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年間100冊前後の読書を楽しんでいます。推理小説・恋愛小説・歴史小説・ビジネス書・ラノベなんでもあり。

『脱・家族経営の心得―名古屋名物「みそかつ矢場とん」素人女将に学ぶ』藤沢久美

経営者を決めるとき

大切なのは、その人の能力よりも、経営者になる覚悟の有無です。

歴史小説を……と言いつつ、今度もまた180度違った本を読みました。

その名も『脱・家族経営の心得―名古屋名物「みそか矢場とん」素人女将に学ぶ』。

書名そのものですね。

名古屋名物みそかつを世に生み出し、全国に広めたという「みそか矢場とん」の女将が書かれた本です。

 

このブログをそこまで熱心に読まれている方もいないと思いますので補足しておくと、実は昨年来「事業継承」「中小企業再建」といったテーマに携わる事が多く、それに関わるようなめぼしい本も探して読んできました。

といっても実務的なビジネス書ではなく、自己啓発書にも近いような軽いものばかりですが。

ところがどっこい、やはり本の題材として書かれる企業というのは中小企業の中でも“中”に近い、むしろ地元では優良企業・大企業と呼ばれていそうなそれなりのしkっかりした企業ばかり。

僕が確認したいのはもっともっと小さい会社なんですよね。

家族経営で、零細企業で、自転車操業・どんぶり勘定が染みついてしまっているような会社。

 

そんな中で見つけたのが本書。

矢場とん」さんといえばやはりそれなりに大きな会社に思えますが、「脱・家族経営」というフレーズがいかにも僕の探しているテーマそのものじゃないですか。

余計に家族経営から始まった飲食店が店舗数を増やし、会社として大きくなっていく過程というものには非常に興味があります。

こういう観点で書かれた本って、本当に少ないんですよねぇ……。

 

家族経営最大の問題

果たして、女将は僕が望んでいた通りの問題に直面していました。

目の前に与えられるお金の誘惑に負けない体制を作らなくてはいけない。「矢場とん」は、店のお金も家のお金も同じという、昔ながらの個人商店を続けていてはダメになってしまう。

矢場とん」を会社にしなくてはいけない。

当時の「矢場とん」の従業員たちは、遅刻はあたりまえ。朝、呼びにいかないと来ない社員もいますし、無断欠勤も日常茶飯事。接客もぶっきらぼうで、とりあえず店に毎日来てくれて、時間まで働いてくれたらありがたい。そんな状況に、女将さんの危機感は募るばかりでした。

古くからある自営業者の間では、経営者が満額の給料を手にできないということは、日常茶飯事です。お店のお金と家族のお金が混在してしまい、いざ帳簿をつけようと思うと、帳尻が合いません。帳尻だけを合わせて、残ったお金が、女将さんのお給料になってしまいます。

あ~……あるあるです。

これこそが家族経営の零細企業にありがちな悩み。

 

  1. 会社と個人の財布が一緒
  2. 従業員がなあなあになっている

 

何よりも「1.会社と個人の財布が一緒」が全ての元凶なんですけどね。

 

ここからは本書からは脱線した個人的な考えになりますが、つまり、大元となっている要因を一言で言うと公私混同に尽きます。

 

混同しているのはお財布だけではなく、車や住居といった物、さらには時間までというのがありがちなパターン。

従業員にはしっかりとした勤務時間が定められているのに、社長や社長夫人は勤務時間中でも自宅の買い物に出かけたり、時には子どもの送り迎えまで憚ることなく行ってしまったり。

取締役であり経営者である社長夫婦はまだしも、そこに子や孫、親戚といった親類が入って来たりすると、公私混同に拍車がかかります。

「お母さんがやってるのに、私はダメなの?」

となり、一従業員であるはずの親類もまた、公私混同を始めてしまう。

 

そうなってくるとやっていられないのが一般の従業員。

「社長家族は好き勝手やってるのに、俺たちだけ時間いっぱいきっちり働けっていうのはおかしい」

当然ながらそう思ってしまいます。

 

社長側にも「自分たちは公私混同している」という引け目がありますから、従業員がへそを曲げて、勤務時間や態度がルーズになっても叱責できなくなってしまいます。

「だったらあんたの息子(甥っ子)はなんなんだよ」

と言い返されてしまうのがせいぜいです。

さらに「車も家も携帯も全部会社の金だろ。そんな金あるならボーナスちゃんと払え」なんて藪蛇になりかねません。

 

そうして全体的にルーズに、ルーズに……と堕落していってしまうのです。

 

経営者に求められる“品格”

本書に戻ります。

実は本書の中にも、「じゃあ具体的に何をしたのか」という点にはあまり触れられていません。

サラリーマンにとってはあり得ない「経費で落とす」という週刊ですが、商売をしていると、車も携帯電話も、経費で落とすのがあたりまえ。商売をしている人では、自宅も会社の経費で建て、社宅扱いにしているという人は少なくありません。

けれども、「矢場とん」の場合は、違います。自宅も全部、プライベートのお財布から捻出して建てました。

上記のような調子で、「おかしい」→「改善しました」と簡単に述べられるのみです。

 

実は、公私ごっちゃになった財布を分けるというのは、非常に難しいところなんですけどね。

 

跡継ぎが生計を共にする実子であれば良いのですが、生計を別にする他者(別居する親族も含む)の場合、事業相続の上で大きな問題点となってしまいます。

というのも、「会社と個人のお財布が一緒で車や家も会社の経費」という言葉には、車であればその燃料(ガソリン)が、家であれば水道光熱費から町内会費、果ては新聞まで一緒くたに同じ財布から出しているケースも多いのです。

(流石に食費は別のようですが)

 

そんな会社の経営を、仮に親戚の甥に継がせようというと、必ず問題が起こってしまうのは目に見えてますよね。

「祖父母が創業した会社とはいえ、事業承継した後も払いつづけなくちゃいけないの?

