人それぞれの持って生れる先天的な、運命的な、根性の中に、棟梁運というのがある。
これだけは後天的なものではないらしい。どこでどう培われてくるのか? 産れ落ちる時にはすでにこれを持つ者と、持たざる者との差がついてしまっている。
これを持つ者は、幼児のおりからいずれの群の中におかれても、その中心にのし上がる。
概して自我が強く、支配欲も、生命力も旺盛で、餓鬼大将的な陽性と、楽天性と説得力を持っている。
しばらくブログの更新が途絶えていたのには理由がありまして。。。
というもの、全八巻からなる山岡荘八著『伊達政宗』を読んでいたのです。
作家でいえば主に司馬遼太郎、時代でいえば戦国~幕末を中心に歴史小説も色々と読んできたのですが、その中でぽっかりと空いていたのが『伊達正宗』。
その昔大河ドラマ『独眼竜政宗』が一大ブームを巻き起こし、当時のバブル・団体旅行全盛時代も重なって仙台・松島のあたりに観光客が大挙して押し寄せたそうです。
それから何年後かわかりませんが、僕も幼少期に両親に連れられて青葉城跡らしき場所に行き、何が面白いんだかさっぱりわからない博物館的な展示物を見て歩いた記憶がうっすらと残っています。
逆に言うと、そこからずっと馴染みがないんですよね。伊達政宗。
信長・秀吉・家康でいうと僕は秀吉絡みの作品を手にする機会が多かったせいか、作中にもほとんど出てきた覚えがない。
あー、一応触れておくと先日お亡くなりになられた堺屋太一さんの著書である『豊臣秀長(上・下)』はリーダーではなく名補佐役としての秀長に焦点をあてて太閤秀吉を描いた名著でした。歴史小説でありながら、ビジネス書とも自己啓発書とも思える非常に良い本。
でも家康主人公の物語ってあんまり有名なものは聞かない気がします。
それこそ山岡荘八の書いた『徳川家康(全26巻!!!)』が別格扱いで君臨するばかりで。
流石に26巻もの作品には迂闊に手は出せない……出したくないかなぁ。
……前置きが長くなりましたが、そんなわけで僕の頭の中にある戦国~江戸時代に欠けたピースを埋めるためにも、伊達政宗を読もうと決意したわけです。
名将から名君へ
全8冊もある超大作ともなると、ブログの書き様もなかなか困ったものです。
読んでみて再認識されたのは、伊達政宗という人物がいかに多くの逸話・エピソードを遺しているかという点。
もうとにかく色々あり過ぎるわけです。
それらをいちいち書いていくと、wikipediaを見た方が早くなってしまいます。
政略結婚の末に、実の息子である政宗に対して敵意をむき出しにする母・義姫と、弟・小次郎(竺丸)。
命を狙われた政宗は実の弟である小次郎を自らの手にかけてしまう。
血気はやる侵略の中では、父・輝宗が二本松城主・畠山義継の手によりさらわれ、その道中で死んでしまったり。
序盤の伊達家は不遇としか言いようのない不幸にばかり見舞われます。
信長・秀吉・家康に比べ30年遅く生まれてきた政宗は、遅れを取り戻すべくどんどん領土を広げ、会津の芦名氏を滅ぼし、名実ともに奥羽の覇者として君臨しかけますが、小田原征伐に伴って秀吉との関係が深まるに連れて少しずつ人間性が変化していきます。
能と才に溢れた伊達者として秀吉を手玉にとり、家康の心を見抜こうという政宗が、彼らには逆に踊らされ、見透かされてしまったりするのです。
秀吉に、家康にと揺れる天下の情勢を見極めつつ、上手くバランスをとりながらも、天下取りの野望を諦める事なく立ち回る政宗でしたが、家康が天下統一を果たし、江戸幕府を立ち上げたあたりからさらに変化を重ねていきます。
戦国の世は終わり、天下泰平を迎えたとする家康の意に共感するように、武を捨て、平和の世を作るべく努めるようになるのです。
そんな政宗に家康も、二代目将軍である秀忠も厚い信頼を見せ、やがて三代将軍家光の時代を迎えた後、政宗はその生涯を終えます。
その昔、師である虎哉禅師から「阿修羅の生まれ変わりか」と一喝された戦国武将・政宗は、世の中の変化に応じて平和を愛し、生活を豊かにするための名君として死んでいったのです。
関ヶ原と大阪冬・夏の陣
どうも書けば書くほど稚拙になってしまっていくような感じがして嫌になってしまうのですが、あらすじはおおよそ上のようなところとして、個人的に非常に興味深く感じたのは関ヶ原であり、大阪冬・夏の陣という天下分け目の決戦の描き方でしょうか。
これ、すごく面白かったですね。
というのも、戦いに主眼がないんです。
大概これらの決戦が物語に書かれる場合、誰がどっちについたとか、誰が誰に謀反をそそのかしたとか、とあるタイミングで誰がどう動いたのが戦に決定的な影響を及ぼした、なんて話になりますよね?
本書は違うんです。
そもそも関ヶ原も大阪の陣も、政宗あたりは「どっちが勝つか」なんてはなからわかってるんです。
勝敗なんかよりも、自分の思い描いた計略に対してどんな影響を与えるかを苦慮しながら、立ち回るのが主題になっています。
もっともっと大局から天下分け目の戦いを見ている。
個人的にはこれ、すごく新鮮な描き方でした。
これまではどちらかというと豊臣側について書かれた物語ばかり読んできましたから、故太閤への恩義や武士としての死にざまを第一に華々しく散っていた西軍側の勇士たちの一方では、冷静に戦後の処理・処遇に思いを寄せていた武将がいたなんて。
だから真田幸村もみんな、あっさり死が描かれるばかりです。
唯一木村重成については、首級を前に家康が悲しんだ、なんて一文があるだけで。
そういう意味では歴史の物語って、敗者の側から描いた作品が多いですよね。
どうしても敗者の方が美しく見えがちなんでしょうけれど。
戊辰戦争なんかも会津藩をはじめ東軍視点で描かれた作品は多いのに、西軍視点の作品はあまりにも少ないように感じています。
会津の武士たちは決死の覚悟で勝ち目のない戦いに臨んで行ったわけですが、彼らと戦った西軍の人々は何を考え、どう思ったのか。
かなりマイナーですが、二本松少年隊について描かれた『霞の天地』という漫画が両者の想いをかなりうまく描いてくれていますので、ぜひ一読をオススメします。
討ち死にした時に誰の死体かわかるようにと母に乞うて名前を刺繍して貰った少年や、戦に臨むにあたってちゃんとした刀が欲しいとせがんだ少年に対し、駆けずり回って刀を用意した両親の想い。