たったそれだけ。それだけのことが、どうして言えなかったんだろう。
今回読んだのは『羊と鋼の森』でお馴染みの宮下奈都さんの作品『たったそれだけ』。
『羊と鋼の森』を読んでこんなにも素晴らしい文章を書く作者に感銘を受けるとともに、それまでまったく存在自体を知らなかった自分の無知を恥じて以降、出来る限り早く著者の他の作品を読みたいと思い続けていました。
今回、ようやく念願かなって手にすることができました。
『羊と鋼の森』については下記の過去ブログを参考にしてくださいね。
一人の男性を軸とする連作短編集
望月正幸は海外営業部長。
彼と他人には言えない関係を結ぶ夏目は、ある日同僚の蒼井から糾弾される。
贈収賄の疑惑を抱えたまま姿を消した彼を嵌めたのは、お前だ、と。
それにより夏目は、彼とただならぬ関係にあったのは自分だけではなかったと知る事になる。
……とまあ、初っ端から『羊と鋼の森』にはなかった泥沼な展開から始まります。
全六話から構成される本作の第一話は、そんな夏目の目から見た事件の始まりが語られます。
以降も、望月正幸に関係、またはそこから繋がる人々の物語がそれぞれ独立しつつ展開されていきます。
第一話 夏目(望月正幸の不倫相手)
第二話 望月可南子(望月正幸の妻)
第三話 有希子(望月正幸の姉)
第四話 須藤(望月正幸の娘・涙の担任)
第五話 望月涙(望月正幸の娘)
第六話 大橋(望月涙の元同級生)
ある一人の登場人物を軸に展開される連作短編としては『桐島、部活やめるってよ』が思い起こされます。
それぞれの短編の中で、中心人物である桐島を一度として登場させずにして、桐島の姿を描いた朝井リョウの素晴らしいデビュー作でした。
対して本作は、それぞれの登場人物を通して望月正幸の人物像を描くというよりは、望月正幸失踪事件が及ぼしたそれぞれへの影響を描いているように感じられます。
特に娘の涙は何度も転校を繰り返す中、いつの間にか父親の事件が知れ渡り、その度に辛い思いを強いられます。
過去に起こした事件はインターネットを通していくらでも掘り返す事の出来てしまう現代の息苦しさが、著者独特の流れるような文章の中で描かれています。
後に進むほど年月は過ぎ、第五話・六話では涙は高校生になっています。そして妻である可南子も、なかなか共感を得にくい生き方の選択をしたと知ります。
それぞれが様々な選択をし、現在進行形で生き続ける……『羊と鋼の森』とは全くテイストの異なる物語と感じました。
板鳥さんが最終話に
『羊と鋼の森』といえば美しい文章の他に、主人公を支える先輩調律師たちの個性的で、かつ真摯な人柄が印象的でした。
とりわけ存在感を残したのは主人公が調律師を志すきっかけともなった板鳥さんでしょう。
序盤の象徴的な登場シーン以降は物語の中にほとんど登場しない板鳥さんでしたが、要所要所で主人公に意味深い言葉を掛けてくれます。
そんな板鳥さんを彷彿とさせる人物が、第六話に登場します。
高校を中退し、特養施設の介護士の道に就いた大橋の先輩であるベテラン看護師の益田です。
彼は懐深い対応で入居者の心に寄り添いつつ、大橋に様々なアドバイスを授けてくれます。
ある時、「俺、ばかだから、すごく失礼なことを言ったりやったりしてるんじゃないかと気になります」という大橋に、こんな言葉を返します。
「ほんとうはね、自分ではなく、相手を信用していないんですよ。信用しているなら、多少の間違いや失礼は聞き流してくれると思えるはずです。いいですか、大橋君のまじめな気持ちはよくわかります。あとは、まわりを信用するといい。みんな、大橋くんの味方――とまでは言わないまでも、仲間ですよ」
まるで板鳥さんのようですよね。
そうして日々を過ごす中で、増田は大橋に対して少しづつ自身の過去についても口にします。具体的には明かされない話の数々ですが、その節々から、僕たち読者は彼という人間の本質に気づかされてしまうのです。
文句なく面白い。しかし……
一気読みです。
そもそも200ページ強しかありませんし、約30ページ前後の短編集なので一晩で読み終えてしまいました。
読みやすい文章も手伝っているでしょう。
しかし、では『羊と鋼の森』と比べてどうかと聞かれると……ちょっと答えにくいですね。
読みやすいし、面白いんですが。
題材が題材だし、文字数に限りのある誌面に連載されていた短編だし、という点も否めないのか、『羊と鋼の森』で見られたような、踊るような情景的な文章は影を潜めています。
ポーン、とピアノの音が文章から飛び出してくるような衝撃を再び味わいたかったのですが、本作では残念ながら叶わず……。
上で記したようないくつかの印象的なセリフはありますが、ストーリー全体を通しての感想がどうかというと、至って凡庸というかありきたりというか。
でもまぁ面白い作家さんには間違いありませんからね。
また他の作品を手にしてみたいと思います。