 会社で働いてもいない叔母や従兄弟のガソリン代や車の面倒まで見るの?」

ものすごく馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれませんが、こういった例が世の中にはごまんと溢れているのですから困ったものです。

 

単純に個人と会社を分けると言っても、今まで会社で払ってくれていたものを個人で負担するよう求められたら、拒絶反応が出るのは当然です。

退任して経営を手放す祖父母もまた、当然ながら収入減となるわけですから、よっぽどの貯蓄がない限り「じゃあこれからは全部自分たちで払うよ」とは言えません。収入源に加えて経費が増えるのではダブルパンチになってしまいます。

 

その辺りの細かい解決方法が本書の中に示されなかったのが残念ですが、「矢場とん」においては直系の息子さんが跡継ぎとなられた事から、比較的スムーズに移行できたのではないでしょうか。

 

結局のところ、公私混同からくる会社全体のルーズさを改善するためには、経営者自身の“品格”に依るとしか言いようがありません。

矢場とん」の女将さんのように「会社と個人を分ける」と決意をした上で、まずは経営者自身から公私を分離すべく身を正していくしかないのでしょう。

これまで会社で負担していた分が個人にのしかかったとしても、それぞれがしっかりと自立していけるよう役員報酬や給与の見直し等を始め雇用体制を修正しながら財布の分離を計っていかなければ、せっかくの事業承継も親族間に禍根を残す結果になってしまいますからね。

 

実際にそういった苦心のエピソードがたどれるような本があれば良いのですが。

もしあれば、ぜひどなたか教えて下さい。

 

今後もこういったテーマの本は読み続けていこうと思いますので。

 

https://www.instagram.com/p/BuFo7H6l5iY/

#脱家族経営の心得 #藤沢久美 読了あれ?歴史小説は?と言われそうですが、昨年から家族経営・零細企業の事業承継をテーマにしたような本を読んでいまして、ちょうど良い本が見つかったので早速読んでみました。著者は名古屋の #みそかつ で有名な #矢場とん の女将矢場とんに嫁いで以来、家族経営の異様さに危機感を持ち、取り組んできた軌跡が記されています。残念ながらあまり具体的な内容には触れられていませんでしたが、家族経営の零細企業に見られるありがちな問題点が確認されて勉強になりました。最近の世情からするとちょっとひくようなエピソードもいくつかあったけど(笑名古屋までは遠くてなかなか行く機会もないけれど、いつの日か訪れてみたいと思います。#本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。

『タルト・タタンの夢』近藤史恵

「入れたはずのフェーブが、なぜか忽然とお菓子の中から消失してしまったのだよ」

今回読んだのは『タルト・タタンの夢』

第10回大藪春彦賞を受賞した『サクリファイスで知られる近藤史恵さんの作品です。

サクリファイス』といえば自転車ロードレースを題材としたスポーツ小説であり、その代表作のイメージが付きまとって、著者に「スポーツ小説家」のイメージを持つ人も少なくないと思います。

 

ところが『タルト・タタンの夢』は一変してフランス料理店「パ・マル」を舞台とし、訪れた人々が抱える様々な問題や謎をシェフ三舟が解き明かしてしまうという推理小説

謎といっても殺人があるわけではなく、あくまで過去や現在の出来事を扱ったいわゆる日常の謎米澤穂信北村薫をはじめ、昨今では特にライトノベル界隈で多く取り扱われる形式だけに、馴染みも多いかと思われます。

 

美味しそうな料理の数々

本書は全部で7つの短編からなる短編集であり、それぞれのタイトルには『タルト・タタンの夢』をはじめ、『ロニョン・ド・ヴォーの決意』、『ぬけがらのカスレ』といった料理名または素材名がタイトルに含まれたものとなっています。

 

つまり全部で7つの料理……で済むはずもなく、挙げきれないほど沢山の料理が登場します。

そもそも冒頭からし

クレープシュゼットの青い火が、燃え上がった。

という一文から始まります。

ボッと音を立てて青白い炎が上がり、店内の視線が集まるのが目に浮かぶようです。

 

そこから大して間も置かずに、シュークルートに仔羊のグリエ、クスクスにブイヤベースといった料理名が登場。

描かれる料理の描写が詳細で鮮やか。

行間からシェフの腕前や料理の美味しさが伝わってくるようです。

 

一例として、カスレについて描かれた文章を引用してみます。

カスレは、〈パ・マル〉のスペシャリテといってもいいほどの人気料理である。

鴨と一緒に煮込むものもあるらしいが、シェフが作るのは、塩漬けの豚肉を使ったものだ。ハーブで育てられた良質の豚肉に、塩をたっぷり擦り込んで、冷蔵庫に数日間置く。そうすると、味が熟成して、旨みが強くなるらしい。

その塩漬けを茹でこぼして、塩と脂気を少し抜いた後、たっぷりのインゲン豆と、豆と同じくらいの大きさに切った野菜を一緒にとろとろになるまで煮込み、その後パン粉をたっぷりかけてオーブンで焼く。

豚肉の旨みをたっぷり吸って、とろけたインゲン豆と、香ばしくきつね色になった表面のパン粉のバランス。奇をてらった味ではないだけに、何度でも食べたくなるような料理である。

思わず唾を飲み込んでしまうような文章ですよね。

こんな調子なので、読んでいるうちについついお腹が空いてしまいます(笑)

 

もちろん細かいところを突っつけば、料理人が二人にソムリエ一人、ギャルソンが一人という構成の店で、一体どうやって休みを回すんだろうとか色々と気になる点はあるのですが、こと料理についてはとにかく美味しそうの一言につきます。

 

フランス料理に興味のある方、美味しいものに目が無い方は、ぜひ読むべきかと。

 

 

推理小説としては……

あまり多くは書きませんが、昨今の日常の謎系ライトミステリ」を思い浮かべていただければそれで十分かと思います。

  • 女優と婚約したばかりの男が体調不良に襲われたのはなぜか?
  • ガレット・デ・ロアの中に隠された陶人形はどこへ消えたのか?
  • ヨーロッパ旅行から帰国したばかりの妻が黙って家を出た理由とは?
  • チョコレート屋の詰め合わせが素数である秘密とは?

などなど。

特に謎自体にとんでもない魅力があるわけではなく、あくまで平凡なものばかりです。

ある意味こじつけ、ご都合主義的なところも多分にありますが、推理小説としての説得力としても物語としての面白さ、軽快さを優先していると考えれば十分かと。

 

ただ、ガレット・デ・ロワの下りは個人的にどうしても引っかかってしまうかな。

 

一応どんな料理なのか、レシピ動画を載せておきます。

www.youtube.com

 

要するにアーモンドクリームを包んで焼いたパイのようなお菓子です。

 

↓↓↓以下ネタバレ注意↓↓↓

(白字にしてますので読まれる方は選択してください)

 

これを傾けた状態で焼くと中に仕込まれたフェーブ(小さな陶器人形)ごとクリームが寄っていびつなパイが焼きあがる……って、ちょっと無理がありますよね。

クレームダマンドはそこまで流動的なトロトロの液状ではないはずだし、仮に多少寄ったとしても、中のフェーブが一緒に動く程にはなりえないんじゃないでしょうか。

 

仮に斜めに偏ったガレット・デ・ロワが焼きあがったとして、クリームの多いところを作った本人がせしめてしまうなんてちょっと想像しがたいですよね。

分厚くなっている方にフェーブが入っている可能性が高いのは誰が見たって一目瞭然です。

そもそもそこまで気を払わなければなかった相手である友人が目の前にいるわけですし。 わざわざ傾けて、不完全なガレット・デ・ロワを作るところまでは偶然の産物と白を切る事もできなくはないでしょうが、そこで自分が分厚いのをとってしまったら明らかな謀反行為と思われても仕方がないでしょう。

