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年間100冊前後の読書を楽しんでいます。推理小説・恋愛小説・歴史小説・ビジネス書・ラノベなんでもあり。

『すべて真夜中の恋人たち』川上未映子

真夜中は、なぜこんなにきれいなんですか。真夜中はどうしてこんなに輝いているんですか。どうして真夜中には、光しかないのですか。

 

川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』を読みました。

今年の春先から続いていた乃木文学の追求も前回の『こころ』をもってひと段落し、改めて全く違うジャンルの作品が読みたいと思った次第です。

細かい前置きは抜きにして、早速ご紹介していきます。

 

簡単なあらすじまとめ

主人公はフユコ。

フリーランス校閲者として働く34歳の独身女性で、唯一の楽しみは誕生日の夜に一人で散歩すること。

人付き合いも苦手で、趣味もなく、そんな自分に多少の引け目を感じつ、実際に以前と勤めていた会社では変わり者のような扱いを受けていたにも関わらず、特に変化を求める事もなく、繰り返される日々の中で淡々と暮らし続けている……そんな女性。

 

ある日彼女は、自分がお酒を飲める事に気づきます。

缶ビールなら一本、日本酒なら一合で「わたしはいつものわたしではなくなることができる」ようになる事にも。

そこから彼女は、どんどん酒に溺れるようになっていきます。

最初は仕事が終わってから、寝るまでに時間がある時だけ飲んでいたはずが、あっという間に真昼間から日本酒やビールを開けるようになってしまいます。完全にアルコール中毒です。

 

そんなフユコはたまたま手にしたチラシがきっかけで、なにがしかの講座に申し込んでみようとカルチャースクールを訪ねます。しかし自分の番が回って来た途端、トイレに駆け込んで床に嘔吐するという大失態を犯します。

その時出会った男性が、58歳の物理教師・三束さんでした。

 

三束さんが勤めているという学校の近くの喫茶店で、度々二人は逢瀬を重ねるようになります。

その度にフユコは大量のアルコールを摂取し、足元もふらつくような状態なのですが、三束さんに気にする様子は見られません。そんな三束さんに、フユコはどんどん惹かれていきます。

 

三束さんの誕生日祝いにはこれまでした事のないオシャレをし、レストランで二人きりのディナーを過ごします。ついに想いを告げたフユコは、間もなく訪れる自分の誕生日には、二人で真夜中を一緒に過ごすと約束するのでした。

 

 

地味女のベタな恋愛

本書のストーリーを強引にまとめてしまえば、彼氏いない歴34年の地味女がたまたま出会った初老男性に対する生まれて初めての恋心を描いた作品、と言えるでしょう。

……う~ん、でもこうして文字にしてみるとさっぱり面白そうに感じませんね。

 

実際に描かれる二人の関係性も、地味です。

茶店でのデートが繰り返されるばかりで、フユコが常に酔っぱらっているという奇妙さも手伝い、恋愛小説にありがちなキュンキュン、ドキドキといった感覚とは程通りもの。会話の内容も互いの仕事に関わりのある校閲や物理に関する禅問答のようなものが大半を占めます。

 

物語がいよいよ盛り上がるのは三束さんの誕生日を祝うディナーデートですが……どこかぎくしゃくとした雰囲気ばかりが漂います。それもそのはず、フユコが美容室で施してもらった化粧は時代錯誤のとんでもないものでしたし、予約したレストランもオシャレで前衛的過ぎ、二人には似つかわしくないものでした。

そうとは気づかないまま、夢のような時間を過ごしたつもりのフユコが、友人の言葉によって夢から醒める場面は残酷です。残酷すぎます。

ほぼ平坦な日々を過ごしている彼女は、たまに勇気を出して違う世界に踏み出そうとする度に、必ずと言って良い程失敗し、あるいはピントがずれた行動により周囲から浮き上がり、嘲笑されます。フユコの人生は、ずっとこんな事の繰り返しだったのだと思うと、胸が痛みます。

 

 

光という暗喩

つまるところ本作は地味な女性の地味すぎる恋を描いた作品で、究極の恋愛というキャッチに惹かれて手に取った人の多くは肩透かしを覚えるのではないかと推察します。実際僕も、これはこれで面白いけど期待していた内容とはちょっと違ったかな、と思ってしまいました。

 

……が

 

ブログを書くために読み返していたところ、ふと気づいてしまいました。

本書の中で繰り返される”光”と、タイトルである「すべて真夜中の恋人たち」の意味を。

 

真夜中は、なぜこんなにきれいなんですか。真夜中はどうしてこんなに輝いているんですか。どうして真夜中には、光しかないのですか。

「光というのは、ほんとうに不思議なものなんですね。正体がよくわからないんです。」

「その……、三束さんが考えている光というのは、その、わたしの言っている光と、なんというか、おなじものなんでしょうか」

「もちろん、そうだと思いますよ」と言って、三束さんは笑った。

「おなじ光について話していると思いますよ」

光に、さわることってできるんですか。

 

これはあくまで個人的な見解である、と前置きしておきますが、彼らの語る”光”とは文字通りの意味以外の意味を持っているのだと思ったのです。

つまり、希望や憧れ、夢、愛といったキラキラとしたもの。

昼間の沢山の光の中では気づく事ができませんが、太陽が沈み、明かりが落ちた真夜中では、その存在がキラキラと浮かび上がって見える。でも夜が明ければ、全てまた元通り、儚く消え去ってしまう。

 

翻って見れば、フユコ(と三束さん)の毎日は真夜中で生きているようなものです。希望も、憧れも、夢も、愛も、何もない。そんな真っ暗闇の人生を生きる彼らだからこそ、光に憧れ、光に惹かれてしまう。でも光は決してフユコ達の手が届くことなく、夜が明ければ消えてしまう。

永遠に手が届かず、儚くキラキラと輝いて見えるもの――それがフユコたちにとっての光。

 

手が届かない事をわかっていながらも、キラキラと輝く光に惹かれずにはいられない、(すべて真夜中にあるような人生を生きる)恋人たち……というのがタイトルに隠された意図なのではないでしょうか。

そんな風に考えてみると、作中で描かれる一つ一つのエピソードや、二人の会話も、大きく印象が変わってきます。作品全体に、深みが増したように思えてきます。

 

まぁ上記のような考察が当たっているのが、的外れなのかはわかりませんが、このような考察を展開する余地があるという点も、本書の懐深さと言えるのでしょう。

少なくとも、一般的な恋愛小説としてだけ読むのは勿体ないように思えました。

 

一度は読んだことがあるという方も、ぜひ見方を変えて、再読してみてはいかがでしょうか。