作り手があらかじめ自分の作品のテーマはかくかくしかじかだ、と語ってしまえるような「お話」はあまり健全とはいえない
先日ご紹介した『キャラクター小説の作り方』に続き、大塚英志の『物語の体操』です。
そもそも大塚英志とは
等のシリーズを手がけてきたメディアミックスの第一人者とも呼べる人物です。
この辺りの下りはぜひ『キャラクター小説の作り方』をご確認いただければと思います。
その『キャラクター小説の作り方』と並び、二つで一つ的に称される事が多いのが本書『物語の体操』だったりします。
『物語の体操』の対象者
これについては大塚英志自身がはっきりと明言しています。
- 『公募ガイド』の類を買って小説の新人賞に応募しようと思ったことがある。
- 新聞や文芸誌に載っている「あなたの原稿を本にします」なる広告がとても気になっている。
- 小説家養成コースのある専門学校にうっかり入学してしまったか、あるいは入学しようと思っている。
そもそもが本書は大塚英志が専門学校で講師をしていた際に実際に指導していた授業の内容を取りまとめたものです。
しかしそこは大塚英志、世の中に出ている他の「小説家になる本」とはだいぶ趣を異にしています。
小説家の人々はしばしば自分が小説を書く運命にあった、とか、生まれながらにして小説家だったのだ、といった言い方をします。確かに小説を書くということは何かその人の内側にある特別なものの所在を証明するかのような行為にも似ていて、この国に限っても文学は衰退した、などと戦後一貫して言われ続けてきたのも、つまりは小説を書くという行為が一種の<秘儀>として神聖視されているからだという側面があります。そういった思考の背景には、複製の時代である近代が生み出した逆説としてのオリジナルへの憧憬があるようにさえ思います。複製されるものの前提にはオーラに満ちたオリジナルがまず存在しており、そのオリジナルなものを生み出す能力が「複製していく社会」に於いては特権的な力を持ちます。文学はその中にあってさほど大量に複製され流通し得ないが故に逆に<秘儀>としての特権を未だに保っているかのようにも見えます。
相変わらずの難解さです。
そう、これは『キャラクター小説の作り方』同様に「小説の書き方」について書かれた本でありながら、大塚英志の文学論について書かれた本でもあります。
「物語の体操」とは
物語を抽象化していくと表面上の違いが消滅して「同じ」になってしまう水準があり、それを「物語の構造」と呼ぶ
……つまりそれってどういう事?
「盗作」は基本的な技術である
大塚英志が『キャラクター小説の作り方』でも繰り返し言っていたのが「盗作」についての考え方です。
誤解を覚悟で記せば、「盗作」こそ物語るための基本的な技術だとぼくは考えます。
無責任な言い方ですがディズニーアニメを模倣することで出発した手塚治虫にとってディズニーに「盗み返されること」は作家としては本望だとさえ言えたはずです。そういえば大友克洋がかつて、まんがの世界で盗作だなんて言い出したらまんが家は全員手塚治虫の盗作じゃないか、といった意味のことを言っていてたのを目にした記憶がありますが、それは決して間違ってはいません。
今日の小説を含めたソフト産業にあって<オリジナル>の座にあるものは全ていつかどこかで見たものの焼き直しに過ぎない気もします
新しい世代は前の世代の創り出したものを「引用」や「借用」や「盗用」して、少しだけ新しいものに作り替えて次の世代の作り手に引き継ぐ。少なくとも戦後まんが史はそういう「歴史」だった気がします。
色々と批判を浴びる事も少なくないですが、こうしてみると大塚英志の主義主張は一貫しています。
物語の構造化、そしてマニュアル化
大塚英志が小説を生み出す上でのテーマとなっているのが、「小説のマニュアル化」にあると言えます。
物語の大半は一定の構造によって出来ていて、構造を入れ替える事によって容易に新たな物語が生み出せるというもの。
その一つの方法として、タロットカードを用いる方法を紹介しています。
具体的な方法については本書を読んでいただくか、WEB上で再現できるような簡易なシステムを公開されている方もいますので、そちらを参考にしてみてください。
他にも「村上龍になりきる」や「つげ義春をノベライズ」するといった方法が紹介されていますが、最終的に大塚英志が提唱したロジックこそ、納得のものでした。
「行って帰ってくる物語」を書く
宮崎駿のアニメ映画でも、そのほとんどは「行って帰ってくる物語」の構造で作られています。
『千と千尋の神隠し』にせよ『天空の城ラピュタ』にせよ、ほとんどの作品は旅に出た主人公が少し成長して帰ってくるという物語の構造になっているというのです。
これはアニメや小説だけではなく、昔話や神話でも同様です。
この構造を用いることより「物語の主題の訪れ」を召喚することを意識して欲しいと言います。
「私小説」=「キャラクター小説」?