 

ちなみに僕の大好きな『大使閣下の料理人』という漫画にもこのガレット・デ・ロアが登場します。もしフェーブが入っていたら、相手と結婚を決意するという運命の一幕。

画像がないので恐縮ですが、『大使閣下の料理人』では人数分に等分するのではなく、明らかに一つだけ大きく切り分けます。女性は失笑しつつも大きなものを選び、当然のようにフェーブが登場し、見事プロポーズは成功。

大使閣下の料理人』においては非常にほほえましいシーンだったんですが、本作『タルト・タタンの夢』では自分もまた女性に想いを寄せるが為に、友人の作戦を阻止するという正反対の行動をとってしまいます。

僕はやっぱり、『大使閣下の料理人』のようなガレット・デ・ロアの使い方が好きかなぁ。

この『大使閣下の料理人』、料理漫画の中でも調理の過程や描写、料理に込める想いについて非常に良く描かれていますので、興味のある方はこちらもぜひ読んで下さいね。

 

https://www.instagram.com/p/BuDVcAVl0k-/

#タルトタタンの夢 #近藤史恵 読了歴史小説にハマった……もののひとまず口直し。フランス料理店に訪れる客が抱えた様々な謎や疑問をシェフが解き明かしてしまうといういわゆる #日常の謎 系の推理小説。とはいえ出てくる料理がどれも美味しそうで、シェフの料理の腕前も一級品。レストランもとても良さそうで実在していたとしたら絶対に行きたくなります。推理小説とはいえ謎解きメインというよりはあくまでスパイスとして謎解きが加えられている感覚なので、推理小説苦手という方にもオススメです。#本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。

『伊達政宗』山岡荘八

 人それぞれの持って生れる先天的な、運命的な、根性の中に、棟梁運というのがある。

これだけは後天的なものではないらしい。どこでどう培われてくるのか? 産れ落ちる時にはすでにこれを持つ者と、持たざる者との差がついてしまっている。

これを持つ者は、幼児のおりからいずれの群の中におかれても、その中心にのし上がる。

概して自我が強く、支配欲も、生命力も旺盛で、餓鬼大将的な陽性と、楽天性と説得力を持っている。

しばらくブログの更新が途絶えていたのには理由がありまして。。。

 

というもの、全八巻からなる山岡荘八伊達政宗を読んでいたのです。

 

作家でいえば主に司馬遼太郎、時代でいえば戦国~幕末を中心に歴史小説も色々と読んできたのですが、その中でぽっかりと空いていたのが『伊達正宗』。

その昔大河ドラマ独眼竜政宗』が一大ブームを巻き起こし、当時のバブル・団体旅行全盛時代も重なって仙台・松島のあたりに観光客が大挙して押し寄せたそうです。

それから何年後かわかりませんが、僕も幼少期に両親に連れられて青葉城跡らしき場所に行き、何が面白いんだかさっぱりわからない博物館的な展示物を見て歩いた記憶がうっすらと残っています。

 

逆に言うと、そこからずっと馴染みがないんですよね。伊達政宗

信長・秀吉・家康でいうと僕は秀吉絡みの作品を手にする機会が多かったせいか、作中にもほとんど出てきた覚えがない。

あー、一応触れておくと先日お亡くなりになられた堺屋太一さんの著書である『豊臣秀長(上・下)』はリーダーではなく名補佐役としての秀長に焦点をあてて太閤秀吉を描いた名著でした。歴史小説でありながら、ビジネス書とも自己啓発書とも思える非常に良い本。

でも家康主人公の物語ってあんまり有名なものは聞かない気がします。

それこそ山岡荘八の書いた『徳川家康(全26巻!!!)』が別格扱いで君臨するばかりで。

流石に26巻もの作品には迂闊に手は出せない……出したくないかなぁ。

 

……前置きが長くなりましたが、そんなわけで僕の頭の中にある戦国~江戸時代に欠けたピースを埋めるためにも、伊達政宗を読もうと決意したわけです。

 

 

名将から名君へ

全8冊もある超大作ともなると、ブログの書き様もなかなか困ったものです。

読んでみて再認識されたのは、伊達政宗という人物がいかに多くの逸話・エピソードを遺しているかという点。

 

もうとにかく色々あり過ぎるわけです。

それらをいちいち書いていくと、wikipediaを見た方が早くなってしまいます。

 

政略結婚の末に、実の息子である政宗に対して敵意をむき出しにする母・義姫と、弟・小次郎(竺丸)。

命を狙われた政宗は実の弟である小次郎を自らの手にかけてしまう。

血気はやる侵略の中では、父・輝宗が二本松城主・畠山義継の手によりさらわれ、その道中で死んでしまったり。

 

序盤の伊達家は不遇としか言いようのない不幸にばかり見舞われます。

 

 

信長・秀吉・家康に比べ30年遅く生まれてきた政宗は、遅れを取り戻すべくどんどん領土を広げ、会津の芦名氏を滅ぼし、名実ともに奥羽の覇者として君臨しかけますが、小田原征伐に伴って秀吉との関係が深まるに連れて少しずつ人間性が変化していきます。

 

能と才に溢れた伊達者として秀吉を手玉にとり、家康の心を見抜こうという政宗が、彼らには逆に踊らされ、見透かされてしまったりするのです。

 

秀吉に、家康にと揺れる天下の情勢を見極めつつ、上手くバランスをとりながらも、天下取りの野望を諦める事なく立ち回る政宗でしたが、家康が天下統一を果たし、江戸幕府を立ち上げたあたりからさらに変化を重ねていきます。

 

戦国の世は終わり、天下泰平を迎えたとする家康の意に共感するように、武を捨て、平和の世を作るべく努めるようになるのです。

 

そんな政宗に家康も、二代目将軍である秀忠も厚い信頼を見せ、やがて三代将軍家光の時代を迎えた後、政宗はその生涯を終えます。

その昔、師である虎哉禅師から「阿修羅の生まれ変わりか」と一喝された戦国武将・政宗は、世の中の変化に応じて平和を愛し、生活を豊かにするための名君として死んでいったのです。

 

 

関ヶ原と大阪冬・夏の陣

どうも書けば書くほど稚拙になってしまっていくような感じがして嫌になってしまうのですが、あらすじはおおよそ上のようなところとして、個人的に非常に興味深く感じたのは関ヶ原であり、大阪冬・夏の陣という天下分け目の決戦の描き方でしょうか。

 

これ、すごく面白かったですね。

 

というのも、戦いに主眼がないんです。

大概これらの決戦が物語に書かれる場合、誰がどっちについたとか、誰が誰に謀反をそそのかしたとか、とあるタイミングで誰がどう動いたのが戦に決定的な影響を及ぼした、なんて話になりますよね?

