職にあった東郷平八郎を抜擢します。その決め手となったのは、運のツキがいいという一点にあったと、司馬氏は言います。
その点行く先々で苦難を与えられ、多大な損害を出しつつも結果としては乗り越えてしまうのいうのも、乃木希典の持ち合わせた運のツキなのではないかな、と思えるのです。
何よりも上司の命令には決して逆らわず、不平も唱えず、上からの叱責も下からの不満も、全て自分一人で受け止めてしまう姿に現代の中間管理職のおじさんにも似た悲哀を感じずにはいられません。そのくせ降伏した敵将には決して恥をかかせまいと尽力する度量の広さ。これを武士道と呼ぶのかもしれませんが、どうにも男心をくすぐられてしまいます。
一番最初に書きましたが、そもそも本作を読むに至った目的は「明治~昭和の時代を改めて勉強する」という点にありましたので、そういう意味ではまだまだ不十分であり、もう少しこの辺りの時代について描かれた作品を読みたいな、という気持ちがあるのですが、一方で乃木将軍について書かれた作品も気になってしまいます。
司馬遼太郎の『殉死』も未読ですし、乃木夫妻が殉死した後は乃木文学なる言葉が生まれる程、様々な関連作品が生まれたとか。ちょっと気になってしまいます。
いずれにせよ三ヵ月近く嵌って来た長編作品を読み終えたので、心機一転、自由気ままな読書を楽しみたいと思います。
それでは。