私小説の大家である田山花袋を批判した事でも知られる大塚英志ですが、ここでは「私小説」が変化をして出来上がったものこそ「キャラクター小説であると断言します。
問題なのはぼくたちが日頃、接している「文学」の多くはこの「私」という存在があることが前提となってしまっているばかりか、「私」が「私」について語ることに特化した形で進化しているような点にあります。つまり、小説を書く文章というのは「お話」を書くよりは「私」について書く方に適した形で、いうなれば歪んだ進化の仕方をしたものである、とぼくは思うのです。
「私」について自己言及することで始まったこの国の書きことばは実はカミングアウトにとても向いているのではないか、という気がします。よく日本人は自己表現が下手だといいますが、それは公の場で個として自分を主張することで、何というか内に向かってねちねちと「私」について語ることにどうも向いている日本語というのがあって、それは文学とか小説のことばに近いものとしてあるのではないでしょうか。「私」について語ると何だか意味あり気なのは、「私」について語る技術が「文学」に起源があるからだと思います。そして、インターネットの書き込みを見ていてもみんな「私」についてのカミングアウトばかりなのも実は根本には日本語の問題があるような気がします。
こういった「私」の虚構化は文学の私小説ではもっと極端だったように思えますが、ぼくから見て大なり小なりこの「私」の基調とした日本文学が厄介なのは「仮構」であるはずの「私」を「在る」ことにして成り立っていることにあります。確かに私についての「小説=虚構」を書く、という考えてみれば明らかな矛盾を抱え込んで始まってしまった以上、自分を仮構化しないと文学が書けないというのがこの国の文学の宿命です。
ぼくはキャラクター小説、とぼくたちの業界が呼ぶ、小説の一つの起源を庄司薫に求めます。それは書き手がたとえ「私」と一人称で書き出したとしてもそれは作者からは全く切断され、徹底して仮構化されたキャラクターが語る「私」である小説です。言い換えれば、作中のリアリティを「私」=作者である、ということに求めない小説です。
「私小説」における「私」の替わりに「キャラクター」を、そして自然主義的リアリズムの替わりにアニメ・まんが的リアリズムを採用した小説をキャラクター小説と呼びます。
大塚英志らしさが全開です。
もうこうなってくると本題の主題である「小説の書き方」の具体的な手法は影を潜め、むしろ「小説のあり方」や「小説とは」という壮大なテーマになってしまいますね。
この辺りの難解さが大塚英志の醍醐味でもあるのですが。
でも全体通して読むと、確かに何か小説を書く力や手法を学んだような気にもなります。
How to本でありながら小説とは、文学とはといったところまで思いを馳せることができるという点で、面白い作品です。
大塚英志は他にも小説の書き方に関した本を出していますので、下記にリンクを残しておきます。
興味があればぜひ手にしてみてくださいね。
■ 『キャラクターメーカー――6つの理論とワークショップで学ぶ「つくり方」』
■『ストーリーメーカー――創作のための物語論』
■『キャラクター小説の作り方』