 

本書は違うんです。

 

そもそも関ヶ原も大阪の陣も、政宗あたりは「どっちが勝つか」なんてはなからわかってるんです。

勝敗なんかよりも、自分の思い描いた計略に対してどんな影響を与えるかを苦慮しながら、立ち回るのが主題になっています。

もっともっと大局から天下分け目の戦いを見ている。

 

個人的にはこれ、すごく新鮮な描き方でした。

 

これまではどちらかというと豊臣側について書かれた物語ばかり読んできましたから、故太閤への恩義や武士としての死にざまを第一に華々しく散っていた西軍側の勇士たちの一方では、冷静に戦後の処理・処遇に思いを寄せていた武将がいたなんて。

だから真田幸村もみんな、あっさり死が描かれるばかりです。

唯一木村重成については、首級を前に家康が悲しんだ、なんて一文があるだけで。

 

そういう意味では歴史の物語って、敗者の側から描いた作品が多いですよね。

どうしても敗者の方が美しく見えがちなんでしょうけれど。

 

戊辰戦争なんかも会津藩をはじめ東軍視点で描かれた作品は多いのに、西軍視点の作品はあまりにも少ないように感じています。

会津の武士たちは決死の覚悟で勝ち目のない戦いに臨んで行ったわけですが、彼らと戦った西軍の人々は何を考え、どう思ったのか。

 

かなりマイナーですが、二本松少年隊について描かれた『霞の天地』という漫画が両者の想いをかなりうまく描いてくれていますので、ぜひ一読をオススメします。

 

討ち死にした時に誰の死体かわかるようにと母に乞うて名前を刺繍して貰った少年や、戦に臨むにあたってちゃんとした刀が欲しいとせがんだ少年に対し、駆けずり回って刀を用意した両親の想い。

そうして少年たちがどんな運命をたどったのか。
涙なくしては読めません。
 
 
フィクションもいいですが、実話を元にした歴史小説もやっぱりいいですね。
ちょっとしばらく、歴史小説熱が続きそうです。
 
一度読んだ本の中でも、2020年に映画化されるという長岡藩・河合継之助を主人公とした司馬遼太郎『峠』も再読したいし。子母澤寛新撰組三部作も改めて読み返たいところ。
 
加えて先日青空文庫吉川英治作品があるのを思い出してしまったのが不幸の始まり。
そういえば源平合戦あたりって、僕の中で空白地帯なんですよねぇ。
幕末に維新の志士たちが口を揃えた「楠正成」とやらも、なんとなくイメージするばかりで詳しくは知らないという。。。
吉川英治作品は『宮本武蔵』、『三国志』を読んだのですが、『私本太平記』を読むべきか。
 
とはいえ、こちらも全13巻……読むにはちょっと覚悟がいるな。
でも無料だし、スマホで読めちゃうし、読み始めるまでのハードルは無茶苦茶低い。
 
読んじゃおうかな。
 
でもそうすると、ブログの更新はまたしばらく滞ってしまいますね。
逆に、ブログが更新されなくなったらそういうものだと解釈してください。
太平記』に手を出しちゃったんだな、と。

https://www.instagram.com/p/BuApIlhlVxq/

#伊達政宗 #山岡荘八 読了全8巻。なので読んでる内はすっかり投稿がご無沙汰になってしまいました。戦国から幕末まで色々本は読んでいるけど伊達政宗は初めて。さらによく考えてみると関ヶ原にせよ大坂の陣にせよ徳川側の視点の物語を読むのは初めてかも。伊達政宗に関してはエピソードも山ほどあって紹介しきれないぐらいたけど、関ヶ原や大坂の陣にあって戦いよりも前後の身の振り方や立ち回り方に重きを置いた書かれ方がとても新鮮でした。大坂方の武将達は決死の覚悟で戦ってるのに、政宗や家康はもつと高い視点から広過ぎる視野で世の中を捉えていたのね。やっぱり歴史小説も面白い。しばらく続いてしまいそう。青空文庫で無料で読めちゃう吉川英治……魅力的だけど手を出したらヤバいなぁ。#本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。

『獣の奏者 Ⅰ 闘蛇編 ~ Ⅳ 完結編』上橋菜穂子

「涙は悲しみの汁だ。涙がどんどん流れでれば、哀しみも、それでだけ減っていくってもんさ。おまえを、そんなに哀しませていることも、やがては、忘れられるようになる」

獣の奏者 Ⅰ 闘蛇編』から『獣の奏者 Ⅳ 完結編』までのシリーズ四作を読みました。

上橋菜穂子作品を読むのはこれが初めて。

どこかで聞いたことのある名前だなぁと思っていたら、2015本屋大賞受賞作品『鹿の王』の作者さんだったんですね。

 

なにかファンタジー作品が読みたいと思っていたところ、Instagramのフォロワーさんから『獣の奏者』をおすすめいただき、調べてみたら全四作にも及ぶ大作かつNHKでアニメ化もされた作品と知り……加えて元々曲だけは知っていたスキマスイッチの『雫』が主題歌だと知り、早速読もうと決めたわけです。

www.youtube.com

 

ちょくちょくライトノベルを読んだりもしてきましたが、こういったガッツリ異世界ファンタジーな作品を読むのも久しぶり。

かなり期待を膨らませての読書となりました。

 

思ってたのと違う

いきなりですが、読み始めてすぐに、僕が期待していたような作品とは大きく異なることがわかりました。

勝手なイメージとしては『指輪物語』のような剣と魔法のファンタジーもの、と思い込んでいたのですが、本書はもう少し大人な、穏やかな作品。

 

まず主人公のエリンですが、彼女は緑色の目をした霧の民(アーリヨ)と人間との混血児。

すっごく簡単に言うと霧の民(アーリヨ)というのは妖精みたいなものですね。

本来人間と交わる事はない存在にも関わらず、禁忌を犯して人間と結ばれたがために、エリンの母は一族から追放されてしまった。

加えて瞳の色が周囲と違うが為に、エリンもまた差別的な扱いを受けていたりする。

この辺りは異世界ファンタジーではベタなハーフエルフ的な設定と言えるでしょうか。

 

そしてエリンの父というのが、闘蛇という生き物の世話をする闘蛇衆の一人。

闘蛇というのもざっくり言うと水棲のドラゴンみたいなもので、生きる兵器のように貴重な扱いを受けています。

父は亡くなり、現在はエリンの母が闘蛇衆として働き、親子二人で生活しているのですが、ある日突然、母が世話していた闘蛇が大量死してしまう。

 

罪に問われ、刑に処せられる母を助けに駆け付けたエリンは、逆に母に救われる形で見知らぬ地へと移り住む。

 

……とまぁ、序盤のあらすじとしては上記のようなところ。

 

ちなみにエリンが最初に住んでいたのは大公領で、次にたどり着いたのは真王領。

この二つはリョザ神王国の領地であり、大公というのは闘蛇を操り、敵国から自国を守る役目を負っています。

真王はリョザ真王国を建国した王の血をひく者であり、その昔、外敵を迎え撃とうという大公に対して闘蛇を操る笛を授けたとされています。

 

互いに持ちつ持たれつの関係でありながら、命がけで国を守る大公領の領民たちは、平和を唱えるだけで安穏と暮らす真王領民に不満を抱いていたりもします。

 

真王領に至ったエリンはひゅんな事から王獣という巨大な生き物に出会います。

羽の生えた巨大なオオカミのような生き物で、エリンは野生の王獣が同じく野生の闘蛇をいとも簡単に貪り食らう場面を目撃するのです。

 

やがてエリンは、大公領で育てられる闘蛇と対比するように、真王領では王獣を保護し、養っている事を知ります。エリンは闘蛇を世話していた母の姿を重ね、王獣を世話する獣ノ医術師を目指すように。

 

念願叶って王獣保護場の学舎に入舎したエリンは、傷ついた王獣の子リアンに出会い、彼女を世話する内に人が世話をする王獣たちに違和感を抱き始めます。

というもの、先の闘蛇衆にせよ、獣ノ医術師にせよ、闘蛇や王獣の世話には昔からの規則ががっちりと決められているのです。

音無し笛を使って身体の自由を奪ったり、特滋水と呼ばれる特殊配合された液体を与えたりする。

そのせいか、人に飼われている王獣は野生の王獣に比べると色褪せ、元気がないように見える事に気づくのです。

 

エリンはかつて見た野生の王獣のようにリアンを育てようと決意し、知らず知らずの内に遠い昔から定められてきた禁忌を犯していってしまいます。

決して人に懐くはずのない王獣と、心を通わせていってしまうのです。

 

……まぁ、こんなところでいいでしょうか。

 

 

全く剣と魔法のファンタジーではないですよね。

 

その先にも触れておくと、その後エリンは王獣リアンと心を通わせ、その背に乗って自由に空を飛ぶに至ります。

人に飼われる王獣は懐かない、飛ばないとされていた常識を覆す奇跡を起こしてしまうのです。

 

ですが王獣は闘蛇の天敵でもある。

闘蛇を主力部隊とする大公側から見れば、途轍もない脅威なわけです。

 

自由に王獣を飼い馴らすエリンは、本人の意思に関わらず様々な思惑を生んでしまうのです。

 

ちょうどリョザ神王国では、大公領と真王領との間で軋轢が増していた時期でもあり、やがて高まる戦禍の機運は、容赦なくエリン達を飲み込んでいきます。

そうして描かれる『王獣編』のラストは……やはり物語のラストを飾るのにふさわしい幕引きでしょう。

 

生き物の本来の生活を奪ってまで守るべき禁忌とは。

人はどうして闘わなければならないのか。

生きとし生きる全ての生物のあるべき姿とは。

 

非常に深いテーマも内包した壮大な物語である事に間違いありません。

 

ライナスの毛布

本書はそもそも『闘蛇編』と『王獣編』の二冊で完結していたそうです。

ですがその後周囲からの要望もあり、アニメ化に際して作者が物語の未完部分に気づいた事も重なって、続く『探究編』『完結編』が書かれたそうです。

 

その意味では、『闘蛇編』と『王獣編』までで一つの作品として読むべきものかもしれません。

 

『探究編』『完結編』については賛否両論多いからです。

 

ちなみに僕の感想はというと……否、とまではいきませんが、別になくても良かったかな、というのが正直なところです。

 

作者自身が「この完璧な物語の完璧さが損なわれてもいい」と書いている通り、『闘蛇編』と『王獣編』で不足していた隙間を埋め、未来を描いた物語ではあるけれども、結果として完璧さは損なわれてしまったかな。

アマゾンのレビューにある批判的な意見とほぼ同意ですが、先に書かれた二編と後に書かれた二編とでは、エリンの人間性が異なってしまった印象です。それはそのまま作者自身の変化でもあるのでしょうが、当初書いていたままその流れで書いていたら、きっとこういう風にはならなかったんじゃないかな、なんて思ってしまいます。

 

まぁ、読者や出版社が続編を強く望んだ結果がこうなってしまったわけですから、仕方のないところではあるわけですが。

 

この辺りって非常に難しいですよねぇ。

 

僕にも続編を書いて欲しいと願ってやまない作品は沢山あるんですが、書いた事で完成度が落ちる結果になるとしたら、残念ですし。

映画もそうですが、シリーズものって続編になればなるほど評価は下がっていくのが常ですしね。

実際にそうして評価を落としてしまった作品も数え上げればキリがないほどあるわけです。

 

既に完結した作品の続編を望むのは、ないものねだりみたいなものなのかもしれませんね。

あくまで個々の胸の内で夢想して楽しむものであって、それこそ願ってはいけない禁忌なのかもしれません。

 

僕のInstagramTwitterのアカウント名になっている「ライナスの毛布」も実はそんなところに関係していたりするんですけどね。

興味のある方は、以前書いた『キャラクター小説の作り方』の記事を確認してみて下さいませ。

linus.hatenablog.jp

インスタ

 

 

 

 

 

 

 

『のぼうの城』和田竜

――のぼう様

とは、「でくのぼう」の略である。それに申し訳程度に「様」を付けたに過ぎない。

安能務『封神演義』を読み、ついでに藤崎竜の漫画版『封神演義』、さらに『Wāqwāq(ワークワーク)』、『かくりよものがたり』とフジリュー作品にのめり込む内に、頭の中がすっかりファンタジー路線に切り替わってしまいました。

 

漫画を読むかたわら、同時進行で重松清『ナイフ』を読んでいたのですが、やっぱりもっとファンタジーテイストなものを読みたい気持ちが膨らんでジリジリと焦れるばかり。

 

やっとのことで『ナイフ』を読み終えたので、満を持して手に取ったのは和田竜『のぼうの城』。

2009年本屋大賞二位にして、映画化もされた歴史小説です。

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ちなみにこの年の本屋大賞湊かなえの『告白』。

www.hontai.or.jp

イヤミスブームのきっかけとなった本屋大賞受賞だったかもしれず、そういう意味では手強い相手でしたね。

ただ、本屋大賞を機に『告白』を手に取った読者の方々の反応はどうだったんでしょうね。

やっぱりハッピーエンドや読後感の気持ち良い作品の方が、万人受けするんじゃないかと思ってしまうんですが。 

 

石田三成による忍城水攻め

舞台は現在の埼玉県行田市にあった忍城(おしじょう)。

太閤秀吉の軍勢が関東地方を納めていた北条氏の討伐に乗り出した事で、北条氏の支配下にあった忍城は危機に陥ります。

 

当時の城主であった成田氏長は主だった兵を連れて北条氏政の治める小田原城へ籠城。

残されたのは成田長親を筆頭に数人の家老とわずかに50人ばかりの手勢のみ。

 

一方、城攻めにやってきたのは石田三成大谷吉継長束正家と後世まで名を残す堂々の武将たち。

 

氏長は北条氏の籠城に応ずる裏で秀吉に恭順を示し、忍城に残した家臣たちには降伏を言い残したはずが……あれよあれよの間に徹底抗戦へ。

 

忍城を意外と手強いとみた三成が繰り出した秘策が、秀吉の備高松城にあやかった水攻め

僅か五日で28kmにも及ぶ長大な石田堤を築き上げ、利根川と荒川から引きこんだ水により忍城の城下は一気に水浸しに。

 

忍城は一転して窮地に追いやられますが……実は最後の最後まで落ちなかったというのがこの忍城の最大の逸話だったりもします。

この辺りは史実として残っており、決してネタバレには値しないと思いますので思い切って書いてしまいますが。

 

とんでもない人数を動員して行われた秀吉の東征軍は瞬く間に北条氏の支城を次々と落とし、北条氏の本城ですら呆気なく落城したのにも関わらず、忍城は最後まで秀吉軍の攻勢に耐えきったのです。

しかも相手は石田三成大谷吉継が率いる軍ですよ。

 

結果的には本城である小田原城が落ちた事で、忍城も開城に至るのですが……僅か少数の兵で圧倒的に数で勝る秀吉軍にどう打ち勝ったのか、驚天動地の水攻めにどう立ち向かったのかが、本書の見どころなのです。

 

 

説得力……

結果的には、残念ながら物語としては物足りないと言わざるを得ません。

三家老の奮戦ぶりや三成の水攻めは大いに読み応えがあるのですが、いかんせん、致命的な欠点となるのが本書の主役である“のぼう”こと成田長親

 

何をやるにもうまく行かず、足手まといにしかならない事からでくのぼう――略して“のぼう”と言われる長親ですが、城の配下や農民にまで「のぼう」扱いされる始末。

陰口ではなく、本人を目の前に誰もかれもが「のぼう」と呼び、彼もそれを一切気にする様子も見せずに受け入れています。

 

時代的にありえないですよね。

長親は殿様の従兄弟ですから。

 

こののぼう、序盤の描写からするととにかく駄目過ぎる

田植えの手伝いすら農民から迷惑がられる始末だというのだから、どれだけ要領の悪い人間なのかわかりますよね。

 

しかし彼が、城代として秀吉軍の使者に相対し、降伏で半ば定まっていた城内の機運を一切無視する形で「戦う」と抗戦を告げてしまったりするのです。

元より武士として無条件降伏に不服でもあった兵たちはここぞとばかりに奮起し、農民たちもまたそんな彼らに従い、戦いへの参加を決意します。

 

彼らのモチベーションとなるのが、のぼうこと長親の人望、だったりするんですが。

 

……うーん。

 

序盤の扱いを読んだ中では、どうして長親にそこまで人望が集まるのかいまいちよく理解できないんですよね。

でくのぼうで、田植えすら拒否られるほどの無能。

よく言われる「ちょっと欠点があるぐらいの方が人に好かれるよね」という話では収まらないぐらいの無能なはずなのです。

存在すら煙たがられるような無能。

足を引っ張るぐらいなら見てろ、と常に蚊帳の外に置かれるような存在。

そうなると人望が集まるどころか、普通に嫌われてしまったりするんじゃないか、と思ったりするんですが。

 

一事が万事、本書については長親の人望がフックになって物事が進んで行きますので、肝心要のその部分に説得力が欠けてしまっているのが致命的な欠陥だったりします。

 

恋愛ものの作品で、どこに魅力があるかさっぱりわからないヒロインに対して一方的に主人公が惹かれたりするいまいちな作品がよくありますが、あれに近いものがあるかもしれません。

 

ちょうど先日まで読んでいたフジリュー版の漫画『封神演義』における太公望の立場こそが、本書でいう成田長親と重なる部分が多い故に、余計に引っかかってしまったのかもしれませんね。

才覚や能のある人間が、愚者を演じつつもその実誰よりも深い計略を働かせている、という。

長親にせよ太公望にせよ、実際には賢者なのか愚者なのか判断がつかなかったりするのですが。

 

でも、少なくとも本書の長親に関しては徹底した愚者としか感じられない人物像だったはずなんですけどねー。なので要所要所で妙に賢者っぽくなられると、違和感しかないのです。こういう事ができるのなら、そもそも農民からも家臣からも「のぼう様」扱いもされてないよなーなんて。

 

もうちょっと「実はキレ者」的なエピソードが幼少期から幾つかあったりしても良かったと思ってしまいます。あくまででくのぼう扱いだったはずなのに、突然人が変わったようにキレキレになられても読者はついていけませんよ。

 

まぁでも、石田三成大谷吉継といった武将をはじめ、勇壮な三家老の活躍ぶりや、有名な水攻めエピソードも相まって、物語としては中盤を過ぎればそれなりに面白く読めてしまうのが評価の難しいところかもしれませんが。

 

今回は手近にある本の中から歴史小説を選びましたが、次はもっと本格的なファンタジーを読む予定です。

僕も楽しみですが、みなさんもお楽しみに。

 

https://www.instagram.com/p/BtW9QeKl1TI/

#のぼうの城 #和田竜 読了2009年本屋大賞2位で映画化もされた作品。秀吉の関東制圧時、石田三成や大谷吉継率いる圧倒的多数の軍勢に攻められながらも唯一落ちなかった難攻不落の忍城。窮地に陥る忍城を率いたのが城主の従兄弟であり、家臣や農民から「のぼう様(でくのぼうの意」と呼ばれる長親。忍城の予想外の抵抗に対し、三成は秀吉の備中高松城を超える壮大な規模の水攻めを画策する。三成や吉継といった豪華な登場人物と水攻めという派手な仕掛けにそれなりに読めてしまうけど、肝心ののぼう様の設定に無理も違和感もあって説得力に欠けたかなぁ。ラノベに近いノリかも。#本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。

『ナイフ』重松清

洗面所の鏡に、ナイフを持った私が映る。笑っている。私は人を殺せる。ナイフを持っている私は、その気にさえなれば、いつでもだれかを殺せる。

今回読んだのは重松清『ナイフ』です。

本作は第14回(1998年) 坪田譲治文学賞受賞作品でもあります。

 

重松清の名前はよく目にしていて、ファンの方も多いと聞くのですが、不思議と縁のない作家さんです。

以前に『流星ワゴン』を読んだ覚えはあるのですが、内容に関してはさっぱり思い出せず……amazon等であらすじを読めば「ああ、そんな話だったかな」とは思うのですが、あらすじに書いている以上の事は全く思い出せない。

 

そういうわけでいまいち手ごたえというか、食指が伸びない作者でもあります。

 

とはいえ本書『ナイフ』は重松清作品の中でも多く取り上げられていたような気がして、多数の積読本の中から今回読んでみる事にしました。

 

イジメを題材にした5つの短編集

僕、てっきり長編作品だと思い込んでいたのですが、短編集だったんですね。

表題作『ナイフ』はその内の一作でしかない。

 

ちなみに一作目は『ワニとハブとひょうたん池で』というお話。

主人公の女子中学生ある日突然「あんた、今日からハブだから」と言い渡されます。

最近では聞かなくなりましたが、“ハブ”とは「仲間はずれ」に近い言葉

クラス全員からハブにされ、自殺を強要するような手紙が自宅のポストに投げ入れられたり、学校に置いてある持ち物が壊されたり、汚されたりといった嫌がらせが繰り返され、その度に、傷つき、悲しみながらも一方で強がり、虚勢を張って何でもないと自分に言い聞かせるように、日々を乗り越えていく主人公。

 

……まー、憂鬱な話ですね。

 

二作目の『ナイフ』では主人公が父親へと変わります。

ある日突然息子の様子がおかしくなり、妻とともに様子を探ると、どうやらイジメに遭っているらしいという事がわかる。

父親の遺伝のせいか、身長が小さい事に起因しているらしい。

担任の教師は「イジメでなくイタズラだ」と言い張り、むしろ息子自身が部活動で後輩に暴力を振るっていると明かす。

同級生から受けるイジメのストレスを、後輩にぶつけているのか。

 

そんな中で父はある日ナイフを手に入れます。

お守りのようにナイフを肌身離さず持ち歩く事で、自分が強くなったような気分になり、気が大きくなる父。

ところがそれは周囲に対する高圧的な態度として現れ、会社の部下や周囲の人間から疎まれたりします。

 

やがて父は息子がイジメに遭う場面に遭遇し、ポケットの中でナイフを握りしめたまま、イジメっこである不良たちに詰め寄りますが……。

 

 

……とまぁ、こんなところでやめておきましょう。

 

 

以下三作。『キャッチボール日和』『エビスくん』『ビタースィート・ホーム』のいずれも、上記のようなイジメにまつわる話です。

読んでいてどんどん陰鬱になってしまいます。

 

一点付け加えておくとすれば、ナイフを手にした事で気が大きくなるという『ナイフ』の物語は以前読んだ中村文則の『銃』を想起させた、という点でしょうか。

linus.hatenablog.jp

もちろん『銃』の方が圧倒的に後から発表されてますが。

 

イジメ(※昭和の)

これは作者の年齢や発行された時期(1997年)からいって仕方のない事ですが、本書に登場するイジメの数々には(※昭和の)という注釈が欠かせません。

 

現代においてはイジメもSNS等を駆使したより陰険なものに姿を変えていると警鐘を鳴らされていますが、文字情報とはいえ改めて前時代的なイジメに触れてみると、これはこれで非常に気分の悪いものです。

 

何よりも今ではあまり見られない「直接的な暴力」が多い

 

公衆の面前でたたいたり、殴ったりといった暴力はもちろんだし、目の前で物を壊したり、汚したりといった暴力もあります。酷いものになると、みんなが注目する中で自慰行為を強制されたり……といった描写も。

 

こういうのって最近では減っているんですよね。

昔よりもさとい子供たちは、あまりにも加害者と被害者の構図が明確過ぎるこういったイジメを避けるようになっています。むしろこういった暴力を振るう子は「空気が読めない」「理解できない」存在としてかえって孤立してしまったり。

 

だからこそ余計に、文字情報とはいえ読んでいて快でしたね。

 

ここに書かれているようなイジメの数々は、今現在であれば教師や周囲が止めて当然の行為ですから。それらが公然と行われ、周囲も受け入れてしまっているという状況に対しては理解しがたい嫌悪感しか生まれません。

 

もちろん、特攻服を着た上で、違法改造した車に乗って暴走するような新成人が未だに存在するわけですから、今もまだ日本のどこかにはこういったイジメが起こっているのかもしれませんけど。

 

嫌悪感=つまらない ではない

補足しておくと、決してつまらなかったわけではありません。

終始嫌悪感ばかりが先に立ってしまい、楽しく心地よい読書にはなりませんでしたが、こうして改めて振り返ってみると、読んでよかったと思います。

 

確かにこういう時代は、あったんですよね。

 

先日教師が生徒を殴った動画がネット上で出回り、一時は教師を非難する声が集まりましたが、次第に事実関係が明らかになるに連れて生徒側が教師の暴力を誘発したとして、逆に生徒側が叩かれる炎上騒ぎになりました。

 

動画を使って、しかも撮影した一部だけを切り取って自分たちに都合よく印象操作を行うとは、イジメも本当に巧妙になったものです。

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上記はメディアを通す事で被害者と加害者が逆になるという有名な風刺画ですが、Web 2.0以降、全ての人々が情報の受け手ではなく送り手となる事で、メディアが行っていたような印象操作を高校生が駆使する時代になってしまったのだと、改めて実感します。

 

昔は直接的な暴力に対してのモラルが低く、公然と暴力を振るわれた。

現代では暴力のリスクが高まり、よりわかりにくい形で相手を傷つける手段が発達している。

 

 

どちらの方が良い、悪いと一概には言い難いですが、色々と考えさせられる読書になりました。

 

……うーん、、、深い。

 

https://www.instagram.com/p/BtUbsHZFuEM/

#ナイフ #重松清 読了イジメにまつわる5つの短編集。とはいえ今から約20年前の作品だけあって、イジメと言っても現代とは性質が大きく違う。簡単に言うと、非常に直接的。かつ、暴力的。叩いたり殴ったりはもちろん、物を壊したり汚したり。みんなの前で辱めを受けたり。あまりにも被害者と加害者が鮮明過ぎて今ならすぐさまニュースになるようなものばかり。それだけに読んでて非常に気分が悪い。嫌悪感しかない。読むのが苦痛。だからといってつまらないわけではない。今となっては受け入れられない当時の空気感や時代を感じるには非常に良い本。ただすごく苦痛。嫌な気分になる。でも良い本。うーん、難しい。。。 #本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。

『封神演義』安能務

――歴史とは現実に何が起こったかではない。何が起きたか、と人々が信ずることだ――

封神演義を読みました。

読むのはかれこれ十年以上ぶり。

その昔、一度だけ読んだことがありますので一応再読という形になります。

 

一度だけ読んだというのも、男性の方ならばご存じかもしれませんが、ジャンプで連載されていた封神演義がきっかけです。

 くどくど書く必要もなく、おそらく日本において『封神演義』を広めたのは上の藤崎竜の手による漫画の影響によるものがほとんどでしょう。

 それ以前から僕は作者である藤崎竜(以下フジリューが大好きだったので、ついに始まった大型連載『封神演義』にはすぐさま嵌まってしまったのです。

 

ちなみにフジリューは色々と作品を出していますが、僕個人としては初期作品の方がおすすめです。

『ワールズ』というデビュー当時の作品をまとめた短編集はどの作品も魅力的でこれまでに何度となく読み返していますし、初めての連載となった『サイコプラス』も大好きで、こちらも数えきれないほど読みました。

少年誌らしからぬ繊細な絵と幻想的な物語が特徴となった、いずれも従来の愛・努力・友情をテーマにしていた当時のジャンプでは異色ともいえる作品です。

フジリューファンでなくとも、ぜひ一度は読んでいただきたい作品の一つです。

 

……そんなわけで『封神演義』に嵌まった僕が、原作となった小説に手を出すのは必然でもありました。

 

しかしながら読んでみてびっくり。

 

コミックスとは大きな違いが沢山あるのですが……それについては後ほど。

 

封神演義』とは

詳しくはwikipediaを見ていただければ早いんですが。

 

中国の王朝が殷から周に変わる革命について書かれた物語です。

殷の紂王を周の武王が討つわけですが、その周の後にできたのが秦であり、秦の後に迎えたのが漢。

漢が成立する過程に生まれたのが『項羽と劉邦』の話で、漢が滅亡してからの戦国の時代こそが『三国志』の舞台である三国時代であったりします。

 

なので三国志よりも、劉邦よりももっともっと昔

西暦でいうと紀元前1000年よりももっと前という途方もなく古代の時代を舞台としています。

 

日本で言う神話の時代にも近い話なので、『封神演義』の中には偉い仙人や道士、妖怪といった奇妙な力を持った者たちが次から次へと登場するのが本書の面白いところ。

彼らは宝貝と呼ばれる秘密兵器を使い、戦いあうのです。

 

それらはさながら現代でいうミサイルやレーダー、火炎放射器や爆弾、さらには催涙ガスや細菌兵器のようなものまで。

 

SF小説のような強力・凶悪な武器が飛び交う様は、読者の心を惹き付けて止みません。

 

 

封神計画=365人の大量死

また、その戦いの真の目的というのが、仙人以下・人間以上の中途半端な能力を身に着けてしまった者たち三六五位を新たに作る神界に封じようというもの=封神計画

周の武王を支え商周革命を果たしつつ、偉い仙人達が天数と称して計画した封神計画を実行するのが、本書の主人公である太公望なのです。

 

ここで問題なのが、神に封ずるためには一度死んで魂になってもらわないといけないという点。

 

つまり、封神演義』とは神となるべき365人が死ぬ物語でもあるのです。

 

なので上・中・下と1500ページに及ぶ長編にも関わらず、ばったばったと人が死にます。

なにせ365人ですからね。単純計算で5ページに1人以下の割合で死ぬ事になります。

 

とはいえ実際には後半に連れて使者が加速度的に増えていきますので、死ぬ時にはいきなりごっそり死んだりします。

そのせいかわかりませんが、本作で描かれる“死”は非常に、いや、異様に淡白です。

 

一時は物語の重要人物かと思われた人物ですら、「一道の魂魄が封神台へ飛ぶ。」というあっさりとした文章でもって死を表されてしまいます。

漫画のフジリュー版『封神演義』を先に知った人間からすると、ものすごく重要でファンも多いようなキャラですら、あっさり死んでしまうのが衝撃的だったりします。

 

特に武成王黄飛虎をはじめ、黄天化・黄天祥といった黄一族は悲惨の一言。

僕は三人とも好きだったので、初めて原作の死亡シーンを目にした時には衝撃過ぎて放心状態に陥ってしまいました。「えー、ここで死ぬの? っていうかこんなあっさり死ぬの?」みたいな。

 

さらに悲惨なのが、序盤は黄飛虎を大いに支えた四大金剛の黄明・竜環・呉謙の三人。

彼らは終盤に現れた大巨人鄔文化に「あるいは踏み潰され、あるいは排扒木の餌食となった」人々の一人として名前を連ねるだけです。

もっと言うと残りの四大金剛周紀や黄天禄なんていつの間にか死んだ事にされているし(↑いくら探しても死に際が見つからなかったのでご存じの方がいれば教えて下さい)

 

しつこいようですが、何せ黄一族は悲惨だな、と。

原作・漫画版ともに序盤から見せ場も多く、惹き付けられるキャラクターが多いだけに残念な限りです。

 

その点、フジリューの漫画版はそれぞれにしっかりと見せ場が設けられていたりしますので、その辺りは流石だな、と思います。

原作読んでから漫画を読みなおすと、フジリューよくやってくれた!と手をたたきたくなります。 

 

 

漫画『封神演義』が好きならどうぞ

簡単に言うとそんな感じでしょうか。

漫画の方は完結してもう何年も経ちますが、ゲームになったり、アニメ化されたりと根強く生き残っているようです。

www.tvhoushin-engi.com

 

hhe-sc.com

 

そういった派生作品から改めて『封神演義』に触れたという方もいることでしょうから、漫画版が好きだという方はぜひ原作本にも触れていただきたいと思います。

 

かくいう僕も、実は上のスマホアプリの広告に触発されて、今回の再読に至った経緯があります。

 

漫画版・原作版、ぜひ読んでみていただきたいです。

小説版の淡白差には、おそらくずっこける事は請け合いですが。

 

ちなみに漫画『封神演義』の原作とされる安能務版もまた、中国伝来の正規版に比べるとかなりの改変が成されているそうです。

 

あくまで『封神演義』を下敷きとした安能務の“小説”として楽しむべきものらしいですね。

 

その辺りに関しては詳しくは触れませんので、興味のある方はググってみて下さいね。

漫画⇔安能版⇔完訳版の違いなど、かなり詳細に調べ、まとめてくれている人も多いみたいですから。

調べれば調べる程沼に嵌まるって事ですね。

 

僕は流石にそこまでは……という事であくまでフジリューファンの立ち位置で満足しておきます。

 

 

https://www.instagram.com/p/Bs_9LNll0ip/

#封神演義 #安能務 読了最近再アニメ化、アプリゲーム化と話題の #藤崎竜 版封神演義の原作本。かくいう僕もアプリの広告を見て思い出し、久しぶりに読んでみることに。相変わらず死の書き方が異様なほどにアッサリしてますね。重要キャラたちが呆気なく死んでいく事だけは覚えていたのですが、改めて読むとそりゃないだろっていうぐらい残念な死に方。その点 #フジリュー の漫画版はちゃんと見せ場作ってくれてましたから流石です。元々藤崎竜は大好きな漫画家なので今度は改めて漫画版や他の未読の作品も読みたいと思います。#本が好き #活字中毒 #本がある暮らし #本のある生活 #読了 #どくしょ #読書好きな人と繋がりたい #本好きな人と繋がりたい..※ブログ更新しました。プロフィールのリンクよりご確認ください。